あたしは黒曜館の玄関の前に立った。
 古いふりをした、ヨーロッパ調の、黒塗りの扉。でも、ハンドルは取り付けられていない。ハンドルがあるはずの場所には、黒い金属プレートが貼り付けられている。
 あたしはプレートに触れた。掌紋が認証されて、扉が重々しくスライドする。
 屋内に入ると、赤外線センサが作動して明かりがついた。黒樫の廊下。御影石の柱。大理石の階段。
 あたしの背後で扉が閉まった。
 歩き出そうとした矢先、あたしは何かを踏みつけた。
「きゃっ! って、これ、なに? ぬいぐるみ?」
 ひとりごとでつぶやく。
 うん、そう。ピンク色のぬいぐるみだ。クマ? ウサギ? 丸っこい尻尾がついた体だけじゃ、どっちかわからない。
 ぬいぐるみには首がなかった。ほわほわした白い綿が、切り口からあふれ出して床に散っている。
「なんでこんなところに? あたし以外の誰かがここに入ったっていうの? それにしても、なんで首がないのよ?」
 あたしはぬいぐるみを拾い上げた。命を持たないおもちゃでも、頭を失った姿は悲しい。そして、薄気味悪い。
 誰の仕業なの?
 黒曜館には機密情報が収められているらしい。だから、あたしや一部の教職員だけしか入館が許可されてないはず。
 ヴィィィィ。静かな駆動音が近寄ってきた。平たい円盤型をした掃除機が床の上をくるくる回る。ぬいぐるみの首からこぼれた綿や糸くずが飲み込まれていく。
「何かあるなら、出来静世が言ってくるわよね」
 あたしはぬいぐるみを手に、いつもの小部屋へ向かった。
 名前のないその小部屋には窓がない。白塗りの壁と天井。開け閉めするたびに軋むドア。机と椅子が一組と、柱時計が一つ。
 ここがあたしのための教室。ひとりきりの小部屋。
 あたしは椅子に腰を下ろして、机に左肘で頬杖をついた。右手の親指に噛みつく。
 遠くからチャイムの音が聞こえてくる。黒曜館ではチャイムが鳴らない。別の場所で鳴る音が、うっすら、ここまで届く。
 チャイムから少し経って、ドアがノックされた。あたしは応えない。ドアは軋みながら開かれる。
「おはようございます、風坂さん。お待たせしたわね」
 静世が入ってくる。花の匂い。吐き気がするみたいな匂い。
「……どういう心境、の変化?」
「あら、なんのことかしら?」
「匂い」
 静世は、甘ったるい声で笑った。あたしの質問には、答えない。
「風坂さん、これが今日の課題よ。三時間で可能なところまで、コンピュータに打ち込んでちょうだい」
 静世は紙の束と旧式のノート型PCを机の上に乗せた。A4サイズの紙には、五ミリ角の数字が延々と連なっている。ノート型PCを開いて、起動。ディスプレイの液晶は安物みたいで、ざらざらしてる。
「こんな、作業に……なんの意味が、あるっていうの?」
 静世はにっこりした。
「あなたが意味を知る必要はないのよ、風坂さん。あなたに求められているのは、集中して課題をこなすことなの」
 わかってるわよ。
 静世は、環状のヘッドギアをあたしに差し出した。あたしはヘッドギアを引ったくって、頭に装着する。
「PCは、3時間で自動的にデータが保存されて電源が落ちる設定よ。わたしはここを離れるけれど、いいわよね?」
「……さっさと、行って。時間」
「ええ。そうするわ」
 いつも課題をスタートする時刻を、すでに少し過ぎている。おかげであたしは据わりが悪い。与えられた課題をこなさないと小部屋から出られないんだから、さっさと取り掛かりたい。
 あたしは目を閉じた。静世の存在を意識から弾き出す。集中しよう。集中すれば、三時間なんて、一瞬だ。呼吸を数える。
 3、2、1。
 目を開ける。あたしは細かい数字の羅列に視線を走らせた。
 4793493597973621790379453……。
 ひとにらみで記憶した数字の群れを、両手の指先で画面の中に叩き込む。数字をにらみながら、叩き込む、叩き込む、叩き込む。
 開くときと閉まるときに、部屋のドアは相変わらず軋んだ。意識の片隅でそれを聞いた。
 それっきり、あたしは単純作業に没頭した。


 あたしが毎日やっているのは、十年くらい前の宇宙飛行士採用試験らしい。その情報だけは、初めに静世から聞かされた。
 試験っていうより、訓練に近いと思う。
 単調な作業が多い。真っ白で絵が描かれていないジグソーパズルを組み立てるとか。ナノサイズのブロックを平面図どおりに組み上げるとか。三桁×三桁のかけ算を延々と暗算するとか。
 作業の進度や成績が優れてるのか劣ってるのか、ヘッドギアで測定する脳波のデータが何に利用されるのか、あたしは何も知らない。
 特異高知能者《ギフテッド》に課せられたカリキュラムは当事者の教育のためのものではなくて、あたしはデータ収集用の材料に過ぎない。収集されたデータは、あたしの知れないところで使われる。
 あたしは、ただのモルモット。
 これがあたしの学校生活だ。一人きりで延々と単純作業をして、その脳波のデータを提供するだけの日々。
 むなしい。