全身に熱がともって、血がたぎってしまいそうで、息をついて目を閉じたら、体が心に正直になった。
 おれはカイリを抱きしめた。
 カイリがおれの腕の中にいる。思っていたよりも細くて小さな、しなやかな体。カイリの髪が、おれの頬や耳に触れている。

「ユリト?」
 ささやく声に呼ばれた。自分の名前が唄みたいに聞こえた。

「寂しくて怖いんだ。大人に近付いて、子どものころにはつかんでいたはずのものが、いつの間にか手からこぼれ落ちていて、記憶が消えていくみたいで、迷って。自分が誰なのか、見失いかけてた。でも、カイリは見付けてくれる。おれが誰なのか、教えてくれる」

「ユリトが誰なのか教えられる人は、ほかにもいるよ。ハルタがそう」
「違う。カイリじゃなきゃダメなんだ。カイリは、おれの見栄もプライドも、いつの間にかはがしてしまう。こんなこと、ほかの誰にもできない。たとえそれが、特別な力を使っているからだとしても」

 歌うような声がささやいた。
「わたしの力は、そんなふうには働かない。言ったでしょう。わたしにとって、人間は不思議なの。わからないことだらけ。ユリトがユリトのことをわからないと言うのと、たぶん同じ」

「じゃあ、おれが気になって仕方ない相手っていうのは、人間の女の子と同じなんだね。相手の心をのぞき込めるわけじゃなくて、相手を知るためには、言葉を重ねなきゃいけない」

 鼓動の音が聞こえる。抱きしめた体の間に、確かに響く音がある。カイリが、そっと笑った。
「やっぱり、人間は不思議。眠り方も忘れるくらい、ユリトの生命力は弱ってたのに、今はこんなに温かい」

「まだ終われないんだよ。自分を愛せるようになりたい。自分の夢を信じてみたい。夢の果てにある現実にたどり着きたい。そこでもう一度、何度でも、夢を描き続けて生きていたい。おれは、生きることをあきらめたくない」

 子どものままの自分を好きになりたい。大人に近付く自分を認めてやりたい。世渡り上手じゃなくていい。他人の理想に振り回されたくない。自分の道を駆け抜けていきたい。
 やりたいことが、生きたい道が、見えてくる。迷いが晴れたわけじゃないけれど、その濃い霧の中を突っ切っていく勇気は、この胸に確かに存在する。

「よかった。ユリトが命を手放さないでいてくれて」
 カイリの腕が、おれの体に回された。

「おれ、まだ生きてるんだよね?」
「生きてるよ。だから、奇跡を起こそう」
「奇跡?」
「命あるものにだけ、奇跡は訪れる。わたしもやっと眠りに就く覚悟ができたから、このたわむれの夢と引き換えに、ユリトの進む道に奇跡を起こそう」

 震えながら歌うような言葉に、おれはハッとして、カイリの顔をのぞき込んだ。カイリは泣いてはいなかった。ただ、静かな微笑みは限りなく寂しそうだった。

「カイリ、引き換えにするって、それは……」
 おれの唇に、カイリの唇が触れた。言葉も呼吸も吹き飛んだ。

 キスをしている。
 柔らかな感触は、あっさりと離れていく。海の色をした瞳に、おれの意識は閉じ込められる。カイリはささやいた。

「くちづけは、約束のあかし。巡り巡る時の流れを少しだけやり直して、ユリトが進んでいけるように祈るから。わたしは眠る。たわむれは終わらせる。龍ノ里島に住むカイリという娘は、役割を果たした。カイリはもう、初めから存在しない」

 カイリの瞳の青色を最後に、おれの前から色彩が消える。抱きしめ合うぬくもりも、荒れ狂う波の冷たさも、上も下も右も左も、一切の感覚が消えてなくなる。
 声だけが聞こえている。夜風を伴奏にひっそりと紡がれた歌だけが、耳ではないどこかからまっすぐに、心の奥まで飛び込んで、命と魂に共鳴する。


しおさいさわぐ つきよのかげに
ほしをあおげば みちるなみだの
ゆめじをたずね まようはだれぞ

いのちあるもの たゆたいゆけば
いつかねむりに おちるときまで
みみをすませて ちしおのながれ

かぜのかなたに さやかにひかる
きみのゆくえは とわずがたりの
せつなにであい わかれはとわに

ねむりねむれば いつかはあわん
かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ
いのちあるもの きみにさちあれ


 カイリ、やることがメチャクチャなのはお互いさまじゃないか。勝手に一人で納得するなよ。おれはイヤだ。おれと出会ったカイリが幻だったなんて、絶対にイヤだ。

「それなら、魂の奥に刻んでおいて。もしも、いつかどこかで、わたしと同じ魂の持ち主がユリトに出会ったら、間違いなく見付けられるように」

 必ずおれと出会ってよ。おれは必ず見付けるから。絶対にカイリをつかまえて、離さないから。約束、交わしただろ?

 カイリが微笑む気配があった。

 好きだと告げたかった。きみが好きだ。その笑顔が好きだ。宝物みたいに美しいこの島の、きみと出会ったこの夏が好きだ。
 すべてがいとおしいと、今、気付くことができたのに、消えていく。ただの幻のように。明け方の淡い夢のように。

 待って。どうか、どうかこの魂の奥に、想いよ、残って。

 好きだと告げたかった。

 何もかもが消えていく。何も知らなかった自分へとさかのぼって、おれは忘れていく。