よく手入れされた純和風の邸宅。
 その片隅に、小さな社があった。
 赤くて可愛らしい大きさの鳥居と、その奥に祀られた神様。
『ユキさん』
 幼い男の子の声がする。
 身なりのいい、洋装の男の子。歳のころでいえば、一二歳ほどだろうか。
 その視線の先には、真っ白い狐がいた。
 その狐がユキさんで……この記憶の持ち主だと、あやめは直感した。
 あやめが生きているよりも、ずっと昔の時代みたいだ。
『おまえ、また油揚げ盗んできたのか。おまえらもひもじかろうに』
『何を言ってるんですか。ユキさんは、ずっと我が家を守ってくれていたし、これからもそうなんでしょ。だったら、お供えは欠かしちゃいけないよ』
『ふん、今どき珍しいほどに信心深いやつじゃな』
『だって、どういうわけか僕には見えるんですもの』
『不思議なやつじゃな、おまえは』
 少年は人とは少し違った目を持っているようだった。
 見鬼眼、といわれる能力だ。この世……ウツシヨのものではない存在を認知しることのできる特別な目。
 ユキさんの記憶にある彼は、そんな能力を持っているらしかった。
 形式上しか手入れがされていなかった屋敷神の社にユキさんを見つけた彼は、足繁くお供物と信心を繰り返しながら成長しているらしかった。
 しばらくおしゃべりをしていると、少年がおずおずと切り出す。
『……こんどね、父上が前線に行かれることになったんです』
 前線、というのは戦地のことだ。
 おそらくユキさんの、戦時中の記憶なのだろう。
『ぼく、かならずユキさんにお供えをするから。だから、父さんを生きて返して』
『屋敷の外のことまでは約束できないが、そうしよう』
 ユキさんはあいまいに頷いた。
 男の子は嬉しそうに笑った。
 ユキさんのくすぐったいような気持ちが、あやめにも伝わってくる。

 目の前がぐにゃりと歪む。
 悲しい気持ちが増幅した。
 ユキさんは、霊力をつくして戦場を駆けた。
 何度も少年の父親を弾丸から守り、飢えからこっそりと救った。
 いよいよ前線が死地に様変わりしそうなところで、少年の父親の足の腱をユキさんが噛みちぎった。そうするしか、助けられないと判断したのだろう。
 ユキさんの父親は、無事に家に帰った。
 それが悲劇のはじまりだった。

 月夜だった。
 少年はいつものように、屋敷の片隅にあるユキさんの社を訪れた。
『ぼくが出征することになったよ、ユキさん』
 その頃には、少年は青年に成長していた。
 まだまだ、あやめの感覚では少年だ。高校生くらいだろうか。
 けれど、当時の社会ではじゅうぶんに「一人前の男」なのだと、その口ぶりからわかった。
『……そうか』
 少年は、小さな油揚げの切れ端が乗った皿をことりと社に備えた。
 ユキさんのために油揚げを調達することも難しくなっているだろうに、彼はどうやっているのかは知らないがお供えを欠かしたことはなかった。
『お願いします、我が家の屋敷神様』
 少年は厳かに手を合わせる。
 彼にだけ見える、真っ白い狐の神様に頭を下げる。
『……言うてみよ、お供えの分は働こう』
 ユキさんは期待していた。
 また、戦地に赴く者を守ってくれと言われることを。彼の父親を、遠く離れた外国の地でユキさんが守ったように。
 けれど、少年が口にした願いは違ったのだ。
『どうぞ、この家をお守りください』
『……なんだと』
『屋敷神様が家を守ってくれるなら、僕は安心して戦地に行けます』
『ま、まて!』
 屋敷神は、その家の守り神。
 その家のものが願をかけてしまえば、その通りのことを成さざるをえない。
『油揚げ、少なすぎるかな』
『……ああ、そうじゃ』
 少年の困ったような顔に、ユキさんは俯く。
 美しい白い毛並みが月光に輝いている。
『何がお供えできればいいだろう」
『き、金じゃ! 屋敷をまるごと守るなら、金銀の供物。それができなければ、人一人くらいしか守らんぞ』
 ユキさんは、小さな嘘をついた。
『貴金属なんて……そうだなぁ』
 少年はポケットからあるものを取り出した。
 ロケットペンダントだった。
 鈍色に光る安物で、少年が立派な軍服を着ている写真が収まっていた。
『これは……?』
『ロケット。許嫁にやろうと思っていたのだけれど、ユキさんにあげる』
 ユキさんは耳を震わせた。
 少年の許嫁のことは聞いていた。気立てのいい優しい子だと。
『未亡人にするには忍びないから、もしも僕が帰ったら一緒になることにしているんだ。どうか、ユキさん。我が家をお守りください、どんな形であれ僕が帰る場所があるように』
『……あい、わかった』
 嘘に、足元を救われた。
 出した条件を満たされれば、屋敷神はその願いを聞き届けざるを得ない。
『それでは、家を頼みます。僕の屋敷神さま』
 ユキさんの首に、少年はそっとロケットをかけた。
 国のために死んだら、英霊になれるのだと。
 英霊になって苦しみのない国に行くのだと。
 ユキさんを安心させるように、そんな御伽噺をしながら。

 少年は、翌日出征して行って──二度とは帰らなかった。

 ユキさんは約束を守った。
 空から降り注ぐ火の雨から屋敷を守った。
 少年の家族の命を守った。

『それなのに、どうして! あんなに優しい子を、守れなかった……』

 ユキさんはずっと苦しんでいた。
 なんて愚かな屋敷神。なんて無力な白狐。
 消えたい、消えたい、どうして、どうして。
 いっそ、消えてしまいたい。
 そう願いながら長い時間を過ごして──ユキさんの社は、廃れていった。
 少年の家族は、少年を戦地から帰してはくれなかった屋敷神への信心をすっかり失ってしまったのだ。
 少年のくれたロケットに籠った心が、かろうじてユキさんをウツシヨの神として形作っていた。それは、余計にユキさんを苦しめた。
 やがて屋敷がビルディングになるために取り壊されて、ユキさんは廃れ神としてカクリヨへと下ったのだった。



『ぎ。えだい、あ、あぁぁあっ!』
 悲痛な叫び声が路地裏に響く。
 龍彦がそれを信じられないものを見るような目で見た。
「これは……? ほとんど妖魔になっていた廃れ神が、喋った……?」
 一度はまがまがしい妖魔の姿を形作っていた黒い泥が、また形を失って流れ落ちている。ぼとぼとと零れ落ちるそれに触れるたび、狂おしいほどの悲しさがあやめを襲う。これが、廃れ神の……ユキさんの、悲しみ。
「そんな……あなたは、悪くない。できるかぎりをして、彼の心に応えたじゃないですか……消えたいなんて、言わないで──ユキさん!」
 ユキさん。
 その言葉に、ぴたりと泥の動きが止まる。
『どう、して、おま、えが、……その、なまえ……? あのこが……いとしい、あのこがつけた……ああああああああ!』
「大丈夫です、きっと……きっと助ける。あなたの心は十分に苦しみました。妖魔になんて、ならないで……!」
 あやめの言葉がユキさんに届くたび、泥がぼとぼとと糸を引いてこぼれ落ちる。
 後から後から湧き出てくるようにみえた泥の総量が減っているように見えた。
 鉄夜が叫ぶ。
「おい、龍彦! 説明しろよ、なんだこいつは!」
「わからない。でも、やっぱりあやめさんは──祓魔師だったみたいだね」
「……は?」
 ああ。やはりバレていた。
 あやめの実家の家業というのは、祓魔師だ。
 人間たちの世に出現する妖魔を祓う、退魔の血筋。
「いえ、私は……なりそこないの、ただの会社員、です。失業したけど……」
「東條……『討』『浄』をかかげる、祓魔師の名門だと聞いたことがある。それに、あやめという名は妖魔を『殺める』名跡だとも」
「ちっ、そういうことかよ。おかしいと思ったんだ、カクリヨに来ても落ち着きはらってやがるし、妖魔になりかけのやつに触って平気でいられるわけねぇんだから!」
「すみ、ません……黙ってて。でも、今は私にやらせてください。祓わずに、救う……ことが、できるかも……!」
 あやめの腕が、ずぶずぶとユキさんの泥に沈んでいく。
 その指先が柔らかい毛並みに触れた。あの白く輝く狐の毛並み。
 あともう少しで、あやかしに戻せる。
『嫌だ、嫌だ! このまま消えたい、消えてしまいたい……誰も守れぬ我など、消えてしまえばいい!』
「違う! あなたは消えちゃいけない……こんな気持ちのまま、消えちゃ……」
 そのとき、あやめは思い出した。
 ロケット。ユキさんの持ち物だったロケットは、今は鉄夜が持っている。
「鉄夜さん!」
「な、なんだよ」
「さっきのロケット、私に貸してください!」
「は?」
「いいから、早く!」
 あやめの剣幕に、鉄夜がロケットを手渡してくる。
 受け取った左手ごと、泥の中につっこんだ。右手を引き抜くことができず、泥に顔を埋めるような格好になる。息が苦しいが、そんなことに構っている暇はなかった。
『……これ、これは……ああ、ああ……!』
 もう写真が失われてしまったロケット。それでも少年の信心は、まだ籠っている。ユキさんを、恐ろしい妖魔になることから救うほどには。
 黒い泥が、弾ける。
 夕空の下、美しい白い狐が照らされる。
「……もど、った」
「嘘だろ、あの状態から……」
 ユキさんの声が、あやめには聴こる。
『──救いたかった。助けたかった』
「……はい」
『ただ、それだけだった。もう、苦しいのじゃ』
「はい……」
『だがあの子の心は……我にまだ生きろという……」
 その声は龍彦達には聞こえていないようだった。
 あやめの頭に、心に、直接響くように聞こえてくる。
『おまえ。おまえも同じような痛みを持っているのじゃな……』
「え?」
『消えたい、苦しい、それでも……本当は誰かを助けたい。お前の心は、そう言っている』
 ユキさんの体が、きらきらとした光を帯びる。
 光の粒があやめに降り注ぐ。
『霊力の強い血筋ならば、この力も持て余すまい』
「え、ちょっと……まってください、何を」
『我は休みたいのじゃ、あの子のおらぬカクリヨで生き続けるなど……したくない。我が魂をおまえに預けよう──東條あやめ』
 瞬間。
 ユキさんの姿が消えた。
 禍々しい妖魔も、美しい白狐も、もうどこにもいなかった。
「……ユキさん?」
 けれど、祓われたわけではない。
 龍彦があやめを指差して、ぽかんと口をあけている。
「あ……龍彦さん、すみません。勝手なことを」
「あやめさん、その姿……!」
「え?」
「間抜けヅラしてんじゃねーよ、見てみろ……お前、憑かれちまってるぞ!」
「疲れ……?」
 疲れてはいるけれど、今までに感じたことのない達成感があるのだけれど。
 鉄夜があやめの腕を引いて、ユキさんから溢れ出した泥がすっかり澄み切ってできた水溜りの前に立たせた。
「……え?」
 美しい夕焼け空と、空高く走るモノレール。
 そして、見慣れない顔。
 金髪で、狐耳。
 ただ、顔は……見飽きるほどに見ている、あやめ自身の顔だ。
「え、ちょちょ、ちょ! 待って!」
 思わず、尻餅をつく。
 痛みはなかった。もふもふの尻尾が、クッションになってくれたのだ。
 狐耳と尻尾。毛並みはどう見ても、ユキさんのもの。
「あばばばばば!?」
 あやめの慌て具合に、鉄夜が「ぶふっ」と吹き出す。
 龍彦がしげしげとあやめの姿を眺めて、興味深そうに頷く。
「ははぁ……いわゆる、狐憑きだね。普通の人間なら、霊力に耐えられずに正気を保てないけど。さすがは東條の祓魔師だね」
「で、ですから祓魔師のなりそこないなんですって……って、そんなことはどうでもよくて! これ、なんですか!」
「なにって、そうだねぇ……霊狐の力を得た、ってことじゃない? 詳細はわからないけどさ」
「えええ……そんな……」
 青く輝く鳥居が、悠然と立っている。
 それをくぐればウツシヨに帰れる──らしいけれど、こんな姿で戻ったら大騒ぎだ。
「うぅん、さっき言ってたけど、失業したんだって? あやめさん」
「は? ええ、そう……ですけど」
「おい、龍彦。お前、妙なこと考えてるんじゃねぇだろうな」
「ううん、全然妙じゃないよ」
 龍彦が水溜りの前で座り込んで震えているあやめの前に、手を差し伸べる。
 にっこりと柔和な笑顔を浮かべて。
「東條あやめさん、よかったらうちで──楢崎探偵事務所で働きませんか?」
「……え?」
「あやかしを殺めない祓魔師の血族なんて、聞いたことがないよ。君の力を借りられない?」
 龍彦はあやめの目をじっと見つめて、言った。
「他の誰かじゃなくて、君が必要なんだ──東條あやめさん」
「……は、」
 気がついたら、その手をとっていた。
 ウツシヨに帰ることは、いつでもできる。
 けれど──求められている場所に、私はいたい。

 カクリヨ。帝都。
 あやかし探偵。

 人生の脇役だった東條あやめの生活が、変わりそうな──そんな予感がする夕暮れの空。