不意に、声が聞こえた。
「甲斐さん……笑音さん?」
 雨音のヴェールを通り抜けるしなやかな声に、あたしはハッとして振り返った。
「風坂先生……」
 緑色の傘を差した風坂先生が立っていた。ビックリしたような顔だ。それもそっか。教え子がバカみたいにびしょ濡れになってるんだから。
 風坂先生が黙ったまま動いた。あれ? と思ったときには、あたしは傘の中にいた。緑色に陰った傘の内側で、風坂先生が微笑んだ。
「どこかまで送ろうか?」
 男物の傘は大きい。それでも、2人で入るには小さい。風坂先生との距離が近すぎる。
「え……あ、えと……」
「ずいぶん濡れてるね」
 風坂先生が、パーカーのポケットからタオルハンカチを出した。先生は実習を担当してるから、いつも動きやすい格好をしてる。スーツとか見てみたいなって、ぼんやり思った。
 ふわっとしてごわっとした布地が、あたしのほっぺたに触れた。風坂先生の手がタオルハンカチ越しに、あたしのほっぺたを包んでる。
「使って」
「……すみません」
「笑音さん、たまに雨に打たれたくなる気持ちもわかるけどね。体を壊したら、元も子もないよ」
 優しさをもらうと泣きたくなるのは、どうしてだろう? あたしが優しくされる価値のない人間だから? うん、きっとそう。もったいないって思っちゃうんだ。
「先生、大丈夫です。あたしは1人で大丈夫です」
 風坂先生はかぶりを振った。タオルハンカチがあたしの髪とおでこを拭った。ほっぺたと目元を拭った。
「教師ではないぼくだと、頼りないかな? ぼくでも話を聞くことくらいはできるよ。大丈夫だなんて嘘をつかないで」
 やめてほしかった。
 あたしは誰の前でも笑っていたい。笑えないときは、誰とも一緒にいたくない。なのに、風坂先生の笑顔が優しいから、おかしくなる。
 すがりたい。甘えたい。話したい。打ち明けたい。
 泣きたい。
 そうだ、泣きたいんだ。気付いたら、もう涙が止まらなくなった。強まっていく雨音を聞きながら、あたしは泣いている。
 この涙の意味は何なんだろう? 何が悲しいの?
 イヤだよ。泣くなんて、みじめなだけじゃん。
 だけど、どうしようもないんだ。泣くことしかできない。
 弱いなぁ。痛みや苦しみから顔を背けるばっかりで。
 泣きたくて泣きたくて泣きたい。涙が止まらない。
 風坂先生はタオルハンカチで、あたしの目元を拭ってくれる。泣き顔を見られている。恥ずかしさは涙と一緒に流れて、とっくに消えた。
 ずっと泣いていた。傘の中で、寒かった。