「疲れたわ。座ってもいいかしら?」

 そう言って、ソファにゆっくり座る。

 窓に雨が静かに当たる音がする。

 お母さんは窓を見ながら呟くように言った。

「雫が生まれた日もこんな静かな雨が降っていた。雨は人を憂鬱にもさせるけれど、恵の雨って言葉もあるくらいだから、決して悪いイメージではない。窓から見える雨を見て、一粒でもいい、色んな人に恵を分け与えられる子になってほしいと思って付けた名前よ」

 杏奈が生まれてから、初めて私のことを話してくれている。

「……とても愛しくて、嬉しくて、幸せだと思ったわよ」

 それだけ聞けて涙が出てくる。

 お母さんの心はまだ杏奈だけにあるだけれど、私は生きていて良かったと思った。

 もう何も言わなくても聞かなくてもいいような気もするけれど。

「まだ準備終わってないのよ。もういいかしら?」

 お母さんがそう言ったタイミングで、快晴が背中をドンと押す。
 快晴に視線を移すと、「言ってやれよ」と小声で言われた。
 快晴が、征規が、春那が同意したあの言葉。

「お母さん‼」

 ソファから振り向いたその目は少し赤くなっている。

「もう二度と会えないかもしれないから、言うね」



『杏奈の姉』としか見てもらえなかった八年間。

 上手く人に心を許せなくなった自分。

 悔しくて、悲しくて、我慢してきたけれど。



「ふざけんな‼私の八年間の気持ちを何だと思ってるの‼」

 お母さんが驚いた顔をしている。

「私は杏奈のためだけに生きてるわけじゃない‼姉なのはちゃんとわかってるよ‼杏奈は大事だし、これから守っていくけど、だから、だから……杏奈の姉としか存在価値がないとかで私を見てくれない……酷いよ……、馬鹿にすんな‼」

 全部言った。

 肩で息をする。

 お母さんの口角が少し上がっているように見える。

「すごい暴言ね、人のことは言えないけれど。そこにいる彼の影響なのかしら?でも、もう二度と会うことはないかもしれない。もしかすると、雫や杏奈が大人になったら会うことが出来るかもしれない。だから、それまでは、しっかり杏奈を守ってちょうだい。頼んだわよ」

 少し息をついてから続ける。

「雫。あなたも大事な娘よ。今まで辛い思いをさせてごめんね」

 能面が剥がれ落ちたようなその表情は涙を浮かべていた。いつものヒステリックになった後に謝る時の涙じゃない。上っ面じゃない、小さい頃に見た笑顔だった。