店内が騒めいた。深川先輩がフルートを手に、マスターの横に立っているのだ。「紗枝さんに頼まれて」一曲、フルートで参加するという。僕も知らなかったサプライズ演出である。
 曲は、荒井由実の「あの日に帰りたい」だった。
 マスターが小さくカウントを刻み、ボサノヴァのガットギターの伴奏に、深川先輩のフルートがイントロのメロディーを歌う。前奏のブレイクが静かな余韻を残した一拍後に、紗枝さんはささやくようにAメロを紡ぎ始めた。すぐにマスターの抑えた音色のリズムが背後に回って行く。絶妙のコンビネーションである。この二人はいったい、どれだけのキャリアを共にしているんだろう。サビに入ると、深川先輩がゆっくりとフルートを構え、目を閉じた。一番の終わりのブレイク直後からが、深川先輩の見せ場であった。
 ややベースラインを強調したマスターのギターに乗って、深川先輩のフルートが、最初は遠慮がちに、そして次第に自由自在に踊りだす。これは――アドリブなんだ! 両手の指が素早く滑らかに動き、自身の演奏に合わせて、深川先輩は体を激しく揺らす。こんな深川先輩を今まで見たことがない。アドリブ演奏の最後、と思われるフレーズから通常の間奏メロディーに着地すると、誰もが惜しみない盛大な拍手で讃えた。拍手はなかなか鳴り止まない。深川先輩は驚いた表情で、そしてゆっくりとお辞儀をした。本来、すぐに入るはずの二番だが、拍手が収まるまではマスターのギターだけがリズムを刻んでいる。織り込み済みなのだろう。紗枝さんのアイコンタクトで、何事もなく二番が再開される。サビのリフレインから、今度は紗枝さんの歌とフルートが呼応し合い、そのままフルートがエンディングを奏でた。そして最後はマスターのギターと共に静かにフェード・アウトして行く。余韻が消えた直後に、再びの大拍手が降り注ぐ――
 凄い演奏を聴いたのかもしれない。
 全体を通しては一回しか合わせていない、という深川先輩の不安を全く感じさせない、安心感はマスターの伴奏のおかげだろうか。いつにもまして伸びやかで情感たっぷりのフルート演奏はもちろん、初めて聴いたあの情熱的なアドリブが耳を離れない。紗枝さんの歌は一級品だし、マスターもギター一本の伴奏とは思えないほどに、多彩な音が自在に紡ぎ出されていた。それぞれの個性が引き立てあうというのはこういうことか、という見本のような演奏であった。
 僕ではここまで深川先輩を輝かせられないだろう。明らかに技術的なレベルの差を感じる。それでも、深川先輩は僕なんかともユニットを維持してくれている。
 尋ねたことがあった。深川先輩のフルートにはしっかりとしたクラシックの素養がある。こんな言わば遊びのサークルじゃなくて、もっと本格的な方面、楽団とかで活動できそうなものをどうして、と。答えは「こっちが楽しいから」の一言だったのだ。