『どうして、文香がこんなことにっ……ううっ……』
 督叔父さんに案内された取調べ室の様子が観察できる部屋。
 そこで僕達は部屋の中で泣き崩れている男性の姿を見ることになった。
「これが、三上先輩の彼氏?」
 有加は窓越しに男性を指差した。マジックミラー越しだから、相手に僕達の姿は見えないとはいえ、有加は行動が毎回大胆すぎると僕は思う。
「そうだ。名前は栗林克也(くりばやしかつや)。元々は総合格闘技で飯を食っていっていたらしいが、今は引退して無職だそうだ。そして、亡くなった三上さんと交際している時は、食費などの恩恵も受けていたらしい」
「つまりは、“ヒモ”ね」
 有加が叔父さんの説明で瞬時に“ヒモ”という答えに行き着いた。
 僕はヒモの意味は全く分からず、困惑しながらも有加に訊ねると、
「そうねぇ……、梨緒みたいな人かしらねぇ」
 と僕を指差したのだ。
「えぇっ! ぼくぅ!」
 大声で驚く僕に、叔父さんが静かにしろと注意を入れる。
「有加も梨緒が分からないからってからかうな。正しい意味を教えてやれ」
 有加にも注意が入ると、有加はなんだか煮えきれないような返事で答えた。
「へーい。ヒモっていうのはね、自分では何も努力せずに、恋人に沢山尽くしてもらってる人の事をいうのよ。梨緒はまた一つ賢くなったわね。はい、いい子いい子」
 そういって、グリグリと僕の頭を有加が撫でるので、僕はその手を払いのける。
『俺は……、文香が居ないと生きていけないのに……どうしてっ!』
 男性はひたすら、先輩の名前を呼び続けるだけで、なかなか取り調べが進んでいない状況だった。
「栗林だけが、三上さんの部屋の合鍵を持っているんだ」
「じゃあ、決まりじゃない。アイツが犯人って」
「ちょっと、あんなに先輩の名前を呼びながら泣いているんだよ? きっと悲しくて仕方ないんだよ」
 叔父さんと有加が犯人を取調べ室の男性と特定している中、僕は一人だけあの彼が可哀想で仕方なくなってくる。
「あーあ。梨緒、また深く考えすぎよ」
「え?」
 僕は気が付くと、ボロボロと涙を流していた。その姿を見た有加はカバンからハンカチを取り出して僕に差し出した。
「有加、ありがとう」
 ハンカチを受け取った僕はそれで涙を拭う。
「奴が犯人にしても、現場のエントランスに設置されている防犯カメラに彼の姿が映ってないんだ。事件発生前後に」
「あのマンションの周囲の防犯カメラも一応調べたほうがいいかもしれないわね。あそこ、非常階段のある方には何故か防犯カメラ付いてなかったし」
「有加、いつのまに防犯カメラの位置まで確認していたの?」
 有加は僕の問いに、『防犯カメラの位置くらい、普通確認するもんでしょ?』と答えるが、僕と叔父さんは二人揃って首を傾げた。
「とにかく! どうやってあの男が犯行に至ったのか、あと、先輩の相談事とはなんだったのかを分からない限り、事件は解決できそうに無いんじゃない? 前者は警察に任せるとして、後者は暇だから私達で考えるわ」
「もしかして、それって僕も頭数に入っている?」
 僕が自分を指差すと、『当たり前じゃない』と有加がさも当然のように返す。
「言っておくが、これはお遊びじゃないんだぞ。特に、有加。お前は分かってやっている節があって悪質すぎるぞ」
「悪質? はてさて、何のことやら? ……ん?」
 叔父さんが有加に説教をしていると、有加のスマホが震えた。
「あ、父さんからのメールだ」
 有加がスマホの電源を入れると、そこには『父』という表示が映っていた。
「何々? 『今晩の晩御飯は、【鳥肌刑事の湯けむりドロドロ殺人事件。ゴマゴマした喧騒の中で居た目撃者、薬味が見破る先とは……】です。帰ってくるときは連絡ください』だってさ」
 有加のお父さんは作家業で家にずっと篭もっているので、気晴らしとして僕達のご飯は作ってくれる。しかし……、
「兄さん。まだ料理名を殺人事件にする癖、治って無かったのか……」
 と叔父さんが頭を抱えるレベルで、料理名が重症なのである。
「毎回予想するの楽しいわよ? さて、ご飯予告メールも来た事だし、料理を予想しながら帰りますかね? 叔父さん、もう私達は帰っていいのよね?」
「一通り話はしたし、帰っていいぞ。これ以上居座られたら俺のほうが参ってしまう」
「じゃあ、もう二時間ほど居座ってしまおうかな?」
 有加がボソッと言った冗談を叔父さんは聞き逃さなくて、有加をぐいぐい引っ張って署の玄関まで強制連行させた。

「うー、叔父さんのケチー。もうちょっと警察署の中を探検とかしてみたかったのに」
 帰り道、有加はブーブーと文句を言いながら歩いていた。
「仕方ないよ、叔父さんも刑事さんで忙しいわけだし」
「フン、いい子ぶっちゃって。梨緒は私が居ないと何も出来ないダメダメっ子なんだから、私の言う事だけを聞けばいいのよ」
 有加のその言葉に少しカチンと来た僕は歩みを止めた。
「僕だってもういい大人なんだよ? そろそろ、自立だってしたいし、禁止されるミステリーも読んでみたいんだ。どうして、有加はそうやって僕を縛るの?」
 僕の言葉に、同じ様に歩みを止めた有加は、僕の方へ一切振り返らずに答える。
「だって、貴方を堕としたくなんか無いもの……」
 いつもと違う声のトーンで話す有加に少し悪寒がする。
「え、今、なんて……?」
 僕が恐る恐る訊ねると、有加は、今度は振り返って優しく僕に微笑みかけた。
「ん? 何の話? さ、早く帰ろう」
 いつもの声で僕に手を差し出す有加。先ほどのギャップに少し戸惑いつつ、僕は差し出された手を握ったのだった。

 閑静な住宅街にある、西洋を思わせるような蔦が生い茂るレンガ造りの家。僕達が暮らしている家だ。
 夜8時。重厚そうな扉を開けて、僕らは帰宅の徒に付いた。
「ただいまー」
 有加が玄関で元気よく声を出すと、廊下の奥からエプロン姿の白髪交じりの中年男性がスリッパをパタパタと鳴らしながらやってきた。
 有加のお父さんで、ミステリー作家の司馬静(しばしずか)さんである。
「お帰りなさい。ゆーちゃん、りーくん。督くんから電話があって、事件に巻き込まれたっていうのは本当ですか?」
「あー……」
 有加は何か言いづらそうに僕の方を見る。
「えーっと……、ちょっと先輩の家に訪ねたら遺体を発見しちゃって、さっきまで警察で事情を聞かされていたんです。静さん、ご迷惑をおかけしてすみません」
 僕が言いにくそうな有加の代わりに説明をすると、静さんは優しく微笑む。
「いいんですよ。貴方たちが何事もなければ、それだけで、私は安心です。さ、ご飯が出来ているので、皆で食べましょう」
 どうやら、静さんのこれ以上のお咎めがなさそうなので、僕達はホッと安堵して、ダイニングへと向かった。
 さて、静さんが作った『鳥肌刑事の湯けむりドロドロ殺人事件。ゴマゴマした喧騒の中で居た目撃者、薬味が見破る先とは……』の正体、帰り道にある程度の予想を立てるのが僕達のセオリーなのだけど、今回の僕ら予想は、鶏皮の唐揚げの胡麻ドレ和え。
 そして肝心の正解はというと……、
「棒々鶏……」
「棒々鶏だね……」
 ダイニングに入ると、そこには綺麗に盛り付けがされている棒々鶏の大皿がそこにあった。
「最近買った、電気圧力鍋のレシピブックを見たら作りたくなったのですよ。いやぁ、最近の家電は便利ですねぇー」
 静さんは、趣味・料理の人なので、様々な調理器具をネット通販で買っては使っている。その姿はまるで、主夫みたいだ。
「さ、食べましょう」
 静さんに促されて僕達は椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」

 ご飯を美味しく食べ終わって、今日一日の汗を洗い流した後、有加から突然、
「父さんに聞いて貰いたい話があるから、父さんの書斎に行くわ。梨緒は絶対に入るんじゃないわよ? いいわね?」
 と念を押された僕は仕方なく自室へと入り、ベッドに転がった。
 転がりながら僕は、今日の出来事を思い返してみる。
 今日は色々なことが起こりすぎて、全部が今日1日の内に起こった出来事だったなんて考えられない。
 その中でも特に気になったのは、有加の言葉だ。
『だって、貴方を堕としたくなんか無いもの……』
 あの後、僕がいくら聞き返してもはぐらかされるだけだったから、もしかすると聞き間違いだった可能性も否定できないけど……、
 あの言葉が本当に有加の口から発せられたものだとしたら、“堕とす”って一体どういうことなんだろう。
 僕は僕自身が知らない重大なナニかを抱えていて、それを防ぐために有加はあんなことを言ったのだろうか?
 考えれば考えるほどに、グルグルと思考が渦巻いて歪んでいく。
「気になるけど、今は先輩の事件の方が先だね」
 そう思い立って僕はベッドから机に移動し、ルーズリーフを1枚取り出して今日起こった事件の概要を書き込んでいった。そして、書き出して気づいたことが一つ、
「そういえば、先輩の部屋に不法侵入したのは覚えているんだけど、それから先の記憶が全くないや……」
 僕は事件現場で見事に眠りこけてしまっていたのだ。そして、どうしてそうなったかという記憶がまるでない。気づいたときには、有加のビンタで起こされていた。
「余りのショックで気絶したのかなぁ……。まぁいいか、警察署で見せてもらった資料に色々書いてあったから、ソレを参考にしよう」
 僕は警察で見た検死結果などを概要としてまとめる。
「出来た。さて、これからどう導き出せられるか……、はまた明日でいいかなぁ。今日は色々ありすぎて疲れちゃったなぁ」
 僕はまとめた概要を机の上に置いたまま、ベッドへと向かって目を閉じた。

 夢を見た。
 それは、初めて有加の家を訪れた日の頃の記憶。

「わー。ゆかちゃんのパパの本棚大きいね!」
 僕はカラフルな本達が並ぶ本棚をキラキラした目で見つめていた。
「へっへー。凄いでしょ! ここからーここまでパパの作品なんだよ!」
 彼女は可愛らしくテトテトと走って、自分の父親の作品が収められている本棚を指差す。
「ゆかちゃんのパパ、ご本書いてるの!? すごいよ!」
 僕が驚愕していると、彼女は自慢げに胸を張る。
「パパが自由に本棚の本見ていいって!」
「ホント!? 嬉しい。ありがとー」
 彼女は自分の父親の作品スペースから一冊の本を取り出した。
「パパの作品、りおくんには難しいかもしれないけど、これなら読めるかも」
 そういって、彼女は僕に一冊の本を渡してくれた。
「うん、読んでみるー」
 僕はワクワクしながら、渡された本を開く。

 しかし、それから先の僕の記憶は途切れてしまっていた。