靴を脱いで玄関に上がる。ドアが空きっぱなしの居間から、ソファに座っているお母さんの後ろ姿が見える。
頭をポンポンとされる。快晴が私の後を追ってついてきたらしい。
ソファに座っているお母さんが振り向いた。
「さっきからうるさく怒鳴っていたのはあなた?今日は雫だけが来るとは聞いていたけど、なぜあなたがいるの?」
能面の顔で快晴を見ながら言った。
「あんたがまた雫を傷つけないように一緒にきたんだよ」
お母さんがソファから立ち上がり、私たちに少しだけ近づいた。
「牧村さん、本来ならば接見禁止です。距離を詰めるのはここまでよ」
さっきの女性が遮る。お母さんは理解したのか、一歩下がった。
「今日は何の用なの?私だって忙しいのよ」
機械的な声の中に少しだけ苛立った感情がわかる。
心臓がドキドキと嫌な音を立てる。それを見透かされないように、胸の前で組んだ手にギュっと力を入れる。
「お母さんに言いたいことがある」
絞り出すように言った私を見て、お母さんは怪訝な顔した。
「何?私から杏奈を、全てを奪っておいて今更何が言いたいの?これ以上、私から何を奪いたいのよ」
「奪いたいとか、お母さんを陥れたいとかじゃないよ。聞きたいことと、言いたいことがあるだけ」
お母さんは白けた顔で私を見ている。
届かないかもしれない。
お母さんの心には響かないかもしれない。
でも、言わないと、聞かないと私は前へ進めない。
「お母さんは……」
そこまで言って、深呼吸をする。思いきり息を吸い込んでから顔をしっかり見る。
逃げない。絶対に。
私はこれから、失っていた希望と未来を自分で掴み取る。
だから逃げちゃ駄目だ。
「お母さんは私が生まれた時、嬉しかった?幸せだって思った?」
「え?」
何を言っているんだ?という顔をしている。
まだ、大丈夫。話を聞こうとしているはず。
「杏奈が生まれるまで大変だったのは知ってる。でも、私が生まれた日、何か感じなかった?お父さんと二人で笑顔にならなかった?」
お父さんが言っていた。
私の「雫」という名前はお母さんが付けたのだと。
誰かの心にポツリとでもいい、幸せという雫を分け与えられるような優しい子になってほしいから。という意味を込めて付けてくれたのだと。
その時のお母さんは、お父さんに照れ臭そうに「幸せを雫一粒だけしか与えられないって寂しいかしら?それでも、小さな幸せを色んな人にポツポツと与えられるって素敵じゃないかしら?」と言っていたと。
お父さんも「いい名前だね」と言って、二人でほほ笑んだと。
「私の名前、お母さんが付けてくれたんでしょ?そこには愛情は確かにあったんだよね?」
私の言葉に頬に手を当てて物思いにふけている。
能面が段々と剥がれてきている気がする。
だから、思い出して‼
私が生まれた時のこと。
女の子が欲しかったお母さん、私が生まれた瞬間涙を流したことを。
「疲れたわ。座ってもいいかしら?」
そう言って、ソファにゆっくり座る。
窓に雨が静かに当たる音がする。
お母さんは窓を見ながら呟くように言った。
「雫が生まれた日もこんな静かな雨が降っていた。雨は人を憂鬱にもさせるけれど、恵の雨って言葉もあるくらいだから、決して悪いイメージではない。窓から見える雨を見て、一粒でもいい、色んな人に恵を分け与えられる子になってほしいと思って付けた名前よ」
杏奈が生まれてから、初めて私のことを話してくれている。
「……とても愛しくて、嬉しくて、幸せだと思ったわよ」
それだけ聞けて涙が出てくる。
お母さんの心はまだ杏奈だけにあるだけれど、私は生きていて良かったと思った。
もう何も言わなくても聞かなくてもいいような気もするけれど。
「まだ準備終わってないのよ。もういいかしら?」
お母さんがそう言ったタイミングで、快晴が背中をドンと押す。
快晴に視線を移すと、「言ってやれよ」と小声で言われた。
快晴が、征規が、春那が同意したあの言葉。
「お母さん‼」
ソファから振り向いたその目は少し赤くなっている。
「もう二度と会えないかもしれないから、言うね」
『杏奈の姉』としか見てもらえなかった八年間。
上手く人に心を許せなくなった自分。
悔しくて、悲しくて、我慢してきたけれど。
「ふざけんな‼私の八年間の気持ちを何だと思ってるの‼」
お母さんが驚いた顔をしている。
「私は杏奈のためだけに生きてるわけじゃない‼姉なのはちゃんとわかってるよ‼杏奈は大事だし、これから守っていくけど、だから、だから……杏奈の姉としか存在価値がないとかで私を見てくれない……酷いよ……、馬鹿にすんな‼」
全部言った。
肩で息をする。
お母さんの口角が少し上がっているように見える。
「すごい暴言ね、人のことは言えないけれど。そこにいる彼の影響なのかしら?でも、もう二度と会うことはないかもしれない。もしかすると、雫や杏奈が大人になったら会うことが出来るかもしれない。だから、それまでは、しっかり杏奈を守ってちょうだい。頼んだわよ」
少し息をついてから続ける。
「雫。あなたも大事な娘よ。今まで辛い思いをさせてごめんね」
能面が剥がれ落ちたようなその表情は涙を浮かべていた。いつものヒステリックになった後に謝る時の涙じゃない。上っ面じゃない、小さい頃に見た笑顔だった。
ケアワーカーさんに「もう帰りなさい」と言われて、居間を出ると征規と春那がいた。
「心配しすぎて勝手に入ってしまった」
そう言った征規の目は真っ赤だった。隣にいる春那は泣いていた。
「雫さん、待って」
ケアワーカーさんが声を掛けてくる。
そして、少し大きめな紙袋を渡された。受け取ったその袋はずっしりと重い。
「牧村さん……お母さんが本当は自分の荷物に入れようとしていたけれど、あなたに会うってわかってから、これは雫さんに渡すって言っていたわ」
袋の中を覗くと数冊のアルバムが入っている。
一冊取り出して開くと、
『待望の女の子が生まれた。名前は雫。周りに幸せを与えられる子になってほしい』
生まれたばかりの私の写真の横にお母さんの字でそう書いてある。
ページをめくると、私の成長の記録が写真と共にたくさん貼ってある。
「これ……」
「受け取ってもらえるかしら?」
女性に言われて、涙が出そうになったけれど、笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。母にも、ありがとうって伝えてください」
そう言う私に、女性は笑顔で「わかったわ」と言った。
玄関を出ると雨は上がっている。
にわか雨だったのだろうか。
「腹減らない?」
征規が言って、「減った‼」と春那が同意する。
「雫が頑張った記念になんか美味い物食おうぜ」
「もちろん、征規の驕りだよな?」
快晴が言うと征規は「ええ?」と困った顔をした。
「征規の驕りなら焼肉食いたい‼」
春那が手を上げる。
「あ、私もそれ賛成。征規ゴチでーす」
私も言うと征規は益々困ったという顔になったけれど、
「うっしゃ‼その代わり食べ放題だからな‼」
と言った。
駅に向かう道を歩きながらみんなで笑っていると、快晴が肩をトントンと叩いた。
快晴が後ろを指さした。
外にお母さんが立っている。
その上には薄っすらと虹が出ていた。
お母さんが小さく手を振っている。
また涙が出そうになったけれど、私は自分が出来る精いっぱいの笑顔で大きく手を振り返した。
この虹とお母さんの姿を私は一生忘れないだろう。
いつか病気を克服した元気なお母さんに会いたい。
その時は自分の夢や希望を持った私でありたい。
「これは杏奈の分」
九州のお父さんの家に帰省している高校3年生の冬休み。
「何―?って御守りじゃん。しかも『学業』って」
「だってせっかく九州に来たのに太宰府天満宮行かないのはもったいないじゃない。もうすぐ受験だから友達全員分買ったんだ」
「杏奈に学業の神様の御守りっている?」
「いるでしょ、将来医療系の道に進みたいんでしょ?勉強難しいからしっかりやりなさいね?」
「そんなこと言っても、杏奈はまだ小学生だから将来の夢変わるかもしれないのにさ」
「あれ?心の病気の人を助けてあげたいんじゃなかった?お母さんをいつか迎えに行くんでしょ?だったら御守り持って頑張れ」
私がそう言ってニッコリ微笑むと同時に、
「鍋できたぞー」とお父さんが声をかけた。
後一か月で受験。
高校最後の冬休みは勉強漬けで、快晴たちと過ごす放課後もファミレスで勉強をしたり。
私は以前にみんなに言った絵の勉強をしようか悩んだけれど、お母さんのような人の気持ちを知りたくて、心理学を勉強することにした。選んだ大学は絵からも人の心理を学べるとオープンキャンパスで説明を受けたから、絵も心理も勉強できるのならと、その大学を受験することに決めた。
快晴は天文学がある大学を受験するという。雨が好きな快晴は空の勉強をしてみたいらしい。雨男の快晴らしい気もする。快晴が、というか快晴と大事な何かがある時は大体雨が降っているイメージがある。だからか、みんなは快晴を「雨男」と笑って言っている。
征規はIT系に進みたいらしく、情報処理系の大学を受験する。征規は子供の頃からゲームが誰よりも得意だったし、パソコン操作も詳しいし、スマホを駆使いているから向いていそう。『結局、普通の会社に就職したりして』なんて笑っているけれど。さすがに大学までは同じにならないようだ。私たちの腐れ縁は高校までだったらしい。
春那はもともとオシャレが好きだから、服飾の専門学校へ推薦が決まっている。自分の好きな服を作って、いずれはブランドを立ち上げてみたいらしい。春那が将来店を持ったら、容姿と服装のギャップで繁盛しそう。
みんなそれぞれが夢を描いている。そのために今は必死で勉強している。
明日、春那の家へ帰る私は、お父さんの家のリビングで裁縫をしている。
「お姉ちゃん、まだ起きてたの?」
トイレへ行ったらしい杏奈がそばによってきた。
お父さんの家は杏奈が来ることになってから団体の支援もあって全面バリアフリーで、家庭用の医療機器もそろっている。
「ん?ちょっとね、作りたいものがあって」
私は手元を動かしながら答えた。
「それ何?あ、御守り?大宰府で買ったのに、自分でも作ってるの?」
杏奈が覗いてくる。
「学問の神様よりは効果ないけどね」
笑いながら言う。
自分も含めた4人分の御守りを縫っている。私なりの感謝と一緒に頑張ろうねって意味を込めて。3人がいたから笑っていられる私がいるのだから。春那は受験が終わっているけれど、やっぱり4人で同じ物を持っていたいから作っている。
御守りを作る練習で最初に作ったオレンジの小さな袋を杏奈に渡した。
「これは杏奈のだよ。元気でいられますようにって意味の御守りね」
「杏奈にもくれるの?」
パッと顔が明るくなる。
「最初に作ったから下手だけど。オレンジは太陽の色。天気がいいと元気になれそうでしょ?」
「やったー‼天気がいいと気持ちいいよねー。あ、でも快晴くんに会う時って天気悪くない?征規くんや春那ちゃんと会った時は天気よかった気がする」
杏奈にまで雨男と思われているのか。
そう思うと笑ってしまった。
冬休みもあっという間に終わり、授業もほとんど受験のための自習になっている。
受験が終わった春那は自習時間に爆睡中。
4人で遊ぶのがあんなに楽しかったのに、今や放課後は図書館で勉強ばかり。
春那は頭がいいから教えくれている。
いつもふざけてばかりの私たちが真剣になっている。
自分の夢、なりたい自分を目指すために。
大人になったら今目指している進路とは全く別な職業に就いているかもしれない。もし、未来がそうだったとしても、私たちの必死さは一生役には立つかもしれないから。
冬休みのお土産で渡した大宰府天満宮の御守りはみんなすごく喜んでくれた。
「これでもう受かったと同然だ‼」
と叫ぶ征規に
「神頼みはいいけどは自分の努力を忘れずに。神様は大丈夫って背中押してくれるだけだから」
春那が容赦なく言い放った。
それを聞いて快晴と吹き出す。
「気休めにしかならないけどねー」
私もみんなとお揃いにした御守りを見ながら笑って言った。
「意外とご利益あるかもだぞ?今まで大変だった雫が買ってきたんだから、雫にはご利益は当然あるだろうけど、俺たちもおこぼれ程度で合格させてくれそうだよな」
快晴を見ると目の前に御守りをぶら下げながら、ご利益―ご利益―と変なオリジナル曲を歌っている。
お母さんには月に一度手紙を送っている。滅多に返事はこないけれど、読んでくれていると思う。
お父さんがスマホで撮った杏奈の写真をラインで送ってくれるから、それを写真として印刷して同封している。
杏奈は最近、院内学級で同じ歳の女の子と仲良くなったらしく、この間親同伴で遊びに行って、プリクラを撮ったらしい。
杏奈は天真爛漫だけれど、プリクラの中の杏奈の笑顔はこれまで見たことがないくらいに弾けるような笑顔で楽しそうだった。九州へ行って良かったと思っている。
大宰府天満宮に行った時に、御守りを買う前に神様にお願いした。
私も受験は頑張るけれど、私を救ってくれた3人の希望はどうか、どうか叶えてくださいと。
私には3人にこんなことしかできないけれど、自分の望んだ道へどうか進んでほしい。
「雫」
快晴に呼ばれて我に返る。
「え?」
「帰りちょっと行きたい場所あるから付き合って」
「ああ、いいけど……」
最近は図書館へ4人で行って勉強をしたり……春那は服飾の本読んでいるだけだけれど。学校が6時まで受験生に開放してれているから、そこにいたりで、快晴と二人になるってほとんどなかった。
なんの用事だろう??
首を傾げながら思った。
放課後になって、快晴の言うがままに付き合って電車に乗っているけれど、この路線の電車に乗ることも永遠にないと思っていた。
快晴が何を考えているかわからない。
マフラーをグルグルに巻いて顔が見えないように快晴を覗き見しているけれど、私のようにマフラーは顔に埋まるほど巻いてはいないけれど、車窓に頬杖をつきながら「寒いな」とつぶやいた。
目的の駅につくアナウンスが流れる。
場所はわかっている。
かつて杏奈が通っていた養護施設がある駅だったから。
私が快晴と初めてちゃんとは話をした公園に着く。
「さみーから、近くにカフェあるから後で入ろう」
快晴は寒い寒い言いながら養護施設が見える、いつも一緒に杏奈を待っていてくれた公園のベンチに座る。
いい思い出はなかったから、胸が少しだけ痛むけれど、快晴に怒りの感情も感謝の感情もない。
辛い思いをしながら来なくてならなかった、この場所に立って思う。
何も思わないし感じない。「無」なんだと。
「なんでここに来たの?」
とりあえず、なぜここを選んだのかは聞きたい。
「原点回帰かな」
「原点回帰?」
「そ、原点回帰。俺と雫が初めてキチンと話をした場所だから」
いつも座っている屋根付きのベンチのまわりには昨日少し降った雪が残っていて、枯れ葉の上に載っている。私が枯れ葉なら、重量級のものが背中にのしかかるなんて冗談じゃない。
白い息を吐きながら快晴がポツリと言った。
「受験終わったらすぐ卒業であっけなかったな」
「うん……なんか快晴といると、色んなことがあったけど、すごく時間がたつのが早かった。え?もう卒業?って思う」
寒いベンチに2人で並んでいるけれど、さっきのような施設とこの場所を「無」だと思う気持ちが少し薄れてきている。
ここは快晴が私を救ってくれると言ってくれた場所だから。
それを忘れてはならない。絶対に。一生。
「雫」
「ん?何?」
「俺はズバズバ言うくせに本当に言いたいことを上手く言うのが下手でさ」
「そうだね」
笑いながら私は答えた。
人のことに一生懸命なくせに自分のことはズボラ。でも、それは快晴の良い面でもあるんだよ?
「征規は一番の男友達。春那は……まあ、ほぼオッサンだけど、俺の一番の女友達」
「私いないじゃん」
呆れて言うと足を組み替えて快晴は言った。
「雫は親友」
「え?」
そう言って快晴が笑うから胸になんだかホワンとした温かみが生まれた。嬉しくて涙が出そうになる。
「私も」
涙声にならないように、息をついてから言う。
「征規は幼馴染。気持ち悪いほどの腐れ縁。春那は友達作るのが苦手な私を救ってくれた大事な女友達。快晴は……やっぱり私も親友だと思ってる」
快晴に笑いかけると微笑みながら言った。
「雫は臆病で不器用だけど、一生懸命やるやつだ。そして優しい。これからは俺たち4人は別々の道をいくけど、みんな友達だし、どこに行っても雫が俺の親友であることは変わらない。そして、新しい環境でも雫なら友達はちゃんとできる。これ、俺が保障する」
受験であたふたとしていたけれど、もうすぐみんなとの「当たり前」がなくなってしまう。
そう思うと涙が出てきてしまった。
涙を流す私の頭をぐしゃぐしゃになでながら快晴は笑った。
「大丈夫。お前がアマゾンでワニに食われて死にそうになった時でも助けにいくし、世界中どこに行こうが俺はお前の親友だ。わかったか?」
快晴の言葉に頭をぶんぶん振って頷いた。
「あ、そうだ」
快晴が思い出したように言ったから顔を上げる。
「やっぱりアレだな。親友としては、雫に大事な恋人や結婚する相手ができたり、俺もだけど、一番に紹介してほしいな。俺も雫にそういうことがあったら一番に会わせたいな」
「快晴文句言いそう‼」
私がそういうと笑いながら「難癖つけてやるからな‼」と快晴も笑った。