1.ボクは保健室の先生が好き
ボクは保健室の湯島泪先生が好きだ。
好き、では語弊があるかも知れない。
憧れ……?
そう、憧れもある。
泪先生は四月から、ボクが在学する私立朔間学園高等学校へ赴任して来たばかりなんだけど、ボクは彼女を一目見た瞬間から心を奪われた。
先生は可愛い。かつ妖艶だ。
年齢は二〇代後半。小柄かつ華奢な双肩は思わず抱きしめたくなるし、滝のように腰まで流れる黒髪は一日中撫で回しても飽きそうにない。小顔な目鼻立ちはボクたち高校生と大差ないくらい若々しい。指先のか細さと言ったら、白魚なんて比較にもならない。
(保健室の先生……正確には『養護教諭』って言うんだっけ?)
養護教諭とは保健室で待機し、生徒たちの怪我や病症を診る職業だ。
その際、保健室で処置しきれないときは専門の病院など医療機関への連絡も行なうし、生徒のみならず教員たちの健康を診ることもある。
加えて『保健主事』という管理職を兼任することも多く、校内の水質調査、空気調査、日照調査と言った、環境や衛生の状況把握と維持を担っている。
(うちの高校って、ちょうど去年、前任だった養護教諭が定年退職したんだっけ。おあつらえ向きに泪先生を雇う余地が出来たわけだ)
朔間学園は中高一貫で、それぞれの校舎に養護教諭が配属されている。
ボクはこの采配に感激したね。おかげで泪先生に巡り会えたから。
まさに、この世の春。
今は四月だけに、春。
ちなみにボクは当年とって一七歳の高校二年生。実は先月、春休みに嫌なことがあったんだけど、泪先生と知り合ってからは少しずつ元気を取り戻すようになった。
どんなに鬱気味でも、保健室で泪先生に接すれば元通りになる。
我ながら単純だね。
恋の力って凄いな。
「今日も気分が優れないから、保健室へ行こう。早くしないと気が滅入る……吐き気がする……お腹も痛い……体がだるい……足取りが重い……」
だからボクは、今日も今日とて教室を抜け出す。
心因性のストレスが云々って言われているけど、別に治らなくても構わない。だって、治ったら泪先生に会う口実がなくなるじゃないか。
とはいえ、最初は本当に学校が苦痛だったんだ。僕は春休みに『トラウマ』を抱えるほどの衝撃的な体験をして、通学が辛くなった。そこで保健室に駆け込んだのが馴れ初め。
「失礼します」
ボクは学校指定のジャージ姿で、保健室の引き戸を開けた。
ジャージの方がベッドで横になりやすいからね。ファスナーも全開にした楽な格好で、僕は勝手知ったる足取りで敷居をまたいだ。
見慣れた内装が眼前に拡がる。白いリノリウムの床、白い壁紙、白い天井、白いカーテンで仕切られた白いシーツのベッドが二台。スチール製の本棚に収納された医学書やら学校指導要領やら作業書やらが壁際にある。窓際には執務用のデスクと椅子が見えた。
そこに座る、背の低い美女。
白いブラウス、黒いタイトスカート、白いニーソックス。その上から白衣を肩に引っ掛けている。今日も綺麗だなぁ。眼福、眼福。
「湯島泪先生」
「ん? あ、また君か~。今日も体調が悪いの?」
泪先生の心地良いソプラノボイスが、室内に染み渡る。
福音だ。外見が可愛ければ声も可愛い。
ボクは天にも昇る幸福感に満たされたけど、それを気取られるのも恥ずかしいから平静を装って――多分バレバレだったと思う――、おぼつかない挙動でベッドに進んだ。
二台あるベッドのうち、手前にあるベッドはボクの特等席みたいなものだ。
最近はほぼ毎日、ここで休ませてもらっている。
泪先生もボクの到来に慣れ切った様子で、黙認してくれている……と思う。もしかしたら、裏でブラックリスト入りしているかも知れないけど。本当に具合が悪いのか、サボりなのか、教員に報告するのも養護教諭の仕事らしいからね。
目が合うと、泪先生は微笑んでくれた。
ああ、やっぱり優しい。
「君、いつもジャージ姿で保健室に来るのね~」
「だって、制服でベッドに寝たらシワが付いちゃうじゃないですか」
「あはは~、保健室で寝ること前提なのね」
「あっいや、そういうわけじゃないんですけどっ……」
ボクはベッドの前で振り返り、ファスナー全開のジャージを揺らしつつ頭を下げた。
泪先生はちょっとだけ目を丸くしてから、ボクを手で制するんだ。
「かしこまらなくても良いわよ~。校長からも、君の扱いは丁寧にって頼まれてるし~」
「そうなんですか?」
「ま~ね。春休みに嫌なもの見ちゃったんでしょ? みんな同情してるのよ」
意外だった。だから頻繁に教室を抜け出しても、お咎めなしだったのか。
いや……単に腫れ物に触るのが嫌で、ボクを泪先生に押し付けているのかも知れない。
「君さ~、春休みに『トラウマ』が出来ちゃったんだっけ?」
泪先生はくるりと椅子を回転させて、ボクと正対した。
ああ、真正面から眺める泪先生は本当に均整の取れた美人だなぁ。しかも足を組んで座っているから、その、細い脚線美が強調されて、目のやり場に困る。
「はい……ボクは自分が思っていた以上に軟弱で、心がもろかったみたいです」
「その口調も、無理して精神を取り繕ってるように聞こえるね~」
「え?」
ボクが目を見開くと、泪先生は試すような眼光をボクに差し向けて来る。
見透かすような、心を覗くような。
ボクの本性を丸裸にするような。
「君の喋り方、かなり無理してな~い? ボクっていう一人称も、すごく堅苦しい言い方になってるよ? 本来は別の一人称を使ってたんじゃな~い?」
この人、凄い。
読心術でも身に着けているのか?
ボクは柄にもなくドギマギしてしまった。
せっかく憧れの泪先生に見つめられているのに、目を合わせられない。しどろもどろに視線を泳がせてしまう。ああ、もったいない。
――確かにボクは『僕』でも『ぼく』でもなく、カタコトで無理やり発したイントネーションの『ボク』と名乗っている。
それは虚勢であり、自己暗示だ。
そうやって自分をカモフラージュしないと、心の重圧に押し潰されそうだったから。
「あ、あの、ボクはっ」
ボクは身振り手振りで語り出す。そのたびにファスナー全開のジャージがゆらめいた。
泪先生はやんわりと頬骨をゆるめ、黙って聞いている。
「ボクは、春休みに大切な友達を、幼馴染を喪って、それでっ」
ボクはベッドに座ることも忘れ、いつの間にか泪先生との距離を詰めていた。
接近して、肉迫して、顔が近いのもお構いなしに、必死の訴えを、懇願を、心にわだかまっていた鬱憤の一切合財を、吐き出そうと発奮した。
でも――。
「は~いそこまで。ちょっと落ち着こうね」
泪先生が人差し指を一本立てて、ボクの目の前に持って来る。
ぐっ……まるでお預けを喰らった犬みたいに、ボクは口をつぐむしかない。
泪先生はときどき、とても意地悪だ。
「君の悩みがとても深いことは伝わってるよ~」
「だったら――」
「だから今日は私じゃなくて、もっと専門の人を頼ってみない?」
「え、専門?」
ボクはまぶたをしばたたかせた。
「そ」人差し指をくるくる回す泪先生。「君は仮病でもサボりでもなく、本当に心を痛めてる。となると、私の診察では手に余るの。しかるべき専門家と連携を取るべきよ~」
専門家って誰だろう?
ボクには見当も付かなかったよ。
生徒の健康を司るのは保健室じゃないのか? 事実、ボクの心は泪先生に会うと癒されるんだ。ボクにとってはここが天国なのに。
(まさか、医者を紹介されるのか?)
保健室では手に負えない病状の場合、病院や専門機関へ運ばれることがある。
うーん、困ったぞ。それだと泪先生に会えなくなってしまうじゃないか。単にボクのわがままだけど。
「君も付いて来て~」
泪先生は起立した。軽やかな足取りで保健室を出て行く。
「どこへ行くんですか?」
「だから、専門家の所よ~」
「校内に居るんですか?」
「そ~よ」あっさり頷かれるボク。「君の症状は精神的な体調不良だもん。ならそれは、週に一度学校を訪れる『心の専門家』――スクール・カウンセラーに診てもらうべきね」
「スクール……カウンセラー?」
何だっけ、それ。
ボクは呆然と立ち止まり、置いてきぼりを喰らいそうになった。
泪先生は構わず廊下へ出て行く。ま、待って下さいよっ、泪先生~っ。
*
スクール・カウンセラーとは、学校におけるメンタル・ヘルス・ケアを担当する、いわゆる『お悩み相談室』だそうだ。
この高校にそんなものがあったなんて……認知度が低すぎる。
少なくともボクは知らなかった。他の生徒たちだって似たような認識だろう。
実際、利用者はまだまだ少ないのが現状のようだ。毎日常駐する養護教諭と違って、スクール・カウンセラーは週に八時間しか出勤義務がないらしい。
週に一日ぽっきりだ。
道理で馴染みが薄いわけだ。
おまけにスクール・カウンセラーの配置は公立校における文部省の方針であって、私立校への配備は後回しにされた歴史がある。
当然、私立朔間学園は公立校より遅れて導入された。生徒側も不慣れで、他人に悩みを打ち明けるのは勇気がいる。
どんなに相談内容を守秘すると言っても、スクール・カウンセラーには学校側へ報告義務があるだろう。悩みの原因がイジメや教師のパワハラなど学校問題に直結する場合は、間違いなく報告される。
プライバシーなんて守られない。
なおさら利用が億劫になる。
週イチしか来ないカウンセラーと、信頼関係なんて築けっこない。
また、泪先生がおっしゃるには、スクール・カウンセラーは非常勤扱いだから本職を他に持っている人が大半らしい。
本職……精神科医だったり、臨床心理士だったり、大学で心理学を教えたり、各種研究機関に携わったりなど。
ゆえにカウンセラーは片手間だ。本腰入れて相談に乗ってくれるとは思えない。
「君は運がいいよ~。ちょうど今日から、私と仲良しのスクール・カウンセラーが覇権されることになったの。もはや運命よね~」
案内する泪先生は、いつもより心なしか声が弾んでいた。歩調もスキップと見まがうほど浮かれている。
何がそんなに嬉しいんだろう?
スクール・カウンセラーとやらが、それほどまでに傑物なのか?
「さ、着いたよ~」
職員室のさらに奥、校舎の片隅にあてがわれたその部屋は、ぽつねんと入口のドアを一つ設けていた。
『心理相談室』
という表札が、雑な手書きで申し訳程度に提示されている。
ここか……。
こんな場末じゃ、一般生徒はまず気付かないよ。大半の人は、手前の職員室までしか足を踏み入れないからね。とにかく存在感が希薄だ。
ボクはジャージの襟を正して、泪先生に向き直った。
「ここに、心の専門家がいらっしゃるんですか?」
「安心して。その人は公認心理師、臨床心理士、心理学博士号まで持ってるから~。いつもは大学で教鞭をとってるんだけど~、私のお願いでここへの派遣を即諾したのよ!」
「はぁ」
「即諾って凄くない? 二つ返事よ、二つ返事! 神よね、神神。きゃ~、私のお願いを即座に了承してくれるなんて、これってやっぱり運命だわ~、きゃ~」
……な、何を言っているんだ……?
泪先生、急に一人で舞い上がり始めたぞ。両手で頬を覆うと、くねくねと腰を振っている。
妖しい匂いがする……。
もしかして、そのカウンセラーって人は、男……なのか?
泪先生がここまで惚れ込むほどの人物。
だとしたら、別の意味でボクの心が病みそうなんだけど……。
「あの人も速攻で校長にかけあって、スクール・カウンセラーの手続きを組んだわ。そしたら今日、さっそく出勤したってわけ! あ~ん、これで週に一度、あの人と同じ職場で同じ空気を吸って暮らせるんだわ~。幸せだよぅ」
あ……駄目だ。
泪先生、ここではないどこかを幻視している。み、見なかったことにしよう……。
「失礼しま~す、やっほ~来ちゃった~!」
泪先生が飛び込んだ相談室内は、十畳に満たない空間だった。
応接用のソファとテーブルが中央に置かれ、正面奥にはデスクとアームチェアがあるばかりだ。
ウッディな本棚もあるにはあったけど、収納されている文献は少ない。あまり利用されないせいか、閑散としているのも合点が行く。
「やぁ、来たね」
アームチェアから、人が立ち上がった。
なぜか左手にステッキを持ち、軽やかにこっちへ歩いて来る。
よく見ると、左足首が機械音の伸縮を伴っていた。
(あれって……義足か?)
その人は案の定、男性だった。ボクは心の中でカチンと来る。ズキンとも痛んだ。
男性は、泪先生と同じ二〇代後半くらいで、顔立ちの似た眉目秀麗な御仁だった。身長は高くない。その代わり少年のようにしなやかな体躯と、透明感のある声が、ボクを清涼感で満たそうとする。
何だこれ……油断すると呑まれそうになる。
彼の庇護下に入れと、空気が訴えている。心を許し、ゆだねろとオーラが出ている。
「君が相談者だね? 僕は湯島涙。普段は大学で心理学講師をやってるよ」
――僕。
とても自然な『僕』。
堅苦しい『ボク』ではなく、使い慣れた自然な言い回しの発音だ。
(ん? この人も『湯島』って名乗ったぞ……泪先生と同じ苗字を!)
苗字が同じってことは、まさか、け、結婚…………しているのかっ……?
(夫婦なのか、この二人?)
「うわ~い、会いたかったよぉ」
泪先生が、ボクとカウンセラーの合間へ割り込んで来た。カウンセラーの手をギュッと掴んだかと思うと、あまつさえ手繰り寄せて熱い抱擁を交わしたじゃないか。
だ、抱き合っている……!
ガーン。
これはもう、決定的なのでは……。
「こらルイ、あまりくっ付くんじゃない」
「だぁって~、私の勧めでカウンセラーを引き受けてくれたことが超絶嬉しくてたまらないの~。私もう興奮しすぎてイキかけちゃったわ。すりすり。えへへ~」
も、物凄い甘え方だ。
男性も『ルイ』って気安く呼び捨てているし……。
間違いない……これは夫婦だ……。
いけない、ますます気持ちがへこんで来た。
ボク、もう帰ろうかな……。
「君、どこへ行くんだい?」
退室すべくジャージのすそを翻したボクに、カウンセラーが声をかけた。
うるさいなぁ……と思った瞬間、今度は泪先生がボクの眼前へ回り込んだ。さっきまで男と抱き合っていたのに、変わり身が早すぎる。
「帰っちゃ駄目よ~? 君に逃げられたら私の面目が立たないでしょ~?」
「心配する所、そこですか」
「あ、つい本音が~……ってのは冗談だけど、とにかくこの人に相談すれば絶対確実に心の闇を払って解決できるから! 私が保証するから! ね?」
「はぁ……」
盲信的な勧誘に、ボクは内心引いていた。
何にせよ、言われるままボクは座るしかない。逃げ場はもうない。
ここまで来たら腹をくくるしかないか……あ、このソファ柔らかい。気持ちいい。
「信用してないみたいだね」
テーブルを挟んだ向かいのソファに腰かけたカウンセラーが、ボクの思惑を見抜いたようなことを呟く。
確かに信用してないけど。
初対面の相手を信用しろっていう方が、普通は無理だと思うけど?
「警戒心が強いのは賢い証拠だ。かと言って、人見知りでもないようだ。君はとても利発だし、思慮深いし、頭の回転も速い方だね。成績は上位で、人付き合いも狭くはない。ただ、運動は苦手かな? 頭で考えるタイプだから、咄嗟に体が動かないし、自制心が強すぎて口調もぎこちない。違うかい?」
「な、なんで判るんですか! ボクの喋りがぎこちないことまで……」
「簡単な心理分析だよ。君の仕草や態度、身振り手振り、視線、口調、語彙……目は口ほどにものを言うけど、目だけじゃない、人は全身で心理を体現する生き物だ。心理学の統計や傾向から推察し得る、最もよくある性格パターンを選出してみたんだよ。警察はそれを『プロファイリング』として犯罪捜査に利用してるね」
「大体当たっています……でも、ますます怖くなりました。話しづらいな」
「無理もない。悩みを吐露するのは抵抗があるものだ。最初の一言を切り出せず、尻込みしてしまうのはよくあることさ。あるある」
「けど、ボクは――……」
などとボクが言い淀んでいると。
「じゃ~お二人さんごゆっくり~。ちゅっ」
泪先生がひらひらと手を振って――ついでにカウンセラーへ投げキッスして――相談室から出て行ってしまった。
え。じゃあ今から、ボクとカウンセラーの二人っきり?
ますます居心地が悪いんだけど……。
「遠慮せず話してごらん」身を乗り出すカウンセラー。「君が全てを告白したとき、あらゆる心の負荷が軽減されることを約束しよう」
「ボクは……ボクは……」
「この世の全ては心理学で説明が付く。なぜなら、森羅万象は『人の心』が観測することで意味を成すからね。当然の帰結だろう? うん、あるある」
*