サナエは単身、暮れなずむ夕闇の桜並木を歩いていた。花びらがくるくる舞い散る中、両手で大きな紙袋を提げている。
駅へ向かう街道だ。途中、暗がりの脇道を通り過ぎた。奥にある路地裏を一瞥すれば、KEEP OUTと書かれた警察の縄張りが張り巡らされている。事件はまだ捜査中だ。しかしサナエは手を合わせない。献花の持ち合わせすらない。
彼女はどうしても、ここを通らずに居られなかった。本来は避けた方が無難なのに。
「――来たなサナエ! 春は見えたか?」
「!」
足早に去るサナエの前へ、物陰からキヨシが立ちはだかった。
彼だけではない。両隣には湯島兄妹も屹立している。白衣姿のままで来ていた。
サナエは顔をしかめ、紙袋を背後に隠した。無論、時すでに遅しだが。
「なぁサナエ、その袋は何だ? 俺に見られちゃまずいのか? まるで、ここ数日隠してた代物を、ほとぼりが冷めたんで急いで持ち帰ろうとしてる感じだなオイ?」
「そ、そんなことはないわ。これは……」
「どうやらナミダ先生の推理通りっすね」
たじろぐサナエに睨みを利かせつつ、キヨシはナミダを賛美した。
ナミダはステッキを路面に甲高く突いてから、左足首の義足を器用に前進させた。
華奢なナミダよりさらに小さいサナエを、じっくり睥睨する。
「犯罪心理の基本『犯人は現場へ様子見に戻って来る』だね。あるある、よくある」
「な、何ですか藪から棒に」
サナエはかろうじて反駁した。彼女はナミダとルイを知らないから当然だ。
「僕はスクール・カウンセラーさ」うやうやしく頭を垂れるナミダ。「サナエさん、君は泥川くんを騙したね? 彼の想い人である汽村さんに成りすましたんだ」
「!」
サナエはたたらを踏んだ。その拍子に紙袋を取り落とす。
路上にぶちまけた紙袋の中身は、茶髪のウィッグや化粧道具、ネイルや付け睫毛、派手なアクセサリなどが散見された。――ハルミの召し物と瓜二つだ。
「喫茶店で泥川くんが会ったのは、汽村さんに変装したサナエさんだったんだ」
「道理で妙だと思ったぜ!」地団駄を踏むキヨシ。「あのハルミちゃんは、印象が違ったからな。思ったより背が低かったし、化粧も本物より大人しかった!」
キヨシは今も覚えている――喫茶店でハルミと会ったときの違和感を。
「何よりコーヒーを飲み干す仕草がサナエと一緒だった! 同一人物だ!」
「だ、だから何?」開き直るサナエ。「わたしはキヨシみたいなストーカーにハルミ本人を会わせたら危険だと思って、自らハルミに扮しただけよ!」
「嘘だね」
ナミダが遮った。
サナエは言葉に詰まる。ナミダは怜悧な慧眼を研ぎ澄ませ、また一歩近付いた。サナエがおののいて遠ざかるも、その後ろは路地裏だ。KEEP OUTの縄張りに阻まれた。
「実は君って、汽村さんと友達でも何でもないだろう? あり得るあり得る」
「!」
「友達を装って泥川くんに接近した……理由は簡単だ、サナエさんもまた通学中に泥川くんを見かけるうちに『単純接触効果』で惚れたからさ」
――単純接触効果!
以前も話した心理学用語である。あれは布石だったのだ。
「サナエさんは泥川くんと知り合うきっかけが欲しくて、汽村さんの友人だと偽った。恋の相談に乗る振りをして、毎日会う約束を取り付けたんだ。ありがちありがち」
「うるさいわねっ……それでもキヨシは、地味なわたしなんか眼中になかった。いつも汽村の話ばかり! はらわたが煮えくり返りそうだった……!」
「ふ~ん。だから汽村さんの名前が『ハルミ』だとデタラメを教えたのね~?」
今度はルイが呟いた。ナミダそっくりな美女に迫られ、サナエは困惑する。
「で、デタラメって何のこと――」
「汽村さんの本名はハルミではない」
ナミダがスマートホンを取り出し、ニュース動画を再生する。
文章サイトではなく、アナウンサーが音声で読み上げる映像だ。
『高校生の汽村治美さんが遺体で発見されました』
――ナオミ!
サナエが罰の悪そうに立ち尽くす中、キヨシは大仰に肩をそびやかした。
「治美は『治美』とも『治美』とも読める! 俺はまんまと一杯食わされたんだ!」
「な、なぜわたしがそんな真似を――」
「お前が嫉妬してたからだ! 恋敵の名前を素直に教えるわけないもんな?」
「…………っ!」
「俺はあの子に一度だけ『ハルミちゃん』と声をかけたが、無視されたことがある……そりゃそうだ、彼女はナオミだったんだから!」
そして、そのあと彼女の死体を発見したのである――。
「これは『嫉妬のストラテジー』という心理だよ」カツンとステッキを突くナミダ。「一人の異性がモテてると、つられて自分も恋に急かされ、競争心が芽生えて略奪愛をしたくなるんだ。恋敵を遠ざけるための策略を練るのさ。あるある、よくある」
「わたしが恋敵の名を隠すことで優位に立とうとした、と……?」
「そう。君は汽村ナオミの本名を伏せ、代わりに自分の氏名を泥川くんに吹き込んだ――本名・春見沙苗さん?」
「!!」
ハルミ。字面は違えど、読みが同じ。そう言えばナミダが以前、類似例を話していた。
――たまに『波田さん』って苗字と勘違いされることもあるよ、あるある――
「同じ読み方の名前や苗字は数多い。泥川くんは常に『春見』『沙苗』ただ一人の名を呼び続けてたんだ。サナエさんはさぞかし至福だったろうね?」
「な、なんでわたしの苗字が春見だと――」
「サナエの口癖は『わたしは春を見た』だったよな!」大声で指摘するキヨシ。「あれは二重の意味だったんだ! 春を見た……春見! わたしは春見だ、ってな!」
「わ、わ、わたしは……」
「君は『ペルソナ・ペインティング』なのさ」ステッキの尖端を突き付けるナミダ。「別人を演じることで不安を解消する心理だ。汽村ナオミを演じてこっぴどく振れば、失恋した泥川くんはサナエだけを見てくれると希望的観測に耽溺した!」
心理学用語の伏線が、続々と回収される。
物事は全て心理学で説明できる。あらゆる事件は『人間の心』が引き起こすからだ。
やがてサナエは、キヨシを一瞥したあと、ゆっくりと天を仰いだ。
「バレちゃったわね……キミは絶対に騙されると思っていたのに……」
「俺はサナエの懸想に気付かず、喫茶店の相談を打ち切った……だからサナエは絶望して殺人に走ったんだな?」
「……そうよ」うつむくサナエ。「わたしは恋敵が憎かった。だから彼女を路地裏まで追いかけて、雑居ビルの非常階段から突き落としたの」
犯人はサナエ。
階段から転落した事故死かとも考えられたが、殺人事件だったのだ。
「嫉妬で身を滅ぼす……よくある話だ。悲しいほどにあるある」
ナミダが嘆息を吐くと、サナエは神経を逆なでされたようだった。キッと顔を上げるや否や、鬼のような形相で紙袋を掴み、勢い良く振り回した。
「黙れっ! あなたにわたしの何が判るの! どけっ、消えろっ! わたしの邪魔をするんじゃな――」
「おっと危ない」
「――い?」
あいにくサナエは、ナミダに軽くいなされた。
ナミダのステッキが一閃され、サナエの攻撃を弾き落としたのだ。
のみならず、くるりと回転したステッキが彼女の足下をひょいとすくい上げ、たちまち天地を引っくり返らせた。おっかない。
スカートがめくれ、あられもなく転倒したサナエの眼前で、ナミダの義足が機械音を伴って踏み鳴らされる。とてつもなく怖い。
「僕のステッキは歩行補助だけじゃなく、護身用として杖術もたしなんでるのさ」
「さっすがお兄ちゃ~ん! 強い! 無敵! かっこい~! 推理だけじゃなくアクションも担当できちゃうなんて映えるわ~!」
喝采するのはルイばかりだ。
サナエはおろか、キヨシも電光石火の殺陣に目を丸くしている。
ともあれ犯人は無力化された。真相が発覚し、キヨシの悩みは解消された。ほどなく騒ぎを聞き付けた警察が飛んで来る。引き渡されたサナエは観念し、素直に自供を始めた。
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