彼はずかずかと部屋の中に入ってきて、私の横で胡坐をかいた。
勘介くんは少しうしろに正座している。
「気がついてよかった……」
安堵のため息を漏らす彼に、ずいぶん心配をかけたようだ。
「私……」
「黒爛の羽には毒が仕込まれている。お前の頬をかすめたとき、体内に入ってしまったのだろう」
だから、体が熱くてしびれてしまったのか。
「白蓮さんは?」
彼はかすめたどころか、ぐさりと刺さり血を流していたはずだ。
「俺は大丈夫だ。毒に耐性がある」
とはいえ、血が流れていた光景を思い出して、顔が険しくなる。
「傷は?」
「もうなんともない。俺たちは傷の治りが早いんだ」
彼は左の着物の袖をまくり、ムキムキの上腕二頭筋を見せつけてくる。
そこには傷痕ひとつ残っておらず、安堵した。
「ごめんなさい。私……白蓮さんのこと、ただのチャラい男だと思って……」
「チャラいとは?」
すかさず質問してきたのは勘介くんだ。
「お前は知らなくていい」
すぐさま彼をけん制した白蓮さんが私の頬にそっと触れたあと、その手を滑らせて今度は首を撫でるので、拍動が速まる。
墓苑で彼に抱き上げられて頬を赤く染めたように、男の人に触れられるのには慣れていないのだ。
「解毒薬を飲ませたから、体はもう大丈夫だ。しかし傷が治癒するにはしばらくかかるかもしれない。薬草は塗ってあるが、すまない」
そうか。羽がかすめた切り傷だけでなく、首を絞められたときの痕跡も残っているのだろう。
ここには鏡がないのでわからなかった。
しかし、助けてくれたのだから謝る必要はないのに。
それにしても解毒剤がなかったら、今頃どうなっていたのだろう。
考えるだけでも身の毛がよだつ。
「解毒剤、ありがとうございました」
「大変だったんですよ。意識がない彩葉さまは飲んでくださらなくて、仕方なく白蓮さまが口移しで――」
「え……?」
「勘介、余計なことは言うな」
口移し?
嘘……。
私のファーストキスは、記憶がないまま、しかも好きでもなんでもない人――いや人ならざるものに奪われたということ?
あぁ、また熱が出てきそうだ。
「彩葉、顔が真っ青だ。もう一度横になれ」
私の顔を青ざめさせた張本人が、布団の中へと促してくる。
まあ……飲まなければ命を落としていたのだから、ここは感謝すべきところではある。
とはいえ、ファーストキスへの憧れを過大なほどに抱いていた私にとって、ショックだったことには違いない。
これはノーカウントよね……。
そんなことを考えて自分の気持ちに折り合いをつけた。
いや、そんなことより聞かなければならないことがたくさんある。
「白蓮さん、あなたは誰なんですか?」
やはり思い出せない。
というか……人間ではなさそうな彼と会ったことがあるはずもない。
ああして身を挺して助けてくれたから信頼して落ち着いて話していられるが、そうでなければ一目散に逃げているはずだ。
「俺の姿を見ただろう? ここはあやかしの住む幽世。俺は妖狐だ」
「妖狐……」
彼は説明をしながら再び尻尾と耳を出してみせる。
幽世という言葉は聞いたことがあるが、本当に存在するとは思わなかった。
「白蓮さまは、妖狐の中でも最上位の九尾でいらっしゃいます」
子供に見える勘介くんが、実に滑らかに説明を加える。
「九尾……。あ……」
黄金色の――。
繰り返し見る夢に出てくるのは、こんな尻尾だ。
「どうかしたか?」
白蓮さんは横たわる私を愛おしそうな目で見つめて、尋ねる。
私……ずっと昔にもこうしてもらっていた気がする。ふさふさの尻尾に包まれて、「彩葉、おやすみ」と頭を撫でてもらっていたような。
「いつも夢を見るんです。黄金色の尻尾に包まれてひどく安心する夢を」
「それは夢ではございませんよ」
口を挟んだのは勘介くんだ。
「どういうこと?」
「白蓮さまは彩葉さまをお助けになったのです」
あの夢に出てくる私は、四、五歳くらいの小さな子だけれど、その頃にも助けてもらったことがあるということ?
「勘介。お前はもういい。用があれば呼ぶから退室しなさい」
「かしこまりました」
勘介くんの話を遮った白蓮さんは、彼を部屋から追い出した。
「すまない。勘介に悪気はないのだが素直すぎて、なんでもぺらぺらと……」
「い、いえっ。あの……助けてくださったというのは、私が小さな頃のことじゃないですか?」
「無理に思い出さなくてもいい。しかし俺は、ずっとお前を探していたんだ」
「え……?」
思いがけない言葉に、キョトンとする。
どうして妖狐が私を探すの?
「これから話すことを、信じるも信じないも彩葉の勝手だ。ただ俺は、真実だけを話す」
そんな前置きをした彼は、少し身を乗り出してきて私の顔を覗き込んだあと口を開いた。
「彩葉と俺は、三百年ほど前に夫婦だった」
「はっ? 夫婦?」
三百年前? ……ということは江戸時代だ。
しかも人間ではなくあやかしと結婚していたというの?
そんなことある?
予想の斜め上を行く発言にただただ驚き、ポカーンと口を開けるしかない。
「そうだ。当時も今も、いろいろなところに出入口があり、現世と幽世は行き来できる。俺はそこを通って、時折現世に行っていた」
私が気づいた獣道がそうだったのだろう。
「その頃の彩葉も料理がうまくてね。料理屋を営んでいた彩葉のもとに通い詰めているうちに恋に落ちて、彩葉は俺が妖狐だと知っても嫁いできてくれた」
怖くはなかったのだろうかと疑問に思ったが、今、白蓮さんがそばにいても震えるようなことはない。
たとえ相手があやかしであっても、信頼していればそれで十分なのかもしれない。
「そう、だったんですか……」
にわかには信じがたい話ではあるけれど、そもそも目の前の彼が妖狐であり、ここが幽世だということが今までの常識では測れないのだから、ひとまずは素直に信じることにした。
「お前がここに嫁いできてくれて、本当に幸せだった。あやかしには彩葉ほどうまい料理を作れるものがいなくて、俺の臣下のあやかしにまで振る舞ってくれたから、皆彩葉のことを慕っていたんだ」
ずっと昔の私も、料理好きだったなんてなんだかうれしい。
しかも、幽世でも決して孤独ではなかったと知り、安堵した。
もしかしたら、今の私よりずっと幸福を感じながら暮らしていたのかもしれない。
「俺たちあやかしは、幸せを糧にする生き物だ。だから気持ちが満ちあふれていればいるほど、その力は増大し強くなる。俺は長年の修行で妖狐の中で最上位の九尾となったが、彩葉を娶ってその力はさらに倍増した」
「幸せを糧に……」
だとしたら今の私は彼の力をそいでしまうのではないだろうか。
たったひとりの家族だった祖母も失い、顔しかいいところのなさそうな黒爛に襲われるという、わりと人生のどん底を味わっているからだ。
離れるべきだと考えて、しかしどうすればいいかわからず布団に潜ったのに、あっさりめくられてしまった。
「なにしてる?」
「私、疫病神なんですよ。そばにいたら白蓮さんのせっかくの力が減少してしまいます」
思ったことをそのままぶつけると、彼は呆れ顔で首を横に振っている。
「布団を被ったくらいでどうにかなると思っているのか?」
一応気を使ったのに、そんなにバカにした言い方をしなくたっていいでしょ?
「それに俺は今、力がみなぎっていくのを感じているが?」
「嘘……」
「嘘ではない。彩葉、俺の目を見て」
促されて視線を向けるとあまりに真摯な眼差しとぶつかり、心臓が意思とは関係なく鼓動を速める。
しかし彼は気にする様子もなくそのまま話を続ける。
「彩葉がそばにいることほど、幸せなことはない。俺はこのときを待ちわびていたのだ」
本当、に?
私を待ちわびている人、いやあやかしがいるなんて信じられない。
けれど、彼の目は嘘をついているようにも見えなかった。
「あの頃も幸福で満たされていたのに……お前を娶って二年。穏やかな生活に突然終止符が打たれた。お前は黒爛に襲われたのだ」
「黒爛!?」
「痛っ」
また黒爛の名前が出て、しかも襲われたとまで聞かされて、興奮のあまり上半身を起こすと、見事に白蓮さんの額と私の頭がぶつかって〝ゴツッ〟という鈍い音が響き渡った。
顔をゆがめて額を押さえる白蓮さんは、「あぁぁ」と情けない声を出している。
あんなに気持ちの悪いあやかしたちを相手に優位に戦っていた人とは思えない。
「だ、大丈夫ですか?」
「この、石頭め!」
うわっ、怒ってる……。
「ごめんなさい」
「嫁になるなら許してやる」
「なりません!」
油断も隙もあったもんじゃない。
この調子では、痛そうにしているのは演技なのでは?と彼の額に視線を移すと、予想より真っ赤になっていて、そういうわけでもなさそうだ。