「おい! 気がついたか?」

朦朧とした意識で、目は俺を捜している。

「何を食った、誰にやられた?」

「何も食ってない」

「んなことねぇだろ」

全身を痙攣させて、体が勝手に伸びる。

苦しいのか、月星丸は抱きかかえられている関の袖をつかんだ。

「変なものなんて、なんも食ってねぇよ」

体温が下がり、体がぶるぶると震えている。

俺は質問の仕方を変えた。

「今日食ったものを全部言え」

朝の飯、ブリの煮付けとみそ汁。

団子屋で食べた汁粉とみたらし。

「それか」

「なにが?」

「あの女にやられたのか?」

ぐったりとした体で、月星丸は首を横に振る。

「なんでそんなことを言うんだ、そんなの酷いじゃないか」

「他に誰がいる」

「俺に毒を盛ったっていうのか?」

「それ以外にないだろ」

「お萩さんはそんな人じゃねぇよ」

「バカか! お前は今までいったい……」

「今はもうよせ」

関に言われ、俺は口をつぐむ。

「千さんが最近、女を連れ込んでいるという噂は聞いていたのだが」

関はふっと笑った。

「天変地異でも起きたのかと思っていたのが、まぁ、普通の女子ではないことは、相分かった。千さん、これから女の助手を入れて看病をする。このままここにいるか?」

関に抱きかかえられた月星丸が、うつろな目で俺を見上げる。

「ちっ、看病が先だ」

「手当てはする。数日はよく看病されたし」

俺は長屋を出た。

それを合図に、外で待っていた女が中に入っていく。

こんなところに俺の用はない。

用があるのは葉山のところだ。

俺は苛立ちを抱えたまま、長屋の外に出た。

「お月ちゃんの具合が悪いって聞いたんだ」

長屋の木戸門をくぐった先にいたのは、お萩だった。

「何しにきた」

「お月ちゃんはいいのかい?」

「あぁ、もう助かった。無事だ」

そうと言い切れる状態とは言い難いが、関の腕ならそうなるだろう。

俺はにこりと笑ってみせる。

「悪かったな、心配かけちまって」

「何が悪かったんだろうね」

「さぁ、どっかで猫いらずでも拾い食いでもしたんだろ」

「私も看病しようかい? なんかこう、責任を感じちゃってねぇ」

そっとうつむく、その非常に女らしい仕草に、俺は思わず一歩後ろに下がった。

「間もなく日が落ちる。送っていこう、どこから来た?」

怖がっている場合ではない。

まずはコイツの正体を探ることが肝心だ。

お萩はちらりと俺を見上げると、妖しげな表情を浮かべた。

「おや、送ってくださるのですか? 独り身のお部屋まで」

「そう言っている。早ういたせ」

女はくすりと笑って俺の横に並ぼうとするので、すぐに後ろに引く。

「なんだい千さん、腕の一つでも組もうじゃないか」

「どこに住んでいる」

「この先の本町通りの向こうさ」

お萩はため息をついた。

「なんだよ、あたしが下手人だとでも思ってるのかい? そんなことしやしないよ」

「先に歩け」

「まぁ酷い」

女は歩き出した。

歩きながら自分は犯人ではない、そんなに疑われるのは悲しいなどとつらつら愚痴を並べているが、俺がお萩を避けるのは、それが全てなわけではない。

全部聞き流す。

女が立ち止まれば俺も立ち止まり、歩き出せば俺も歩く。

やがてお萩は泣き出した。

「せっかくお月ちゃんと仲良くなれたのに、そんな風に思われたんじゃ、あたしもやっていけないよ。どうしてそんなに……、あっ」

急に立ち止まってうずくまる。

「どうした」

「あ、足をくじいたみたい」

お萩がそこから動かないので、俺も動かない。

立ち上がって動き出すのをじっとそこで待つ。

女はついに怒り出した。

「ここは優しく近寄って、慰めの言葉ひとつでもかけるのが、男ってもんじゃないのかい!」

それが男の義務とでも言うのなら、俺は男でなくても構わない。

死ぬ。

「なんだい、千さんは衆道の方かい? だけどお月は女じゃないか」

ようやくお萩は立ち上がった。

足をくじいたというのは戯言のようだ。

「うちまで送るってのも、その気があるから言ってんだろ?」

その気とはなんだ、意味が分からぬ。

やはりこいつは隠密か、くノ一か。

俺は腰の刀に手をかけた。

「勝負をつけるなら、今ここでもよい」

女を斬るのは趣味ではないが、ある程度脅して口を割らせるのも一つの手だ。

やったことはないが、どうしよう。

「こんな気の利かない男も始めてだ。ははぁ~ん、分かった」

お萩は急に腰に手を当て、俺を見上げる。

「あんた、お月ちゃんに惚れてるね? だから義理立てして、あたしになびかないってワケだ」

その突然の発想の飛躍に、俺の脳は思考を停止する。

これだから女と話していても、意味が分からない。

俺はどうしていいのかさっぱり分からず、その場に立ちすくむ。

いつものことだ。

「あぁ分かったよ。もういい、いいさ。さっさと帰って看病でもしてやんな」

お萩は急に背を向けると、手を振ってさっさと歩き出した。

俺は刀にかけた手のやり場に困る。

お萩は言葉通り、本町通りへ向かっていた。

後を追いかけてもいいが、話しかけて弁明する気はない。

つけるなら、こっそり後をつけるに限る。

俺は刀の柄から手を離すと、静かに一歩を踏み出した。

女は本町通りに出ると、しばらくは真っ直ぐに歩いていた。

日暮れ前、帰宅に急ぐ人々で通りはあふれている。

人混みのなかにお萩の姿を見失わぬよう、後をつける。

やがてお萩は、大通りからすっと脇道に逸れた。

すぐに俺もそこへ向かう。

間髪入れずに入ったはずの脇道に、お萩の姿はもうなかった。

慎重に辺りを見渡しながら歩く。

建てられた納屋の引き戸を開けようともしてみたが、どれも錠がさしてあって簡単に開くようなものでもない。

「簡単に振ったわりには、執着があるじゃないか」

お萩が姿を現した。

「なんだい、それとも、気が変わった?」

「何者だ」

近づいてこようとするのを、刀の柄に手をかけて制する。

「ふふ、千さんは幸せなお人だねぇ」

お萩は笑った。

「あたしとどうこうする気がないなら、さっさと帰んな。つき合うだけ時間の無駄ってもんだ」

「どこのどいつだと聞いている」

「ただの通りすがりのお節介焼きだよ。あんたに目の敵にされるような覚えは、何にもないんだけどねぇ」

土壁に背をもたれたまま、お萩は動かなかった。

その絡みつくような視線に、俺の方が居心地が悪くなる。

「相分かった。そこまで言うのなら俺も用はない。もう俺たちの周囲をうろつくな」

どうしようかと迷ったが、あえて俺はお萩に背を向けた。

これで斬りかかってくるようなら、この女は完全にクロだ。

全神経を背後に集中させて、歩き出す。

女は動こうとしなかった。

通りに戻り、人混みの中に紛れる。

俺はふっと息を吐いた。

お萩が本当に無関係というのなら、それでいい。

俺は暮れかけた道を長屋へと急いだ。

引き戸を開け中に入ると、そこに葉山が座っていた。

「てめぇ! なにしてやがる!」

居間に駆け上がった俺を、葉山はゆっくりと振り返った。

「戻ったか」

「ここで何してやがる!」

「その人が、助けてくれたんだ」

布団の中の月星丸が、ごそごそと動いた。

「千さんが出て行ってすぐに、変な人が来て。だけどこの人が、追い払ってくれたんだ」

俺はじっと動かない葉山の背中を見下ろした。

どういうことだ?

「女と連れだって出たわりには、帰宅が早かったな」

見られてたのか。

俺はどかりと腰を下ろす。

この男は敵か味方か?

「お前の知っていることを、全部話せ」

葉山はギロリと俺をにらむと、ゆっくりと立ち上がった。

「家を留守にするな。万屋からの依頼を、忠実に守れ」

俺は深く大きく息を吐く。

どれもこれも万屋の依頼とコイツ絡みか。

俺はどうやら、何も知らされずに面倒な仕事に巻き込まれているようだ。

葉山は出て行った。

「おい、月星丸」

俺は膝の上に方杖をついて見下ろす。

「てめーは一体、何者だ」

布団の中の月星丸は、こちらに背を向けていて顔が見えない。

「お前、本気でここで暮らすつもりなのか?」

俺にはどうしても、それが許される立場の人間であるようには見えない。

「どういう事情でここに来てんのかは知らねぇが、このカリは大きいぞ」

月星丸が、ごそりと振り返った。

「何でそんなこと言うんだよ」

「うるせー、具合はもういいのか」

見上げる月星丸の目には、たっぷりと涙が浮かんでいたが、そんなことは気にしていられない。

「何でそんなこと言うの?」

「答える気がないなら、いい」

衝立を立て直す。

俺は布団を敷いた。

「疲れた。もう寝る。おやすみ」

灯りを吹き消す。

夜になく鳥の声が遠くから聞こえてきた。

俺は何も分からないふりをして、目を閉じた。