「ありがとう、話し聞いてくれて。あなたも、風邪を引かないようにね」

 もちろん相手は置物なので、返事はない。
けれど今の花には、"聞き役がいてくれた"ということだけで十分だった。
 花は鞄の中から携帯電話を取り出すと、改めて時刻を確認した。
 これから最終列車に乗って、実家に帰らなければならない。

(もう二十二時過ぎか……)

 遅れた引っ越し屋が運んでくれた荷物は、先程父から無事に受け取ったとの連絡が来ていた。
 帰ってから寝る実家の布団は……もしかしたら、しばらく陽に当たっていないかもしれないが、花にはもうそんなことまで気にする余裕はなかった。

「ハァ……」

 本日何度目かもわからない溜め息をついた花は、携帯電話を鞄の中に戻してから"あるもの"を取り出した。
 それは、()のついた木製漆塗りの手鏡だ。
 普段は決して持ち歩いたりはしないのだが、今日だけは引っ越しの荷物に紛れ込まないようにと、花は自分の鞄に入れていた。
 手鏡の裏面には青貝の螺鈿を活かした美しい梅の花があしらわれている。
 ところどころ傷がついて禿げてしまっている箇所もあるが、鏡面は定期的に磨いているので汚れひとつ見つけられなかった。

「お母さん……ごめんね」

 呟くと、花は鏡に写った自分の情けない顔をまじまじと見つめた。
 この手鏡は、花が七つのときに母から貰い受けたものだった。

『これはね、代々受け継がれてきた大切な手鏡なのよ。お母さんも花のおばあちゃんから貰って、おばあちゃんもおばあちゃんのお母さんから貰って……。もうずっと前からそうやって受け継がれて、長い間私達を見守っていてくれたものなの』

 花の母親は、花にそう話してくれた一週間後にこの世を去った。
 つまるところ花にとっては、この手鏡は母の形見と呼べる代物なのだ。