文字にすると、全身に緊張が走った。
「なあなあ、セトー」
「っな、なにっ」
突然、斜め前に座っていた友人の米田――ヨネ――がくるりと振り返り、とっさに手元を隠した。心臓がばくばくと音を鳴らす。
「なんだよセト、びっくりしすぎだろ。寝てたのか?」
ヨネがそう言ってぶはははと噴き出すと、先生はこほんとわざとらしい咳をした。けれど、ヨネはそれに気づいた様子をみせない。っていうかいつもヨネは怒られるまで気づかない。
「ぼーっとしてただけ。なに?」
「シャー芯なくなったから数本くれよ」
はいはい、とペンケースから数本のシャー芯を取り出し、ヨネに渡す。
さんきゅうと言って前を見たヨネの背中を見てからはあーっと息を吐き出した。びっくりした。こんなに動揺したのは初めてかもしれない……。
急に振り向くなよ、バカ。
心の中で悪態を吐いて自分の手元を見る。と、ヨネから隠そうとしてルーズリーフのはしを握り潰している気がついた。そっと手を離すと、俺が書いた文字がくしゃりと潰れている。
くしゃくしゃになったそれを見て、机に項垂れる。
授業中になにを書いているんだ、俺は。
バカなのは俺だ。
そもそも俺がラブレターを渡すとかガラじゃない。それに書くならルーズリーフではなく、ちゃんとしたレターセットに書くべきだ。
いや、書かないけど! 渡さないけど!
自分の顔がみるみるうちに赤くなるのがわかり、それを隠すように額に手を当てる。
今の俺に見えるのは、落書きだらけの汚い机。そして、中を覗き込むと詰め込まれた教科書とノートのそばに黒のマジックペンで書かれた、『なんで我慢しなきゃなんねーんだよ』『なんでやりたいことができないんだよ』という半年前に吐き出した、俺の本音。
そしてその近くに残された、女の子の文字。
『いつかまた 思う存分できるといいね』
〝彼女〟が残してくれた言葉。
〝彼女〟のことが気になりだしたのは、この返事を見つけてからのことだ。
諦めていたはずだった。
続けていたサッカーを辞めたのは、高校に入ってすぐのことだ。
俺には母親がいない。俺が小学生の時、妹の美久がまだ二歳だった頃に亡くなった。それから祖母と父親と妹の四人で暮らしている。
俺と美久にとって祖母が母親代わりだった。多少家のことを手伝うことはあったけれど、それなりに好きなことをして過ごしていた。
去年、祖母が病気で足を悪くするまでは。
思うように動けなくなって、ときに車椅子が必要になる祖母と妹を夜遅くまでふたりきりにするのは心配だから、という理由で、俺は小学生から続けていたサッカー部を辞めた。
別にいいと思った。サッカー選手になりたかったわけでもないし、サッカー強豪校でもないのでゆるい部活だ。だから、かまわない。
――そう思っていた。
下校途中に見えるグラウンドから目をそらし、友だちと遊びに行くこともほとんどなく家に帰り、妹と祖母とのんびり過ごす。そんな日々を過ごしていると、ふと「遊びたいな」と思った。
一度そんな言葉が浮かぶと一気に我慢を強いられているような気持ちになり、想いが噴きこぼれて止められなくなった。
元来俺は、思ったことは口にするし、やりたいと思ったら即行動の我慢の苦手な性格だ。でも、我慢しなくちゃいけないんだと言い聞かせた。妹のことも祖母のことも大事だし、仕事を頑張る父親にも感謝している。
なのに、ちょっとしたことでイライラし、家族に叫びだしたくなる衝動に駆られた。
妹がいなければ。祖母が元気だったら。――母親が生きていたら。
そんな俺の気持ちを少し、軽くしてくれたのが、この返事だ。『いつか』という言葉に、目から鱗が落ちた。
ああ、そうか。別に今すぐじゃなくてもいいんじゃないか。
一生このままなはずもない。
いつか、できる。今じゃなくていい。今しなくちゃいけない理由もない。ときどき授業でサッカーをすることもある。それでいいんじゃないか。
そう思うだけで胸の中に渦巻いていた黒い感情がすうっと消えていった。
ああ、こんな考え方もあるんだな。
この返事を書いた子はどんな子だろう。
クラスの女子だろうか。でも、同じクラスなら落書きで返事をするのは変だ。直接言えばいい。それに、机の中の落書きなのだから、この席に座らないと気づかないはず。
普段はみっちり教科書が詰まっている。
誰がこの席に座ったのか。なんの理由でこの席に。
ヨネにさり気なく訊いてもわからなかったけれど、可能性として選択授業でこの教室を使っている誰かかもしれないということになった。
その結果、目星をつけることができた。
確信が持てたのは、彼女が授業のノートを俺の机に忘れていったことだ。見知らぬノートの中を開けば、俺の机に残されていた文字と同じように、「か」の文字に特徴があった。慌てて取りに戻ってきた彼女は『ごめん、置き忘れちゃって!』とにっこりと笑って言った。背筋がぴんと伸びていて、少し気が強そうな女の子だった。正直言えば、あのコメントの文字や内容から考えると意外だった。
それが余計に気になるきっかけになったことは確かだろう。
今まで、こんなふうに誰かがきになったことは一度もない。
告白されて一度だけ付き合ったことがあるけれど、すぐに別れた。それ以来、好きでもない相手と付き合おうと考えることはなくなり、告白は全て断っている。ヨネには「贅沢もの」だと文句を言われたけれどそんなこと知るか。
よく知らない相手と過ごすよりも、よく知っている男友だちと過ごした方がいい。
そんな俺にとって、初めて気になった女子が〝落書きの女子〟だ。
彼女のことは知らない。名前はヨネに教えてもらったけれど、名前も顔も俺は知らなかった。
それから半年、さり気なく彼女のことを観察した。
いつも元気そうな子と、彼女とは雰囲気が真逆の、お団子頭のぽやーっとした子とよく一緒にいること。特にその子と仲がいいのかふたりでよく一緒に帰っている姿も見かけた。
彼女のことで知っているのは、それだけ。
だから、好きになるなんておかしい。
自分のこの感情が恋愛としての好きなのかと訊かれれば、わからない、としか言いようがない。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。現時点で気になる、というだけだ。
でも、このままよくわからないからと突っ立っているだけでは、彼女とは一切接点は持てないだろう。相手は俺のことを知らないままで、俺も彼女のことを知らないまま。
今の感情の答えは闇に放り投げられて、いつまでもふよふよと彷徨うだけ。
――だから。
いや、だからって……やっぱり告白はおかしだろ。
「なにしてんの、セト。急に机片付けだして」
「べ、別に、汚かったから」
授業が終わったあと、中身をすべて取り出して空っぽにしていると、ヨネが不思議そうな顔をして覗き込んでくる。さり気なく中を見られないようにノートで隠して誤魔化す。
「セトの机きたねえもんなあー」
「うっせーな、お前もだろうが」
「選択授業のときにセトの席に座るやつ、今日はびっくりするんじゃねえのー」
それが狙いだ。もちろんそんなことヨネには言わない。
ケラケラと笑い早く移動しようぜ、と背を向けるヨネを確認してから、急いで破り取ったルーズリーフの切れはしを机の中にセロハンテープで固定した。
気づく、よな。
うん、きっと気づくはず。だって俺の落書きに気づいた相手だ。
ヨネと並んで廊下に出ると、なんだか落ち着かなくなってきた。
「そういや、セト、初恋はどうなってんの?」
「……別に初恋じゃねえって言っただろ。気になるだけだっつの」
ぎくりと体が反応する。が、鈍感なヨネは前を見ていて気づかない。
こいつは勘がいいんだか悪いんだか。
「初恋じゃねえって言っただろ。気になるだけ」
ざっくりととある女子のことが気になっているという話をしただけでこれだけからかわれているヨネに相手の名前なんて絶対知られちゃいけない。絶対余計なことをするし。
なんとか隠し続けているが、ウソをついたり誤魔化すのは苦手なので、なんとなくヨネにばれている気がしないでもない。
でも、絶対ヨネには言わねえ。
「告白、しよっかな」
もうしたけどな。
ちょっと誇らしげに口にすると、ヨネが「はあ?」と大きな声を出した。
「は? なんでそうなった。は? 落ち着けってお前。相手のこと知らねえんだろ」
「うるせえな」
べつにいいだろ。このままじゃなんもかわんないんだし。
ただ、若干、ヨネの反応にやばいのか、と思ったけれど気にしたら負けだ。だってもう机に残してきた。
そもそも、しわくちゃの紙に告白だなんて失礼にもほどがある。でも、なにもしないままでいることもできないし、かしこまったラブレターをしたためることもできない。
俺の『好きだ』はウソだ。
多分、まだそこまでの気持ちはない。でも、本音でもある。
この手紙を、どうか〝彼女〟が見つけてくれますように。どうか返事をくれますように。
ガラにもなく、俺はウソつきなラブレターに祈った。
→交換ウソ日記に続く
「なあなあ、セトー」
「っな、なにっ」
突然、斜め前に座っていた友人の米田――ヨネ――がくるりと振り返り、とっさに手元を隠した。心臓がばくばくと音を鳴らす。
「なんだよセト、びっくりしすぎだろ。寝てたのか?」
ヨネがそう言ってぶはははと噴き出すと、先生はこほんとわざとらしい咳をした。けれど、ヨネはそれに気づいた様子をみせない。っていうかいつもヨネは怒られるまで気づかない。
「ぼーっとしてただけ。なに?」
「シャー芯なくなったから数本くれよ」
はいはい、とペンケースから数本のシャー芯を取り出し、ヨネに渡す。
さんきゅうと言って前を見たヨネの背中を見てからはあーっと息を吐き出した。びっくりした。こんなに動揺したのは初めてかもしれない……。
急に振り向くなよ、バカ。
心の中で悪態を吐いて自分の手元を見る。と、ヨネから隠そうとしてルーズリーフのはしを握り潰している気がついた。そっと手を離すと、俺が書いた文字がくしゃりと潰れている。
くしゃくしゃになったそれを見て、机に項垂れる。
授業中になにを書いているんだ、俺は。
バカなのは俺だ。
そもそも俺がラブレターを渡すとかガラじゃない。それに書くならルーズリーフではなく、ちゃんとしたレターセットに書くべきだ。
いや、書かないけど! 渡さないけど!
自分の顔がみるみるうちに赤くなるのがわかり、それを隠すように額に手を当てる。
今の俺に見えるのは、落書きだらけの汚い机。そして、中を覗き込むと詰め込まれた教科書とノートのそばに黒のマジックペンで書かれた、『なんで我慢しなきゃなんねーんだよ』『なんでやりたいことができないんだよ』という半年前に吐き出した、俺の本音。
そしてその近くに残された、女の子の文字。
『いつかまた 思う存分できるといいね』
〝彼女〟が残してくれた言葉。
〝彼女〟のことが気になりだしたのは、この返事を見つけてからのことだ。
諦めていたはずだった。
続けていたサッカーを辞めたのは、高校に入ってすぐのことだ。
俺には母親がいない。俺が小学生の時、妹の美久がまだ二歳だった頃に亡くなった。それから祖母と父親と妹の四人で暮らしている。
俺と美久にとって祖母が母親代わりだった。多少家のことを手伝うことはあったけれど、それなりに好きなことをして過ごしていた。
去年、祖母が病気で足を悪くするまでは。
思うように動けなくなって、ときに車椅子が必要になる祖母と妹を夜遅くまでふたりきりにするのは心配だから、という理由で、俺は小学生から続けていたサッカー部を辞めた。
別にいいと思った。サッカー選手になりたかったわけでもないし、サッカー強豪校でもないのでゆるい部活だ。だから、かまわない。
――そう思っていた。
下校途中に見えるグラウンドから目をそらし、友だちと遊びに行くこともほとんどなく家に帰り、妹と祖母とのんびり過ごす。そんな日々を過ごしていると、ふと「遊びたいな」と思った。
一度そんな言葉が浮かぶと一気に我慢を強いられているような気持ちになり、想いが噴きこぼれて止められなくなった。
元来俺は、思ったことは口にするし、やりたいと思ったら即行動の我慢の苦手な性格だ。でも、我慢しなくちゃいけないんだと言い聞かせた。妹のことも祖母のことも大事だし、仕事を頑張る父親にも感謝している。
なのに、ちょっとしたことでイライラし、家族に叫びだしたくなる衝動に駆られた。
妹がいなければ。祖母が元気だったら。――母親が生きていたら。
そんな俺の気持ちを少し、軽くしてくれたのが、この返事だ。『いつか』という言葉に、目から鱗が落ちた。
ああ、そうか。別に今すぐじゃなくてもいいんじゃないか。
一生このままなはずもない。
いつか、できる。今じゃなくていい。今しなくちゃいけない理由もない。ときどき授業でサッカーをすることもある。それでいいんじゃないか。
そう思うだけで胸の中に渦巻いていた黒い感情がすうっと消えていった。
ああ、こんな考え方もあるんだな。
この返事を書いた子はどんな子だろう。
クラスの女子だろうか。でも、同じクラスなら落書きで返事をするのは変だ。直接言えばいい。それに、机の中の落書きなのだから、この席に座らないと気づかないはず。
普段はみっちり教科書が詰まっている。
誰がこの席に座ったのか。なんの理由でこの席に。
ヨネにさり気なく訊いてもわからなかったけれど、可能性として選択授業でこの教室を使っている誰かかもしれないということになった。
その結果、目星をつけることができた。
確信が持てたのは、彼女が授業のノートを俺の机に忘れていったことだ。見知らぬノートの中を開けば、俺の机に残されていた文字と同じように、「か」の文字に特徴があった。慌てて取りに戻ってきた彼女は『ごめん、置き忘れちゃって!』とにっこりと笑って言った。背筋がぴんと伸びていて、少し気が強そうな女の子だった。正直言えば、あのコメントの文字や内容から考えると意外だった。
それが余計に気になるきっかけになったことは確かだろう。
今まで、こんなふうに誰かがきになったことは一度もない。
告白されて一度だけ付き合ったことがあるけれど、すぐに別れた。それ以来、好きでもない相手と付き合おうと考えることはなくなり、告白は全て断っている。ヨネには「贅沢もの」だと文句を言われたけれどそんなこと知るか。
よく知らない相手と過ごすよりも、よく知っている男友だちと過ごした方がいい。
そんな俺にとって、初めて気になった女子が〝落書きの女子〟だ。
彼女のことは知らない。名前はヨネに教えてもらったけれど、名前も顔も俺は知らなかった。
それから半年、さり気なく彼女のことを観察した。
いつも元気そうな子と、彼女とは雰囲気が真逆の、お団子頭のぽやーっとした子とよく一緒にいること。特にその子と仲がいいのかふたりでよく一緒に帰っている姿も見かけた。
彼女のことで知っているのは、それだけ。
だから、好きになるなんておかしい。
自分のこの感情が恋愛としての好きなのかと訊かれれば、わからない、としか言いようがない。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。現時点で気になる、というだけだ。
でも、このままよくわからないからと突っ立っているだけでは、彼女とは一切接点は持てないだろう。相手は俺のことを知らないままで、俺も彼女のことを知らないまま。
今の感情の答えは闇に放り投げられて、いつまでもふよふよと彷徨うだけ。
――だから。
いや、だからって……やっぱり告白はおかしだろ。
「なにしてんの、セト。急に机片付けだして」
「べ、別に、汚かったから」
授業が終わったあと、中身をすべて取り出して空っぽにしていると、ヨネが不思議そうな顔をして覗き込んでくる。さり気なく中を見られないようにノートで隠して誤魔化す。
「セトの机きたねえもんなあー」
「うっせーな、お前もだろうが」
「選択授業のときにセトの席に座るやつ、今日はびっくりするんじゃねえのー」
それが狙いだ。もちろんそんなことヨネには言わない。
ケラケラと笑い早く移動しようぜ、と背を向けるヨネを確認してから、急いで破り取ったルーズリーフの切れはしを机の中にセロハンテープで固定した。
気づく、よな。
うん、きっと気づくはず。だって俺の落書きに気づいた相手だ。
ヨネと並んで廊下に出ると、なんだか落ち着かなくなってきた。
「そういや、セト、初恋はどうなってんの?」
「……別に初恋じゃねえって言っただろ。気になるだけだっつの」
ぎくりと体が反応する。が、鈍感なヨネは前を見ていて気づかない。
こいつは勘がいいんだか悪いんだか。
「初恋じゃねえって言っただろ。気になるだけ」
ざっくりととある女子のことが気になっているという話をしただけでこれだけからかわれているヨネに相手の名前なんて絶対知られちゃいけない。絶対余計なことをするし。
なんとか隠し続けているが、ウソをついたり誤魔化すのは苦手なので、なんとなくヨネにばれている気がしないでもない。
でも、絶対ヨネには言わねえ。
「告白、しよっかな」
もうしたけどな。
ちょっと誇らしげに口にすると、ヨネが「はあ?」と大きな声を出した。
「は? なんでそうなった。は? 落ち着けってお前。相手のこと知らねえんだろ」
「うるせえな」
べつにいいだろ。このままじゃなんもかわんないんだし。
ただ、若干、ヨネの反応にやばいのか、と思ったけれど気にしたら負けだ。だってもう机に残してきた。
そもそも、しわくちゃの紙に告白だなんて失礼にもほどがある。でも、なにもしないままでいることもできないし、かしこまったラブレターをしたためることもできない。
俺の『好きだ』はウソだ。
多分、まだそこまでの気持ちはない。でも、本音でもある。
この手紙を、どうか〝彼女〟が見つけてくれますように。どうか返事をくれますように。
ガラにもなく、俺はウソつきなラブレターに祈った。
→交換ウソ日記に続く