店では数多くの丁稚や奉公人たちが、朝飯の支度を始めていた。

飯を炊く幸せなにおいがあたりに漂っている。

「邪魔するぞ」

俺は店先から勝手に上がり込むと、奥の部屋へと向かった。

「おやこれは千之介さま、そんなにお疲れになった様子でどうなさったのですか?」

早速萬平が現れる。

「わけなどない。そなたには関係のないことだ」

どかりと畳の上に腰を下ろすと、カラカラと萬平は笑った。

「おやおや、今日はこちらで朝を召し上がるおつもりですか? 申し訳ないのですが、別のお部屋に用意させましょう。どうぞこちらへ」

促されて、渋々と立ち上がる。

「どこへいくつもりだ」

大名屋敷に匹敵するような敷地の広さだ。

短い廊下でつながったあちこちに、細かい仕切りと小部屋がいくつもあり、迷宮のような作りになっている。

「失礼いたします」

萬平がそっと襖を引いた奥の部屋には、布団が敷かれていた。

そこから起き上がったのは、月星丸だった。

「おまえ! なぜここにいる!」

月星丸は、ぽかんと俺を見上げている。

「俺は一晩中お前を探し回ったんだぞ!」

勢いにまかせて、俺は襟元をつかみ引き寄せる。

「なぜ逃げた! 俺がお前を騙すとでも思ったか!」

「……、騙してここへ、連れてきたじゃないか」

「一晩中、どこをほっつき歩いてた!」

「俺だって大変な目にあってたんだ、必死で逃げてきたんだよ」

胸元が苦しいのか、月星丸は潤んだような目で俺を見上げた。

「一時の、夢を見ていたような気分だった。あのままあんたに殺されるなら、それでもいいと思った」

「ならなぜ逃げた?」

「……やっぱり、死にたくないと思ったからだ。最後に……あんたに裏切られた記憶のままで、殺されるのかと思うと、嫌になった」

月星丸の赤く潤んだ目が光る。

「あの後であんたに斬られるか、また引き渡されるくらいなら、助けて一緒に逃げようとしてくれた言葉を信じて、どこかで隠れてひっそりと生きようと思った」

襟元を握りしめる手が緩む。

「……なら逃げるな」

「仕方ないだろ、俺だって必死だったんだ」

月星丸の手が、襟をつかむ俺の手に触れた。

「苦しい、離して」

その柔らかな触覚に、俺は反射的に両手を上に上げる。

「なんだよ、そんなに触られるのが嫌か」

「うるせぇ、俺を殺す気か」

心臓がばくばくしている。

俺は月星丸から触れられないように、少し離れたところに座り直した。

「あんたの病気だって、まだ治ってないじゃないか」

すねた様に横を向いた奴の顔は、完全に少女そのものだ。

胸の動悸が収まらない。

何をどういわれようと、これだけは治らない。

「まぁまぁ、無事に再会出来てなによりでございました」

萬平は、にこにこしながら座っている。

「くそ、万屋、俺を謀ったな」

「おほほ、敵を騙すにはまず味方からということを、お忘れになりましたかな」

「いつからこんな手はずになってたんだ!」

「それは全くの偶然にございますよ」

萬平は言った。

「ちょいとした寄り合いの帰りに、偶然月星丸さまとばったりお会いしましてね。このまま運良く万屋までたどり着くことが出来れば、お助け申しますと言ったのです」

「あそこで萬平どのに出会っていなければ、今頃本当にどうなっていたのか分からない」

「それもこれも、月星丸さまが強運をお持ちのおかげでしょう」

「そなたには心から感謝する」

月星丸がそう言うと、萬平は笑った。

「なに、あそこで私と出会わなくても、この千之介さまが、あなたを必ず捜し出して助けてくれましたよ」

「やかましいわ!」

月星丸の顔が真っ赤になっている。

俺の顔もつられて赤い。

やはりこの万屋は苦手だ。

「で、こいつの正体は一体何者だ」

その言葉に、萬平はただ月星丸の前にひれ伏し深々と頭を下げただけだった。

月星丸は、ふぅとため息を漏らす。

「それを知れば、あんたも無事では済まなくなる」

「上等だ」

昨夜は風呂にも入れてもらえたのか、すっかり小ぎれいになった月星丸は、布団から出ると座り直した。

一つため息をつく。月星丸は、語り始めた。

「俺は、産まれたときから、すぐに死ぬか、殺されるものなんだと思っていた。だから、何もかもどうでもよかったし、いつ死んでも仕方ないと思っていた。だから何もかも好き勝手に振る舞ってきし、周りも何となくそうと知って許していた。それが当然と思えるような毎日だった。当たり前だったから、それで、俺自身もいいんだと思っていた」

月星丸は、そっとうつむく。

「だけど、元服の話しが出て、成人の日が近づいてきて、いよいよ俺の命もここまでだと覚悟したとき……、だから最後に、少しだけ自由になってみたいと思った」

少年と思っていた少女は、両手に顔を埋めた。

「思い切って出てみた外の世界が、何もかも珍しくて、楽しくて、俺はようやく自分が自分になれたような気がした。俺が今までの俺でなくなった時に、俺は初めて自分になれた。それで初めて、本気で死にたくないと思ったんだ」

白く細い手で涙をぬぐう。

「あの場所で、元服を迎えるまでに生き残れる者は、半数にも満たない。俺は間違いなく、いつの間にか消えていなくなる方の半分だ。だから、逃げてきた。これからも、俺が生きている限り、追っ手の数は絶えることはない。ここにこうして隠れていても、この先どうしていいのか、俺には分からないんだ」

一筋の涙が、月星丸の頬を伝って落ちる。

「どうか、今まで通り変わらず接してください。俺がそうしてほしいから。俺にはもう、それ以上のことは言えない」

俺はちらりと萬平に目をやった。

こんな話だけでは、中身が全く見えてこない。

だが萬平はかしこまって座っているだけで、何も付け加えて話そうとはしなかった。

ということは、俺だけが知らずにいろということか。

心の中で、こっそりとため息をつく。

まぁよい。

余計な算段をつけるのは得意じゃない。

いいように踊らされるなら、踊らされてみるのもまた一興。

「それで、どうしたいんだ?」

俺は月星丸を見る。

「あんたはこのままここに残りたいのか、どこか遠くへ逃げたいのか、それともいずれは戻りたいと思っているのか、それを決めてもらわぬことには、どうにもならぬ」

「決めたところでどうにかなるのか!」

「お前が余計なことを話したくないのなら、俺も聞かぬ。だがそうするのであれば、こちらもそれなりになることを忘れるな」

俺は月星丸を見下ろす。

「全てそなた次第だ」

出来ることと出来ぬことがある。

その選択肢を選ぶのは俺ではない。

「お前が何かを望むなら、俺は全力でそれを助けよう。けれど何も望まぬというのなら、助けなどそもそも必要あるまい。好きに暮らせ」

「俺はここで、あんたと一緒に暮らしたい!」

突然のそんな告白に、耳まで血が上りそうになるのを、俺は必死で押し返す。

「そりゃ無理だ」

「今、全力で助けるって言ったじゃないか!」

「やかましいわ、このクソ女」

「なんでだよ!」

「俺は女は嫌いだ」

月星丸は涙をたたえた目でにらみつける。

だがそんなことは知ったこっちゃあない。

「やい万屋、今度拾ったのはお前さんだ。どうするかはあんたが決めろ」

「では月星丸さま、いかがいたしましょう」

「俺は千之介と一緒に長屋で暮らす!」

「それは却下だ」

立ち上がり部屋を出て行こうとした俺を、万屋が引き留める。

「千之介どの、私から仕事の依頼でございます」

萬平はにこやかな表情を何一つ崩さす、俺を見上げる。

「月星丸さまの、身辺警護のご依頼です。しっかりとお守りください」

「ふざけるなよ、万屋!」

「まぁ千之介どの、何をおっしゃることやら。この万屋萬平の見立てに間違いはございません。この仕事、受けて損はございませんよ」

萬平は、満面の笑みを月星丸に向けた。

「では月星丸さま、護衛役にこの千之介をおつけいたします。どうかよしなにお願いいたしますよ」

萬平は月星丸に対して、諸手をついて頭を下げる。

「恩に着る、萬平どの!」

「ふざけるな、俺は知らん!」

部屋を出る。

後ろ手に閉めた障子の奥から声が聞こえてくる。

「待ってよ、千さん!」

「大丈夫ですよ、すぐに追いかけなさい」

その言葉通り、月星丸はすぐに飛び出してくると、大股で廊下を歩く俺の後を追ってくる。

「受けた仕事はちゃんとするんだろ!」

寝間着のままで駆け寄る月星丸の姿を見た瞬間に、俺の息が止まった。

「服を着てから出てこい!」

身支度が済むまで、俺はイライラしながら裏戸近くの縁に腰を下ろして待つ。

出てきた月星丸は、元のボロをまとった少年の姿になっていた。

「ほら、この格好なら千さんも平気だって」

「平気ではないが、まだましだ」

立ち上がり、先に歩く。

「俺も容赦しないぞ」

「うん」

俺と月星丸は、揃って裏口から外へ出た。

先が思いやられる。

どこまで、いつまで、このわがままにつき合えばいいものやら。

長屋に戻ると、何もしらない住人とその子どもたちが寄ってくる。

「おや、二人揃って朝から出かけてたのかい?」

「うん、ちょっとね」

月星丸は、うれしそうに井戸端で洗濯をするお富美さんの隣に座り込んだ。

「今日もさ、後で虎次郎と遊びに行っていいか? 河原で凧揚げしたいんだ」

「あぁいいよ。後で行くように伝えておくよ」

俺はため息をついてから、小さな我が家に戻る。

これから河原で凧揚げ? 

勘弁してくれ。

俺もつき合わすつもりか。

部屋の隅に布団を敷き直すと、そこへ横になった。

そういえば、昨夜は一睡もしていなかったことを思い出す。

外から聞こえるにぎやかな笑い声を尻目に、俺はすぐに眠りについた。