「やだ!!」
少女の大音声が商店街に谺する。
閑静な住宅地にある、日用品や食料品を一手に提供する商店街である。八百屋、服屋、文具店、床屋、精肉店、魚屋、書店の他に定食屋や居酒屋まで連なる軒並みだ。
電機店に並んだテレビからは『本日は三月十日、公立高校の卒業式が一斉に行なわれました』だの『西日本では桜が一足早く咲き始めました』だのと局アナが言葉を連ねる。
そんな顔ぶれの――末端。
商店街の中心から外れた場末に、かろうじて店の一つに数えられる時計店があった。
庶民的な商店街とは異なる、大理石と黒曜石で外装されたモダンな店構えだ。
――古物時計店『時ほぐし』――
という看板が立てられている。
「やだ! お父さん、その腕時計だけは売らないで!」
悲痛な懇願は、その時計店から響いた。
往来に面する壁はガラス張りで、店内が丸見えだ。決して広くない自営業の店舗だが、中は高級ブランドの腕時計がずらりとショーケースに陳列されている。中古にも拘らず価格帯は数十万円、高いものだと数百万円、さらには一千万単位も窺えた。
その敷居の高さゆえか、はたまた場末という立地ゆえか、訪れる客は少ない。
今ある客足は、一組の少女と父親だけだった。だからこそ周囲を気にせず、金切り声を上げられるのだろう。
「その腕時計、お父さんの宝物でしょ!? 売り飛ばしちゃ駄目よ!」
父の袖を引っ張る少女は、セーラー服をまとっていた。
片手には卒業証書の筒を携えている。今日まさに高校を卒業したての、帰りの足で店に立ち寄った風体だ。
対する父は、娘の卒業式に参席したのだろう。スリーピースのスーツを着ているが、生地はくたびれ、薄汚れている。どうにもみすぼらしいのに彼の腕時計だけは高価だった。
「手を放しなさい、栗音」
「やだ!」
「今は先立つものが必要なんだ。この時計はスイスの高級時計メーカー『ウブロ』でな。売れば当座の金になるんだよ……」
古物時計店なので、品物の買い取りも受け付けている。
レジ脇に応接用のカウンター席が設けられ、そこで一悶着が起きていた。時計を鑑定士に差し出してからこっち、父娘は延々といがみ合っている。
「まぁまぁお客様、熱くならずに」
その鑑定士が、にこやかに取りなした。
まだ若い男性である。
淡い茶髪に細面、垂れ目だが聡明な眼光を宿す甘い美貌は、常に笑顔を維持していた。いかにも紳士然とした眉目秀麗は、少女の目を奪うほどだ。
衣服も高級店にふさわしいフォーマルだ。アルマーニのダブルスーツを颯爽と着こなすスマートさで、ボタンも余さず留めている几帳面さが際立つ。
彼の左手首にはロレックスの年代物が巻かれ、自身がサンプルモニターとなって販売していることも察せられた。
「こちらのお品物、ウブロ製のビッグバン・ウニコ・キングゴールドでございますね」
「ああ。さすが店員は詳しいな」
「恐れ入ります。文字通りゴールドをあしらった煌びやかな光沢は、ウブロの看板シリーズ『ビッグバン』の中でも一回り高値で取引されておりますね」
「ほらな」
父はどうだ、と言わんばかりに隣席の娘を見下ろした。
傍らに座り込む娘は、卒業証書の筒を強く握ってわなわなと震えている。長い黒髪を後ろに束ねたお団子頭が、振動で崩れそうだ。
父は安いスーツの襟を正し、身の丈に合わない高級時計を改めて鑑定士に問うた。
「で、いくらで引き取るんだい、店長さん?」
店長。
そう――この若い男性が『時ほぐし』の主人だ。
鑑定は店長自らが見定める決まりなのだろう。店内スタッフは他にも女性販売員が見受けられたが、こちらには寄って来ない。
年齢は店長と同じ二〇代後半、黒衣のフォーマルドレスが似合う長身痩躯で、客のない店内を掃除して回ったり、ショーケースの品を並べ直したりしていた。ピンヒールを履いているせいか、ときどきつまずいたりよろけたりしていたが……。
「キングゴールドは通常のビッグバンより五〇万円上乗せして買い取りいたします」
店長は一分の隙もない営業スマイルで応じた。
美形から放たれる満面の笑みは、たちまち父娘の険悪な空気を解きほぐす。
「判った。それで売ろう」
「ちょっと、お父さん……」
「栗音は黙ってろ」
「ご満足いただけて何よりです」巧笑とともに電卓を弾く店長。「時計にまつわる悩みを解きほぐす……それが古物時計店『時ほぐし』ですから」
父と店長は握手を交わし、さっさと手続きを済ませてしまった。
「駄目よお父さん! それは命より大切な、思い出の品なのに!」
「いいんだ栗音。判ってくれ……」
娘の名を呼びながら、親はなだめ続けた。
もちろん少女が納得するはずもなく、退店する際も喧々諤々の言い争いに終始する。見送る店長は苦笑という営業スマイルを死守した。
「金品を取り扱う手前、お客様もいろいろな事情を抱えた方がいらっしゃいますが……男性向けの時計店にあのような少女が訪問するのは珍しいですね」
「なに他人事みたいに語ってるのよ」
女性店員が店長に悪態をついた。
佇まいこそ楚々とした振る舞いだが、すまし顔から放たれる物言いはぞんざいだ。
店長は彼女に首を巡らせ、おやおやと戯笑してみせた。
「これはこれは光さん、店長の僕にため口ですか。販売員の言葉遣いとは思えませんよ」
「客が居るときは猫をかぶるわ」
外見と口調が一致しない美女は、名を光と言った。
胸元の名札には『矢陰』とある。
「光さん……僕はあなたの氏名が時間に関わる『光陰矢のごとし』を彷彿とさせるのが気に入って採用したんです。時計店にふさわしい態度を心がけて下さいね?」
「はいはい。時計マニアも度を過ぎると人名にまで口を出すのね……時任刻店長?」
時任刻――それが彼の名だ。
「当然です。僕は時を任され、刻む者……と書いて時任刻! 二六歳で脱サラしてから早一年! ようやく店が軌道に乗って来ました。くれぐれもドジを踏まないで下さいね?」
「はいはい判ってますよ――だあっ!」
言い終わらぬうちに、光のヒールが盛大につんのめった。
彼女はフォーマルドレスに慣れていない。黙って立っていれば容姿端麗な淑女だが、しつけは全く出来ていなかった。
見れば、掃除したばかりなのに細かな埃は残っているし、並べ直した商品棚も余計に取っ散らかっている。そう……彼女は間が抜けているのだ。
「光さんはドジですねぇ」失笑を禁じ得ない店長。「そろそろ立ち回りを覚えないと」
「う、うるさいわねっ……別に客の前で失態したわけじゃないし――……あ」
光の顔が青ざめた。
店長は彼女の視線を目で追う。
店の窓外だ。そこは大通りに面したガラス張りで、屋外から店内を覗き見できる。
――セーラー服の少女が、ガラス越しに光を目撃していた。
退店して父と別れたのだろう、少女は単身、未練がましく店を眺めていたのだ。
少女は目が合った直後、再び入口の回転ドアを開けて闖入した。ドアベルが軽やかに鳴り響く。少女の足取りは重苦しかったけれども。
「いらっしゃいませ」
コロッと光の物腰が豹変した。慎ましい接客態度だ。必死にドジを隠している。
「さっきお父さんが売った時計なんですけど!」
少女は光を素通りして、店長のもとへ歩み寄った。
無視された光が頬を引きつらせるのを尻目に、店長は快活に朗笑する。
「あの時計が、いかがなさいましたか?」
「あれは貴重な品物なんです! それで私……」
「はい、貴重ですね。時計大国スイスのロレックスやオメガに劣らない高級メーカー、フランス語で船の『舷窓』を意味するウブロは、まさに新たな地平を窓から発見したような開拓者でした。ゴールドケースとラバーベルトを合わせた当時としては画期的なデザインで、一躍トップブランドに仲間入りしたのは有名ですね」
「そうなんです! 芸能人やスポーツ選手、大手実業家もウブロ愛用者が多いです。付いた異名は『成功者の時計』! 自社開発したムーブメント『ウニコ』も業界に衝撃を与えました! やっぱり高級ブランドはマニュファクチュアールでなきゃ!」
「……これは驚きました」
店長は目を瞠った。
年端も行かぬ女子高生が、男性向けの高級腕時計について流暢な蘊蓄を語ったのだ。
父の影響だろうか?
「お願いです! キングゴールドを返して下さい! お父さんの宝物なんです!」
少女が深々と頭を下げた。
店長も、光も、どう反応すべきか顔を見合わせる。
「いや……無理でしょ」
光はつい本性で呟いた。
店長も気の毒そうに憫笑を浮かべるしかない。
「申し訳ございませんが、正当な金銭がなければ応じられません」
店長の返事に、少女はぐぬぬと顔を歪めた。可愛い顔が台なしだ。
そのまま彼女は身を翻し、遁走した。ドアベルをけたたましく鳴らして退店した後も、またしばらくガラス越しに張り付く始末だ。
「これは相当、根に持たれていますね」
頭を掻く店長だったが、光もさすがに見かねて、ヒールを慎重に動かして外出した。
「店長、あたし外の掃除して来ます」
「……ドジは踏まないで下さいね」
「はいは――あぐぅっ!」
さっそく足をもつれさせた光は、取り繕うように早足で店を飛び出した。
外で立ち往生する少女と、せいぜい優雅に対峙した。
「何ですか店員さん?」
「お客様の様子が気になりましたので」
優美にドレスを翻した光は、スカートの裾を踏んで転びかけたが気にしない。
何食わぬ顔で少女に唇を寄せ、耳元で囁く。
「――あなた、ワケアリでしょ?」
それは本性の声だった。
「力になれるかは判らないけど、話だけなら聞いてあげるわよ?」
猫をかぶらない物言いは、腹を割った内緒話にもってこいだ。
飾らない本音で接すれば、少女も胸襟を開くようになる。
「私は……時海栗音と言います」
「時海? 名前に『時』の字が入ってるじゃん、うちの店長が喜びそう」
「海と栗が並んでるので、幼い頃は『海栗子ちゃん』なんて呼ばれてました」
はにかんだ少女――栗音は、計算通り光に打ち解けたようだ。
光はさらに顔を寄せ、息のかかる距離で問い詰めた。
「なぜそこまでウブロを返して欲しいの?」
「あの時計は、私たち父娘の象徴なんです」
栗音は一言一言発するたびに、感極まって瞳が潤んだ。
「象徴?」
「お父さんは裸一貫で会社を興した『成功者』でした。もともと港湾で働いてたんですけど、一念発起して海運会社を起業して……ウブロはそのゲン担ぎに買いました」
「ゲン担ぎ――『成功者の時計』ね!」ポンと手を叩く光。「ウブロは船の『舷窓』だから海運業にもピッタリだし!」
そうです、と栗音は相槌を打った。
前述もしたが、ウブロは著名人が購入することでも知られている。何かの道で一攫千金を夢見る者はウブロを買うべき……というジンクスがあるほどだ。
「日本でもプロ野球選手の高橋由伸さんや田中将大さん、映画監督の北野武さん、俳優の哀川翔さん、タレントの武井壮さんがウブロを付けてテレビに出てました。他にも――」
「あー、そこまで列挙しなくても良いわよ」
キリがなさそうなので光は手で遮った。
栗音はとにかく造詣が深い。父譲りの知識量が備わっている。
「海運会社は軌道に乗りました。私も何不自由なく裕福に育ちました。けど……」
けど。
栗音の表情が翳った。
背景の空も暗くなる。辺りはすっかり日が暮れようとしていた。
「最近は不景気の煽りもあって事業が傾いたんです……資金難に陥ったお父さんは離婚も想定し、私の卒業を待って財産整理してるんです……」
栗音は大粒の涙を垂れ流した。ダムが決壊したかのごとき大洪水だ。
光は同情したが、あいにく心までは動かなかった。数百万円の品をタダでは返せない。
「栗音ちゃんは何歳? 時計を買い戻せるアテはなさそう?」
「今日、高校を卒業しました」筒を持った手で涙を拭う栗音。「四月から就職します」
「働くんだ?」
「家計が火の車なので……少しでも早く働いて、稼がないと」
とても社長令嬢とは思えない実情である。
「自腹で時計を買い戻すとしても、すぐには無理そうね」
「そ、そこを何とか!」
「悪いけどお金にはシビアよ。あたしたちも苦労したもん……店を開くとき借金したし」
光は苦々しく言い淀んだ。思いがけず自分の過去に触れてしまう。これは栗音の興味を引いたようだ。
「店員さんも昔、何かあったんですか?」
「ま……まぁいろいろね。あたしのことはどうでも良いじゃない」
「っ!! 人の話を聞いておきながら自分はだんまりですか? ずるい!」
「え~、ずるいと言われても……」
「これじゃ時間の無駄です! もういいです! さよなら!」
栗音はへそを曲げてしまった。せっかく距離を縮めたのに、元の木阿弥だ。
踵を返した栗音は大股で店を遠ざかる。並木道の下で、小さく捨て台詞を残しながら。
「私は諦めない……必ず時計を取り戻すわ……たとえ非合法だろうと何だろうと!」
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