赤いストラップのミュールが、行儀よく揃えて置かれている。片岡詩葉(ことは)は橋の細い手すりの上に立ち、タールのように暗く重たく流れる川を見下ろしていた。昼の蒸し暑さを残した生ぬるい風が、夏らしいストライプ柄のスカートを揺らしている。真夜中をとうに過ぎた街は静まり返り、時折、一つ先の国道に架けられた大橋を渡る高速のホタルが視界の端をかすめていく。


「これで、終われる――」


 詩葉が呟き、ゆらりと力を抜いた、その瞬間。


「ダメだ!!」


 川の方へと傾いて落ちるはずだった詩葉の体は、若い男の声と共に橋のアスファルトへと向かって落ちた。


「痛ったあ! ちょっと、何するんですか! あいたた……」
「今、死のうとしてただろ」
「そうですが何か!? 邪魔しないでください!」
「死んだらそんな痛みじゃ済まないんだぞ」
「死んだら痛みなんか感じませんが何か!?」
「死に切れなかったら痛いぞ? あちこち傷だらけで寝たきりで、死にたくても死ねないぞ」
「……」


 急に腕を引かれて無理な姿勢で着地したせいで、詩葉は足首を痛めたようだった。死ぬ覚悟だった詩葉が足首を庇うように擦る姿は、少し滑稽にも見える。


「だいたいなぁ、自殺するってことがどういうことか分かってるのか」
「私が死のうが生きようが、あなたに関係ないですよねっ」


 命の大切さについてとかなんとか、そういう類の説教が始まるのかと、詩葉は身構え、痛みと怒りに任せて興奮気味に返事をした。


「君は死んでしまえばそれで終わりかもしれないが、こんなところで死んだらすぐに誰かが見つけるだろう」
「は?」
「せっかくの爽やかな朝に君の死体を見つけた人はどうなる?」


 ところが男は橋の手すりに寄り掛かり、どこを見るでもなく空を見上げて、飄々とした口調で別のことを語り始めた。


「サスペンスドラマなんかでたまに見るだろうけど、本物の死体はあんな綺麗じゃないぞ。特に水辺のは」
「……」
「しかも今夜は熱帯夜で、明日も朝から君の死体を太陽が照らして温めるだろう。たった一晩でも全身打撲で水を吸ってたら結構グロいことになるんじゃないかな。ほら、落としたリンゴがすぐ傷む感じみたいな?」


 詩葉は眉をひそめ不快感をあらわにしてに男を睨んでいる。


「やめてください、気持ち悪い」
「気持ち悪い? 俺が止めなきゃ数時間後にはそうなってたってことだよ」
「現状まだ生きてるんで、そういうの聞きたくないです。でもそうですね、見つけた人が気の毒なので、もっと見つからないようなところで死ぬことにします。私なんて生きてても人に迷惑かけるだけですから」


 擦っていた足首が落ち着いたのか、詩葉が立ち上がった。スカートのすそを整えるように手のひらでぱたぱたと二、三度払いながらそう言うと、唇をきつく結んだ。男はさしてそれを気にする様子もなく体を起こし、詩葉にむかって尚も続けた。


「迷惑かけるから死ぬの? それじゃあなおさらダメだよ。死んだら君はまた人に迷惑をかけることになる」
「迷惑? なんですかそれ。親を悲しませるとかそういうことですか? それならおあいにく様ですけど私、両親も祖父母ももうこの世にいないし、他に悲しんでくれるような友人も恋人もいませんから」


 自分には何もないということの再確認をしてしまった詩葉だったが、謎の正義漢をやり込めた満足感でその空虚にフタをして、フンと鼻をならし、姿勢を正した。


「言葉の通りだよ。君が死んだら他人に迷惑をかける。君じゃなく誰であってもね。だいたい、次は君、どこで死ぬつもりなの?」
「それは……、自分の部屋とか? あなたみたいな人に邪魔もされないし」
「はいダメー。超迷惑。自殺者が出た部屋の価値、めちゃめちゃ下がるよ? それに支払い関係引き落としできてたら何か月も発見されなくて、見つかった時には溶けて骨だけになった死体の体液や臭いを吸った床とか壁なんかの総リフォーム代もかかる。最近マンションも借り手市場だからね、オーナーさん超迷惑」
「くっ……」


 詩葉が、唇を噛む。


「じゃあ、雑木林とか、ううん、もっと山奥まで行きます」
「近場はだいたい私有地だよ。持ち主が山菜取りに入って君を見つけたら? 秋になればキノコだって採れる。じーさんたちの楽しみが台無しだな」
「山奥ならいいでしょ! もう、いい加減にしてください」
「職場は? ちゃんと辞めたの?」
「いえ……辞めると伝えれば引継ぎや何やらで2か月は足止めくらうので」
「じゃあダメだよ。出社してこないってなって捜索されてスマホのGPSとかで特定されてヘリとかいろいろでスゴイお金かかるらしいよ、何百万とか何千万とか」
「それならスマホ家に置いて行きます」
「調べる方法なんていくらでもあるからね。現代日本で誰にも見つからず迷惑かけずに死ぬって、結構大変なんだよ」
「もう、放っといてください」
「そういうわけには」


 早くこの場を離れて自殺の仕切り直しをしたい詩葉と男のやり取りは、やや、詩葉の分が悪い平行線のまましばらく続いた。


「そういえばさ、君、今日が何の日か知ってる?」


 このまま不毛なやり取りが続くのかと辟易していた詩葉は、男の突然の切り返しに驚いて、目を丸くした。馴れあう気はないが、もう自殺するタイミングを逃して、男への怒りに似た興奮も褪めている。気が抜けた詩葉は、少し男の世間話に付き合ってやろうと答えを探した。


「七夕……は先週だし、お盆はまだ先だし、知りませんね」
「そっかぁ。今日はね、俺のカミさんが、俺に『赤ちゃんができた』って言った日なんだよ」
「は? そんな個人的記念日、私が知るわけないじゃないですか。はあ、考えて損した」


 靴も履かずに立ちっぱなしだった詩葉は、男の解答でさらに気が抜けたという様子で、橋の手すりにもたれて座り込んだ。それに合わせて、前のめりになっていた男も、その隣に座りなおす。


「で、身重の奥さんひとりにしてお散歩ですか?」
「いや、うんと前の話だよ」
「それにしたって、家族がいるのに随分のん気じゃないですか? こんな時間に」
「家に居たって俺は何も出来ることないしなあ」
「見た感じ、失礼ですがお仕事もされてないような」
「うん。無職。っていうか無色だよ。無色透明」
「透明、ですか……。それは私もなのでなんとなく辛さは分かりますよ」
「ことちゃん、透明なのか……」
「私、名前言いましたっけ?」
「あ、ああ、さっき、そう言ってたよ」
「……言った覚えないんですけど」
「まあ、そこは置いといて。ああ、俺はショウね」


 ショウ、と名乗った男は苦い笑いを浮かべてごまかしたが、それはすぐにマシュマロでも食べたかのような夢見心地の笑みに変わった。


「嬉しかったんだよなぁ。ああ、俺、パパになるんだあ、って。男か女か分かった時からは、嬉しいって気持ちがもっと加速したんだよ」
「へえ。じゃあ今は本当に可愛いくて仕方ないんじゃないですか?」
「うん、すごく可愛いよ。産まれたらお風呂入れてたくさん抱っこしていろんなとこ遊びに行きたいって、ずっと思ってたよ」
「イクメンですねぇ。出来ること、たくさんあるじゃないですか」
「ううん、ないんだよ」
「どうしてですか? それだけ手伝えたら、奥さんだって喜ぶんじゃ?」
「出来ないんだ」
「大きくなる娘を、ずっと見てきた。初めて歩いた日、初めてママと言った日、毎年の誕生日やクリスマスに七五三、入園式に卒園式、お遊戯だって運動会だって、保育園も小学校も、笑顔も泣き顔も怒った顔も、いつもずっと見てたよ。でも」


 ショウは、マシュマロの笑顔のまま、だけどその笑顔はどこか遠かった。


「触れたり、抱きしめたりは出来なかった。俺は、娘が産まれる前に死んでしまったからね」
「え」


 衝撃の告白だったが詩葉は軽く受け流そうと、薄い笑みを浮かべた。


「冗談ですよね? そういうこと言えば私が自殺やめるとか思って」
「自殺は止めたいけど、冗談じゃないよ。俺、いわゆる幽霊。ほら見て」
「いやいや……って、ひっ!」


 見て、とショウが指差したのは地面だった。はじめ詩葉はその意味が分からないでいた。しかし、気付いてしまった。自分の足元にあるものが、ショウにはない。

 橋の手すりから高く伸びるいくつもの電灯が、二人を煌々と照らしているのに、ショウには、影がひとつもないのだ。


「え? え? なんで? ちょっと待って、無理なんですけど」
「無害だよ、安心して」
「そんなこと言われても幽霊とか会ったことないし」


 半身、体をショウから離す詩葉。それを見て、しまったとショウが真顔になるが、時すでに遅し。詩葉はすっかり怯えていた。


「ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだ。でも君と話せたのが嬉しくて、つい」


 ショウの目は、狼狽えていた。予定外の流れだ。遠くから見るだけだったショウがこうして出てきて詩葉の自殺を止めたのは、こんなことになるためではなかった。ただ、必死だっただけだ。


「私と話せて嬉しいって、なんなんですか、自殺するような人間は幽霊と波長が合うとかそんなアレですか、道連れにしようとかそういう……」
「違う。本当に、そんなんじゃないんだ」
「じゃあ何なんですか」


 川面を撫でる風がもうじき朝を連れてくる。朝日が遠くの山から光の矢を放ち始めた。


「それは……言えない。でも君、死のうとしてたなら道連れでも別にいいんじゃないの」
「それとこれとは別です! とり憑かれて殺されるのなんてまっぴら!」
「だから殺さないって」
「来ないで!」


 ショウは、立ち上がり後ずさる詩葉の腕を引いて、その細い体を強く抱きしめた。


「い……たい、痛い、放して」
「ごめん。怯えて震える君にとって、こんなの恐怖でしかないよね。これは俺のワガママだ」
「は……な……」
「遠くから見ているだけで良かったのに、もっと側で君を見たくなった。だから少し近くまで来てみた。そうしたら君が大変なことになってて、出てきてしまった」


 詩葉を抱きしめるショウの体は、温かくも冷たくもなかった。それが人ではないことを更に物語っていて、しかしショウの言葉は切なくて、詩葉は戸惑った。


「本当のことを君に告げたら、俺は二度と君に会えなくなる。だから言わずに去ろうと思ったんだ。でもそれじゃ君は怖い思いをしただけになってしまう」
「泣い……てる?」
「君の名を『詩葉』と名付けたのは俺なんだ。俺が考えた名前を、君の母親(あいつ)が君に授けた」
「え」
「さよなら、ことちゃん。朝日が出たら、俺は消える。どうか生きて、幸せになって」
「え? え? うそ、パパ!? 待って、ダメ、消えちゃダメ!」
「君を抱きしめて名前を呼べた。ありがとう、俺は最高に幸せなパパだ」


 ショウの体が、光の矢を浴びて少しずつ空気に溶けてゆくように薄まっていくのが分かった。朝日が昇ることを止める術はなく、詩葉を包む腕の感触も次第に消えていく。


「パパ!」


 目の前の幽霊が、去年亡くなった母親から、自分が生まれる前に亡くなったと聞かされていた父親と知った詩葉は、水蒸気のように透明で形のない、残像のような姿に向かって叫んだ。

 ショウはそれを聞き届けると、マシュマロの笑顔を残して見えなくなった。

 
***


「行ってきます。っていうか、行こっか。パパ、ママ」


 小さな仏壇に手を合わせ、それを畳んでバッグにしまうと、詩葉は大きなスーツケースを持って家を出た。


「もうちょっと、生きてみるよ、パパ」


 そう呟いて、詩葉はバッグのサイドポケットから航空券を出し、時計と見比べきりりと顔を引き締めた。