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 海の色も空の色も深く輝いて、目に染み入るほどに強い。今日は一体、何時間、こうして二つの青色を見つめているだろう?
 フェリーを乗り継いで、龍ノ里島という離れ小島にやって来た。弟のハルタは、港に降り立った瞬間から元気いっぱいで、おれは呆れてしまう。

 港まで迎えに来てくれた越田スバルさんは、おれの担任、田宮先生の大学時代の後輩だ。龍ノ里島で風力発電や海流発電に関わる仕事をしているという。

「突然お邪魔することになって、ご迷惑をおかけします。これから一週間、よろしくお願いします」
「迷惑なんて、全然。こちらこそ、よろしく。ぼくも楽しみにしていたんだよ」

 スバルさんは優しげな印象で、日に焼けていて、実際の年齢よりも若く見える。おれが発電施設に興味があると言ったら、喜んでくれた。丁寧語を使えないハルタへの態度も寛大で、ありがたいけれど申し訳ない。

「さて、ここにいても暑いだけだし、我が家に移動しようか。改めまして、ユリトくん、ハルタくん、龍ノ里島へようこそ。海と空と風と山を、ゆっくり楽しんでいってほしい。家は広いんだけど、ぼくひとりで住んでるから、のんびりできると思うよ」

「スバルさん、結婚してねぇの?」
「残念ながら、出会いがなかったからね。流体力学が専門の機械工学系の研究室から、同じ系列の会社に入って、すぐに龍ノ里島に派遣された。その間、同世代の女性が一人もいなかったんだよ」

「うげ。大学の工学系って、女子いねぇの? 兄貴、ヤバいじゃん」
「そうそう。ユリトくんも、中学や高校での出会いは大事にしたほうがいいよ。まあ、そういうのは運命次第なんだろうけどね」

 サイエンスが専門なのに運命を説くなんて、スバルさんは少し変わった人だ。おれは曖昧に笑ってごまかした。恋って、まだよくわからない。唐突な失恋を一つ経験しただけで、恋に落ちる過程も恋が実る瞬間も知らない。イメージすらできない。

 スバルさんの家は、龍ノ原の集落を見晴らす山手にある。港からたいした距離じゃないけれどクルマで移動したのは、スバルさんが仕事場からおれたちの出迎えへ直行したからだ。龍ノ里島はけっこう大きくて、発電施設の見回りにはクルマが必須だという。

 今は寂れた印象の龍ノ里島も、昔は大きな漁業基地として活気があったらしい。龍ノ原湾は港として優秀な上に、不思議なジンクスが信じられていたんだそうだ。意外なことに、ハルタがそのジンクスについて知っていた。

「ジンクスってか、伝説だろ? 龍ノ神が守ってる島だから、ここから船出したら、海で遭難しにくいって。遭難しても、奇跡的に助かったり。だから、昔の龍ノ里島にはデカい漁船が集まってきてたんだろ。おれ、ネットでその話、見付けて読んだ」

 クルマを運転するスバルさんは、バックミラー越しにハルタに微笑んだ。

「龍ノ里島のこと、調べてきてくれたんだね。嬉しいな。龍ノ神の祭りは、昔はずいぶん盛大だったんだ。でも、島から人が少なくなって、十数年前からやらなくなった。山のあちこちに龍ノ神の祠があるんだけど、それもほったらかしでね」

 祭りも祠も忘れ去られたら、神さまは消えてしまうんじゃないだろうか。そんなことを、おれはぼんやり考えた。非科学的だな。バカバカしい。

 スバルさんの四輪駆動車がカッコいいという話から、小学生時代に熱中していた自動車模型、ミニ四駆の話になった。ハルタはおかまいなしだけれど、おれは恥ずかしかった。だから、スバルさんのリアクションにちょっと驚かされた。

「ぼくも昔、きみたちと同じ趣味を持ってたよ。男は誰でも通る道なのかな? ちなみに、ぼくはユリトくんと同じく、コーナリングに重きを置くセッティングにしていた」

 中学生なのに意外と子どもっぽいんだね、と笑われるかと思っていた。だって、言ってしまえばおもちゃの話だ。特におれは、年齢の割に大人びていると見られていて、模型云々と口にするようなタイプじゃない。
 ハルタは、話に乗ってくれたスバルさんに尻尾を振る勢いだった。

「へへん、おれの勘、大当たり! スバルさんへのおみやげ、大正解だな」
「おみやげかい? 何だろう?」
「今は内緒! ついでに、兄貴にプレゼントがあるんだ」
「は? プレゼント?」
「家に着いたら速攻で渡す」

 スバルさんの家は、さっき聞いたとおり、一人で住むにはずいぶんと大きい。瓦屋根が特徴的な、和風なところのある洋館だ。玄関で靴を脱ぎながら、二階まで吹き抜けのホールを見渡して、ほう、と息をつく。

「カッコいい建物ですね」
「だろ? ぼくも一目惚れでね。龍ノ里島に住むことになって、いくつか空き家を紹介されたんだけど、もうここ以外は目に入らなかった。エアコンが付いてなかったり、何かと設備が古いのが玉にキズかな」

 風が抜ける造りになっているらしい。エアコンなしでも十分に涼しくて、快適だ。白いレースのカーテンが風に揺れている。
 ハルタが早速、ホールの真ん中で自分の荷物をあさって、中からビニール袋を取り出した。袋には、赤と青の双子星のロゴ。

「じゃーん、プレゼントとおみやげ! ついでに自分のぶん。えーっと、これが兄貴のぶんだな」

 ハルタに押し付けられた箱は、ミニ四駆のシャーシだった。おれが小学生のころから愛用している、後輪の車軸の上にモーターが入るタイプのものだ。

「え、何、どうして急に?」
「急じゃねぇだろ。兄貴のシュトラール、だいぶ長らくシャーシ割れてんじゃん。何で交換しねぇの? 金がないってわけでもないくせに」
「いや、だって……」
「だっても何もねぇだろ? 走らせなきゃ、シュトラールがかわいそうだ」
「……もう遊んでばっかりもいられないだろ」

 子どもっぽい趣味を卒業しなきゃいけないと、まわりからのプレッシャーのようなものを感じる。だって、おれはもう中学三年生だ。半年後には高校受験を控えている。

 部活に打ち込んでいるとか、ギターを始めたとか、サッカーなら誰よりも知っているとか、将来の夢を見据えているとか、あっさり童貞を卒業したとか、大人に近付くことがおれたちの年代のステータスだ。

 ミニ四駆のレースなら負けないよなんて、もう胸を張ったりできないだろ。ハルタは何でそれがわからないんだよ?
 ぶつけたかった言葉は、改めて押し付けられたシャーシの箱に叩きつぶされた。物理的に。箱が唇にぶつかって、あまりの痛みに、涙目になる。

「グダグダ言わずにシャーシ交換! そんで、おれのトルネードとレースだ! トルネードもスイッチがいかれ気味だし、一緒に交換するぞ。あっ、そうだ。久々にスピード組み立て勝負しようぜ」

 ちょっと待て、ハルタ。本当に意味がわからない。おれは、ミニ四駆はもうやめようと本気で思っているんだってば。
 ところが、スバルさんまでハルタみたいに床に座り込んで、おみやげの箱を開けて大喜びしている。おみやげというのは、新品のミニ四駆一式だった。

 あのシャーシは癖の少ないバランス型だ。しかも、使わなくなったパーツも再利用できるからと、ハルタが山ほど、いろんな素材を分けてあげている。スバルさんはミニ四駆経験者である上、機械工学に通じているから、すぐ、いい感じにマシンを進化させられるだろう。

 いや、おれはやらないってば。
 だけど、胸がざわめく。どうしようもなく、ざわめく。
 スバルさんは屈託なく笑っている。

「なるほど、これはおもしろい。最近のミニ四駆って、昔とはけっこう違うんだな。いじり甲斐がありそうだ。今日はもう仕事は終わらせてあるし、ぼくもレースの仲間に入れてもらうよ」
「とーぜん! やったね。これで今回の夏休みは絶対、一瞬たりとも退屈せずにすむぞ。なっ、兄貴!」

「どうしておれを巻き込むんだよ?」
「そりゃ、兄貴が巻き込まれたがってるからだよ。シケたツラばっかしてんじゃねえって。兄貴がポンコツになったの、ミニ四駆やめるとか言い出してからだろ」
「学校のことで忙しいから、遊んでる場合じゃないって、自分で選んだんだ。いつまでも子どもの遊びなんかしていられないって」

「子どもの遊びか? でも、ミニ四駆の開発してんのって、大人じゃん」
「そりゃそうだけど」

「ま、ぐちゃぐちゃどーでもいいこと言ってんじゃ、時間がもったいねぇよな。まずは、スバルさんに見せるエキシビジョンってことで、シャーシのスピード組み立て勝負、やるぜ! 工具箱くらい持ってきてんだろ?」
「当たり前だ」

 口走って、ハッとする。走らせもしないミニ四駆なのに、いつでも連れて歩いて、メンテナンスを欠かさず、旅先にまで小さな工具箱を持ってきている。
 ハルタが真夏の太陽みたいな笑顔で、おれの背中を叩いた。

「やっぱ、そうだよな! いつもそのバッグ使ってるもんな。シュトラールと工具を持ち運ぶときの、いちばんちっちゃいバッグ。ケータイと財布はポケットに入れてんのに、バッグに何入ってんだって、シュトラール以外ないよな」

 ハルタに見透かされていた。カッと体の芯が熱くなったのは、恥ずかしさのせいでも怒りのせいでもなかった。忘れたつもりになっていた純度の高い何かが、その存在を主張するように、おれの体を内側から激しく揺さぶったんだ。

 卒業なんか、できるはずないんだ。
 だけど。だから。

 必死になって、古い自分に別れを告げて、前へ前へ進もうと決めたのに。追いすがってこられても、おれは前みたいに、好きなものを好きだと、きちんと言える自信がないのに。

 一台六百円、全長十五センチちょっとの自動車模型。輝きという名前の相棒を、好きなままでもいいんだろうか。子どもの夢を卒業しないままで、いいんだろうか。

 迷っている。悩んでいる。

 おれは今、立ち止まっている最中だ。次の一歩を、どんなふうに踏み出せばいいんだろう? わからなくて苦しい。でも、うずくまってあきらめることだけはしたくない。

 ふと、白いレースのカーテンをふわふわ舞わせて、潮風がゆったりと過ぎていった。頬を撫でる潮風は、甘いような、なつかしいような、不思議な香りがする。
 窓の下に見晴らす海から潮騒の音が聞こえてくる。海が歌っているようだと思った。