自身の腕を枕に眠る新貝の寝顔を見下ろした。追い立てられ走り続け、蓄積された疲労が色濃く浮かぶ顔は、なぜだかとても幼く見えた。
 どんなに肥え太ってもなくならない飢えと渇き。強いものを倒し、弱いものを悪しざまにして、盗れるだけ取っても満足できない。安心できない。もっと上へ、もっと上へ、もっともっと……尽きせぬ渇望を持て余して身を焦がす。
 その道にゴールはない。それでも走る。
 彼は全てを変えたかったのだ。彼は幸せになりたかったのだ。彼は……命より大事だと信じ、護り救おうとして救えなかった魂を、もう一度救おうとしていたのだ。そんなこと出来ないとわかっているのに。
「新貝さん……」
 声をかけても新貝は目を覚まさない。痛ましいほど、その眠りは深い。胸が苦しい、息さえ詰まる。彼の歩いて来た道を思うと、その険しさに押しつぶされそうになる。もう終わりにしていいはずだ。終わらせることが彼を救うただ一つの道なのかもしれない。

「イザーク……イザーク・ノィシェル」

 小声で呟くように発した言葉に、新貝の眉がピクリと反応した。痙攣するようにびくびくと震え、やがて眉間に皺がよる。
 苦しそうに、切なそうに、何度か瞼を震わせ、新貝は目を開けた。

「……お前か」
「はい、新貝さん」
 顔を上げた新貝のひたいに、銃口を押し付ける。新貝はさして動揺もせず、静かな目をしていた。
「俺を殺しにきたか」
「はい、新貝さん」
 助かる気がないのか、それともここに及んでも勝算があるのか、新貝は逃げない。その理由がわからず、気が落ち着かない。
 こちらの動揺を察してか、新貝はゆっくり起き上がり、草むらに胡坐をかいた。ボロボロになった白いシャツから煙草を取り出し、口に咥える。きっと最後に残った一本なのだろう、煙草自体もボロボロのぐしゃぐしゃだ。
 煙草を咥えた新貝は暫く自身の衣服を探っていたが、探し物は見つからなかったらしい、おもむろに顔を上げ、火はないかと尋ねた。
「どうぞ」
 懐にしまってあったライターを取り出して火を灯す。新貝はその炎を切なそうに見つめながら、ゆっくりと火を受けた。
「新貝さんともあろう人が、手ずからですか」
「こういうのは人にやらすもんだろ」
 思わず呟くと、新貝はニヤリと笑った。いい笑顔だ、つい、気も緩む。
「顔色、良くないですね、疲れてるんじゃないですか」
「疲れてるさ、筒井組はしつこいし、てめえらは好き勝手、誰も人のことなんか気にかけちゃない、まったく」
 少しは労われよと新貝がぼやく。いつも隙なしで弱みなど見せることがない男の愚痴を聞き、胸の奥に湿った空気が雪崩れ込む。やはり自分はこの男が好きなのだと思った。
「やるなら早くやれ」
 煙草を吹かしながら新貝が急かす。殺しに来たはずなのにそう言われると引鉄を引く指に力が入れられない。
「吸い終わるまで待ちますよ」
 最後の一本なのでしょうと話すと、新貝はご親切ありがとよと小さく答え、しばらく黙って煙草を吹かしていた。だがそれもすぐに費える。短くなった煙草を湿った土で揉み消し、新貝は俯く。
「やれ」
 早く殺せと新貝は言う。指先はますます動かなくなった。彼を死なせたくないと素直に思う。しかし生かしてもおけない。
「なにか話があったのでしょう? 聞きますよ」
「消えてく人間の戯言なんぞ聞いてどうするよ」
「話してください」
「ふん」
 言ってくれと話しても新貝は不貞腐れたように口を曲げ答えない。どうも機嫌を損ねたようだ。まったく、子供みたいな人だなと半分呆れながら、胡坐を組んでいる新貝と目線が同じくらいになるようにその場にしゃがみ込む。銃はズボンのウエスト部分へ差し込んで仕舞った。
 彼の顔が正面から見える位置に座り、もう一度、話してくださいよと頼むと、暫くの沈黙ののち、彼はしょうがねえなと呟きながら顔を上げた。

「虐待のない世界なんぞ、作れない」
「そんなのわからないでしょ」
「わかるさ、無理なんだよ」
「初めから無理と言ってたら、永遠にできません」
「無理だ、この世に人間が何人いると思う? その一人一人を見張るのか? できねえだろ、俺たちに出来るのは、せいぜい目に映る僅かな愚か者を消すことだけだ」
「そう言って、新貝さんは僕を助けてくれた」
「そんなおこがましいもんじゃねえよ、ただ生きのびることの出来る道を作ってやっただけさ、進むか留まるかは本人しだい、そこまで面倒見る気はねえ」
「でも、示してくれた、そして今までもずっと、僕たちの手助けをしてくれた、子供の僕たちを利用してるふりしながら、ずっと、僕たちが上手くやれるように見守っててくれたんだ」
「俺がそんなお人よしに見えるのか?」
「見えませんんね」
「そうだろ」
「あなたは弱くて優しい人だ、身内の不幸を見過ごせない、自分の知ってる人間が苦しむ姿を見ていられない、自分が不利になるとわかってても、助けてしまうんだ」
「そんな間抜けじゃねえよ」
「あなたが助けたいのはゼノだけなんですか? フィーンは? オウガは? 彼らはどうなんです? 彼らだって同じ、虐げられた不幸な子供でしょ」
「そうかもな、けど俺は会ったこともないガキの面倒をみるほど善人じゃねえんだ」
「つまり、あなたがゼノだけを救おうとするのは、ゼノにだけはちゃんと会ってるからですか?」
「かもな……だが出来ることには限度がある、お前たちはやり過ぎたんだ」
「だから殺すと?」
「お前がおとなしくするならそんなことしねえさ、だがお前、やめる気ねえだろ?」
「そうですね」
「じゃあ、やるしかねえだろ」
 つまらなそうにそう言った新貝は、胡坐をかいた体勢から一変、くるりと姿勢を変え、立ち上がった。あっと気づく間もなく数メートルも遠退く。
「抵抗するんですか? 早くやれって言ってたくせに」
「言ったさ、だがお前ら止めないだろ?」
 悪い子にはお仕置きが必要だと新貝は言った。わからないではない。確かに自分たちはやり過ぎている。このままいっても待っているのは破滅だけだ。
 だが振り上げてしまった拳の降ろしどころがわからない。ここまで来たらやり切るしかない。たとえ行く先が破滅でも、もうやめることは出来ない。
 そして、続けるために、新貝は邪魔なのだ。
「では、こちらも遠慮しません」

 日も傾き、薄暗くなってきた河原に風が吹く。大人の背ほどもある雑草たちがざわざわと靡く河原の下層と上層で、二人は一瞬、瞳を見交わした。見下ろす者と見下ろされる者、戦いたくないという本音《おもい》と、殺《や》らなければならないという思いが交錯し、時間《とき》は少しだけ歩みを緩めた。見交わす瞳にはそれぞれにためらいの色が見える。
 じりじりと迫る夕暮れの中、先に動いたのは新貝のほうだった。

 風が滲むように左右に流れ、あたりが赤黒く染まる。禍々しい熱気で河原の草が焼け焦げる。それが比喩でなく現実なのが恐ろしい。彼は本物の怪物だ。本能で鳥肌が立った。
「ヒャッフーッ!」
 熱にやられ萎れていく雑草たちに見とれ、つい反応が遅れた。その隙に新貝は視界から消え、ハッとした瞬間頭上から甲高い声が降ってくる。鉈のように大きな切っ先が目のまえに迫り、焦りで体が竦んだ。
 ここで避けなければ殺られる。
 身体を捻り、辛うじてそれを避けたが、大勢が悪かったらしい。バランスを崩し地面に転がる。切っ先はそれを見逃さず追ってきた。
 右肺のすぐ近くを切っ先が掠める。倒れた姿勢のまま、地面を転がり、切っ先から逃げた。体中の毛穴から嫌な臭いの脂汗がドッと噴き出す。切っ先は逃げても逃げても追ってくる、一センチ先にある死を連想した。
「どうした? 遠慮しないんじゃなかったか? 死にてえのか!」
 後ろに逃げれば後ろに、右に逃げれば右に、左に逃げれば左に、行く先々に新貝は先回りして現れ、そのたび切っ先が繰り出される。反撃しようにも体勢を整える間すら取れない。このままではやられる。なにか切っ掛けが必要だ。少しの間でいい、彼の動きを止めなければ……。
「あなただって変えたかったはずだ、だから僕らに手を貸した、そうでしょ?」
「かもな!」
 必死の叫びに新貝も答えた。ナイフを突き出しながらも一瞬、目が迷う。だがまだ隙とは言えない。もう一押しが必要だ。
 逃げ回り走り続けているうちに水際まで行きついた。ここで踏ん張らなくては落ちる。いや、いっそ……。
「あなたは世界を憎んでる! 自分から全てを奪った世界を恨んで、壊したいと思ってる、ずっとそうだった」
「ああ、そうだな」
「なぜここでやめるんです! まだなにも壊せてないじゃないですか!」
 これからだってまだやれる、一緒に世界を壊す鬼として生きようと怒鳴ると、新貝は瞬間、動きを止めた。その顔には隠しきれない疲労の色が見て取れる。
「いいか、小僧、世界は広いんだ、俺やお前なんぞ蟻んこほどにも満たねえくれえ、デケエんだよ」
「だからなんです? 蟻だって象を噛み殺すことが出来る、やってみなけりゃ変わらない!」
「バカかテメエは? その象だって、世界から見りゃ塵と同じだ、どう足掻いてもなにをしても、世界なんぞ変えられねえんだよ!」
「だから? だから最初から諦めると? それこそ馬鹿だ! 新貝さん、あなたはそんな臆病者だったんですか!」
 新貝の口からそんな弱気な科白を聞くとは思わなかった。
 怒りのままに叫び、動きが止まっていた新貝に掴みかかる。不意を突かれ倒れかかった新貝は、よろめきながらも押し返して来る。暫くそこで揉み合いになり、やがてバランスを崩して二人ながら川へと落ちた。
 羅梵川は深い。大きな水飛沫をあげ、いったん水底へと沈んだ二人はお互いに掴みかかりながらも水面を目指す。途中何度も水に流され藻に引き摺られ、肺にまで水が入り込んで来た。苦しくてたまらない。死ぬ。このままでは息が続かない。死んでしまう。死にたくない嫌だ!
 何度も死を連想し、何度もそれを否定しながら足掻き、ようやく水面が見えて来くる。あそこまで行きつけば助かる。咄嗟に手を放した。
 殺し合いなんてしている場合じゃない、まずは生き残れ! それだけを考えて浮き上がる。
「ぷはっ……っ」
 水から顔を出し、咳き込みながら見上げた空は暗かった。太陽はもうとっくに地平の彼方へと沈んだようだ、どんよりと曇った世界には風もなく、音もしない。力を抜き、水面に横たわるように浮かんだ。無駄な力が入るとそこから水に沈んでしまうので、努めて冷静に、呼吸もゆったりとに努め、体力の回復を待つ。
 暫くそうして意識がしっかりしてきたところで身体を起こし、岸を目指した。羅梵川は川幅が広く、水量も多い。だがその分、流れは緩やかなので、それほど流されてはいなかったらしい。舞い戻った岸からは、まだあの排水溝が見えた。
 はあはあと息を切らせ岸辺の土を踏む。二、三歩進んだところで力尽きてそのまま土の上に座り込んだ。無意識に睨んだ川面は暗く、星のない空との境界線すら見えない。遠くに光る町明かりで、ようやくそこが川だとわかるくらいだ。
 疲れからか、思考が進まず、ただぼんやりと川面を見ていた。だがどのくらいたったころだろうか、あたりが静かすぎることに気づく。人の気配がしない。死せる静寂……。
 新貝はどうなった? まさか、沈んだ《しんだ》のか?
「新貝さん……?」
 呆然と立ち上がり、水辺に進む。また落ちては敵わないので、水から少しだけ離れた位置で立ち止まって目を凝らした。川は緩やかに流れ続け、風も吹かない水音さえ微かにしか聞こえない。背筋が凍り、息苦しさに首を振る。まさかと思うと心臓が痛くなった。
「新貝さん……新貝さん! ぃ、イザーク!」

────んで、そいつを知ってんだよ……。

 叫んだ途端、左側の水際付近で聞きなれた声がした。新貝だ。慌てて走り寄る。
「イザ……新貝さん」
「……っせえな、なんで知ってんだ?」

 新貝はいつか矢島の言ったとおり、南国からの難民、密入国者だった。
 彼がこの国に流れ着いたのは風向きや潮流を考えればあり得ない、天文学的偶然の齎す幸運からだ。長い漂流の間に仲間のほとんどは死に、生き残っていたのは新貝ともう一人、小さな痩せこけた少年だけだった。そのとき新貝は八つほどだったらしい。正確な年齢はわからない。本人も誕生日を知らないからだ。
 彼の生まれた国は貧しく、多くの子供が親から見捨てられ飢え死ぬか病気や怪我で死ぬかしていた。生きるために盗みや売春を繰り返し、性病や疫病にかかり死んでいく。まともに働こうにも住所不定、身元不明の子供に働き口などない。仕方なく犯罪に手を染めては警官に追われ、多くはその場で殺された。政府も警官も綺麗で上品な一部上流階級の味方であり、住む家もその日食べるモノもないマンホールチルドレンになど同情もしない。それどころか虫けら、害虫くらいにしか思っていないのだろう。犯罪を犯していなくても、見つけただけで捉えられ、運が悪ければ殺された。そんな毎日から抜け出すため、新貝《イザーク》は密かに古木を集め、粗末な筏《いかだ》を作った。そしてまだ動ける数名の仲間と共に、新世界を目指して船出したのだ。そしてこの国に流れ着いた。
 多くの者は死んだが、一人は助けられた。その幸運を胸に、上陸した新貝《イザーク》は、やがて接触した大人に連れられ、身元不明児として国の施設に引き取られた。そこで「新貝幸人」という名を与えられる。保護してからなにも話さず質問にも答えない新貝を、何らかの理由による記憶喪失と判断してのことだ。新貝はそこで言葉を覚え、生活習慣を覚え、立ち回りを覚え、十五歳で施設を出た。そして現在に至る。
 その間に彼が何を考え、何を目指して生きてきたかは、憶測でしかない。だがたぶん、彼は変えたかったのだ。虐げられ、ただボロ屑のように死んでいく子供のいない世界に……。そのために力をつけ、仲間を増やし、会社を興して頑張って来た。
 だが生きること、勢力を広げること、仲間を護ることに必死になり過ぎ、いつの間にかに志も薄れた。そしてそんなとき、彼は晴《ゼノ》に出会った。
 あの頃の自分がそこにいる。
 新貝はそう感じたのかもしれない。だから晴を助け、手を貸した……たぶん、そういうことだ。

「なんで知ってるんだと聞いてるだろ」
 黙り込んでいると、新貝は焦れて睨んできた。まだ立ち上がる力はないらしい。だから岸辺に転がったまま、目だけで吠える。子供っぽい拗ね方だ。
 こういうところが彼の憎めない部分なのかもしれない。強さだけではない、思いがけない弱さや子供っぽさが、人を惹きつける。護らなければ、ついて行かなければという気にさせる。運命の女神さえ、彼の魔力にかかり、手助けしてきた。それが今日までの強運をもたらして来たのだとすれば羨ましい。
 だが、その運も、尽きてきた。理由はわかっている、彼が自分らに肩入れし過ぎたからだ。彼の破滅は自分たちのせいなのだ。そう思うとさらに胸が痛んだ。
「人に聞いたんですよ、と言うか、昔、あなたをそう呼んでいるところを見たことがあるんです」
「立ち聞きか、躾が足りなかったらしいな」
「すみません」
「で、調べたのかよ」
「はい、彼の中に入って、ある程度読めました」
「ちっ、バケモノめ」
「あなただって同じでしょう?」
 あのとき、新貝はこの身体に入り込み支配した。専住者である自分らを封じ込め、この身体で草薙を殺そうとした。(結果的にそれがゼノを目覚めさせることに繋がった) しかも本人はその場にいず、精神だけ飛ばしてやったというのが恐ろしい。
 いつから彼がそんな力を使えるようになったのかはわからない。逃げ出して来た南国にいたころからか、この国についてからか、なにがきっかけだったのか……だがそれはフィーンと同じ力だ。
 フィーンも他人に憑依できる。それは彼女が霊体だからだろう。しかし彼はそうじゃない。それなのにフィーンと同じく他人に憑依し、支配出来る。そしてフィーンと同じく、人間的にあり得ない運動能力と腕力を発揮する。いや同じではない、彼はフィーンより強い。
 その力は脅威だ。これがある限り、彼は無敵。今見逃せばまたいつ支配されるかわからない。そんなリスクは負えない。
 殺るべきだ。
 もう一度、心の中でそう強く思い、拳を握った。
「……ちがいない」
 地面に転がったまま。新貝は眠そうな目で空を見つめて答えた。彼の見上げる空は分厚い雲が鬱蒼と群れている。その雲の小さな隙間に微かな光があった。奇跡的に一瞬だけ顔を見せる星が一つ。その光を真っすぐに見つめ、小さく呟く。
「ああ、疲れたな……少し、眠っていいか?」
「いいですよ」
「そうか、じゃあそうさせてもらうわ」
「ええ、お疲れ様でした新貝さん、今までありがとうございます」
「ありがてえと思うなら、早く楽にしてくれよ」
「……はい」
 死なせたくないな……この期に及んでそんなことを考えながら、ズボンの後ろに仕舞い込んでいた銃を取り出す。新貝はそれを懐かしそうに見返した。
「俺が渡した銃、ちゃんと持ってたか」
「はい」
 そいつで今、俺を撃ってもいいんだぜ。彼はそう言いながらこの銃をくれた。いつか必ず使う日がくるからと……それは、こんな日を、予見していたからなのか?
 暗い気持ちを奮い立たせながら銃を構える。すると新貝は、狙うなら心臓《ここ》じゃない、ここだと額《ひたい》の真ん中を指差した。
 死に損なったらメンドクセエからなと新貝は呟く。はいと答えながらも引鉄が引けない。殺したくない。死んでほしくない。そんな考えが頭を過り、何度も躊躇った。それを見て新貝がまた笑う。
「おいおい、いい加減にしろ、撃ち方のレクチャーが必要だとか言うなよ?」
「言いませんよ」
「なら早く撃て」
「はい」
 それでも撃てない。
 もうやめよう。
 新貝さん、もうやめてください。また一緒にやっていきたいですよと言いかけた。だがそのとき、新貝は急に真顔に戻り、腹の底から出すような太く強い声で言った。

「躊躇うくらいなら最初からやるな、オウガ」

……え?

「お前はオウガ、いや、沢村銀だ、もう気づけ……」
 新貝の言葉に、そんな馬鹿なと水面を覘く。途端、一陣の風が吹き、雲間から月が顔を出した。
「…………」
 水鏡に映し出されたのは、頬に火傷の痕がある痩せた男の顔だった。


 ***


 重田の報告と通報によって回収された骨は矢島の手を経て科捜研へ渡り、鑑定された。
 残された骨はあまりに少なく、身元の判定は無理だったが、推定年齢三歳から五歳の人間の子供の骨であるとだけ、証明される。骨と一緒に回収された衣服のタグから、サイズ100という文字が読み取れたのも、その裏付けとなった。血液型はB、遺体の損傷が激しすぎて断定はできないが、死後一年から十年とされた。
 その範囲なら石崎晴の遺体と想像しても無理はない。母親のカルテから、当時の晴の年齢は十二歳と推定されるが、虐待児童は実年齢より異様に小さい場合が多いので、それも誤差の範囲だろう。血液型も晴の両親のそれから想像して矛盾していない。
 だが、それは想像と思い込みによる結論であり、客観的に見ても、その遺体が晴であるという証拠は何一つない。仮に晴だと証明できたとしても、それがどうしたという事態だ。遺体がこの状態では、自殺か事故か、或いは殺人かなど、判別も出来ない。事件性ありとされたとしても、唯一の容疑者たりうる石崎夫妻はもういない。どうすることも出来はしないのだ。
 しかし、FOX事件に関してだけ考えれば、進展はあると言えた。
 晴《ゼノ》が死んでいるとすれば、FOXの正体はオウガかフィーンのどちらかということになる。オウガ=沢村銀は一度逮捕されているので実在の人物だ。指紋も取ってある。反してフィーンにはその存在を証明する手立てがほとんどない。フィーンがいると証言しているのはオウガのみ、髪の長い少女を見たという証言もあるが、それも抽象的で曖昧だ。本当に見たと証言できるものはまずいない。矢島の情報屋だったウサ子が赤い髪の女子高生とフードの男という謎の言葉を残してはいるが、それも曖昧過ぎる。唯一、FOX最後の犯行とされる佐藤順子の犯人は赤い髪の女という証言だけが頼みの綱だった。
 しかし時が経つにつれ、その証言も怪しくなってくる。最近になって彼女は、犯人の顔が思出せないと言い出したのだ。小柄な女だったとは思う、だがそれも本当にそうだったのかと聞かれると確信が無くなったという。

「でも、女の声だったのは覚えてるわ、顔は思い出せないけど、女よ」
「どんな声だった? また聞けばわかるか?」
「それは……」

 女の声だった。女だったと思う。たぶん……彼女の証言は回を追うごとに曖昧になり、最後にはもう聞かないで、わからないと泣き出した。そこで捜査は行き詰まり、やがて捜査員の数も減らされ細々と続けられていた捜査は打ち切りを告げられた。
 理由の一つは新貝の釈放後、彼の言うとおり、FOXの犯行がピタリと止まったことにもある。凶悪犯罪は次々と起きている。FOXにばかりかまってはいられないというのが上の見解だ。捜査本部は閉鎖、FOX事件は未解決事件として資料室の棚に収められてしまった。

 そもそもフィーンは本当にいたのか、いたと証言する者の幻視だったのか、それを証明する手立てはない。もしかしたら彼女は本当にいなかったのかもしれない。もしくはゼノ、石崎晴と同じくすでに死んでいるかだ。彼女は霊体、精神体だとオウガも言っていた。そしてゼノも死んでいるとなれば、あとはオウガしかいない。
 オウガ、沢村《さわむら》銀《ぎん》には他の二人と違い、戸籍も住所もある。不登校気味だったとはいえ、学校にも通っていた。存在が証明できるのは銀だけなのだ。
 晴が死亡したとされる五年前、沢村銀は十五歳だった。生きているとすれば、現在二十一歳になる。それは殺人容疑で逮捕したときオウガが告白した実年齢とも合致している。ただ問題は、重田や草薙が目撃している「ゼノ」の存在だ。
 二人が見たゼノ少年は十二歳程度だったという。誤認や錯覚ではない。草薙など、暫くの間とはいえ、ゼノと同居している。その証言は無視できない。
 草薙らの証言を信じれば、晴《ゼノ》は死んでいないということになる。そうなれば考えられるのは二つ、FOXは晴《ゼノ》と銀《オウガ》の二人組だった。もしくはオウガ本人の証言通り、生きているのは晴《ゼノ》で銀《オウガ》は死んでいるかだが、銀《オウガ》の遺体は見つかっていない。
 銀《オウガ》の両親は晴《ゼノ》の両親と同時期に惨殺されている。証拠不十分で未解決になっているが、当時の見解では妻の浮気相手の衝動的犯行と考えられていたようだ。しかしそこに子供《オウガ》の遺体はなかった。初めからそこにいなかったのか逃げたのか、どちらにせよ、それ以来、銀《オウガ》の行方は知れていない。
 つまり、ゼノはまやかし、見間違いか勘違いで、難を逃れ生きていた銀が、両親を殺された恨みのため犯行を重ねたのだろうというのが捜査本部最後の結論だった。

「なんでそうなるんですか! ゼノはいましたよ、俺と暮らしてた、ちゃんと存在してた! 重田さんだって見てたでしょ!」
 ようやく退院してきた草薙は、ことのあらましを説明する重田に掴みかかった。自分はゼノと会い、彼と暮らしていたのだ、自分が証人だ、ゼノは生きている。そう叫んだが、重田は苦しそうに眉間に皺をよせるだけだった。
 確かに自分はゼノを見たし、彼と対峙もした。だが今となっては、それが本当にゼノだったのか、自信はもてない。
 あのとき、彼が大きく見えた。歪んで見えた。そこにいるのにいないような、いるはずがないのに、存在しているような、奇妙な感覚に怯えたことを覚えている。
 もしかしたら彼《かれら》は、目の前の相手に、自分の望む姿を投影できる力があったのかもしれない。まるでSFのような話だが、そう考えれば辻褄は合う。ゼノが表に出ているときはゼノに、フィーンが出ているときにはフィーンに、オウガが出ているときにはオウガに見える。彼らの精神力がそれを可能にしているとすれば……しかしそれにも証拠はない。
「ゼノはいましたよ! 俺と暮らしてた、俺を殺そうとして、でも殺さなかった、助けてくれた、あの子はいたんだ!」
 半泣きで叫ぶ草薙に、重田は目を逸らすことしか出来なかった。
 晴《ゼノ》の遺体を見つけたことがきっかけになったのか、新貝の言うとおりそれ以来FOXは現れなくなった。事件は迷宮入り、真相が何であれ、どうにもできない。もう誰にも、それを証明することは出来ないのだ。
「すまんな……」
 何を言うことも出来ず、重田は草薙の家から出た。

 暮らしに追われ、月日は流れる。
 やがて世間も警察も、FOXを忘れ、草薙や重田でさえほんの時々、古い映画を思い浮かべるように思い出すだけとなっていく。

 平和で平凡なごく当たり前の日常は、ただ漫然と続いていった。