◆◆◆

「それで、妖魔について教えてくれない?」
 龍彦が連れて行ってくれたのは、路地の外れにある酒場だった。
 鉄夜がいた大衆的な店とは異なる佇まいの店で、あやめたちが入店すると店主と思しき獣耳の生えた男の人が奥にある個室を案内してくれた。
 薄暗くてひんやりしたバーといったところだろうか。カウンターの奥にはずらりと酒瓶が並んでいる。どれも見たこともないラベルが貼ってあるが、『輸入品・ワレモノ・取扱注意』と書かれた棚にはあやめも見たことのあるウツシヨの酒が何本か置かれていた。
 個室のテーブルはよく磨き込まれていて、天井で回るファンがぼんやりと映っている。
「まぁ、慌てるなって」
 大きなジョッキになみなみ注がれた麦酒を半分ぐらい煽って鉄夜が口を開く。
 一言喋るたびに、ぐいぐいと麦酒を空にしていく鉄夜。
 ちなみに龍彦も同じ大きさの麦酒を注文したが、もうジョッキは空になっている。静かだけれど、いける口らしい。
 あやめの前に置かれているのは、例の『輸入品』の棚にあったものだ。アマレットという酒で、とろりと甘い杏仁豆腐の味がする。それをソーダ水で割ると濃厚でさわやかな味わいのカクテルになる。
「悪いね、あやめさん。信頼できる輸入品は酒くらいで」
「いえ、飲めないわけじゃないですし……甘くて美味しいです」
「それはよかった。ウツシヨ人がカクリヨの食べ物を口にしすぎると、あちらに帰れなくなってしまうから」
 龍彦が穏やかに微笑む。
「え?」
 初耳だ。
 あやめは手元のグラスと龍彦を何度も見比べた。
「私、さっきお茶とカステラを……」
「大丈夫、あれも輸入品。僕が自分で仕入れたものだから、間違いなくウツシヨの食べ物だよ。それに、厳密にはあまりたくさん食べたりしなければ大丈夫。カクリヨの食べ物ばかり食べていると、やがてこっちに魂が馴染んでウツシヨに帰れなくなるし……そもそも、純粋な人間はカクリヨの食べ物だけだと存在を保てないんだ」
「そういうこと、早く言ってくださいよ……」
 積極的にあちら……あやめが無職で、地味で、脇役の世界に帰りたいかといえばそうではない。そうではないけれど、問答無用で帰れなくなるとなると話が変わってくる。帰れなくていいと新しい世界に飛び込んでいけるのならば、それは脇役ではないのだ。
 あやめがゾッとしていると、鉄夜がぽつりと呟いた。
「ヨモツヘグイ、ってやつだな」
「よもつ、へぐい」
「世界中にある伝承だよ。あの世の食べ物を口にすると、この世に帰って来られなくなる。イザナギ神が死んでしまった奥さんのイザナミ女神をあの世に迎えに行ったのに、すでに黄泉の国の竈門で煮炊きした食べ物を口にしてしまっていたから連れて帰れない……なんていう下りが日本神話にもあるだろう。ギリシアのほうでは柘榴だったりするみたいだね」
「龍彦さん、くわしいんですね」
「ははは、探偵ってのは色々見聞きするから。あとはまぁ、カクリヨに住む者としてこれくらいはね」
「……ふん」
 鉄夜が二杯目の麦酒を半分空にしたところで、本題を切り出した。
「さて、ここんところ目撃されてる妖魔だ。まず、これを見ろ」
 鉄夜は黒羽織の懐から何かを取り出して、テーブルの上にころんと転がした。
 壊れているが、ペンダントのようだった。
 細いチェーンがついている。テーブルを照らす深海に一筋差し込む日の光のような明かりを鈍く反射して、なんだか上等なものに見える。
「安物だぜ、そのへんの露天で売ってるようなロケットだ」
「ロケット?」
「このペンダントの中に、小さな写真を入れられるんだ。大切な写真をいつも肌身離さず持っておきたいんだろうね」
 なるほど、とあやめは頷く。
 スマホの待ち受けのようなものだろうか。会社の同僚の中にも、スマホの待ち受けを家族の写真や恋人とのツーショットにしている人がいた。あやめの待ち受けは、買ったときのままの、どこともわからない海辺のイメージフォトだ。
「それが、写真は入ってねぇんだ。これが妖魔が出たあたりに落ちていたらしい。……調べたところ、カクリヨに来て間もない廃れ神らしい」
「廃れ神?」
「お祀りしてくれる人間がウツシヨにいなくなってしまった神様、だね。ヤマモトさんなんかも、元は廃れ神だよ」
「おそらくは、屋敷神……いわゆる、家の片隅で祀られてたお稲荷さんだろうってことだ。神使の狐の姿で流れ着いてきたのを見たってやつがいる」
「短期間で妖魔に……」
「よっぽど廃れ神になったのを受け入れたくなかったんだろうさ。何件かの酒場の給仕として雇ってやろうとしたらしいが、どこも長続きせずにいたらしい」
「ま、話好きの店主がいる店には話好きが集まるもんさ」
「さっきの店、何度か鉄夜くんに連れてってもらったけど、たしかに威勢のいいご店主だったよねぇ」
「ま、それがいいんだよ。酒もツマミも注文すりゃパッと出てくるしな」
「でも串焼きが生焼けだったよ……」
「少しぐらいなら死にゃしねぇよ」
「もう、鉄夜くん。僕らは本当のあやかしとは違うんだから気をつけないと」
「……ふん、元ウツシヨ人だってんでナメられたら仕事にならねぇよ」
 鉄夜がまた麦酒を煽る。本当に、旨そうに飲む人だ。淡々とジョッキを空にする龍彦とは正反対。あやめは二人のビールを見つめる。
「……あの、お二人はカクリヨの食べ物、食べられるんですね」
「んあ? この通り、がぶ飲みしてるだろ」
「龍彦さんも……? 元はウツシヨの人なんですよね」
 ピリッと、空気が緊張した。
 特に鉄夜の顔が険しいことに気がついて、「よくない質問だっただろうか」とあやめは自分の発言を後悔する。鉄夜の眉間の皺がグランドキャニオンみたいになっている。
「……まぁまぁ。とにかく妖魔になりかけているのはカクリヨにやってきてすぐの廃れ神ってことがわかった。収穫だよ」
 龍彦がはぐらかして、鉄夜の表情はすこしだけマシになった。
 どうやら、事情がありそうな二人だ。
 思わぬ冒険に舞い上がっていたけれど、今更ながらにこの状況への不安が首をもたげてきた。
「それにしても、原因はなんだろうね」
「原因、ねぇ」
 鉄夜が腕組みをして首を捻る。
 ゆったりとした黒羽織の袖に両腕を突っ込んでいるのは、精悍な体つきも相まってなかなか絵になっている。
「そりゃ、アレだろ。自分をクビにしたウツシヨと店への恨みつらみが溜まってたんだろうよ」
「ふむ」
「クビになるってのは、不安でたまらねぇぜ? もとは屋敷で大事にされてても、近頃は身近な神仏に手を合わすウツシヨ人も減ったからな。見捨てられた心持ちだったんだろうさ」
「それで、妖魔化しているか……ありえなくはなさそうだ」
 あやめは二人のやりとりを聞いて、俯いてしまう。
 仕事を失ったことの不安。居場所がなくなってしまうことへの悲しさ。──他人事とは思えないほどに、よく知っている気持ちだった。
 あやかしは、負の感情に心を呑まれれば妖魔になる。
 その廃れ神は、よほど悲しくて辛い気持ちだったのだろう。
 テーブルの上に転がっているロケットをそっと手に取ってみる。
 どうして、神様がこんなものを持っていたんだろう。
「……え?」
「ん、どうしたんだい。あやめさん」
 よほど壁が分厚いのか、清潔で涼しいバーの個室には外の喧騒は聞こえない。
 だから、あやめが耳を押さえた瞬間に、龍彦も鉄夜も首をかしげたのだ。 
「い……いやあぁあっ!」
「なんだ、どうした!」
「落ち着いて、あやめさん。息はできるかい?」
「あ……あぁ……声が……声が、聞こえる」
 そう伝えるのが精一杯だった。
 声が、聞こえるのだ。
 突然のことだった。まるで百人、いや、千人以上の人の声が、たった一人の声帯から絞り出されているような。耐え難い声が、頭の中でぐわんぐわんと響きわたる。

 どうして。
 どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
 消えたい。消えてしまいたい。
 消えたい、消えたい、消えてしまいたい。
 消えて、消えて、消えさせて。消えたい、消えたい、消えたい!

「きゃああ!?」
「大丈夫かい、あやめさん!」
 必死に耳を塞ぐ。
 深呼吸をして、気を落ち着けようとした。
 鉄夜が強張ったあやめの手からロケットをもぎ取ろうとする。
「おい、そのロケットから手を離せ!」
「う、うぁ……」
 ロケットが手から離れた瞬間に、割れるような音量の声が消えた。
 今のが、廃れ神の声なのだろうか。なんて悲しくて、なんて恐ろしい声なのだろう。
「……っ、ぅ」
「おいおい、こいつ……ロケットに残った負の感情に共鳴したのか?」
「ふむ……こちらに迷い込むくらいだから、君は霊力が高い子なのかも。いずれにしても、あまり悠長に構えていられないね。妖魔になりかけているっていうユキメさんを探し出そう。近くにウツシヨへの抜け道があるだろうから、あやめさんとはそこでお別れだね」
「は、はい……」
「その変装も、カクリヨから出れば解けるから安心していい。そしたら、ここで見聞きしたことは夢でも見たと思ってくれ」
「それは、その……ちょっと残念です」
「ふん。こんな場所からオサラバできるなら、いいじゃねぇか」
 鉄夜がジョッキに残っていた麦酒をぐいっと飲み干す。
 追加の注文はしないようだ。龍彦もジョッキを空にして立ち上がる。自分の前にあるロンググラスには、まだアマレットのソーダ割りがたっぷり残っている。あやめは焦ってグラスに口をつける。
 一気に飲み干すとさすがに酔っ払ってしまうだろうし、と悪戦苦闘していると龍彦がおかしそうに肩を揺らす。
「ふふ、無理して呑まなくていいよ」
「でも、もったいないです」
「じゃあ、こうしよう」
 あやめの手からロンググラスをひょいっと取り上げた龍彦が、アマレットのソーダ割りをぐぐっと一気に飲み干した。優しげな見た目からは考えられない、いい飲みっぷり。
「わぁ……」
 ごくごく、と上下する龍彦の喉仏に思わず見惚れてしまう。
「ふぅ、ごちそうさま。……では、さっさとユキメさんと帰り道を見つけようか。ちゃんと送り届けるから安心してね、あやめさん」
「は、はい……」
 こくこくと何度も頷く。
 龍彦は今までの人生で交流がなかったタイプの男性だ。というか、男性との交流自体があやめの人生では極端に少なかった。頬がぽーっとするのは気のせいだろうか、それともアマレットのソーダ割りのせいだろうか。
 そんなことを考えていると、鉄夜が面白くなさそうに「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「……けっ。お前と飲みに行くと、おねーちゃん総取りするから嫌なんだよ」
「え? 嫌だな、鉄夜君だってモテるじゃない。それに、あやめさんはそういうんじゃないでしょ」
「……はいはい。行くぞ、へっぽこ所長」
「あ、待ってよ鉄夜君!」
 ごく自然にあやめの手を引いて龍彦が走り出す。
 走ると視界がふわふわ揺れて、なんだか妙な気分だった。



 ──夕焼け空にサイレンが鳴り響いた。
 小さな店がひしめき合う路地、切り取られた夕焼け空、サイレン。
 その不穏な音が響いたのは、あやめたちがバーから出てしばらく歩いたときだった。
 人工的な電子音とは違う、ウーウーと人間が叫んでいるようなサイレンが不安な気持ちをかきたてる。サイレンが鳴り始めたとたんに、路地で飲んでいた人たちが散り散りバラバラに逃げていく。どこか避難所のようなものがあるらしく、「防魔壕はどこだ!」「いそげ!」と口々に叫んでいるようだ。
「これは……?」
「妖魔が目撃された、っていうサイレンだよ。カクリヨのあやかしたちは妖魔の負の心に蝕まれやすいから、こうして妖魔から逃げるんだ」
「龍彦さんたちは?」
「僕らはウツシヨから来た余所者だから、大丈夫さ」
 ゆったりとした口調で微笑みを崩さない龍彦。
 鉄夜は今まで腰に刺していた刀の柄に手をかけている。
「どうやらこのあたりに例の妖魔が出たみたいだね」
「いや、まだ妖魔になってはいねぇな。匂いが違う」
「それなら、どうにかあやかしに戻せるといいけど……場所は近い?」
「ああ。ってことは、カクリヨとウツシヨの裂け目も近いぜ。俺は妖魔のなりそこないを探す。お前は裂け目を見つけて、とっととその女を──」
「あやめさん、だよ。鉄夜君」
「……あやめを向こうに追い出せ」
「うん、二手に分かれるってことか。たしかに、あやめさんを危険な目には合わせられないな。行こう、僕から離れないでね」
「は、はい!」
 龍彦のあとについて、裂け目を探すことになった。
「あの、龍彦さん」
「うん?」
「裂け目っていうのは、すぐに探せるものなのでしょうか。見た目とか」
「あれ、言っていなかったっけ」
「聞いてないです」
 あはは、ごめん……と、のほほんと笑う龍彦。
 やっぱり、意外と抜けている。
「霊力のある人が見ればわかると思うよ。青い鳥居に見える」
「青い、鳥居」
 鳥居というのは、朱に塗られたものだ。
 それが青いというのは、たしかに妙に思える。
「突拍子もないところにあるから、見えたとしたらすぐにわかるさ。それに君、たぶんそれなりに霊力があるんじゃない?」
「そう、ですかね」
「うん」
 どきどき、と心臓が跳ねる。
 霊力が、ある。龍彦には、あやめがそのように見えているということだ。
 ──実家の仕事もできない、ひとりぼっちの、脇役の自分に。
 ふと、何かの気配を感じて顔をあげる。
 ざわざわと、あの声が聞こえる。

 消えたい、消えたい……と叫ぶ声が。

「あ、れは……」
 周囲を龍彦とともに走り回っていると。
 曲がり角をおれた、猥雑な看板が並んだ路地の奥。
 そこに、青い鳥居が立っていた。
 まるで内側から光っているような、不思議な青。
「おや、やっぱり見えてるんだ」
「は、はい……でも」
 それだけでは、ない。
 真っ黒い、まるで影と泥を混ぜたような……得体の知れないモノがいた。
 獣か、人かもわからない。
 泥が体の内側から湧き出しているように、ぼとり、ぼとり、と溢れている。
 生理的な嫌悪感にあやめは背筋を震わせた。
 なんだ、あれは。
 あんなの、知らない。
「ひっ……」
「あれも見えているんだ。いや、見えているよねぇ……帝都駅で、あんなふうになっているんだから」
「あれ、が、妖魔……? あんなの……あんなの……」
「完全に妖魔になれば姿が定まるんだけどね、あれは妖魔のなりかけだから……廃れ神が、負の感情に飲まれて妖魔に生まれ変わろうとしている、その途中だ」
 龍彦は事務所でお茶を飲んでいるときと変わらない声色で言う。
 カクリヨの探偵というのは、こんなものと日々向き合っているのだろうか。
「蛹の中身から引き摺り出された……って言えば、感覚に近いかな」
「そん、な……」
 さなぎになった芋虫は、蝶になるために一度自分の体をどろどろの液体にしてしまうという。蛹が破れれば、どろどろの液体が溢れ出る。
 あやかしが妖魔になってしまうというのは、さなぎもなしに体を溶かすような壮絶なものなのだと。
「危なかったね、ギリギリだ。鉄夜君に鳥居を守ってもらおう」
 龍彦はポケットから取り出した笛を強く吹いた。
 笛からは、音は聞こえない。
 しかし、すぐにその笛が機能したことがわかった。
「おっと、おあつらえ向きだったなぁ!」
 すたん、と。
 妖魔になりかけている廃れ神と青い鳥居の間に、鉄夜が着地した。
「さすがはうちの用心棒、到着が早い」
「ふん、お前ひとりじゃあっという間にオダブツだからな」
 鉄夜がぽきぽきと拳を鳴らして、にぃ、と物騒な笑顔を浮かべた。
「こいつをあやかしに戻して、そいつをウツシヨに送り返す……面倒ごとがいっぺんに片付くじゃねーか」
「まぁまぁ、面倒ごととか言わないでよ。鉄夜君」
 ゆっくりと龍彦がポケットから何かを取り出した。
 コンロに火をつけたり、あやめにめくらましの術をかけてくれたのとおなじ符だった。色々な色や形がある。
「下がって、あやめさん」
「は、はい」
 龍彦に促されて、廃れ神から距離を取る。
 すると鉄夜が、刀を抜いた。
 どろどろの影のような泥を刀で払い除けながら、廃れ神を鳥居から遠ざけていく。
 刀身がきらめくたびに、廃れ神は怯えたように後ずさった。
「あの人を、鳥居から引き離す。あの青い鳥居をあの人が潜ってしまえば、あの人は二度とカクリヨには戻れない。ウツシヨに出てしまえば、祓魔師によって……永遠に魂を消されてしまうからね」
「……止めないと」
 永遠に、魂を消される。
 その言葉にあやめは胸が締め付けられるように感じた。
「どうすれば、元に戻せるんですか?」
「話を聞く、言葉を聴く……その心の痛みを和らげる」
「え、それだけ!? 特効薬とかはないんですか? なんかこう、術とか符とか!」
「ないんだよ。この符も、縛ったり目眩しをしたりっていう話を始めるきっかけをつくるためのものだ」
「鉄夜さんが持ってる刀は?」
「護身用。あれで斬ったら、廃れ神は死んでしまうよ。人と一緒だ」
「そんな……」
 妖魔になりかけた廃れ神を見る。
 どろどろの泥の塊が、獣のような四つ足の姿をしている。あれと、話をするなんて。
 そんなこと、できっこない。
「龍彦さん、できるんですか?」
「うん、でも……かなり不味いかも」
 ごうぅおぅ、と声とも音ともつかない叫び声を廃れ神があげる。
 どろどろの影が、少しずつ道を這いながら何かを形作ろうとしている。
「あれって……」
「妖魔としての姿をとろうとしてるみたいだ! 鉄夜君、下がれ!」
「ちっ!」
 龍彦の声に、鉄夜が一度大きく刀を振るって後ずさった。
 刀からふるい落とされたのだろうか、地面にびちゃりと泥が落ちる。
「仕方ない……妖魔になってしまえば、ウツシヨに出る前にこちらで始末するしか」
 龍彦が声を振るわせた。
 それって、つまり龍彦と鉄夜が廃れ神を殺す──ということだろうか。
「あの、ダメです……ダメです」
 あやめは、無意識にそう呟いていた。
 龍彦の背中を押しのける。
「あ、あやめさん!? 危ない、妖魔は人を害するんだ」
「殺しちゃダメ! だってあの人……あの人、すごく苦しんでる!」
 あやめの頭には、ずっとあの声が聞こえている。
 消えたい、消えたい。
 それを裏返すと──助けて、と。
 そう言っている。
「おい、てめえ何やってんだよ!」
「あやめさん、戻って!」
 いや、それはできない。
 走る、走る。蠢く泥の前に立つと、身がすくんだ。
 けれども、あやめは手を伸ばす。
 あやかし──廃れ神が妖魔になる、ということがどんなに苦しいのか。
 見ているだけでも、聞いているだけでもわかる。
 それに。
「消えたいって思いながら、助けてって誰にも言えないこと……すごく、辛いですよね」
 指先が、泥に触れる。
 廃れ神の記憶が、気持ちが、流れ込んでくる。
 久しぶりの、感覚だった。