暴力のことはすぐさま学校に知られてしまい、とうとう私は「不良少女」への第一歩――反省文の提出と、5日間の自宅謹慎を命じられました。
 聞くところによると、曽根は事件翌日に学校に通報したようです。よほど私のことが気に入らなかったのでしょう。

 通報することで気が済んでくれたのならそれでよかった、というのが私の本年でした。
 むしろ学校にも言わず個人的な復讐に来られる方が厄介だったのです。
 まあ、曽根のことですから自らの手で私を殴るようなことはしないというのが私の予測でしたが……。

 初めて問題を起こした私に、母は泣き崩れていました。
 今思えばずいぶん親不孝なことをしたと思います。


 謹慎中、自宅で私は『例のもの』を毎日読み返しました。

『例のもの』というのは――”革命”の計画書の一部でした。

 曽根がポケットに入れていたそれが、殴った直後にひらひらと落ちていたようです。
 それを私は自分の落とした成績表か何かと勘違いして、家に持って帰っていたのでした。
 担任教諭の叱責のことなど、もう記憶にはありませんでした。私にはそこまで反省すべきことがあるようには思えなかったこともその理由ですが、それ以上に革命計画書の方に夢中だったのです。謹慎中、私は手を震わせながら計画書を熟読しました。

 そこには1969年○月△日に、F女学院すぐそばのJ大学の講堂を占拠した上で自分たちの政治的主張を世間に訴えかけ、世論を変えていくという主旨の計画が事細かに書き込まれていました。

 しかし残念ながらその多くは私の知らない言葉であり、理解の及ばない部分も多く、結局のところ曽根たち学生団体が何を世間に訴えかけたいのかは疑問でした。

 曽根純夫という男は一体何もので、何をなす男なのか。
 実は、空虚な男なのかもしれない。

 そんな考えさえよぎるほどでした。

 謹慎2日目、自宅の電話が鳴りました。それは2コールで鳴り止みました。専業主婦の母はいつも電話は3コール以内に取ることを心がけていたのです。父親の仕事関係の電話も掛かってくるためでした。
 しかしその日掛かってきた電話は、母宛でも父宛でもありませんでした。

「皐月、お友達の神宮司さんからお電話よ」

 おや、と私は首を傾げました。
 神宮司さんは私のクラスの委員長です。優等生として学院内にその名をとどろかせている、超お嬢様です。
 ただ、顔見知りではあるもののほとんど言葉を交わしたこともなく、「友達」と呼べるほどの関係性ではありません。
 そんな神宮司さんが私に電話を掛けてくる理由があるでしょうか?