瑛さんが毎日登校するようになってひと月ほど後のことでした。

 その日、たまたま私は学校に一人残って先生と二人で懇談をしなければならない日でした。やや私の成績はその頃落ち気味でした。いくら高望みをしていないとはいえ、このままでは大学進学が危ぶまれる成績で、そのことで小言をひとしきり言われていたのです。F女子学院卒業生として品位を損なわない進路に進んでほしいというのが担任教諭の主張でした。
 教諭は次のように私の学業不振を分析しました。

「阿方瑛子と関わるようになってから成績が落ちたんじゃないですか?」

 返事をする気にもなれませんでした。彼女たちは阿方瑛子が不良少女だと頑なに思い込んでいるのです。

 きっと瑛さんがこの懇談内容を聞けば激怒するだろうなと一人苦笑しながら校門を出たときには、時計は午後六時半を回っていたように思います。季節はすっかり冬でしたから、外は真っ暗です。寒さに私は肩を縮めました。
 ふと、私の目の前を人影が横切りました。それは、

「あれ、あんたは――瑛子の友達、だっけ?」

以前神社で見かけた男子大学生・曽根純夫でした。

 しかしよく見ると人影は一人ではありませんでした。傍らに、私よりほんの少し年上に見える、きっと二十代前半であろう女性が、ぴったりと曽根に体を寄せているのでした。あたかも「寒くてあなたにくっついていないと耐えられないわ」とでもいうように。
 嫌な感じがしました。瑛さんはもう彼と一緒には住まず実家に帰っているという話ですから、曽根がどのような生活をしていようが私の知ったことではありません。

「……はい」

 言葉を交わすつもりはありませんでしたが、渋々答えていました。

「やっぱそうだよな」
「ねえ、瑛子って誰よ」横にいる女が不満そうに口を挟みました。どことなくうらぶれた路地を思わせるはすっぱな女性です。
「うるさい、先に家に帰ってろ。……瑛子がうちから出てったのはあんたが何か吹き込んだからか?」
 高慢な態度が目障りでした。
 女を見下げた態度。自分が男であるというおごり――。
 そういったものが彼からはぷんぷんと漂っていました。

 何が革命だ。何もあんたたちは変えられやしない。

「……」
 そんな思いで私は黙っていました。
 すると退屈そうに曽根はあくびしました。
「ま、どうでもいいけどさ。俺らの団体ってこのへんじゃちょっとした有名人だから、女には困らないし」

 それはちょっと聞き捨てならないせりふでした。
 女には困らない?
 つまり、それって――。

「それってどういう意味ですか。この前はお二人の関係は同士だって言ってたじゃないですか」

 瑛さんは、曽根の恋人だったということなのでしょうか?

「そんな嘘をそのまま信じるなんて、ほんとあんたらはオジョウサマだな。いつかもっとでかいことで騙されるよ」

 頭の中が真っ白になりました。怒りで全てが吹っ飛んだように思いました。

「ひどい。さっきの女の人は瑛さんの代わりだってことですか?」

「瑛子程度には顔も整っているし、瑛子よりは従順だぜ?」

 ふざけんじゃないわよ――今まで使ったことのなかったような言葉が、胸の中に浮かんだと思った、その直後。


 彼は鼻から血を垂れ流して、路地にうずくまっていました。


 人生で初めて、私は人様の顔を殴ったのでした。
 自分の意外に強い腕力を知ったのはその時でした。

『井嶋さんは、ここのところめっきり成績が落ちているけれど、一つだけ褒めていい教科がありますね』

 私はさきほどの担任教諭の言葉を思い出していました。

『あなた、体育だけは学年で――というか、これまで見てきた生徒の中で、一番なのよねえ』

 教諭から褒められたその言葉を思い出し、私は全速力で家へと駆け出しました。