明精女子の校舎は、四つの建物が、十字架の形に配置されている。
南向きに長く伸びるのが紅玉館。四つの建物の中で、いちばん広くて大きい。南端に正面玄関があって、全学年の教室や特別教室、校長室や職員室、購買部は、この紅玉館に入っている。
中庭は正方形。それを挟んで左右対称に、東の瑠璃館と西の真珠館。瑠璃館は、まるごとひとつが図書館になっている。真珠館には、教職員の居室や教科ごとの資料室が置かれている。
北の黒曜館は、一般生徒は立ち入り禁止。「黒曜館の地下には核シェルターがある」「昔、黒曜館の北塔で自殺者が出たらしい」みたいな無責任な噂が、たくさんある。
ほとんどの生徒は、紅玉館が、学校生活の中心になる。でも、あたしのための教室は、黒曜館にある。
あたしは足早に紅玉館を抜けた。中庭を突っ切って黒曜館に入るのがあたしのルートだ。ときどき、人に咎められる。
「中庭の出入りは許可されていないわよ」
余計なお世話よ。ほっといて。
あたしは特別なんだから。
中庭へ出るための扉は、電子キーで閉じられている。あたしは、普段どおり、手動でキーを解除した。この程度のパスワード、一分あったら解析できちゃう。何回設定し直しても同じこと。
出来静世の話によると、中庭の出入り禁止は、虫のせいなんだって。虫が出て、人を刺したり噛んだりして、危険だから。
バカじゃないの? 虫より人間のほうが危険だと、あたしは感じる。
ミツバチの羽音。アゲハチョウのダンス。セミの歌声。ハエのごますり。ほら、虫くらい、どうってことないのに。
中庭の小道は幾何学的なラインを描く。両脇は、あたしの背丈くらいの高さのバラの垣根。秋バラの香りが、中庭に満ちている。ヒメリンゴの青い実が、華奢な木に、たくさんぶら下がっている。
ガサリ。
風のない中庭で、音がした。
人がいるってこと? うんざりだわ。誰にも会わずにすむはずのこの場所に誰かがいる。あたしだけの場所のはずなのに。
「おはよう。ねえ、ちょっと待って」
背の高い美少女が、現れた。
いや、少女ってカラダじゃない。豊満なバスト。ブラウスのボタンが、今にも弾け飛びそう。首のリボンネクタイはボルドーだから、あたしと同じ二年生らしい。
その胸の大きな女が言った。
「きみが、風坂麗?」
気持ち悪い、と思った。
こっちは相手のことを知らない。なのに、向こうはこっちの名前と顔を知ってる。
晴れた朝の空気に、軽やかな笑い声があがった。
「あはは、そんなに尖った目をしないでよ。かわいいなあ!」
あたしは黙って相手をにらむ。
声が出ない。言葉を編んで、喉が温まるのを待つ。そうしないと、対面した相手の前で、あたしは声が出ない。
「わたしは葉鳴万知《はなり・まち》。風坂、きみと同じ二年一組の生徒だよ。といっても、つい一ヶ月くらい前に、この明精に編入したんだ。よろしく」
右手が差し出された。あたしはその手を、音をたてて払いのけた。
その瞬間、喉のつかえが取れたみたいに、あたしの口から声が出た。
「二年一組担任の出来静世が、あたしの監督教員だから、あたしも、二年一組といえなくはない。でも、あたしは普通の連中とは関わりがないの。挨拶、なんか必要、ない」
万知のあごにほくろがある。唇は赤くてぽってりしている。笑顔には、こっちを呑み込みそうなくらいの色気があって、ゾッとする。万知は、背中に流した長い髪を掻き上げた。
「つれないね。静世センセイが言ってたとおりだ」
「……あんたに、関係ない、でしょ」
「関係あるよ? 風坂の話し相手になってほしいって、静世センセイに頼まれてる」
いきなり、あたしは強い力で引き寄せられた。
「っ……!」
万知があたしの肩を抱いている。
「わたしは風坂の友達になりたいな。その孤独な目に惹き付けられる」
「ちょっ……」
キスされそうなほど顔が近い。花のような匂い。あたしの手からカバンが落ちる。
「スキンシップ、苦手?」
万知の吐息があたしのおでこに触れた。あたしの目の高さに、万知の微笑んだ口元がある。あごのほくろ、すんなりと長い首。
「や……やめ、なさいよ……」
抱かれたままの肩から、ぞわぞわと寒気が広がる。
万知の体は柔らかくて温かくて、だから、鳥肌が立った。人間の体って、ぐにゃっと簡単につぶれて壊れてしまいそう。
心臓が走っている。呼吸が上がっている。
「かわいいな。そんな顔しないでよ。わたしは、ただ、お見知りおき願いたいだけ」
「め、迷惑よ……」
喉に声が詰まって、うまくしゃべれない。
離してよ。そこ、どいて。あんたなんかに、かまわれたくない。
ああ、また声が出ない。
あたしは無理やり、もがいた。背の高い万知を力ずく手押しのける。
「あらら、逃げられちゃった」
万知が肩をすくめた。
あたしは万知を避けて、さっさと歩き出す。あたしの背中を、万知の声がなで回した。
「わたしはきみのことが気に入ったよ、風坂。わたしは必ずきみと仲よくなるよ」
あたしは、あんたみたいになれなれしいやつが嫌いよ。大嫌い。
ほてりと寒気を同時に感じている。万知の肉体の感触。熱くて弾力があって、あたしに吸いつくみたいで。
人の体温に触れたのは、いつ以来だろう? こんなに気味が悪いものだった?
変なんだろうか、あたし。
南向きに長く伸びるのが紅玉館。四つの建物の中で、いちばん広くて大きい。南端に正面玄関があって、全学年の教室や特別教室、校長室や職員室、購買部は、この紅玉館に入っている。
中庭は正方形。それを挟んで左右対称に、東の瑠璃館と西の真珠館。瑠璃館は、まるごとひとつが図書館になっている。真珠館には、教職員の居室や教科ごとの資料室が置かれている。
北の黒曜館は、一般生徒は立ち入り禁止。「黒曜館の地下には核シェルターがある」「昔、黒曜館の北塔で自殺者が出たらしい」みたいな無責任な噂が、たくさんある。
ほとんどの生徒は、紅玉館が、学校生活の中心になる。でも、あたしのための教室は、黒曜館にある。
あたしは足早に紅玉館を抜けた。中庭を突っ切って黒曜館に入るのがあたしのルートだ。ときどき、人に咎められる。
「中庭の出入りは許可されていないわよ」
余計なお世話よ。ほっといて。
あたしは特別なんだから。
中庭へ出るための扉は、電子キーで閉じられている。あたしは、普段どおり、手動でキーを解除した。この程度のパスワード、一分あったら解析できちゃう。何回設定し直しても同じこと。
出来静世の話によると、中庭の出入り禁止は、虫のせいなんだって。虫が出て、人を刺したり噛んだりして、危険だから。
バカじゃないの? 虫より人間のほうが危険だと、あたしは感じる。
ミツバチの羽音。アゲハチョウのダンス。セミの歌声。ハエのごますり。ほら、虫くらい、どうってことないのに。
中庭の小道は幾何学的なラインを描く。両脇は、あたしの背丈くらいの高さのバラの垣根。秋バラの香りが、中庭に満ちている。ヒメリンゴの青い実が、華奢な木に、たくさんぶら下がっている。
ガサリ。
風のない中庭で、音がした。
人がいるってこと? うんざりだわ。誰にも会わずにすむはずのこの場所に誰かがいる。あたしだけの場所のはずなのに。
「おはよう。ねえ、ちょっと待って」
背の高い美少女が、現れた。
いや、少女ってカラダじゃない。豊満なバスト。ブラウスのボタンが、今にも弾け飛びそう。首のリボンネクタイはボルドーだから、あたしと同じ二年生らしい。
その胸の大きな女が言った。
「きみが、風坂麗?」
気持ち悪い、と思った。
こっちは相手のことを知らない。なのに、向こうはこっちの名前と顔を知ってる。
晴れた朝の空気に、軽やかな笑い声があがった。
「あはは、そんなに尖った目をしないでよ。かわいいなあ!」
あたしは黙って相手をにらむ。
声が出ない。言葉を編んで、喉が温まるのを待つ。そうしないと、対面した相手の前で、あたしは声が出ない。
「わたしは葉鳴万知《はなり・まち》。風坂、きみと同じ二年一組の生徒だよ。といっても、つい一ヶ月くらい前に、この明精に編入したんだ。よろしく」
右手が差し出された。あたしはその手を、音をたてて払いのけた。
その瞬間、喉のつかえが取れたみたいに、あたしの口から声が出た。
「二年一組担任の出来静世が、あたしの監督教員だから、あたしも、二年一組といえなくはない。でも、あたしは普通の連中とは関わりがないの。挨拶、なんか必要、ない」
万知のあごにほくろがある。唇は赤くてぽってりしている。笑顔には、こっちを呑み込みそうなくらいの色気があって、ゾッとする。万知は、背中に流した長い髪を掻き上げた。
「つれないね。静世センセイが言ってたとおりだ」
「……あんたに、関係ない、でしょ」
「関係あるよ? 風坂の話し相手になってほしいって、静世センセイに頼まれてる」
いきなり、あたしは強い力で引き寄せられた。
「っ……!」
万知があたしの肩を抱いている。
「わたしは風坂の友達になりたいな。その孤独な目に惹き付けられる」
「ちょっ……」
キスされそうなほど顔が近い。花のような匂い。あたしの手からカバンが落ちる。
「スキンシップ、苦手?」
万知の吐息があたしのおでこに触れた。あたしの目の高さに、万知の微笑んだ口元がある。あごのほくろ、すんなりと長い首。
「や……やめ、なさいよ……」
抱かれたままの肩から、ぞわぞわと寒気が広がる。
万知の体は柔らかくて温かくて、だから、鳥肌が立った。人間の体って、ぐにゃっと簡単につぶれて壊れてしまいそう。
心臓が走っている。呼吸が上がっている。
「かわいいな。そんな顔しないでよ。わたしは、ただ、お見知りおき願いたいだけ」
「め、迷惑よ……」
喉に声が詰まって、うまくしゃべれない。
離してよ。そこ、どいて。あんたなんかに、かまわれたくない。
ああ、また声が出ない。
あたしは無理やり、もがいた。背の高い万知を力ずく手押しのける。
「あらら、逃げられちゃった」
万知が肩をすくめた。
あたしは万知を避けて、さっさと歩き出す。あたしの背中を、万知の声がなで回した。
「わたしはきみのことが気に入ったよ、風坂。わたしは必ずきみと仲よくなるよ」
あたしは、あんたみたいになれなれしいやつが嫌いよ。大嫌い。
ほてりと寒気を同時に感じている。万知の肉体の感触。熱くて弾力があって、あたしに吸いつくみたいで。
人の体温に触れたのは、いつ以来だろう? こんなに気味が悪いものだった?
変なんだろうか、あたし。