翌日には、月星丸は起き上がって動けるようにはなったが、やはり体力を奪われているせいか、あまり元気がない。

俺が何を言っても何を聞いても、上の空で返事もろくに出来なかった。

「辛いんだったら、まだ寝てろ」

そう言っても首を横に振るだけで、家事をこなそうとする。

その頑固さには俺も呆れるばかりだ。

「月星丸、嫌々としんどそうに、辛そうに仕事をされるくれいなら、寝ていてくれた方がマシなんだが」

そう言ったとたん、月星丸は持っていた食器を全部床に放り投げた。

「何をやっている」

「別に」

「さっきから何を怒ってる」

「何でもないって」

どうやら奴は、布団を敷き直すつもりのようだ。

俺は土間に散らかった食器を片付け始めた。

「おや、お月ちゃん。もう起き上がって平気なのかい?」

窓から顔をのぞかせたのは、お萩だった。

俺はその姿にドキリとする。

本当にこの女は心臓に悪い。

その姿を見たとたん、頭に血が上り脈が一気に速くなる。

「近くのお寺を通りかかったら、今日から三日間見世物小屋が立ってるらしいんだよ。いま江戸で一番の奇術師の手妻が見られるって話しでさぁ、よかったら二人とも一緒にどうだい?」

お萩は誰に向かってそれを誘っているつもりなのだろうか。

俺たちがここを離れ、そんな危険な場所に行けるワケなどない。

月星丸が、ぼそりとつぶやいた。

「俺はいいよ。二人で行ってきなよ」

「そういうわけにはいかぬ」

俺はお萩を振り返った。

「というわけだ。お引き取り願おう」

「おや、お月ちゃんの具合は、まだそんなに悪いのかい?」

お萩は引き戸を開けた。

また部屋に入り込むつもりだろうか。

「二人で部屋に籠もってたってつまんないだろ? ちょっとは気分転換にでもなるかと思ったんだけどねぇ」

何をどう言われようと、そんな人混みに月星丸を連れて行くわけにはいかない。

「悪いが、今回は見合わせだ」

「そうかい? そりゃ残念だねぇ」

うまい言い逃れが出来た。

事情を知らぬとはいえ、お萩のよけいなお節介にいい加減うんざりとしていた俺は、いまとても晴れ晴れしている。

月星丸が起き上がった。

「じゃあ、やっぱり俺が行くよ」

とたんにお萩は、ぱっとうれしそうな顔をする。

「おや、本当かい?」

「ダメだ。お前は家にいろ」

「もう大丈夫だ」

俺は月星丸の耳元でささやく。

「お前一人では行かせられない」

「じゃあ千さんも、一緒にくればいいじゃないか」

月星丸は俺を見上げる。

「俺が行くって言ったら、千さんもついてくるんだろ?」

それが行きたくないから、こうも言っているんだ! 分からん奴め!

「俺はいかん!」

「じゃあ家にいなよ。お萩さん、一緒に行こう」

月星丸は外に出た。

お萩はそれを見下ろし、にこりと笑う。

「おやうれしい。お月ちゃんだけでも来てくれるのなら、私は十分だよ」

お萩が長屋の引き戸を閉める。

二人は連れだって歩き始めた。

俺は舌打ちして壁の刀をつかむと、外に飛び出す。

通りに出るとすぐに、隣に葉山が並んだ。

「おい、なぜ外に出した」

「お前ももうちょっと、仕事の仕方を考えろ!」

ここで愚痴を言っても始まらないが、どうしても言わずにはいられない。

「そんなに陰に隠れてこそこそ付き添ってるくらいなら、俺と代われ。家は貸してやる」

葉山はギロリと俺をにらむと、フンと鼻息一つだけを返した。

それ以上のことは、何も話すつもりはないらしい。

ムカツク。

二人はお萩の言う通り、近くの大きな寺へと向かっていた。

そこに近づくにつれて、人の数も徐々に増え始める。

こんなところで、どうやって月星丸の警護をするつもりだ。

「俺は人混みの外に出て、どこかの店屋の二階から通りを見張る。この辺りの出入り口となるような通りには人を配置する。お前はとにかく、そばを離れるな」

なんとも無茶な命令だ。

そんな手はずを整えられるような立場にあるなら、もっと違う手段があるだろ。

そんなことを思う間も無く、葉山は雑から離れていく。

前を歩くお萩と月星丸は、もう身動きが取れないほどの人の渦の中だ。

俺は寺社の建物を仰ぎ見た。

見世物小屋は、どこだ?

隣を歩く見物客との肩が密着している。

ややもすると、前を歩く人の踵を蹴りそうだ。

押し付けられる体に持ち上げられて、足だけが浮くような感覚にもなる。

大きなうねりに巻き込まれ、こちらの身動きは全く取れず、流されるままに押し流されていく。

やがて背のそれほど高くない月星丸の姿は、俺から見えなくなってしまった。

「くそっ」

流れに逆らおうにも、人をかき分けることさえ困難だ。

お萩のかんざしももう見えない。

葉山、葉山は?

奴は俺たちの位置関係を、どれだけ把握しているだろうか。

指示を仰ごうと、通りに並ぶ店の二階部分を見上げた時だった。

「うわぁ!」

男の悲鳴が上がる。

とたんに、俺のすぐ目の前の人の渦が乱れ始めた。

将棋倒しが始まる。

狭いところに押し寄せた人々の、狂ったような暴走に、否応なしに巻き込まれる。

「月星丸!」

数歩先に、人の輪によって空いた空間が、ぱくりと口を開けていた。

俺は人の波をかき分け、そこへ向かう。

月星丸は、倒れていた。

腹を抱えてうずくまる足元には、赤い血の海が留まることなく広がり続けている。

脇腹に短剣が深く突き立てられていた。

「誰がやった!」

見渡す限りの人、人、人。

男も女も、年寄りから子どもまで、辺りを囲む人の群は限りない。

思わず刀の柄に手をかける。

すぐに出てこい、今すぐここでぶったぎってやる!

「俺じゃねぇ! 俺じゃねぇって!」

葉山が取り押さえていたのは、笠を深くかぶった浪人風の男だった。

「お前がすれ違った瞬間だ、異変が起きたのは!」

「どこに証拠があるんでさぁ、お侍さま! 誰か俺が刺す瞬間を見てたって奴がいたら、ここで名乗り出てくれよ!」

声をあげるものは一人もいない。

男の着ている服は、きれいさっぱりと、どこにも乱れはなく、返り血の一滴も受けていなかった。

月星丸のすぐ横に、真っ赤な血をたっぷり吸った手ぬぐいが落ちている。

これで血を受けるのを防いだか?

俺は地面に横たわる月星丸を抱きかかえた。

ぬるりとした血の臭いと感触が腕に伝わる。

まだ息はある。

俺は走り出した。