自転車のペダルを踏み込む。僕は目の前に伸びる坂道を一気にかけ上がった。高校に入って五カ月近く、毎朝上ってきた坂だ。

夏休みの、全校生徒いっせいの補習授業の翌日。
立ち並ぶ桜の木が青々と茂っている。風はない。湿気を含んだ空気が、夏の終わりにもかかわらず肌にまとわりつく。

自転車を停めて駐輪場を出ると、正面には体育館。
その左手前には芝が見える。
三年前に改築されたモダンな校舎とは対照的に、半世紀という歴史を刻んだ弓道場が、ひっそりとそこにたたずんでいる。

道場のちょうど中央に、弓を構えた女の子がいた。
彼女の名は、真野(まの)あずみ。黒袴(くろばかま)姿で、矢をつがえた姿勢のまま、じっと的を見つめている。

僕はゆっくりと矢取道(やとりみち)の脇を歩き、道場へ近づいた。
小柄で華奢なあずみの道衣(どうぎ)が陽光に照らされてまぶしい。
けがれなく神々しい……なんて例えは言いすぎだろうか。

あずみは的から顔を戻すと、右手を(つる)に懸けた。いつもは大きな瞳で見上げてくる子リスのようだけれど、今日は違う。真剣なまなざしだ。
僕の胸が鐘を打つように高鳴る。

あずみはゆったりと弓を打ち起こしていく。肘につられて、透き通るような白い腕が上がった。彼女の呼吸は乱れない。そのまま流れるように弓を引き分け、左腕が的に向かってまっすぐに伸びる。

弓のしなり具合と張りつめる弦、そしてジュラルミンの矢の輝きと、
あずみの表情。

なんてきれいなんだろう。
思わず見惚(みと)れる。

ふと、遠方の灯火がちらつく程度のまばたきをした隙に、矢は放たれ、
的を射抜いた。

――スパンッ。

この世で最高に幸せな音が、空に高らかと響き渡る。
彼女は両腕を伸ばし、全身で大の字を描いたまま静止していた。
武道を極める上でもっとも大切なのは、残心(ざんしん)だ。
一連の動作を終えてからもなお、自分の射を見つめ、自身の心を見つめ直すことをいう。
先輩からは、これは“余韻の美学”と教わった。

まるで一枚の写真を見ているような目の前の光景を、僕は瞳に焼きつける。
真野あずみとの出会いは、今から五カ月ほど前のことだ。

今、鮮明によみがえる。
桜の季節に訪れた、僕の初恋――。