少年チューンナップ

☆.。.:*・゜

 カイリさんとスバルさんの家は、龍ノ原の集落を見晴らす山手にある。港からたいした距離じゃないけれどクルマで移動したのは、スバルさんが仕事場からおれたちの出迎えへ直行したからだ。
 スバルさんの職場である発電施設は、島のいろんな場所にある。龍頭から龍ノ尾崎まで、うねうねした道なりに測ると、三十キロくらいあるらしい。しかも山道だ。クルマなしじゃ話にならない。

「ぼくは毎日、風車全基を見回っているんだ。龍ノ里島の山道は、最近ではぼくの専用道路だよ。龍ノ原の人たちは、祭りのときくらいしか山に入らないからね」
 運転しながら、スバルさんはそう言った。おれはあいづちを打った。

「昔は龍ノ原以外にも集落があったんでしょう?」
「うん。龍ノ里島は大きな漁業基地だったんだ。昭和四十年代までは人口が増え続けて、港のそばの龍ノ原だけじゃ収まりきれずにね、島のあちこちに人が住んでいた。海の男のための酒場もたくさんあったって話だよ」

「港町だったってことですよね。そのころはずいぶん活気があったんでしょうね」
「龍ノ原湾は港として優秀な形をしているし、有名なジンクスもあるから漁師たちが集まった。命懸けで海に出る漁師たちはみんな、かなり信心深いんだ。その名残で、龍ノ原の人たちは今でもそのジンクスを信じて、お願いごとをしたりする」

「ジンクスですか?」
 意外にも、ハルタがそれを知っていた。
「ジンクスってか、伝説だろ? 龍ノ神《たつのかみ》が守ってる島だから、ここから船出したら、海で遭難しにくいって。遭難しても、奇跡的に助かったり。だから、昔の龍ノ里島にはデカい漁船が集まってきてたんだろ。おれ、ネットでその話、見付けて読んだ」

 そういえば、何日か前にハルタが騒いでいた気がする。龍ノ里島の伝説がどうのこうのと、まるでゲームみたいな話をしていた。おれは数学の問題集を解きながら、適当に聞き流していた。
 クルマを運転するスバルさんは、バックミラー越しにハルタに微笑んだ。

「龍ノ里島のこと、調べてきてくれたんだね。嬉しいな。龍ノ神の祭りは、今でも細々と続いているよ。山のあちこちに祠があって、島民総出で、定期的に掃除をして回っているしね」
「そういうの、おれ、好きだから。何かカッコいいなーって。それと、カッコいいって言えば、このクルマも! 四駆だよな」

「うん、四輪駆動。普通の二輪駆動よりパワーがあるから、龍ノ里島の山道には向いててね。ハルタくんは、やっぱりクルマが好き?」
「好きだけど、どっちかっつーと、兄貴のほうが詳しいぜ。な、兄貴! 兄貴も四駆のゴツいやつ、すげー好きだろ? このクルマ、色的には兄貴のマシンに近いし、そそられるんじゃねぇの?」

 丁寧語が全然使えない上に言葉足らずで考えなしのハルタの脇腹をつついて黙らせる。うぐっと言って沈んでいったハルタを、バックミラー越しのスバルさんが笑った。おれはごまかし笑いをして、四駆のパワフルなエンジン音に負けないように声を張り上げる。

「すみません、ハルタが失礼な口の利き方をして」
「気にしないよ。それより、ユリトくんのマシンって、どういうこと?」

 プラモートに夢中だったなんていう子どもっぽい話、初対面の人の前でしたくない。だいたい、おれはとっくにレースに出るのをやめている。まあ、話題を撤回しようにも、もう遅いけれど。

「自動車模型の話です。電池二本で動くサイズの自動車模型で、ぼくはパワーと安定性重視、ハルタはスピードと軽さ重視のセッティングにしてます……してました。小学生のころの趣味だったんですよ」
「なるほど、走る自動車模型か。プラモート?」

「ご存じなんですか?」
「ぼくも昔、きみたちと同じ趣味を持ってたよ。男は誰でも通る道なのかな? ちなみに、ぼくはユリトくんと同じく、コーナリングに重きを置くセッティングにしていた」

 スバルさんの答えに、軽く驚いた。中学生なのに意外と子どもっぽいんだね、と笑われるかと思っていた。だって、言ってしまえばおもちゃの話だ。特におれは、年齢の割に大人びていると見られていて、模型云々と口にするようなタイプじゃない。
 ハルタは、話に乗ってくれたスバルさんに尻尾を振る勢いだった。

「同じ趣味って、第一世代のブームかな? 近所の模型屋のおっちゃんが見せてくれたやつ。レギュレーション合わせて、レースしたことあるぜ。昔のやつでも、一緒の条件だと、けっこういい勝負するんだよな」
「レースか。なつかしい響きだね。小遣いをつぎ込んで性能のいい充電式の電池を買って、草レースと携帯型のゲーム機に使い回していたな。充電池は公式レースじゃ禁止されてたっけ」

「それ、昔の話。今は公式で認定された充電式のやつがあって、みんなそれ使ってる」
「へえ、そうなんだ。ゲーム機に乾電池を使う話も、古いよね」

「そのゲーム機も、模型屋に飾ってあるから知ってる。灰色で、すっげー分厚くて、画面がちっちゃいやつ。ボタンの数も少ないよな」
「そう、それだ。友達との付き合いで、ゲームもそれなりにやってたけど、育成ゲームが流行ったときに付いていけなくなって、模型ひとすじになったな。それも結局、進学だ何だで、やらなくなっちゃったけど」

 ハルタに話して聞かせるスバルさんを、おれは少し離れたところから見ている。
 スバルさんって、変わった大人だ。だって、楽しそうにおもちゃの話をする大人なんて変だろう。模型屋のおじさんや田宮先生くらいのものだと思っていた。二人とも変わり者を自称している。どうしてそういうのが恥ずかしくないんだろう?

 おれは何となく、助手席のカイリさんをうかがった。じっと黙っている。女子はプラモートの話なんか興味ないのかな。それとも、おれやハルタがいるから口を開かないのか。まあ、おれとしては、静かな人のほうがいい。お互い干渉しないで済む。
 クルマはあっという間に目的地に到着した。カイリさんとスバルさんの家は、さっき聞いたとおり、二人で住むにはずいぶんと大きい。昔は大型漁船の乗組員の家族が、合計三十人近く住んでいたらしい。
 瓦屋根が特徴的な、和風なところのある洋館だった。玄関で靴を脱ぎながら、二階まで吹き抜けのホールを見渡して、ほう、と息をつく。

「カッコいい建物ですね」
「だろ? ぼくも一目惚れでね。龍ノ里島に住むことになって、いくつか空き家を紹介されたんだけど、もうここ以外は目に入らなかった。エアコンが付いてなかったり、何かと設備が古いのが玉にキズかな」
「でも、暑くないですね」

 先に家に上がったカイリさんが、ふわふわ舞う白いレースのカーテンを紐でくくった。
「潮風。龍ノ里は、いつでも風が吹いてるから」
 窓を開けておいたら風が抜ける造りになっているんだろう。外出中も窓は閉めないものらしい。玄関の鍵も掛けてある様子はなかった。

 一階には、スバルさんの部屋と台所と食堂、風呂場やトイレがある。おれとハルタの部屋は、二階に用意してもらっていた。
 昔はそこで一家族が生活していたというだけあって、一部屋で十分に広い。ベッドが二つ置かれた区画と、ダイニングテーブルが置かれた区画に分かれている。

「すっげえ! 二段ベッドじゃないベッドって新鮮だな。兄貴、窓際と奥のほう、どっちがいい?」
「どっちでもいいよ。おまえが選べ」
「よっしゃ、そんじゃ、おれが窓のほう!」

 荷物を放り出したハルタは、勢いよくベッドにダイブした。
 ちょうどのタイミングで、カイリさんがタオルを抱えて部屋に入ってきた。カイリさんは、うつ伏せのままベッドで跳ねているハルタに、チラッと笑みをのぞかせる。

「おもしろいやつ」
 カイリさんは、たぶんあまり笑うほうじゃない。口数が少ないのも、人見知りというより、もとからそういうタイプなんだろう。
 おれはよそ行きの笑顔を作ってみせた。

「そのタオル、お借りしていいんですか?」
「適当に使って。一階に洗濯機があるから、洗濯は自分たちでやってもらえると助かる」
「洗濯の件は了解しました。ちゃんとぼくたちでやります。この部屋、いいですね。自然の風が抜けて涼しいって最高です。エアコンの風は疲れるというか、ぼくはちょっと苦手なんですよ」
「そう。足りないものがあったら呼んで。わたし、隣の部屋だから」

 カイリさんは、おれのベッドがくっ付いているほうの壁を指差した。つまり、この壁の向こう側がカイリさんの部屋なんだ。
 ドキッとしてしまった。壁、ちゃんと厚いんだろうか?
 木目が鮮やかな壁に隙間や穴がないかと、一瞬、おれは目を凝らした。バカだなと、すぐに思い返す。去年の夏くらいから、おれはときどき凄まじくバカになる瞬間がある。変な目で女子を見てしまって、自己嫌悪する。自分で自分が気持ち悪い。

 ベッドの上でバタ足をしながら、ハルタがカイリさんを振り返った。
「なあ、カイリ、この家って、ほかにもたくさん部屋あるだろ? そこは使ってねぇのか?」
「使ってない。家具も置いてない。掃除だけはしてあるけど」

「ふぅん。もったいねぇな。誰か住みゃいいのに」
「ハルタが住む?」
「こんな広い家なら大歓迎!」
「でも、もうすぐこの島、何もなくなるよ」

 ハルタがベッドの上に体を起こした。たった今まで笑っていた顔が、難しげに眉をひそめている。こんな顔をすると、ハルタもおれと似ているんだなと気付く。鏡に映るおれは、今のハルタみたいに、いつでも疑問を抱えた顔をしている。

「何もなくなるってマジか? 話は聞いてるけど、実感が湧かない。この島、人口少ないけど人は住んでるし、電気もガスもあるっぽいし、電話線でネットもつながってるらしいし、フェリーには新聞とか郵便とか食べ物とか積んであったし」

 カイリさんは、まっすぐな目でハルタを見つめた。
「島も、人間と同じ。眠りに就くときが来る。それだけのこと」
 風がふわりとカイリさんの髪を揺らした。カイリさんのきれいな横顔は淡々として、だからこそひどく寂しげに見えた。

 龍ノ里島では今、三十人ほどが生活している。お年寄りがほとんどらしい。でも、それもこの八月が終わるまでのことだ。夏が行くとともに、彼らは全員、島から離れることになる。発電施設も全部、別の島に移設されるらしい。

 ハルタが、ニカッと笑った。
「最後だってんなら、なおさら、思いっ切り楽しまないとな。海水浴して、魚釣りして、虫捕りして、夜は花火! 兄貴もカイリも付き合えよ!」

 小学生気分が抜け切っていないやつだ。いや、そこらへんの小学生より、よっぽど子どもっぽい。ため息をつくおれと、カイリさんの目が合った。カイリさんはチラッと肩をすくめて、頬に小さなえくぼを作った。
 まただ。また、ハルタがカイリさんを笑顔にした。おれじゃなくて、ハルタなんだ。
 じりっと痛むような嫉妬が起こった。卑屈な胸の内を隠すために、おれは笑顔の仮面をかぶる。品行方正な優等生を演じていれば、嫌われることはないから。

「すみません、カイリさん。ハルタって、いつもこんなふうなんです。迷惑や面倒を感じたら、そう言ってくれてかまわないので」
「わたしは別にいいよ。それと、丁寧語やめて。カイリでいいってば」
「あ……うん」

 無理だ。いきなり打ち解けたしゃべり方をしろだなんて。せいぜい丁寧語が取れたとしても、猫をかぶって「ぼく」と言うし、相手を呼び捨てにはしない。小学校時代、レースを通じていろんな人と知り合って、その中でおれのスタンスは固まった。

 カイリさんは、おれとハルタの顔を交互に見やった。
「二人とも、おなか減ってる?」
 ハルタがすかさず手を挙げた。
「めちゃくちゃ減ってる! 昼飯が少なすぎた」

 フェリーの乗り替えの合間に、港の売店で買ったおにぎりを食べた。ハルタはもっと食べたがっていたけれど、満腹だと船酔いしやすくなるから、三個目は買わせなかった。

「じゃあ、晩ごはんは早めにしようか。言っておくけど、ここでは肉は食べられないよ。魚や貝ばっかり。好き嫌いある?」
「ないない! 兄貴も、魚も好きだよな?」
「ああ、うん」

「ってか、カイリ、もしかして魚さばけるのか?」
「さばけるけど」
「すっげえ! それ、今からやる? おれも見に行っていいか?」
「いいよ」
「よっしゃ! 兄貴も行かねえ?」

 ピョンとベッドから跳び下りたハルタと、てらいもなくまっすぐに見つめてくるカイリさん。おれはごまかし笑いで、パタパタと手を振った。
「ぼくはちょっと遠慮しま……遠慮するよ。荷物を整理したいのと、やらなきゃいけない課題があって」

 それに、おれはたぶん、魚をさばくシーンは苦手だ。理科の教科書に載っている魚やカエルの解剖のイラストには、背筋がゾワッとする。せっかくの料理を食べられなくなりそうで、申し訳ない。

「まったく、兄貴はくそまじめだな。課題なんか家に置いてくりゃよかったのに。ま、いっか。カイリ、行こうぜ」
 カイリさんはハルタの言葉にうなずきながら、まだじっとおれを見つめている。
「ユリト、疲れてる?」
「そうでもないよ。どうして?」
「疲れてるみたいだから」

 全部を見透かすようなカイリさんのまなざしが気まずい。おれは笑顔の仮面を外さないまま、本当はたじろいでいる。
「こんなに長く船に乗っていたのは初めてだから、少し疲れたのかもしれない。でも、たいしたことないですよ。ぼくのことは気にしないで」

 カイリさんは何か言いかけた。その唇の形がひどく柔らかくて、おれの心臓はドキリと高鳴る。カイリさんは小さくかぶりを振って、おれから視線を外した。

「晩ごはん、できたら呼びに来る」
「ありがとう。ハルタがうるさいかもしれないけど、よろしくお願いします」
「はぁ? おれ、別にうるさくねえっての!」

 ほら、それがうるさいんだよ。小言を垂れたくなったけれど、カイリさんもいることだし、呑み込んでおく。
 カイリさんはきびすを返した。ハルタは、ガキ扱いするなとか何とか文句を言いながら、カイリさんの後を追い掛ける。
 部屋のドアは開けられたままだった。閉めようかなと思ったけれど、ストッパーが掛かっている。

「ああ、風……」
 窓から吹き込む風が部屋を駆けて、ドアから通り抜けていく。部屋の中のどこよりも、ドアのそばに立つのが、風を感じられて涼しい。

 見れば、カイリさんの部屋もドアが開けっ放しだ。のぞいてみたい衝動に駆られたけれど、グッと抑えた。今さらながら帽子を取って、押し込めていた髪をクシャクシャ掻き回す。

 ホールが吹き抜けになっているから、部屋の入り口から一階が見下ろせた。ハルタがカイリさんと並んで、台所へと入っていく。中途半端に変わりかけた声をときどき裏返しながら、ハルタはいつも以上によくしゃべっている。

「なあ、カイリ!」
 屈託なくその名前を呼び捨てにできるハルタがうらやましい。どうしておれはあいつみたいに自由になれないんだろう?

「か、い、り……カイリ、カイリ」
 練習してみる。その途端、顔がほてって心臓が騒いだ。ダメだ、うまくいきそうにない。
 枕が変わったら眠れないなんて神経質なことを言うタイプじゃないと思っていた。でも、事実として、おれは一睡もできなかった。ときどき寝言の交じるハルタの寝息を聞きながら、気が付いたらもう朝の五時だ。

「あきらめるか」
 布団に入っていたってどうしようもない。普段、眠れるのは午前三時から四時過ぎにかけて。そのタイミングを逃すと、ダメだ。

 うまく眠れない体質になって、ずいぶん経つような気がする。成績優秀で品行方正な生徒会長という看板の裏で、糸がほつれるように、おれという人間が壊れていく。その喪失感に、そろそろ慣れ始めている。
 人間の睡眠時間は長すぎて人生の無駄遣いだなんていう説を聞いたりもするけれど、そんなことはない。眠れないという、ただそれだけのことが、おれから生きる力を奪っていく。体力も精神力も忍耐力も、まとめて全部。人間は、眠れなきゃ生きていけない。

 おれは起き上がってベッドを整えて、パジャマ代わりのTシャツとスウェットパンツから着替えた。足音を忍ばせて一階に下りて、トイレと洗面台を使う。口の中をすすいだら、水が甘い。都会の水はまずいって父親がよく言うけれど、その意味が何となくわかった。

 散歩しよう。
 昨日の夕食のとき、スバルさんから、好きに出歩いてみてほしいと言われた。龍ノ里島は、危険な人間も獣もいない。唯一、虫刺されにだけは気を付けるように、とのことだった。

 おれは斜め掛けのバッグを部屋から取って、帽子をかぶって、まだ薄暗い外に出た。
 星空が透き通ろうとしていた。この家から見て龍ノ原の方角、つまり海の方角が東で、海岸線のあたりは白っぽく輝き始めている。
 もうすぐ日の出だ。

 引き寄せられるように、おれは海のほうへと歩き出した。
 クルマの来ないアスファルトの坂道は、ひび割れた箇所から草がちらほら生えている。しっとりとした空気。朝露に濡れた山から、土と葉っぱの匂いがする。名前も知らない虫の音が聞こえる。

 絶えず渡る潮風が、さわさわと、山を鳴らしている。道の脇に、小さな石の祠があった。龍ノ神を祀っているんだっけ。御神体が中に安置されているんだろうか。祠の前には、清潔な湯飲みに入った水が供えてある。
 祠のそばの木で、セミが羽化しようとしていた。琥珀色の殻は背中がすっかり割れて、薄い色をした成虫がじりじりと這い出すところだ。くしゃくしゃの羽が、ほんの少しずつ、開いて伸びていく。

 ほう、と息が漏れた。
「初めて見た。何か……すごいな」
 小さな生き物に圧倒される。何でこんなに一生懸命なんだろう?

 成虫になったところで一週間かそこらしか生きられない。大人になることは、死に近付くことだ。なのに、セミは早く飛び立ちたいと叫ぶように、もどかしげに羽を乾かしている。

 おれは、そんなふうにはなれないな。
 セミが飛び立つまでは見届けられなかった。見届けたくなかった。羽を鳴らして飛び立つ様子を目にしたら、おれはきっと、取り残された気持ちになる。

 人間と昆虫では命の尺度が違っている。セミの生涯には、今おれが持て余しているような曖昧な時間は存在しない。
 わかっているのに。おれは人間であって、昆虫をうらやんでいるわけじゃないのに。

 ただ命をつなぐためだけに生きるのなら、いっそのこと楽なんじゃないか。思考も感性も全部なくなってしまえば、この世からいなくなりたいと願う今の気持ちも一緒に消滅してくれる。それって、むしろ幸せなんじゃないか。
 悩んでばっかりの自分が情けない。心が迷子になったことも、そのせいで体までおかしくなっていることも恥ずかしくて、消えたくなる。おれのことを知っている全員の記憶から、おれがいなくなってしまえばいい。
 港に近付くにつれて、一歩ごとに、世界が明るくなっていく。銀色の海岸線はまぶしすぎて、そろそろ直視できない。白く澄んだ朝日の光が熱い。船影は見えないけれど、遠くの海からエンジン音が聞こえる。

 埋め立てられて直線的な海岸線に到達した。左に行けば、波止場の待合所や浮き桟橋がある。右は、空き家や木造校舎の学校が山に呑まれそうに建っていて、その先に行くと、コンクリートの防波堤が伸びている。防波堤の突端には、低い灯台。

 おれは海沿いの道を右へ、防波堤に向かって歩き出した。空は、夜の闇も星もほとんど消えている。どこまでも高い高い、吸い込まれそうに淡い青。東の空だけが、いつしか赤く燃え始めている。

「あの赤は、好きだな。おまえの色に似てるよ」
 おれはバッグにそっと触れた。自動車模型一台がピッタリ入るプラスチックケースの形を、布越しに感じる。白地に赤のグラデーションを配したマシンの姿は、きれいな赤色を発見するたびに脳裏をよぎる。

 防波堤に腰を下ろした。ざらざらしたコンクリートは、案外ひんやりしている。おれは何となく、バッグの中のケースからマシンを取り出した。朝の光にかざしてみる。
 マシンのボディには傷がたくさん入っている。百戦錬磨の相棒だった、小さなクルマ。どうしてこんなところにまで連れてきちゃったんだろうな。

 プラモートを手にした初めのころは、ボディにナイフやニッパーを入れるのが怖くて、パッケージされたままの形で走らせていた。改造を始めたきっかけは、走行中のトラブルで割れたり欠けたりしたのを、泣きながら修理したこと。

 シュトラールは、箱詰めされて売られていたころの面影を存分に残しながら、実は、原形のままの箇所はほとんどない。いちばん大きな改造は、ボディが真っ二つに割れたときの補修のために、サスペンションを組み込んだやつだろう。車高もグッと下げた。

 大会のたびに違うマシンを用意するレーサーもいた。むしろ、そっちのほうが多かったかもしれない。マシンもパーツも山ほど持っているレーサーには、自前のコレクションの写真を楽しませてもらったけれど、自分はちょっと違うなと感じた。

 最適解を見付けたい。できるだけシンプルでスマートな解を。
 だから、可変式のパーツで重武装するのが流行っても、もはやクルマの姿を留めないくらいの大胆なスタイルが流行っても、おれはシュトラールだけを育て続けた。いちばん好きでカッコいいと思えるのは、やっぱり、今おれの手の上にあるシュトラールだ。

 ちゃぷちゃぷと、波がコンクリートにぶつかる音。足下の海をのぞき込むと、透明だ。少し薄暗い海底まで見える。魚が泳いでいる。
 海って青いものだと思っていたけれど、今おれの目に映る景色は違う。単なる青一色じゃなくて、真下は透明で、遠くの波は全部、朝日に染まった銀色だ。ぺたりと甘い潮風が髪や肌を撫でていく。

 誰もいない、朝の海。まるで世界じゅうにおれひとりだけみたいだ。
 と、そう思った瞬間だった。ザパッと波の割れる音が聞こえた。
 魚でも跳ねた? いや、違った。音の発生源を見付けたおれと、海から顔を出した人物と、視線が絡んだ。

「ユリト?」
「カ、カイリさ……じゃなくて」

 カイリ、だけでいいんだった。昨日の夕食の席でも「さん」はいらないと言われた。丁寧語も再三、やめていいと言われた。ハルタからもからかわれてしまったし、そろそろ慣れないとカッコ悪い。

「何でユリトがここにいるの? 朝、早いのに」
「ぼくは散歩だけど、きみこそ」
「わたしは、いつもだから」
「いつも? 朝から泳ぐの?」

「朝の海が好きなの。昼も夕方も夜も好きだけど、朝はちょっと特別。海の中の澄んだ闇に、白い光が少しずつ刺さってくる。浄化される気持ちになる」
「この銀色の波、海の中から見たら、そんなふうなんだね」

 立ち泳ぎをしているらしいカイリは、うん、と大きくうなずいて防波堤に寄ってきた。波に洗われてザラザラの階段へと、身軽に体を持ち上げる。
 階段を上がってきたカイリは、昨日と同じようなタンクトップとショートパンツ、スニーカーだ。昨日と大いに違うのは、全身びしょ濡れだということ。

 タンクトップが透けながら肌にくっ付いているのがチラッと目に入る。じっと見つめてしまいそうになったおれは、急いでそっぽを向いて、帽子のつばを深く下ろした。
 カイリは、おれの様子なんか気にもしないふうで、おれの近くに座った。黙っているのも気まずい。でも、変なことを口走りそうで、黙っているよりほかにない。
 ふと、カイリが海の彼方を指差した。
「日が昇るよ」
 その途端、世界が強く輝いた。朝日が海から顔を出したんだ。

「うわ、まぶしい」
 思わず手をかざして陰を作った。帽子と手の隙間から、目を細めて、朝が始まる様子を見つめる。

 真夏の太陽は、生まれた瞬間から、じりっと熱い。東の空と海が赤く燃える。急速に明るくなる空の色に、最後まで残っていた星屑も吸い込まれていく。
 きれいだ。目に映るもの、肌に触れる風、耳をくすぐる音も鼻に馴染む潮の香りも、何もかもがきれいだ。

 おれはしばらく、本当に呼吸まで忘れて、明けていく世界の中にひたっていた。胸が苦しくなってきて、吸い込んだままだった息を吐き出して、やっと我に返る。

「海から朝日が昇るのを見たのは初めてだよ」
 つぶやいたら、カイリのまわりの空気が、ふっと緩んだ。笑顔の気配に惹き付けられて、おれはカイリのほうを向いた。
「ユリトのちゃんとした笑顔、見たのは初めて。ずっと嘘っぽい笑い方してた」

 透き通りそうな薄い茶色の目が、光の中でキラキラしている。カイリこそあんまり笑わないのに、今はちゃんとした笑顔だ。仏頂面みたいな普段の顔もきれいだけれど、笑うと印象が違う。単純に、純粋に、すごくかわいい。
 ヤバい、顔が熱い。朝日に照らされるせいじゃなくて。
 笑顔だと言われたばっかりなのに、おれはもう、うろたえてうつむいた。膝の上のシュトラールがキラリと光を反射して、まるでおれをからかうみたいだ。

「それ、何?」
 カイリがおれのほうに身を乗り出した。
 それ、とカイリが言ったのは、もちろんシュトラールのことだ。こういうのは男子の趣味だから、カイリは知らないんだろう。この島で売っているとも思えないし。

「プラモートっていって、電池で動く自動車模型だよ」
「あ、昨日、クルマの中でハルタが話してたやつ。ユリト、持ってきてたんだ?」
 気まずさで、喉が詰まる。
「子どもっぽいって、自分でも思うんだけど。こいつのこと、こうしてどこにでも連れていく癖が、いまだに抜けなくて。小学生のころまでで、レースは卒業したのに」

 おれはマシンをカバンに隠そうとした。その肘のあたりに、カイリの濡れた指先が触れた。
「もっとよく見せて。この子の形、すごくきれい。速そうだね。動くんでしょ?」
 興味を示されるなんて、想像してもいなかった。カイリに触れられたところが熱い。

「本当は動くよ。ボディに隠れてるけど、後輪のシャフトのあたりにモーターが内蔵されてて、その前側に電池が二本入ってて、それが動力。シャーシの裏のスイッチをオンにしたら、走り出す」

「ボディって? シャーシ?」
「あ、ごめん、言葉足らずで。ボディは、マシンの外装のこと。シャーシは、ボディの下の土台の部分」
「動かしてみて」

 おれはかぶりを振った。
「今のこいつは動かないんだ」
「どうして?」

「ひびに気付かずにいたら、いつの間にかシャーシが割れて、チップも一緒に壊れてしまった。モーターや電池やギヤはしょっちゅう交換するし、パーツはコースごとに付け替えるし、シャーシも買い替えることはできるんだけど、チップだけは……」

 おれはマシンのボディを外して、機械部分の奥に搭載されたチップをカイリに見せた。小指の爪の半分くらいしかない、ごく薄いチップは、ボディの破損もろとも真っ二つになっている。

「これは何のための部品?」
「走りを記憶するための頭脳だよ。ちょっと高いから、載せてないレーサーも多いけど。公式レースの決勝では、正確なタイムを算出するためにも使われる」

「記憶?」
「走ったことの全部の履歴が、ここに記憶されてる。プラモートのメーカーが出してる専用の機械を使えば、その記憶から、マシンが体感したレースを再現する映像が観られる」

「ユリトも観たことあるの?」
「あるよ。何度もある。すごい世界に連れていってもらえるんだ。だから、チップが壊れたのが目に入った瞬間、こいつが死んだって思った。おれとずっと一緒に走ってきたこいつの記憶が、こんなふうに割れっちゃったんじゃ、もう再現できないんだ」
「ユリトは、このマシンのこと、大事にしてたんだね」
 染み入るように澄んだカイリの声が、耳の奥で熱を持つ。息をついて目を閉じたら、見栄が一つ、はがれて落ちた。

「笑ってくれてかまわないんだけど、おれはこいつのこと、ただのモノだと思ったことないんだ。親友で、相棒で、心も魂も命も持ってる。こいつはしゃべれないけど、どこをメンテしてほしいかって、おれには伝わってくる」
「この尾びれみたいな翼みたいな部分に書いてあるの、この子の名前?」

 目を開けて、真正面にマシンをかざす。シャープな流線型のボディでも、ひときわ目を引くのは、大きなリヤウィング。そこに、銀色の文字で刻んである。
 STRAHL《シュトラール》。

「うん、こいつの名前」
「何て読むの?」
「シュトラール。ドイツ語で、輝きっていう意味。プラモートとしての商品名は別にあるんだ。でも、おれとハルタは、わざわざ自分だけの名前を付けてて。変だろ?」
「変じゃないよ。シュトラールって、カッコいい名前だと思う」

 カッコいいって、カイリの声で聞かされたら、おれの胸の奥が何だか勘違いした。ドキッとしてしまって、少し苦しい。

「名前、カッコいいとか、初めて言われた。まあ、こいつの名前を知ってるの、おれのほかにはハルタだけか。でも、ぬいぐるみに名前付けてる子どもみたいなもんだから、人には教えたことなくて」
「子どもでもいいんじゃない?」

「どうだろうな。おれはそういうとこ見栄っ張りだし、何かダサいかなって」
「もう走らせないの?」
「シャーシとチップが割れてからは、意味もなく眺めてるばっかりかな。いじるのが、怖くなっちゃって。必要以上に悲しい気持ちになりそうで、それがイヤで」

 なあ、シュトラール。おまえ、走りたいか? いや、訊いてごめん。走りたいよな。おまえは走るために存在するんだから。
 なんてね。呼び掛けても無駄かな。頭脳だったチップが壊れて、おまえはもう、おれのことわからないだろ? まあ、最初から機械に意識なんか存在しないんだろうけどさ、本当は。

 シュトラールのモーター音をまた聞きたいとも思う。でも、もういいかなとも思う。子どもっぽい夢、このへんで終わらせようかな。プラモートに夢中になった子ども時代は、シュトラールのチップと一緒に割れて終わって、それでいいかな。

「走らせるの、楽しい?」
 カイリの言葉に、ドクンと血潮が反応する。レースの興奮を記憶している体が、あるいは魂が、おれの口から正直な言葉を吐き出させた。

「楽しかった。ライバルに勝つのも嬉しかったけど、それ以上に、シュトラールがどんどん速くなることが嬉しかった。昨日の自分より今日の自分のほうが成長してるって実感できた。新しいセッティングを思い付く瞬間も、抑え切れないくらいワクワクして好きだった」
「楽しそう」

「スタートラインから走り出すときが、最高にドキドキするんだ。『レディー、ゴー!』で、レースが始まる。そこから先は、祈って応援して、シュトラールを信じるしかない。ちゃんと応えてくれるんだ。だから、こいつにも心があるって錯覚しちゃうよな」

 小学生のころに入りびたっていた模型屋に行かなくなったのは、中学一年生の何月だっただろう? 覚えていない。
 一年生の一学期からクラス委員を任されて、テストの成績もトップを維持していた。一目置かれる存在でいなければならないような気がした。小学生のままでいてはいけない。早く大人にならないといけない。そんなふうに、心が追い立てられた。
 カイリがおれに尋ねた。
「チップがもとどおりになってシャーシの傷が治ったら、シュトラールは走れるの?」
「ああ。でも、この島には模型屋とかないよな」
「ないよ。わたしが言いたいの、そういうことじゃなくて。ユリトはシュトラールに命があるって、本気で信じてるよね。命あるものは、龍ノ神が見守ってるよ」

 おれはカイリの目をのぞき込んだ。唐突に何を言い出すんだろう? まっすぐにおれを見つめ返す目はふざけている様子もない。
「どういう意味? おれが信じてたら、シュトラールに命が宿るってこと?」

 薄い唇が、透き通る声が、歌うように告げる。
「龍ノ里島に訪れる、最後の奇跡。まもなく眠りに就く島の、小さなたわむれ」

 シュトラールを持つおれの手に、カイリが濡れた手を重ねた。
「な、何だよ?」
「シュトラールには、さわらないよ。機械は海水を嫌うから。ユリト、シュトラールを想って。正直な願いを込めて、想って」
「正直な願い?」
「生き返ってほしいでしょう?」

 ドクン、と、カイリの手が熱を持った。気のせいなんかじゃない。確かに熱い。人の体温ではあり得ないくらいに。
 熱はおれの手に飛び込んで、そして突き抜ける。

 シュトラールが熱に包まれる。レースを走り切った直後みたいに、シュトラールの車体が熱い。そして、かすかな振動と涼やかな駆動音が、唐突に起こる。
 そんなはずはない。シュトラールには今、モーターも電池も入っていない。

 何が起こった、と問うより早く、熱は引いた。振動も音も引いた。
 カイリの手が離れていく。
 まばたきなんか一度もしなかった。ずっとシュトラールを見つめていた。なのに、いつそれが起こったのか、わからなかった。

「割れて、ない……?」
 無傷のチップが、整然としてそこにある。シャーシにも傷ひとつない。復元された? 生き返った?
 カイリが静かに告げた。
「命が、あったから」

 おれはカイリを見つめた。
「どういうこと?」
「レディー、ゴーで走り出したら、シュトラールはユリトに応えてくれるんでしょ? ユリトと共鳴するための命が、この子には本当にあった。奇跡は、命あるものにだけ訪れる」
「奇跡? 命あるもの?」

 カイリは立ち上がった。おれは視線をさらわれた。呆けたように、海の輝きを映す瞳を見つめてしまう。
 ふっと、カイリが頬を緩めた。

「ユリト、シュトラールをバッグにしまって、バッグをここに置いて。帽子も邪魔」
「は? 何で?」
「泳ごう」
「お、おれが?」

 カイリはおれを見下ろして、首をかしげた。
「ユリトって、ほんとは、おれって言うんだ? さっきからそうだよね」
 しまった。うっかりしていた。今まで家族以外の人の前では、ぼくという一人称で通してきた。言葉遣いも、できるだけ丁寧にしようと心掛けていたのに、今、カイリの前では崩れていた気がする。

「何か、あの……ごめん」
「どうして謝るの?」
「ここにいる間、行儀よくしなきゃって決めてたのに」
「必要ないよ。ハルタみたいに、自由にしてれば? それより、カバン置いて。濡れちゃいけないもの、カバンと一緒にここに置いて」

 言われるままに、おれは帽子を脱いで、シュトラールをバッグにしまって、バッグを体から外した。財布もケータイも、部屋に置いてきている。濡らしたくないのは、シュトラールだけだ。いや、全身ずぶ濡れにも、あんまりなりたくないけれど。

 おれが立ち上がると、カイリはいきなり、おれの手首をつかんだ。濡れた細い指。カイリのほうが背は高いけれど、手はずいぶん華奢だ。おれの手と全然違う形をしている。

 形が違うのは、手だけじゃない。体じゅう全部だ。濡れて肌に貼り付いた服のせいで、そばにいるだけで恥ずかしくなるほど、カイリの体の形がわかってしまう。
 すごい勢いで、おれの頬に熱が集まった。

「ちょ、て、手を、あのっ」
「飛び込むよ」
「はい? ま、待って、ここ、海面から、かなり高い」
「今は潮が引いてるから、三メートルくらいあるかな」
「な、三メートルって、飛び込む高さ?」
「思いっ切り遠くまで飛ばないと、海底が浅いとこに落ちたらケガするよ」
「ええぇぇっ? 待ったなしかよっ?」

 カイリがおれの手を引いた。うっかりぶつかったカイリの体は、想像以上に柔らかい。間近な横顔が笑っている。目を奪われた一瞬の間に、カイリは駆け出していた。もちろん、おれも引っ張られて走る。

「レディー、ゴー!」
 カイリの掛け声とともに、おれとカイリの足はコンクリートを蹴って、キラキラ輝く海の上へと躍り出した。
 昼を過ぎたころになっても、部屋を通り抜けていく風は涼しい。にぎやかなセミの声も、慣れればむしろ耳に心地よかった。家でハルタがよく聴いている日本語の歌詞のポップスより、よっぽどいい。日本語の歌詞は、ついつい追い掛けてしまうから疲れる。

 部屋のダイニングテーブルに向かって、ひたすら課題を解いている。高校入試の過去問の数学。中学三年で教わるべき内容は、自分で全部、勉強し終えた。あせっているつもりはない。これがおれのペースだ。飛び級とか、できればいいのに。

 一次関数の直線l上にある点Pとy軸上にある点Aを通る直線mの、y=-2のときの傾きを求める。点Pが直線l上を動いて、直線mの傾きが変わって、ある特定の条件下で形作られる図形の面積を求める。
 中学レベルの数学はパズルだ。スパッと答えが出る。素数階段とかリーマン予想とか、数というもの自体に迫る学問に立ち入ると、神秘や真理みたいな、うまくアプローチできない何かに近付いてしまうけれど。

「神秘か」
 今朝、まぶしい光に包まれた海辺でおれが目にしたのは、何だったんだろう? 破損していたこと自体がおれの見間違いだったみたいに、今、シュトラールのシャーシとチップには傷跡ひとつ残っていない。
 見間違いだったはずはない。カイリが確かに、何かをしたんだ。何かって、何だ? カイリは何と言った? 奇跡?

 不意に、開けっ放しのドアの向こうから、元気のよすぎる声が聞こえた。
「たっだいまー!」

 ハルタだ。玄関で叫んだ声が、ここまで飛んできた。ハルタは、昼食の後にどこかに行っていたけれど、帰ってきてしまった。面倒だな。あいつ、絶対に邪魔しに来る。
 案の定、軽快な足音が階段を駆け上がってきた。その勢いのまま、全身汗びっしょりのハルタは、部屋に姿を現した。

「兄貴、見ろ! カブトとクワガタ、つかまえたぞ! こんなデカいの、初めて見た!」
 ハルタがおれの目の前に突き付けたのは、即席の虫かごだった。ペットボトルの底を切って網をかぶせただけの代物だ。透明なプラスチックの内側で、立派な角を持つカブトムシとクワガタがのそのそと動いている。

「こいつら、夜行性だろ? 寝ぼけてるじゃないか」
「そっ。昼寝中をつかまえたんだ。虫捕り網とか使わずに、手でつかんだんだぜ。こんなことできるって、ビックリだ」
「よかったな」

 棒読みで言ってやりながら、解きかけの数式に意識を戻す。
 虫はあんまり得意じゃない。カブトムシやセミは平気だけれど、夜の外灯に群がっている虫には背筋がゾッとする。特に、毒々しい色の鱗粉をまとったガは、本当にダメだ。

 視界から問題集が消えた。ハルタがかっぱらったんだ。
「こんなもん、ここでやる必要ねぇだろ」
「返せよ」
「やなこった。って、うげえ、これ高校入試の過去問じゃん。こんなの、普通は三学期にやるんじゃねぇのか?」
「それじゃ遅すぎる。返せってば」

「へへーん、返さねぇよ。兄貴、今日はこれから探検に行くぞ! カイリが、学校に忍び込む方法、知ってるって!」
「学校? 行ってどうするんだ?」
「だから、探検すんだよ! 学校ったって、普通の学校じゃねぇぞ。もう使われなくなった学校なんだ。チラッと眺めてきたんだけどさ、木造で一階建ての超古い建物だった。な、行ってみようぜ!」

「行かない」
「ふぅん? 夜に行くほうがいいのか? 肝試ししたら、すっげー迫力ありそうな場所なんだけど」
「だから、おれはそういう……」

 尖った言葉もいらだった顔も、慌てて引っ込める。部屋の入り口に、カイリが立っていた。ハルタと同じく汗をかいている。カイリは首をかしげた。
「ユリトは勉強? 邪魔だった?」

 ハルタがおれの問題集をテーブルの上に投げ捨てた。
「なあ、行こうぜ、兄貴。学校、誰もいないんだってよ。おもしろそうじゃん」
「おもしろそうって、だけど……」
「別に、無理やり首に縄付けて引っ張ってくつもりはねぇけどさ、兄貴もちょっとは付き合えよ。せっかくカイリが山とか海とか案内してくれるって言ってんのに」

 チクッと、胸に小さな棘が刺さった。
 ハルタが抱えたペットボトルの虫かごは、細工が丁寧だ。ハルタはプラモートのセッティングやメンテナンスも大雑把だから、あんなにきれいに仕上げるはずがない。きっと、あれはカイリがハルタのために作ったんだ。そして、二人で山に行ってきたんだ。

 学校にも、おれが行かないと言ったら、ハルタはカイリと二人で行くんだろう。まあ、ハルタの好きなようにさせればいいさ。あいつは天真爛漫で、誰とでもすぐに仲良くなる。ハルタが誰と友達になろうと、おれはおれだ。関係ない。

 本当に? 関係ないって、本当に言えるか?
 胸にチクチク刺さる棘がある。一体いくつ刺さっているんだろう? その正体も、とっくにわかっている。
 おれとハルタは、兄弟だからワンセット。おれはいつでもハルタの隣にいて、おれと違って太陽みたいなあいつを見て、そのたびに小さな棘が増えていく。
 嫉妬だ。おれはあいつになれない。おれはあいつがうらやましい。

「ユリト」
 カイリの澄んだ声がまっすぐに、痛む胸に染み入った。顔を上げたら、カイリはおれを見つめていた。おれは反射的に笑顔をつくる。
「何?」
「行こう?」

 自分がまぎれもなく、単純明快なハルタと同じ遺伝子を持っているんだって、こういうときに気付く。カイリがおれを誘ってくれた。その一言で、おれは胸の痛みを忘れ去る。なんて単純明快なんだろう。
「課題は、夜にやることにしようかな」

 おれが椅子を立ったら、ペットボトルの虫かごを抱えたハルタは、屈託なくガッツポーズをした。