そんな無味乾燥な日を繰り返し、およそひと月たちました。

 学校からの帰り道、一人でふと空を見上げると、満月がまたしても浮かんでいました。

――あの神社へ、行ってみようかしら。

 そんなひらめきが頭をよぎりました。
 思い出すのは、一ヶ月前の神社で出会った瑛さん。

 あのとき瑛さんは闘争の準備で学生アジトを出ることはかなわなかったはずです。
 だから私が見た瑛さんは、瑛さんであるはずがないのです。

 子どもの頃祖母に聞かされた話を思い出しました。

『狐さまがな、おなごの思いに応えるんや。満月の夜だけに、会いたいもんの姿を借りるんや。それと出会えるちゅうことは、それだけおなごの気持ちが強いと言うことや。狐さまは、おなごの味方なんや』


 満月の夜だけに優しい嘘をつく狐。

 たとえ嘘でもいい。
 私は、瑛さんを一目見ることさえ出来れば、それでいい。


 稲荷神社の境内へ足を踏み入れると、ひんやりとした風が私を包みました。木々がざわざわとさざめき、月光がちらちらしました。
 私以外には人の姿は見当たりません。神主さんの姿もありません。都心とは思えない静かな空間です。

「瑛さん。逮捕されるだけで済むって思っていたなんて。あなた、馬鹿よ」

 まるですぐそばに彼女がいるかのように、私は話しかけてみました。

 するとひときわ強い風が、境内を吹き抜けました。
 風がやむと、月の光がさっきまでよりほんの少し強くなったような気がしました。

「まさか死ぬなんて私だって思ってなかったわよ」

 私の背中にぴたりと背中を合わせたようにして、瑛さんが返事を寄越しました。
 瑛さんの背中はほの温かく感じられました。

――まるで、生きているみたいだわ。

「だってあなたは女の子なのよ。機動隊の力にかなうはずがないわ」

 こぼれそうになる涙を抑えるかのように、私はわざと馬鹿にしたような口調で応じました。

 あら、私ったら品がない女の子だこと。

 でもこれは瑛さんが私と過ごした時間の証です。

「女の子だからってひとくくりにされたくなかったのよ」
「そうね、それが瑛さんのポリシーだものね」
「女性だって自分らしく生きられる時代がきてほしい。それが私の願いよ」

 背中で彼女の息づかいを、心臓の鼓動を、熱く燃える志を感じずにはいられませんでした。

「後悔してない?」
「後悔なんてしないわ。――あんたが、私の志を引き継いでくれればね」
「引き継ぐ? 私が!?」

 声が裏返りました。
 しかし、どれだけ驚いても私は背後を振り向くまいと決めていました。
 振り向けばたちまち瑛さんが消えてしまう気がしていたのです。

 あたふたしている平凡な少女に与えられたのは、こんな言葉でした。


「あんた以外に頼める友達が私にいると思う?」


 その言葉は、考えられる限りで私に瑛さんが与えられる最高の言葉でした。


「……いないわ。私と瑛さんは、最高の友達だもの」

 こらえきれなかった涙が一筋、私の頬を伝いました。うつむき、ハンカチで涙を拭うと、足下が見えました。

 月明かりでできた影。

 一人分の影しかない地面。

「その通り」

 ゆっくりと、瑛さんが首を縦に振る気配がありました。

「私の志は、あなたの中で生き続ける――任せたわ」

 それは、ふぬけになった私を再び立ち上がらせるには十分すぎる、力強い言葉でした。

「「今まで、ありがとう」」

 二人の声がぴたりと重なった直後でした。

 みたび、強い風が吹いたかと思うと、背中にくっついたいたはずの温もりは、霧のように消えてなくなっていました。

 ゆっくりと振り向くと、

――狐だ。

境内の奥の森へと駆けてゆく狐の尾が見えるだけでした。

 背中で感じていたはずの温もりは、いつしか私の胸の奥へと場所を移動したようでした。


――瑛さん、あなたは私の『ここ』にいるわ。






 1969年の出来事でした。





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