「猪倉」
「……はい?」
猪倉と呼ばれることに慣れていなくて、反応がしばし遅れる。
兄に早く文句を言いたくて帰りを急いでいた私を副担任の斎条先生が申し訳なさそうにひきとめた。
斎条先生は兄と同じ二六歳の国語教師だ。二年前にこの高校に赴任して以来、生徒人気ナンバーワンをひた走る。流行りの塩顔系の俳優に似ていると、女子生徒からはもっぱらの評判だ。兄とは違い、働いているという点においても私からの好感度も高い。
「これ、悪いんだけどお兄さんに渡してもらえるか?」
「なんですか?これ?」
斎条先生は一通の茶封筒を私に渡してきた。
「猪倉のお兄さんが作った授業で作った詩だよ。先週、国語準備室の大掃除をしていたら見つかったらしい。昔、返却するのを忘れたようだな」
国語科で一番若い斎条先生はよく諸先生方から雑用を仰せつかっている。この茶封筒を私に預けにやってきたのもそのひとつだろう。
「詩ですか?」
兄が在籍していた当時のことを知る先生はまだ多い。図らずも兄と同じ高校に入学してしまった私だが、そのおかげで先生方からの覚えもめでたい。
今は見る影もないが、昔は開校以来の天才と呼ばれそこら中でブイブイ言わせていたらしい。化けの皮が剝がれる前の優秀だった当時の遺物なんて貴重な代物である。
好奇心に負け茶封筒を開けようとした私を、斎条先生が苦笑しながら制する。
「くれぐれも中は見ないようにな」
「わかりました。兄に渡しておきます」
私は心得たとばかりにニコリと笑って頷くと、茶封筒を通学バッグにしまった。
斎条先生と別れ昇降口で靴を履き替えて校門から外に出ると、速攻で茶封筒を開けてプリントを引き抜いた。
先生の監視の目が届かないところに出てしまえばこちらのものだ。
(まあ、見るなって言われても見るよねー)
よりにもよって私に渡すなんて先生ったら、あ・さ・は・か。これはどうぞ見てくださいと言っているのも同然だ。
あの兄の妹である私が先生の言うことを素直に聞く優等生のわけないじゃん。
「えっと……。どれどれー?」