さまよわせた視界に、スバルさんのノートPCのディスプレイが映った。海の風景が一時停止されて、キラキラしながらそこにある。コンクリートの防波堤と、海底まで見透かせる澄んだ水、小さな魚の影。
早朝の銀色の波と、白く溶けていく星空を思い出した。なつかしさに、ああ、と声が漏れる。
「龍ノ原小中学校のところの防波堤ですね。突端に灯台があって。撮影したときは、かなり潮が引いてたんでしょう? 防波堤があんなに高く見える」
「おっ、兄貴が話そらした。照れんなよ。応援してやるって」
しつこい。おれはハルタを無視して、輝く海を見る。
「引き潮のときに防波堤から飛び込んだら、海面まで三メートルくらいありましたよね。思いっ切り遠くにジャンプしないと、海底に突っ込んでケガすることになるからって、助走をつけて飛び込んだのを覚えています」
ハルタが、すっとんきょうな声をあげた。
「はぁ? 防波堤から飛び込み? 寝ぼけんなよ、兄貴。おれたちが飛び込んで泳いだのって、船着き場の浮き桟橋んとこだろ」
「え? いや、昼間は船着き場で泳いだけど、朝、日が昇るのを防波堤で見て、それから海に飛び込んだぞ。レディー、ゴーで勢い付けて」
「違う、絶対違う! 防波堤には絶対、行ってねぇよ。かあちゃんに言われて、毎日、やったことのメモを取ってたんだ。スバルさんにも協力してもらってさ。だから、あの夏のことだけは、兄貴が覚えてないことでも、おれは覚えてる」
「でも、おれ、朝から一人で散歩に出て……あれ? 散歩?」
「兄貴は引きこもってた。おれがうるさく言って、ようやく外に連れ出せるって感じだっただろ。あっち方面に行ったのは、学校の跡地に忍び込んだときだけだ。しかも、あんとき、校舎の鍵が開いてなくて、外から眺めただけだった」
「学校には行った。そっちの方面は、確かにハルタの言うとおり、探検できるような場所はほかになくて、だけど……あれ、校舎? 鍵……?」
埃っぽくこもった空気を覚えている。蒸し暑かった。寂しげに語られる島の滅びのストーリーを、子どもたちの文字が黒板に残る教室で聞いた。
何かが引っ掛かる。これは夢、それとも記憶? おれはあのとき、誰と一緒にいた?
薄茶色の大きな目。透き通るような声。どこか神秘的な唄。
違う。彼女がそこにいたはずはない。いや、だけど。
不安げで真剣な目をしたハルタが、おれの肩に手を掛けて、軽く揺さぶった。
「兄貴、大丈夫か? あの時期はマジで調子悪かったし、記憶もちょっと混乱してんじゃねぇか?」
「そうかもな」
おれはハルタに笑ってみせた。笑ってごまかさなければ涙が出ると、直感的に思った。
これは喪失感だ。胸にぽっかり穴が開いたような、どうしようもない悲しみがあることに、今、唐突に気が付いた。忘れてはならないものを、この手から取りこぼしてしまった。おれは何を忘れてしまったんだろう?
心の奥の魂に刻まれた何かが、ディスプレイ越しの海に呼ばれて、共鳴する。目を閉じれば、あまりにも鮮やかなその情景の中に、ふっと意識が飛んでいく。
青く光る空を仰いだ。甘く匂う潮風が過ぎていった。潮騒の唄に包まれた。ささやき合って交わした、秘密の約束があった。胸が疼いて仕方がない、この想いの正体は何だ。
おれはあの島で何を得て、何を失ったんだろう?
間違いないと言えることは、宝物のようなあの島に、おれのスタートラインが横たわっていたという事実。おれはあの島に命をもらった。心を燃やすレースのたびに口ずさんだ言葉を、あの夏、失意の中でつぶやいた。
レディー、ゴー!
つぶやくおれの声に寄り添いながら、潮風は、遠い空へと舞い上がった。その行方を追い掛けて、おれは幾度も幾度も空を見上げて、輝く色を胸に焼き付けた。美しかった。言葉にならないくらい大切な思い出が、情景が、そこにあった。
それなのに、おれは一体、何を忘れてしまったんだろう?
「兄貴?」
ハルタがまた、おれの肩を揺さぶった。
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。BGMのない喫茶店の、静かなざわめき。おれは二度、三度とかぶりを振って、重なり合った二つの記憶の残像を、頭の隅に追いやった。
「いつかまた行こうな。おれが大学に通って、おまえもレーシングドライバーとしての所属先が決まった後とか」
肩の上にあるハルタの手を、ぽんぽんと叩く。微笑んで見守ってくれているスバルさんに、微笑み返す。冷めかけたコーヒーを口に含む。
忘れてしまった。交わした言葉のひとつひとつは、初めから存在しなかったかのように、記憶の中のどこを探しても見当たらない。
でも、唄が聴こえる。命の奇跡の唄が。
あれは、何の唄だったんだろうか。誰が歌ったんだろうか。あの夏は二度と巡ってこない。新たな夏に、また新たな唄を確かめに行きたい。命のきらめきに満ちた、あの島へ。
【了】
早朝の銀色の波と、白く溶けていく星空を思い出した。なつかしさに、ああ、と声が漏れる。
「龍ノ原小中学校のところの防波堤ですね。突端に灯台があって。撮影したときは、かなり潮が引いてたんでしょう? 防波堤があんなに高く見える」
「おっ、兄貴が話そらした。照れんなよ。応援してやるって」
しつこい。おれはハルタを無視して、輝く海を見る。
「引き潮のときに防波堤から飛び込んだら、海面まで三メートルくらいありましたよね。思いっ切り遠くにジャンプしないと、海底に突っ込んでケガすることになるからって、助走をつけて飛び込んだのを覚えています」
ハルタが、すっとんきょうな声をあげた。
「はぁ? 防波堤から飛び込み? 寝ぼけんなよ、兄貴。おれたちが飛び込んで泳いだのって、船着き場の浮き桟橋んとこだろ」
「え? いや、昼間は船着き場で泳いだけど、朝、日が昇るのを防波堤で見て、それから海に飛び込んだぞ。レディー、ゴーで勢い付けて」
「違う、絶対違う! 防波堤には絶対、行ってねぇよ。かあちゃんに言われて、毎日、やったことのメモを取ってたんだ。スバルさんにも協力してもらってさ。だから、あの夏のことだけは、兄貴が覚えてないことでも、おれは覚えてる」
「でも、おれ、朝から一人で散歩に出て……あれ? 散歩?」
「兄貴は引きこもってた。おれがうるさく言って、ようやく外に連れ出せるって感じだっただろ。あっち方面に行ったのは、学校の跡地に忍び込んだときだけだ。しかも、あんとき、校舎の鍵が開いてなくて、外から眺めただけだった」
「学校には行った。そっちの方面は、確かにハルタの言うとおり、探検できるような場所はほかになくて、だけど……あれ、校舎? 鍵……?」
埃っぽくこもった空気を覚えている。蒸し暑かった。寂しげに語られる島の滅びのストーリーを、子どもたちの文字が黒板に残る教室で聞いた。
何かが引っ掛かる。これは夢、それとも記憶? おれはあのとき、誰と一緒にいた?
薄茶色の大きな目。透き通るような声。どこか神秘的な唄。
違う。彼女がそこにいたはずはない。いや、だけど。
不安げで真剣な目をしたハルタが、おれの肩に手を掛けて、軽く揺さぶった。
「兄貴、大丈夫か? あの時期はマジで調子悪かったし、記憶もちょっと混乱してんじゃねぇか?」
「そうかもな」
おれはハルタに笑ってみせた。笑ってごまかさなければ涙が出ると、直感的に思った。
これは喪失感だ。胸にぽっかり穴が開いたような、どうしようもない悲しみがあることに、今、唐突に気が付いた。忘れてはならないものを、この手から取りこぼしてしまった。おれは何を忘れてしまったんだろう?
心の奥の魂に刻まれた何かが、ディスプレイ越しの海に呼ばれて、共鳴する。目を閉じれば、あまりにも鮮やかなその情景の中に、ふっと意識が飛んでいく。
青く光る空を仰いだ。甘く匂う潮風が過ぎていった。潮騒の唄に包まれた。ささやき合って交わした、秘密の約束があった。胸が疼いて仕方がない、この想いの正体は何だ。
おれはあの島で何を得て、何を失ったんだろう?
間違いないと言えることは、宝物のようなあの島に、おれのスタートラインが横たわっていたという事実。おれはあの島に命をもらった。心を燃やすレースのたびに口ずさんだ言葉を、あの夏、失意の中でつぶやいた。
レディー、ゴー!
つぶやくおれの声に寄り添いながら、潮風は、遠い空へと舞い上がった。その行方を追い掛けて、おれは幾度も幾度も空を見上げて、輝く色を胸に焼き付けた。美しかった。言葉にならないくらい大切な思い出が、情景が、そこにあった。
それなのに、おれは一体、何を忘れてしまったんだろう?
「兄貴?」
ハルタがまた、おれの肩を揺さぶった。
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。BGMのない喫茶店の、静かなざわめき。おれは二度、三度とかぶりを振って、重なり合った二つの記憶の残像を、頭の隅に追いやった。
「いつかまた行こうな。おれが大学に通って、おまえもレーシングドライバーとしての所属先が決まった後とか」
肩の上にあるハルタの手を、ぽんぽんと叩く。微笑んで見守ってくれているスバルさんに、微笑み返す。冷めかけたコーヒーを口に含む。
忘れてしまった。交わした言葉のひとつひとつは、初めから存在しなかったかのように、記憶の中のどこを探しても見当たらない。
でも、唄が聴こえる。命の奇跡の唄が。
あれは、何の唄だったんだろうか。誰が歌ったんだろうか。あの夏は二度と巡ってこない。新たな夏に、また新たな唄を確かめに行きたい。命のきらめきに満ちた、あの島へ。
【了】