「まっ……」
 やっと声が出た。誰の耳にも届かなくなってから、やっと。
 体から力が抜ける。へなへなと座り込む。廊下が冷たい。瞬一の言葉と初生の絶望の意味が、じわじわとわかる。
 初生は瞬一のことが好きで、瞬一はあたしのことが好きで、初生は瞬一の気持ちをわかってた。
 誰も何も言わなければよかったと、初生が吐き出した後悔の言葉が刺さってくる。
 あたし、バカだ。あたしのお節介のせいでこうなった。初生はあたしを責めてる。嫌ってる。
 瞬一は何を思っただろう? あたしのバカさ加減に、呆れるよりもっと深く、いっそ失望しただろうな。
 あたしが2人を傷付けた。あたし、なんでこんなにバカなんだろう?
 唇を噛んだ。床しか見えない。人工の木目がにじみ出す。
 ふと。
「甲斐さん、大丈夫?」
 思いがけない声があたしを呼んだ。柔らかくて伸びやかで優しい声。あたしは顔を上げた。風坂先生があたしの前に膝をついた。
「か、風坂先生……」
「偶然、聞こえちゃったんだ。立ち聞きみたいなことして、ごめんね」
 あたしはかぶりを振った。風坂先生の笑顔は温かすぎて、声を出したら涙まで一緒に出てしまいそうだ。イヤだ、泣きたくない。
「ぼくでよければ、話を聞こうか? 放課後になってしまうけどね。それでもいいかな?」
 どうしてそんなに優しいんですが?
「立ち聞きしたお詫びにね。実は、特進科の甲斐くんとは、たまに話すんだ。甲斐くんは甲斐さんの……って、紛らわしいな。瞬一くんは笑音さんのいとこなんだよね?」
 下の名前で呼ばれた。こんなときだっていうのに、あたしの心臓はドキドキと、身勝手に高鳴った。
 風坂先生にそっと肩を叩かれて、あたしは立ち上がった。授業を受ける教室へと、支えられるようにして歩いた。


 初生は結局、風坂先生の授業に出なかった。小テストだったのに。
 でも、成績の心配は無用だった。風坂先生は、いつもの縦長なえくぼをつくって言った。
「今日うまくできなかった人は、欠席している人と一緒に、3日後に追試です。絶対、全員を合格させるからね」
 風坂先生の出す課題は簡単で、採点はちょっと辛い。落第させるのが目的みたいな難しいテストがない反面、技術を徹底的に身に付けるまで合格が出ない。
 授業の終わりに、風坂先生はあたしに告げた。
「放課後、片付けを手伝ってもらえるかな? 実習に使った人形や道具を倉庫に運ぶから」
 そういう仕事、普通は男子が声を掛けられる。でも、今日は特別。風坂先生はあたしの話を本当に聞いてくれるんだ。
「わかりました。お手伝いします」
 あたしはちゃんと笑顔で答えた。その後の授業も、初生は出なかった。早退したみたいだった。