その晩、矢陰光は夢を見た。
 昔の思い出だ。夕方、栗音に勘繰られたせいだろう。記憶が掘り起こされたのだ。
 古物時計店を時任刻と開業するより、以前の話。
 大手時計メーカーのビルがそびえ立つ。
 そこへ出社する時任刻と、光。
 光はスーツだが、刻は私服だ。会社の『開発部門』で、工業用の作業服に着替える。
 大学を出た刻は新進気鋭の技術者(エンジニア)であり、光は事務と経理を担当していた。
『――お客様のアンケートや意見を取り入れ、需要に即した新製品を開発する――』
 それが刻の仕事だった。
 だが、彼は誠実すぎた。日々寄せられる苦情には根も葉もないクレームも含まれる。そんな雑音までいちいち企画に反映したらキリがない。
『――おい時任! また些末(さまつ)な少数意見を馬鹿正直に試作したな? そんなものは無視しろ! 要望の多い提案だけ拾わないと採算が取れんぞ――』
 上司に怒鳴られた刻は、この職場が窮屈だった。
(――全ての人々の想いは()み取れない……企業は多数派の利益を優先してしまう――)
 刻は荷物をまとめて、会社を辞めた。
 それを追うようにして、光も――。
『――矢陰! またドジを踏んだな? 資材の仕入れ値が全て間違っているぞ! もう予算委員会に報告してしまったじゃないか! どうしてくれるんだ――』
『――辞めます――』
 二人が野に下ったのは、二六歳の頃だ。
『――僕と二人で店を出しませんか?――』
 誘うように艶笑(えんしょう)する刻は、光の目にまぶしく映った。
『――自営業の店なら、お客様一人一人に対応できます。少数の声にも向き合える……僕は常に身近な存在でありたい。時計に関する全ての悩みを解きほぐし(・・・・・)たいのです――』

   *

 光はここで目を覚ました。
 はだけたバスローブ姿で上体を起こし、ダブルベッドの上で頭を抱える。
(今さらな夢を見たわね……栗音ちゃんに詮索されたせいかしら?)
 時刻はまだ夜中である。
 横を見ると、ダブルベッドの半分はもぬけの殻だった。
 ――店長が居ない。
 光は寝室を出て、階段を降りた。
 そこは古物時計店の二階である。店舗の上に住居を構えているのだ。
「あ、居た」
 一階の事務室に出ると、店長の時任刻が佇んでいた。
 パジャマの上にカーディガンを羽織り、金庫の前でうたた寝をしている。
「何してるのよ」
「……ああ、光さん」目をこする店長。「例の女子高生が、非合法に訴えると言っていたのでしょう? 泥棒に入られるかも知れないと危惧したのですよ」
「だからって徹夜する気? 心配無用よ、うちは警備会社や盗難保険と契約してるし、防犯グッズも常備してるし……早く寝ましょ」
「おや? 光さん、一人で眠るのは寂しいですか?」
「っ……そ、そうじゃないわよっ! 半分はそうだけど……ごにょごにょ」
 頬を紅潮させる光に、店長は優しく手招きした。
 寄り添って、接吻(キス)を交わす。二人はそういう仲である。会社を辞めたときからずっと。
「僕はお客様の声に応えたくて独立しました。しかし無一文の少女にタダであげるわけには参りません……さて、どうしたものでしょう?」
「知らないわよ……それに、あたしはまだ()に落ちないわ」
「と言うと?」
 首を傾げて悪戯っぽく笑う店長に、光はふくれっ面でこう答えた。
「あの子、他にも理由を隠してる気がするわ。時計を取り戻したい本当の理由を……ね」

   *

「私は強盗よっ!! 命が惜しくばウブロのキングゴールドをよこしなさい!」
 栗音が再来したのは、翌日の日没前だった。
 泥棒どころではない、強盗犯として現れたのだ。
 これには店長も、光も、開いた口が塞がらなかった。
 目深(まぶか)にかぶった野球帽、大きすぎて鼻にずり落ちたサングラス、マスクで口を覆ったセーラー服の少女が、聞き覚えのある声で吠えている。
 手には包丁を握っていた。
 ――本物の刃は、さすがにまずい。
 店長は呆れて冷笑(れいしょう)した。光も、お粗末な強盗にかぶりを振るしかなかった。
「あなた、それで正体を隠してるつもり?」
「な、何のことよ! 早く金目の物を……特にウブロのキングゴールドを渡しなさい!」
 いきり立つ栗音の手先は、小刻みに震えていた。
 包丁を持つ手が頼りない。決して本心ではないようだ。
 しかし、彼女はやってしまった。やってはいけないことをしでかした。
 店長は嘆息すると、窃笑(せっしょう)しながら一歩ずつ近寄る。
「時海栗音さん」
「はうっ! ……だ、誰のことかしら……」
「馬鹿な真似はやめなさい。今なら見なかったことにします。警察にも通報しません」
「く……来るなっ触るなっ、私は本気なのよっ!」
 栗音は包丁を振り回した。
 ――危ない!
 店長は咄嗟(とっさ)に飛びのき、回避した。
 光が栗音の後ろに回り込む。穏便に取り押さえようとしたが、あいにく彼女はドジだった。足がからまって思いきりずっこける。
「ぁだっ!」
 だが、それは幸いにも栗音めがけてタックルをかます格好となった。
 栗音の腰に激突した光は、揉み合うように床へ押し倒す。
 その拍子に包丁が手放され、素早く店長が奪い取った。鎮圧完了である。
 あられもなくスカートがめくれ、下着と健脚をさらした少女と淑女は、ばっちり天井の防犯カメラにも記録された。一応、お手柄だ。
「光さんのドジが役に立ちましたね。あっはっは」
「わ、笑うなーっ!」
 光と栗音は同時に叫んだが、店長はにやにやと嗤笑(ししょう)したままだ。
「さて、捕まえた後は尋問です」栗音の眼前にしゃがみ込む店長。「なぜこんな愚行をしたのですか? 動機を答えて下さい」
「それは……」
 栗音は口ごもった。
 パンツ丸出しで倒れていることも忘れ、どう言い訳すべきか苦慮している。取り押さえた光もフォーマルドレスのはだけた(すそ)を直しもせず、聡明な店長を見上げる一方だ。
「自供する気がないのであれば、僕が言い当てるしかありませんね」
「言い当てる? あなたが謎を解いてみせるってこと?」
「時計にまつわる謎と悩みを解きほぐす――それが古物時計店『時ほぐし(・・・・)』ですから」
 やんわりと微笑した最高の営業スマイルは、あらゆる女性を骨抜きにせしめる。
 事実、栗音はうっとりと見とれてしまった。光も同様で、あの笑顔を独占できない現状が歯がゆくて仕方がない。いつまで栗音を組み伏せていれば良いのだろう。
 店長は優しく諭すように謎を紐解く。
「ウブロの腕時計には、独自に設計されたムーブメントがありましたね」
「うっ……」
「その名は『ウニコ』! そして時海栗音さんが幼い頃、親に呼ばれていた愛称は――」
「そうよ、海栗(うに)子よ!」
 この符合。
 この一致。
 栗音は自分の名を含有した時計が好きだったのだ。それを父が愛用していたことも。
「お父さんがウブロを買った動機は二つあるんです」
「一つは『成功者の時計』のジンクスですね? もう一つは、娘の愛称が冠されたムーブメント(・・・・・・・・・・・・・・・)を搭載していたから」
「……はい」
 キングゴールドは、仕事と家族を両立させた象徴だった。
 それを売り払うことは、会社も家庭も捨ててしまうことを意味する。
 娘はそれが耐えられなかったのだ。
「キングゴールドの売却は、仕事も家族も清算する意思表示だったんです……父は財産を整理すると同時に、母との離婚を決めたんです」
「離婚!」アッと叫ぶ光。「そう言えば栗音ちゃんはお父さんの話ばかりで、お母さんについては全然触れなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)わね!」
「私は母が嫌いです。母は副社長で、財務を一任されてました……それを利用して横領や着服を繰り返した結果、経営が傾いたんです」
 離婚するのも当然だった。
 不景気だけでなく、母のせいで一家離散の危機に陥ったのだ。
「お父さんは私の卒業まで待って、別れる決意を固めました……けど」
 けど。
 栗音は嫌なのだ。
 何もかも売り飛ばしたら、栗音の過去も、人生も否定することになる。思い出を、痕跡を、在りし日々の時間を、リセットすることなど出来ないのに――。
「せめてキングゴールドだけは残して欲しかったんです。私のことを忘れないで欲しかったんです……」
 それが動機。
 謎は解きほぐされた。
「いたいけな少女の、時計に身をゆだねた願いですね。さしずめ、舷窓(ウブロ)に見出した幻想と言った所でしょうか」
 (あわ)れみの憐笑(れんしょう)を浮かべる店長は、さりとて品物をタダで返却する気はなさそうだ。
 彼は図りあぐねている。人情を取るか、経営を取るか。そもそも時計を返しても、父の気持ちが変わらなければ意味がない。
「ねぇ店長」
「何ですか光さん?」
「お客様一人一人の声を聴くために、独立したんでしょう?」
「…………む」
 光の後押しが決め手となった。
 店長は譲歩を試みるように、栗音と改めて視線を合わせて目笑(もくしょう)する。
 栗音もようやく光の拘束から解放され、上半身を抱き起こしてもらった。
「栗音さんは四月から就職するんですよね? 分割払い(・・・・)で買い取ることは可能ですか?」
「!」
 栗音は目を()いた。
 店長がレジカウンターの奥へ舞い戻るや、戸棚から一枚の書類を引き抜いた。
 そこには『分割払い契約書』と記されている。
「あなたが正当な金銭で取引できる社会人になれば契約を結べる(・・・・・・・・・・・・・)と思います」
「ああ……昨日まで学生だった私には、なかった発想でした……」
 その手があった。
 一括(いっかつ)で買う大金は持ち合わせていないが、少額ずつ決済する形式であれば購入できる。
「あ、ありがとう……ございます!」
 栗音は滂沱(ぼうだ)の涙を振りまきながら頭を下げた。
 何度も何度も、壊れた人形さながらに。
「礼には及びませんよ。そもそも時計を確保しても、父娘(おやこ)の絆を繋ぎとめられるかは、あなた次第ですからね」
「やってみせます! 思い出の時計さえあれば、きっと……!」
 人の心は、物に宿るという。
 つくもがみ。お守り。仏像や偶像。思い入れの強い記念品やお土産を日本人が重んじるのも、そうした土着の信仰があるからだ。
 喜び勇んで栗音が退店した先には、大通りの桜並木が花開いていた。
 今は三月――西日本ではもう咲いているらしいが、こちらでも桜前線が追い付いたようだ。
「あの子なら大丈夫ですね」
 店長は笑って見送った。
 光は店長にしなだれかかって、一緒に満面の笑みを咲かせる。
「あたし、会社を辞めて良かったわ。消費者の笑顔を、こんな近くで見られるんだもの」
 場末の古物時計店『時ほぐし』。
 今日も時計にまつわる想いを秘めた客が、二人を頼って来店している。

()計でお困りならばお()せ下さい。この時任(・・)刻が、お客様の悩みを|解きほぐします」

――了