「朝綺はもう、肘より上が動かない。膝より上も動かない。四つん這いすらできなくなった。大学時代に一緒にゲームを作ってたころは、自力で車いすを転がしてた。そうやって、よくこの夢飼いにも来てたんだ」
「おにいちゃんの大学時代って、三年から七年前でしょ? そのころは動けてて、今は動けない? そんな速さで症状が進むの?」
「筋ジスの患者さんの平均寿命は二十代っていわれてるよ」
「やめてよ……」
 イヤだ。そんな簡単にラフがこの世からいなくなっちゃうなんて。
 おにいちゃんは、冷めた紅茶を口に運んだ。強すぎるお酒でも飲んだみたいに、眉間にしわを寄せる。
「朝綺はゲーム作りの最高のパートナーだった。ストーリーは二人でアイディアを出し合って考える。あいつはプログラミングとBGMが得意で、ぼくはCGとキャストを担当。講義のレポートはそっちのけで、遅くまでボックスにこもってた。毎日ワクワクしてた」
 おにいちゃんが大学時代の思い出話をするのは珍しい。朝綺って名前が出てきたのは初めてだ。
 きっと、話したくても話せなかったんだ。楽しい記憶は必ず、親友の不治の病と隣り合わせだから。
 おにいちゃんはひとつひとつの言葉を噛みしめながら、ニコルとは違う低い声で続けた。
「いつの間にか、あいつを手伝うべき場面が増えてた。あいつは強がりで意地っ張りでプライドが高くて、人の手を借りるのが苦手なのにさ、ぼく相手なら、わがままを言うんだ。だから、ぼくは朝綺のヘルパーになった。天職だよ。あいつといると、楽しいからさ」
 あたしは右手の親指に噛みつく。血の味がした。
「どうして?」
「ん? 何が?」
「どうして、その病気、治せないの?」
 メカニズムがわかってるのに対策がないなんて、悔しすぎる。なぜそれが不可能なのか、問いを解く鍵はないのか、あたしは知りたい。
 おにいちゃんが顔を上げる。メガネの奥の目が潤んでる。
「筋ジストロフィーを完全に治すには、二種類の治療が必要なんだ。一つが、破壊された骨格筋の細胞を、正常に再生する治療。もう一つが、筋繊維の修復を司令する遺伝子を、補完する治療」
「骨格筋の再生と、遺伝子の補完」
「筋肉を治す薬はすでにある。でも、筋肉の修復だけだと、いたちごっこだ。修復のレベルにも個人差があるし、部位ごとの差まであって、効果的な延命法ともいいがたい。遺伝子のレベルから徹底的に治療しないといけない」
「今の医療技術で、できないことなの?」
「もう一歩のところまで来てるんだよ。麗、この間ここで話したこと、覚えてる? ぼくが大学で研究してみたかったテーマの話」
 あたしはうなずいた。
「覚えてるわ。万能細胞の一種であるジャマナカ細胞のこと。ジャマナカ細胞なら、どんな器官にも分化できる。そっか、骨格筋細胞にもなれるんだ」
「そう。それだけじゃない。ジャマナカ細胞を使えば、遺伝子治療が可能なんだ。遺伝子っていうのは、人ひとりずつ固有に持っている『命の設計図』みたいなものだ。ぼくの細胞には、体のどこから取った細胞であっても、ぼくだけの設計図が必ず入っている」
「命の設計図。ラフは病気だから、設計図におかしいところがある。ジャマナカ細胞を使ったら、設計図を直せるの? それが遺伝子治療?」
「患者さん由来の細胞からジャマナカ細胞を培養して、遺伝子の欠陥を補った上で、患者さんの体に戻す。拒絶反応が起こらない、オーダーメイドの遺伝子治療をするんだ。多くの難病は遺伝子の異常が原因だから、その異常を自力で修正できるようになれば……」
「不治の病が、オーダーメイドの遺伝子治療を使えば、治せる病になるのね。すごい」
 おにいちゃんがうつむいた。透明な涙が一粒、流れ落ちた。
「憧れてたんだよ、不治の病を治す医療に。高校時代、もっと勉強すればよかったな。響告大の医学部に受かるくらい、必死でやればよかった。そしたら、朝綺の病気を治す手助けができたかもしれないのに」
「おにいちゃん……」
「ごめん、麗。でも、悔しいんだ。どうしても、悔しくて仕方ないんだ。ぼくには、朝綺を本当の意味で助けることができない。生活のサポートをしたり、一緒にゲームをしたり、そんな便利屋にしか、なれない」
 ラフとニコルが補い合って戦ってた姿を思い出す。
 まっすぐに突っ込んでいくラフ。後ろから完璧にサポートするニコル。二人の関係は、現実でもピアズでも、同じだったんだ。
「あたしも悔しい」
 おにいちゃんの気持ち、知らなかった。ラフの本当の願い、気付いてなかった。
 今、ようやくわかった。コマンドを受け付けなくなってしまうラフの呪いは、朝綺のどうしようもない病気を意味してたんだ。
 あたしは両手の指をギュッと組み合わせた。傷付ききった右手の親指がズキズキする。痛い。こんな小さなケガなのに、現実だったら、こんなに痛い。
「おにいちゃん」
「ん?」
「あたし、ラフに……飛路朝綺って人に、会ってみたい」
 おにいちゃんは、涙でキラキラする目を見開いた。その目が優しく微笑む。
「そう言ってくれると信じてた。ありがとう。きっとあいつ、麗に会えたら喜ぶよ」
 それからあたしは、二日、待たされた。
 一日目は、月に一度の定期検診だと言われた。二日目は、髪を切りに行くのだと言われた。
 三日目の早朝、あたしはおにいちゃんに連れられて、飛路朝綺の家へ行った。