初生がしゃべってくれなくなった。朝、バス停で待ってても、初生は来ない。声を掛けても、聞こえないふりをされる。近付こうとしたら避けられる。
 クラスメイトにもバレた。
「笑音、遠野さんとケンカしてるの?」
「んー、まあ、ケンカではないと思うけど」
「あの態度はありえないよね。暗いっていうか、さすがにウザいっていうか」
「いやぁ、でも、悪いのはあたしだし」
「笑音、ああいう子は甘やかしちゃダメだよ。すぐ図に乗るんだから」
 笑ってごまかしながら、思い出した。この子、初生と同じ中学だった。わざと初生に聞こえる声でこんなこと言ってる。
 やめてよって止めればよかった。へらへら笑ってるだけじゃなくて。初生が傷付くから悪く言わないでって、ハッキリ伝えればよかった。
 それができなかったのは、どうしてだろ? 初生なんか傷付けばいいって、あたし、心のどこかで思ってたのかな?
 だってね、初生。避けられてたら、あたしだってつらいよ。悪いのはあたしってことはわかってる。ちゃんと怒りをぶつけてくれたら受け止めるのに。
「なんで黙って避けるの? どうすればいいかわからないよ」
 帰り道。とぼとぼ歩きながら、ため息と同時に足が止まる。秋風が湿ってる。気温が低い。
 屋外の歩道から、ガラスケースに入った車道を見やる。走っていくバスの後ろ姿には、響告大学附属病院、と行き先が書かれている。
 ママは、今晩は病院に泊まるって言ってた。あたしは家には帰れない。瞬一と2人になんて、なれるわけがない。
 この数日、瞬一は徹底的にあたしを避けてる。家を空けがちなママでさえ気付くぐらい、徹底的に。
 昨日、もう限界だった。晩ごはんを食べてママが病院に戻った後、あたしは瞬一とケンカした。あたしが怒鳴って、瞬一も声を荒げた。
「これ以上、おれの精神を掻き回すなよ!」
 勉強机を殴りつけた、こぶしの形。初めて、瞬一が男であることをハッキリ感じた。男である瞬一を怖いと思った。
 帰り道がわからない迷子になった気分だ。足が進んでいかない。
 ぽつっ。
 おでこに水滴が当たった。空を見上げる。灰色の雲が、くしゃりと崩れ始める。
「雨……」
 びしょ濡れになっちゃおうか。空に向かって笑顔をつくる。もっと降ってきてよ。ぐしょぐしょになるくらいがちょうどいい。みじめっぽくてバカっぽくて、あたしらしい。
 どこか遠くへ行っちゃいたい。消えたなくなりたい。だって、教室にあたしがいるだけで、初生はさらに傷付く。家であたしと過ごしてたら、瞬一はまた苦しむ。
 悲しくなる。どうしようもなくバカな自分が、もうイヤだ。
「嫌いだよ」
 調子に乗って、失敗ばっかり。笑顔が取り柄とか言いながら、そんなのは嘘。うまく笑えない、弱い自分が嫌い。
 本物の笑顔に憧れる。パパの笑顔みたいな。風坂先生の笑顔みたいな。悲しくてもちゃんと笑ってる人の強さに憧れる。
 雨が冷たい。目を閉じてみる。泣きそうで、呼吸が苦しくて、口を開ける。味のしない水が口に入ってくる。髪が濡れ始める。
 雨の匂い。ひんやりした雨音。今日は寒い。