「この例えは、とてもわかりやすいから、他の様々な事象の説明にも使われるのよ」
 紗枝さんが言うには、歌の実力も、何か足りていない要素があるとそれが足を引っ張って、全体が伸びないことがある、というのだ。
 僕の歌声も、ドベネックの桶のように部分的に何か足りていないだけのか、それとも、初心者のように大半の要素が実力通りなのか――ドベネックの桶だと、思いたいけれど。
「歌声の場合、構成要素が『人そのもの』と言っても言い過ぎじゃないんだから、思いもかけない分野の要素で複雑に桶は構成されているものよ。話すことは、歌うこと同じ仕組みを共有する、歌のドベネックの桶の重要な一部だから、話し声に問題があるとしたら、その影響でなかなか歌も上達しないのは当然。だから、そこが解決すれば急速に歌えるようになるかもね」
 やはり、最後の最後まで立ち塞がる話し声の壁。結局そこに行きつくのか。でも、話し声の問題が解消すば、桶の板が揃って水位も上がるのかもしれない。
 先ずは気付いた。問題はどうやって――
「一つ、アドバイスをするとしたら、『息』を意識することね。声は息を使って出すものだから。ギターだと『弾く』の部分よ。弾き方が弱いと弦は鳴らないでしょう? 声を気にして普段から思い切り声を出せないあなたは、おそらく息も、外に出すのではなく内側に引いちゃってる可能性があるわ。息は呑み込んじゃダメ。外に向かって吐き出すの。特に、伝えたい想いは、ちゃんと息に乗せないと――伝わらないわ」
 言われてみると、心当たりはある。僕の声が届かない気がしていたのは、実際にそのせいなのかもしれない。
 ただ問題は、自然な音域の声を、無意識の自分がいまだに拒絶し続けているということである。例の悪夢は依然として現れているのだ。あの場所にいる、あいつを何とかしなければ、おそらく根本的な問題は解決しない。でもそれは、わかっていてもおそらく、今の自分ではどうすることも出来ないことなのだ――
 なんとも表現し難い虚無感に襲われ、僕はそのまま黙り込んでしまった。
 すると紗枝さんは僕の手を取って、ゆっくりと、力強い口調で言う。
「過去の記憶からあなたを救ってくれるのは、今、あなたに関係している誰か、よね?」
 また、謎かけだろうか? 
「今夜は満月よ。きっと、うまく行くわ。大丈夫。がんばってね」
 そう言って紗枝さんは、意味深に笑った。