少年チューンナップ

☆.。.:*・゜

 紺碧の海の上に白い澪を引いて、フェリーが島の港へと入っていく。ぶおーっ、と低い汽笛が二回、龍ノ背の山並みに響いた。
 おれは思わず、ケータイのカメラのシャッターを切った。隣でハルタもデジカメを取り出して、何枚も何枚も、写真を撮っている。

 スバルさんは、得意げに小鼻をひくひくさせた。
「絵になる景色だろう? ここ、龍ノ尾崎の灯台から見る龍ノ原港は、どんな天気のときもカッコよくてね。このタイミングに間に合ってよかった」

 龍ノ里島の南の突端、龍ノ尾崎の灯台は、黒々とした断崖絶壁のギリギリのところに建っている。ちょっと変わった形をした灯台だ。円筒じゃなく、細長い直方体。色は真っ白で、空の青と海の青、山の濃い緑に映えて凛々しい。

 フェリーの時間が迫っていたから、山手に建つ風車の見学を後回しにして、先に龍ノ尾崎にやって来た。途中の山道にも、龍ノ神の祠があった。スバルさんは、週に一回か二回、祠の掃除をしているそうだ。龍ノ原の長老みたいな人に頼まれているらしい。
 龍ノ尾崎の灯台の屋上は、とにかく風が強かった。港とフェリーの写真を撮った後、吹き飛びそうなケータイを急いでバッグにしまい込む。

「ハルタ、そろそろ下りる?」
 カイリが訊いた。ハルタは高所恐怖症の気がある。デジカメをいじり終えると、急に恐怖心を思い出したらしく、そわそわし始めた。カイリはそれに気付いたんだ。

「そうする! おれ、先に下りるから!」
 勢いよく宣言して、ハルタは身軽に逃げ出した。螺旋になった階段を、二段飛ばし。ピョンピョン弾んでいるくせに、足音はほとんど立たない。
 スバルさんが感心した。

「すごいな、あの動き。ハルタくんは運動ができると聞いていたけど、全身の筋力というか、バネが違うね。うらやましい」
「ですよね。ぼくと同じ遺伝子のはずなのに、ハルタだけがあんなふうに動けるんです」
「ユリトくんも、スポーツができるんだろう?」
「人並みですよ。ハルタに勝てる種目、一つもありません」

 階段の下からハルタが叫んでいる。
「兄貴たち、何やってんだよー! 早く下りてこいよー!」

 勝手なやつだ。カイリが肩をすくめて、階段を下り始める。おれとスバルさんも続いた。本当は灯台の機械室も見てみたかったのだけれど、そこの鍵はスバルさんも預かっていないらしい。

 灯台の電源は、断崖絶壁の下に設置された海流発電でまかなっている。海流発電は、水没させた水車を海水の流れによって回して、その回転エネルギーを電気エネルギーに変換する発電方法だ。風力発電の海中バージョンみたいなイメージでいいと思う。

 潮風が吹き荒れる岬の突端で、丸太の柵越しに海を見下ろす。牙をむくような高波が、もつれ合うように渦を為している。砕けた白いしぶきが、黒岩の断崖絶壁を駆け上がってくる。

「ここから海面まで、三十メートルくらいだったかな。落ちたらまず上がってこられないから、気を付けてね」
「サラッと怖いこと言わないでくださいよ。でも、本当にすごい速さの流れですね」

「龍ノ里島は、外海に放り出された離れ小島だからね。島を取り巻く海流は、速くて荒い。しかも、この龍ノ尾崎の岬の下にはいくつもの海底洞窟があって、そこを通り抜ける海水の流れがあることで、この複雑な渦潮がいつでも発生している」
「じゃあ、風力発電で例えるなら、この海の下はいつでも大嵐なんですね。水車を設置するのも、壊れないように維持するのも、ずいぶん大変でしょう?」

「もちろん人間が作業するわけにいかないから、海底で作業できるロボットを操作して設置したんだ。メンテナンスにもロボットを使ってるよ。宇宙空間で使う作業ロボットのテストも兼ねているんだ」
「宇宙開発の技術が海底でも活かされるって、カッコいいですね。そのロボットの作業風景、いつか見てみたいです」
 おれとスバルさんは崖の柵のそばで話をしていたけれど、ハルタは下がのぞけるところへ近寄ってこようともしない。カイリをつかまえてしゃべっているのが、相変わらず、おれをイライラさせている。

「カイリ、これ見ろよ! じゃーん! おれのプラモート。速いんだぜ」
「ハルタも持ってきてたんだ? ユリトのマシンと、雰囲気が違うね」
「えっ、兄貴のシュトラール、見たことあんのか?」
「うん。ハルタのマシンは、何ていう名前?」
「トルネードっていうんだ。兄貴のマシンと違って、モーター選びからギヤ比まで全部、スピード重視のセッティングさ」

 ハルタは、プラモートのセッティングについて、とうとうと語り出した。そんなマニアックな話、きっとカイリには一つもわからない。でも、カイリは大きな目をキラキラさせて、ハルタのトルネードに見入っている。

「きれいな形。ハルタっぽいデザインだね」
「カッコいいだろ? 本気出して塗装したからな」

 トルネードのボディは白地で、青をベースにしたカラフルなラインが走っている。無秩序なようでいて案外きちんとした色の配置になっているのは、ハルタの動物的な勘の良さが為せるわざだ。
 スバルさんもプラモートに興味を引かれたみたいで、ハルタのほうに歩いていく。取り残されるのはむなしいから、おれもため息交じりで追い掛けて、ちょっと離れたところで立ち止まった。

 ハルタがトルネードを太陽に掲げてみせた。プラスチック製のコクピットが、陽光をキラリと反射する。
「レーサーになりたいっていう夢を、最初に見せてくれたのがトルネードなんだ。全速力で走ってるときのトルネードの前には、すっげー景色が広がってる。チップの再現映像で初めてそれを知ったとき、いつか自分の目で本物を見たいと思った」

 スバルさんがニコニコして応じた。
「なつかしいな。ぼくが昔ハマっていたころに比べて、ずいぶん凝った装備を施すようになっているんだね。チップの技術もすごそうだ。久しぶりに、プラモートをいじってみたくなったよ」

「龍ノ里島の一つ隣にあるデカい島なら、売ってるみたいだぜ。品ぞろえのいいホームセンターがあるんだろ?」
「ああ、あそこに売ってるのか。ハルタくん、どうして知ってるの?」
「とうちゃんのパソコン使って、ネットで調べた!」

 ハルタが言っているのは、プラモートのファンが情報提供する無料のサイトのことだ。全国どこにある模型屋やホームセンターでプラモート関連の商品が買えるか、その店の住所も含めて掲載された、有志によるまとめサイトだ。
 小学校のころは、家族で旅行や遠出をするたびに、必ずハルタと一緒に模型屋巡りをした。プラモートが一台あれば、おれたちは、どこに行ったって人とコミュニケーションが取れた。

 スバルさんがハルタに提案した。
「明日あたり、漁船に乗せてもらって隣の島に買い出しに行くんだけど、ハルタくんたちも一緒に行こう。ついでにホームセンターも寄ってみようと思うんだ。ぼくも一台、プラモートを買いたいな。アドバイスもらえるかな?」

「よっしゃ、もちろん引き受けた! どれくらいの品ぞろえなのか、すっげー楽しみだな! おれも実は、シャーシを買い直そうと思ってんだ。トルネードのシャーシ、スイッチのとこが甘くなってて」

「スイッチ?」
「車体の裏のこれ。オフのほうのツメが折れてて、カチッと止まりにくいんだ。で、ちょっとした衝撃で走り出したり。こないだ、学校帰りにカバンの中でいきなりウィィィンってなって、かなりビビった。だよな、兄貴!」

 ハルタに満面の笑みを向けられた。いちいち無神経なハルタの言動に、イライラの水位が上昇する。
 まずい。このくらいでイライラしていたんじゃ、ハルタと一緒になんていられない。わかっているはずなのに、うまく感情をコントロールできない。
 おれはハルタから顔をそむけた。カイリと目が合った。どうしたの、と言うように、カイリは首をかしげる。
 ハルタがまた、カイリの視線をおれからもぎ取った。

「カイリも明日、プラモート買ってみたらどうだ?」
「わたしも?」
「カイリは手先が器用だから、すぐコツつかんで、速く走らせられるようになるぜ」
「こういうの、やったことないよ。でも、ハルタもユリトもプラモートが好きだから、わたしも気になる」
「よっしゃ、決定! 全員のマシンがそろったら、家ん中にあるもの使ってコース作ってレースしよう!」

 何なんだよ、おまえ? 何でそういう小学生みたいなこと、恥ずかしげもなく言えるわけ? 信じらんないよ。
 なのに、カイリもスバルさんも楽しそうに話を合わせるから、ハルタはどんどん調子に乗る。うちにある小さなコースや廊下や階段をどんなふうに使って、レース本番に備えたセッティングの調整をしていたか、得々として披露する。

「こういうの考え付くの、ぜーんぶ兄貴なんだ。兄貴は器用だし、しつこいから、公式レースのコースがどんなに意地悪でも、攻略できるまで、ひたすらお手製コースで練習を続けんだ。当然、兄貴もおれと同じく、かなり速ぇんだ」

 注目されて、うつむいた。罪を犯しているわけでもないのに、後ろめたくて恥ずかしい。
 背中に掛けたバッグの中に、シュトラールが入っている。シュトラールをバッグの中に潜ませて連れて歩く癖が抜けない。

 連れて歩く、だ。持ち歩くんじゃない。ただのモノだと思えない。シュトラールは、いつも一緒の大事な相棒。
 小学生のころは、最高に速い相棒を連れて歩いているんだと胸を張ることができた。知らない町の模型屋に行っても、試走用のコースに入れば、おれもハルタもあっという間にヒーローになれた。

 だけど。
「昔のこと、ですよ。ぼくがプラモートに熱中してたのは、小学生のころのことです。たった三年前でも、すごく昔に思えます」
 見栄、嘘、建前、虚勢、仮面。カッコつけるのはカッコ悪いと思うけれど、何の装備もないままじゃ大人になれない。

 拳を握りしめる。手のひらに爪が刺さる。痛い。
 小さな工具を毎日握っていたころは、爪を長いまま放置したりなんかしなかった。指先まで完璧に夢中になっていたはずが、いつからだ? こんな無神経な指じゃ、おれ、昔より不器用になっただろうな。ピットインの速さ、自信があったのに。

 卒業しなきゃ。否定しなきゃ。忘れ去らなきゃ。大人にならなきゃ。
 時間が経てば、どんなに大事なものでも、人は忘れる。当たり前のことが、何でこんなに痛いんだろう? おれは何でこんなに迷って、悩んで、壊れかけているんだろう?

「兄貴、さっきからどうしたんだよ? もしかして、具合悪ぃのか?」
 無邪気な声がする。最近かすれがちなハルタの声。そんなガキの声をしているくせに、プラモートのことをいまだに開けっ広げに語るくせに、ハルタは将来の夢がもう見えている。
 あせるんだよ、おまえがいると。

「なあ、兄貴。体調、どうなんだよ?」
「別に」
「別にじゃねぇだろ。絶対元気ねぇし。何で?」
「……おまえがバカなせいだ」
「え? おれ? おれが何かしたっけ?」

 違う、おまえは悪くない。いや、おまえが悪い。アンバランスな精神を、ハルタがグラグラ揺さぶってくる。だけど、こんなのはいつものことで、いちいち気にしていられないはずで。
 どうして気になる? どうして混乱している?
 嫉妬のせいだ。ハルタなんかいなければ、全部おれが独占できたのに。友達も、大人からの誉め言葉も、幼なじみの恋も、レースのチャンピオンも。

「……おまえなんかいなければ……」
「あ? 兄貴、何か言った?」

 唐突に吹いた強い潮風の中で、おれはつぶやいた。
「ハルタ、おまえさえいなければ、おれは……!」

 嫉妬も競争もしなかった。勝ちたいとも頑張ろうとも思えなかった。
 ハルタがいなかったら、おれは決して、今のおれにはなれなかった。今のおれの半分も我慢できない、あきらめてばかりのクズになっただろう。ハルタのせいで今のおれになったんだ。よくも悪くも、全部。

 八つ当たりの暴力的な衝動で拳を握ったおれに、心配顔のハルタが駆け寄ってこようとする。来るなよ、と思った瞬間だった。
 唐突に、潮風が逆巻いた。嵐みたいな、凄まじい強風だ。
 カイリがうずくまる。スバルさんがよろめく。身構えたハルタの手から、車体の軽いトルネードが吹き払われる。トルネードが地面に落下する。

 風の唸りの中で、モーター音を聞いた。地面に当たった衝撃で、トルネードのスイッチが入ったんだ。
 ハルタの口が悲鳴の形に開いた。手を伸ばしても、もう遅い。
 トルネードが走る。フェンスなんかあるはずのないオフロード。小刻みに車体が跳ねる。でも、止まらない。丸太の柵は、小さなプラモートの前では何の役にも立たない。

 反射的に体が動いた。
 だって、いつものことなんだ。トップスピード重視のぶん、コーナリングの安定性に欠けるトルネードはしょっちゅうコースアウトして、おれとハルタが慌ててつかまえに行く。ハルタが間に合わないなら、おれが動かなきゃ。

 柵を跳び越える。体が宙に浮く。腕を伸ばしてトルネードをつかまえて、肩越しに振り返る。ハルタが何か叫んでいる。
 トルネードをハルタに放り投げた瞬間、急激に体が重くなった。そこから落下が始まった。わずか一瞬。でも、ひどく間延びして感じた。

 怖くなかった。死んじゃうんだなと、ぼんやり思った。
 おれは海面に叩き付けられた。意識が弾けて消えた。
 冷たくて、透明で、薄暗い。海が唸る音を、鼓膜じゃなく全身で感じる。
 体と意識が別々の場所にあった。入り乱れて荒れ狂う海流がおれの体をもてあそぶのを、おれ意識は、少し離れたところから眺めている。意識のほうは、やはり物理的な存在ではないらしくて、激流に呑まれることもなく、じっとそこに留まっている。

 おれは生きているんだろうか。死んでいるんだろうか。

 黒々とした断崖絶壁の付け根はずいぶん深くて、光が十分に入ってこない。ゴツゴツした岩肌には、海底洞窟の入り口とおぼしき亀裂がある。亀裂へ吸い込まれながらぶつかり合う海水の流れが見える。
 ぐるりと周囲を見渡すと、白い巨大な水車があっちにもこっちにも建っていた。魚も寄り付かない激流の中で、想像していたよりはゆっくりと、水車は回っている。墓標みたいだと思った。

 おれの体を運ぶ流れが、一基の水車のほうへと向かっていく。水車の回転に巻き込まれたら、人間ひとり、簡単に押しつぶされてしまうだろう。おれ、今から本当に死ぬんだな。

「バカ」
 聞こえるはずのない声が聞こえた。静かに透き通った少女の声。
 カイリ?
「ユリトのバカ。やってることも考えてることもメチャクチャだ」

 カイリがおれの視界を横切っていく。
 どうしてここに?
 激流をものともせず、泳ぐというほどの動きも見せずに、カイリはおれの体を追い掛けてつかまえた。水車の直前で反転して海中に立ち止まって、動かないおれの体を抱きしめる。

 次の瞬間、おれは、柔らかなぬくもりに抱きしめられていると気が付いた。顔を上げると、キスできそうなほど近くに、カイリのきれいな顔がある。
「な、何で……おれ、一体、どうなってるんだ?」

 酸素も音もない世界で、荒れ狂う海流にとらわれることなく、おれとカイリはここにいる。いくつもの、回る水車。頭上で逆巻く高波。闇に沈む海底。触れる者を拒むような断崖絶壁。
 カイリの薄茶色の目に、おれが映り込んでいる。

「人間は愚かだ」
 ささやく声には、いらだちがにじんでいる。確かにカイリの声だけれど、何か違う響きを帯びている。潮騒のように大きな、山に吹く風のように涼やかな、途方もない何者かの息吹を感じる。

 カイリが、カイリじゃない。ただの一人の少女ではあり得ない。
「きみは誰?」
 ひどくつたない問いだ。でも、ほかに何と問えばいいだろう?

「わたしは、おまえがカイリと呼ぶ存在。それ以外の何である必要がある?」
「カイリは……人間、なのか?」
「違う」
「じゃあ、カイリは……」
 どんな名前で呼べばいい存在なんだ? おれを抱きかかえる腕も密着した柔らかい体も、その温かさも、こんなになまなましいのに。

「わたしという存在の正体を知って何になる? わたしはただ、最後に夢を見たかっただけ。おまえに何を告げるつもりもなかった」
「夢? 最後って?」
「人間を守るためにここにいるわたしが、守るべき人間をすべて失ったら、消えてゆくよりほかにあるまい。だから最後に一つ、他愛ない夢を見てみたいと思った。ただの人間の娘になって、わたしの知らぬ世界を知る者と、ありふれた言葉を交わしてみたかった」

 逆巻く海流が全部、透明な鱗に変わっていく。圧倒的に巨大な存在が、おれとカイリを包み込んでいる。ハッとして仰向くと、晴れた日の海の色をした両眼が、波間から差す太陽の光にきらめきながら、おれを見下ろしていた。

「龍……!」
「この姿もまた、たわむれの一つに過ぎぬ。気に入ってはいるがな」
 龍が微笑む気配があった。
 おれの体が、ふわりと浮き上がる。カイリの腕から離れそうになって、おれは慌てて手を伸ばした。カイリの細い手首をつかむ。
 カイリがおれを見上げた。龍と同じ紺碧の大きな目が、かすかに細められる。

「おまえは、こちらの姿のほうが好きか?」
「おれはカイリの姿のきみと出会ったから、カイリでいてくれるほうが話しやすい」
「わたしと話をしてくれるのか?」
「言葉を交わしたかったって、たった今、きみが言っただろ」

 龍の気配が柔らかく溶けて消えて、カイリが少女の顔で微笑んだ。
「そうだね。朝の防波堤や、昼間の校舎や、真夜中の屋根の上、わたしの祠の前。ユリトの言葉が聞けて、わたしは満足だった」

「満足するなよ。おれは話したよ。でも、十分じゃない。カイリの話を聞いてない。おれが自分のことをしゃべって自分を見せるばっかりだった。普段はこんなんじゃないのに、聞いてもらいたい、受け止めてもらいたいって、カイリの前ではわがままだらけになってた」
 おれはカイリの手首を引っ張った。同じ高さに浮かんできたカイリと、正面から向き合う。カイリは首をかしげた。

「わがまま?」
「迷いを晴らす方法を、カイリに教えてもらいたかったんだ。ハルタにも誰にも弱音を吐かずにきたけど、カイリはなぜか違う。今まで出会った誰とも違って、カイリならおれを助けてくれる気がして、おれはすがり付いた。子どもみたいなわがままだよ」

「わたしは何も知らない。何の助言もできないし、救いの道を開くこともできない。人間は、迷う生き物だから。わたしは、その迷いごと全部、見守るだけ」
「違う、そうじゃなくて」
「何が違う?」
「神さまじゃなくていいんだ。おれがカイリにぶつけたかったわがままは、別に、神さまの力なんか必要なくて……」

 感情はここにある。言葉が追い付かない。
 おれが出会ったのは、神さまじゃない。一人のきれいな、少し不思議な女の子だ。だからこそ、おれはカイリに触れたくなったし、見つめてほしいと思った。
 体温だとか鼓動だとか、生身の感覚がこの不思議な時空間の中にも存在していて、おれの頬はだんだん熱くなっていく。胸の高鳴りのせいで、息が苦しい。言葉が見付からない。

 カイリの目が、不意に強くきらめいた。
「ユリトは、このままじゃ死ぬ」
「……死ぬ? おれが、死ぬ?」
「いくつもの要因があって、いくつかの分岐があって、選択の結果、ユリトはここに至った。選択の理由を、わたしは聞きたい。なぜ、生きることをやめようとした?」

 青く澄んだカイリの瞳が、おれの答えを求めている。おれは、見つめているのか見惚れているのか、どっちだろう?

「死にたいつもりはないよ」
「本当に?」
「死ねないから……投げ出せないから、悩んでるんだ」
「終わらせたいと思っていたでしょう?」
「……そうだけど」

「ユリトの肉体は、眠ることを放棄した。それは、生物としての姿を放棄すること」
「自分から望んでそうなったわけじゃない。体が、言うことを聞かなかった。おれは、あきらめてない。投げ出してない。進みたいのに、うまく進めないだけで」
「このまま死ぬのが怖い?」

 心の奥までのぞき込む問いに、言葉が固まる。たやすく答えてはいけない。
 怖いんだろうか?
 今、痛くも苦しくもない。一人ではないから、寂しくもない。どうせいつかは終わるんだ。引導を渡してくれるのがカイリなら、全然かまわないんじゃないか。だって、おれは。
 いや、それじゃ意味がない。
「怖いんじゃなくて、悔しいよ。今ここで死ぬのは悔しい。投げ出したくない現実も、生物として壊れかけた体も、どんな要因と分岐があってそうなってしまったのか、わからないままだ。今はまだ終われない。それに、おれは……おれは、カイリと……」

 生きているのか死んでいるのか、命の瀬戸際にいて、ギリギリの感情がせめぎ合う状況にあるのに、ささやかな想いを言葉にすることが難しい。恥ずかしくて、戸惑っている。

「わたしが、何?」
 重ねて問われて、しがみ付くように、すがり付くように、ささやく。
「おれはカイリと恋に落ちてみたい」
 だから、今はまだ死にたくない。

「恋だなんて、なぜそんなことを?」
「なぜって、理由はわからないよ。いつそんな気持ちになったのかもわからない。でも、恋というものをしている自分と、ちゃんと一から向き合ってみたくて。そうしたら、自分のことも、自分以外の誰かのことも、初めて大切にできる気がして」

「その誰かというのは、わたしである必要があるの?」
「当たり前だろう? 何もかも受け止めてくれそうな顔をして、おれが沈み込むときは、気付いたら隣にいて。そんなふうにされて、興味を惹かれないわけがない。ずるいよ」
「ずるい?」

 おれはうなずいた。
「こんな気持ちになるなんて、自分で自分がわからない。できるという自信や、わかっているという確信がないと、おれは新しいことに手を出さないはずなのに。もう、ぐちゃぐちゃだ」
「本当にね。人間は不思議。衝動と感情のありかが全然違うから不思議」

 カイリは首をかしげた。その口元に、かすかに、からかうような笑みがある。カイリにはおれの感情の正体が見えているんだろうか。
 おれはとっくにカイリを好きになっているのかもしれない。ただ単に、カイリの自然体なところやきれいな顔、どことなく色っぽい体に憧れているのかもしれない。さわってみたいと思うのは、もしかして、欲にまみれた汚い衝動に過ぎないのか。

 だけど、わからないことだらけのふわふわした中で、一つだけ、これだけは確かだ。

「カイリにおれを知ってもらいたい。おれもカイリのことを知りたい。おれがカイリの隣にいるのは当然だと言ってみたい。何かあったら真っ先に話したくなるような、お互いにとって特別な存在でありたい」
「そうすることに何の意味がある? それがユリトのためになるの?」

 イエスだろうか、ノーだろうか。
 そんなの、今すぐ答えを出せるわけがないだろう。
 あっさり答えられるくらいなら、おれは道に迷ったりしなかった。迷わなければ、この島に来ることもなかった。おれが持っているのは答えじゃなくて、解き方のわからない問いばっかりだ。

「カイリの目には、おれはどんなふうに映る? どうしようもなく未熟な子ども? 年齢の割には賢い人間? 背伸びして足下が見えてないバカ? 眠るっていう生物としての機能が狂った、救いのない生物?」

「全部違うし、全部そうだよ。ユリトという人間は、ユリトでしかない。この世に一人しかいない。ユリトがどんなふうに見られたいのかわからないけど、どんなふうにも見えない。一言じゃまとめられなくて、たくさん矛盾してる。それがユリトという人間」

 ああ、それだ、と思った。泣き出しそうになった。
 聞きたかった答えは、それだった。着飾っていないおれをそのまま、ただ真正面から見つめてほしかった。丸ごと認めてほしかった。
 ほら、カイリはずるい。
 全身に熱がともって、血がたぎってしまいそうで、息をついて目を閉じたら、体が心に正直になった。
 おれはカイリを抱きしめた。
 カイリがおれの腕の中にいる。思っていたよりも細くて小さな、しなやかな体。カイリの髪が、おれの頬や耳に触れている。

「ユリト?」
 ささやく声に呼ばれた。自分の名前が唄みたいに聞こえた。

「寂しくて怖いんだ。大人に近付いて、子どものころにはつかんでいたはずのものが、いつの間にか手からこぼれ落ちていて、記憶が消えていくみたいで、迷って。自分が誰なのか、見失いかけてた。でも、カイリは見付けてくれる。おれが誰なのか、教えてくれる」

「ユリトが誰なのか教えられる人は、ほかにもいるよ。ハルタがそう」
「違う。カイリじゃなきゃダメなんだ。カイリは、おれの見栄もプライドも、いつの間にかはがしてしまう。こんなこと、ほかの誰にもできない。たとえそれが、特別な力を使っているからだとしても」

 歌うような声がささやいた。
「わたしの力は、そんなふうには働かない。言ったでしょう。わたしにとって、人間は不思議なの。わからないことだらけ。ユリトがユリトのことをわからないと言うのと、たぶん同じ」

「じゃあ、おれが気になって仕方ない相手っていうのは、人間の女の子と同じなんだね。相手の心をのぞき込めるわけじゃなくて、相手を知るためには、言葉を重ねなきゃいけない」

 鼓動の音が聞こえる。抱きしめた体の間に、確かに響く音がある。カイリが、そっと笑った。
「やっぱり、人間は不思議。眠り方も忘れるくらい、ユリトの生命力は弱ってたのに、今はこんなに温かい」

「まだ終われないんだよ。自分を愛せるようになりたい。自分の夢を信じてみたい。夢の果てにある現実にたどり着きたい。そこでもう一度、何度でも、夢を描き続けて生きていたい。おれは、生きることをあきらめたくない」

 子どものままの自分を好きになりたい。大人に近付く自分を認めてやりたい。世渡り上手じゃなくていい。他人の理想に振り回されたくない。自分の道を駆け抜けていきたい。
 やりたいことが、生きたい道が、見えてくる。迷いが晴れたわけじゃないけれど、その濃い霧の中を突っ切っていく勇気は、この胸に確かに存在する。

「よかった。ユリトが命を手放さないでいてくれて」
 カイリの腕が、おれの体に回された。

「おれ、まだ生きてるんだよね?」
「生きてるよ。だから、奇跡を起こそう」
「奇跡?」
「命あるものにだけ、奇跡は訪れる。わたしもやっと眠りに就く覚悟ができたから、このたわむれの夢と引き換えに、ユリトの進む道に奇跡を起こそう」

 震えながら歌うような言葉に、おれはハッとして、カイリの顔をのぞき込んだ。カイリは泣いてはいなかった。ただ、静かな微笑みは限りなく寂しそうだった。

「カイリ、引き換えにするって、それは……」
 おれの唇に、カイリの唇が触れた。言葉も呼吸も吹き飛んだ。

 キスをしている。
 柔らかな感触は、あっさりと離れていく。海の色をした瞳に、おれの意識は閉じ込められる。カイリはささやいた。

「くちづけは、約束のあかし。巡り巡る時の流れを少しだけやり直して、ユリトが進んでいけるように祈るから。わたしは眠る。たわむれは終わらせる。龍ノ里島に住むカイリという娘は、役割を果たした。カイリはもう、初めから存在しない」

 カイリの瞳の青色を最後に、おれの前から色彩が消える。抱きしめ合うぬくもりも、荒れ狂う波の冷たさも、上も下も右も左も、一切の感覚が消えてなくなる。
 声だけが聞こえている。夜風を伴奏にひっそりと紡がれた歌だけが、耳ではないどこかからまっすぐに、心の奥まで飛び込んで、命と魂に共鳴する。


しおさいさわぐ つきよのかげに
ほしをあおげば みちるなみだの
ゆめじをたずね まようはだれぞ

いのちあるもの たゆたいゆけば
いつかねむりに おちるときまで
みみをすませて ちしおのながれ

かぜのかなたに さやかにひかる
きみのゆくえは とわずがたりの
せつなにであい わかれはとわに

ねむりねむれば いつかはあわん
かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ
いのちあるもの きみにさちあれ


 カイリ、やることがメチャクチャなのはお互いさまじゃないか。勝手に一人で納得するなよ。おれはイヤだ。おれと出会ったカイリが幻だったなんて、絶対にイヤだ。

「それなら、魂の奥に刻んでおいて。もしも、いつかどこかで、わたしと同じ魂の持ち主がユリトに出会ったら、間違いなく見付けられるように」

 必ずおれと出会ってよ。おれは必ず見付けるから。絶対にカイリをつかまえて、離さないから。約束、交わしただろ?

 カイリが微笑む気配があった。

 好きだと告げたかった。きみが好きだ。その笑顔が好きだ。宝物みたいに美しいこの島の、きみと出会ったこの夏が好きだ。
 すべてがいとおしいと、今、気付くことができたのに、消えていく。ただの幻のように。明け方の淡い夢のように。

 待って。どうか、どうかこの魂の奥に、想いよ、残って。

 好きだと告げたかった。

 何もかもが消えていく。何も知らなかった自分へとさかのぼって、おれは忘れていく。






「さよなら」





☆.。.:*・゜

 海の色も空の色も深く輝いて、目に染み入るほどに強い。今日は一体、何時間、こうして二つの青色を見つめているだろう?
 フェリーを乗り継いで、龍ノ里島という離れ小島にやって来た。弟のハルタは、港に降り立った瞬間から元気いっぱいで、おれは呆れてしまう。

 港まで迎えに来てくれた越田スバルさんは、おれの担任、田宮先生の大学時代の後輩だ。龍ノ里島で風力発電や海流発電に関わる仕事をしているという。

「突然お邪魔することになって、ご迷惑をおかけします。これから一週間、よろしくお願いします」
「迷惑なんて、全然。こちらこそ、よろしく。ぼくも楽しみにしていたんだよ」

 スバルさんは優しげな印象で、日に焼けていて、実際の年齢よりも若く見える。おれが発電施設に興味があると言ったら、喜んでくれた。丁寧語を使えないハルタへの態度も寛大で、ありがたいけれど申し訳ない。

「さて、ここにいても暑いだけだし、我が家に移動しようか。改めまして、ユリトくん、ハルタくん、龍ノ里島へようこそ。海と空と風と山を、ゆっくり楽しんでいってほしい。家は広いんだけど、ぼくひとりで住んでるから、のんびりできると思うよ」

「スバルさん、結婚してねぇの?」
「残念ながら、出会いがなかったからね。流体力学が専門の機械工学系の研究室から、同じ系列の会社に入って、すぐに龍ノ里島に派遣された。その間、同世代の女性が一人もいなかったんだよ」

「うげ。大学の工学系って、女子いねぇの? 兄貴、ヤバいじゃん」
「そうそう。ユリトくんも、中学や高校での出会いは大事にしたほうがいいよ。まあ、そういうのは運命次第なんだろうけどね」

 サイエンスが専門なのに運命を説くなんて、スバルさんは少し変わった人だ。おれは曖昧に笑ってごまかした。恋って、まだよくわからない。唐突な失恋を一つ経験しただけで、恋に落ちる過程も恋が実る瞬間も知らない。イメージすらできない。

 スバルさんの家は、龍ノ原の集落を見晴らす山手にある。港からたいした距離じゃないけれどクルマで移動したのは、スバルさんが仕事場からおれたちの出迎えへ直行したからだ。龍ノ里島はけっこう大きくて、発電施設の見回りにはクルマが必須だという。

 今は寂れた印象の龍ノ里島も、昔は大きな漁業基地として活気があったらしい。龍ノ原湾は港として優秀な上に、不思議なジンクスが信じられていたんだそうだ。意外なことに、ハルタがそのジンクスについて知っていた。

「ジンクスってか、伝説だろ? 龍ノ神が守ってる島だから、ここから船出したら、海で遭難しにくいって。遭難しても、奇跡的に助かったり。だから、昔の龍ノ里島にはデカい漁船が集まってきてたんだろ。おれ、ネットでその話、見付けて読んだ」

 クルマを運転するスバルさんは、バックミラー越しにハルタに微笑んだ。

「龍ノ里島のこと、調べてきてくれたんだね。嬉しいな。龍ノ神の祭りは、昔はずいぶん盛大だったんだ。でも、島から人が少なくなって、十数年前からやらなくなった。山のあちこちに龍ノ神の祠があるんだけど、それもほったらかしでね」

 祭りも祠も忘れ去られたら、神さまは消えてしまうんじゃないだろうか。そんなことを、おれはぼんやり考えた。非科学的だな。バカバカしい。

 スバルさんの四輪駆動車がカッコいいという話から、小学生時代に熱中していた自動車模型、ミニ四駆の話になった。ハルタはおかまいなしだけれど、おれは恥ずかしかった。だから、スバルさんのリアクションにちょっと驚かされた。

「ぼくも昔、きみたちと同じ趣味を持ってたよ。男は誰でも通る道なのかな? ちなみに、ぼくはユリトくんと同じく、コーナリングに重きを置くセッティングにしていた」

 中学生なのに意外と子どもっぽいんだね、と笑われるかと思っていた。だって、言ってしまえばおもちゃの話だ。特におれは、年齢の割に大人びていると見られていて、模型云々と口にするようなタイプじゃない。
 ハルタは、話に乗ってくれたスバルさんに尻尾を振る勢いだった。

「へへん、おれの勘、大当たり! スバルさんへのおみやげ、大正解だな」
「おみやげかい? 何だろう?」
「今は内緒! ついでに、兄貴にプレゼントがあるんだ」
「は? プレゼント?」
「家に着いたら速攻で渡す」

 スバルさんの家は、さっき聞いたとおり、一人で住むにはずいぶんと大きい。瓦屋根が特徴的な、和風なところのある洋館だ。玄関で靴を脱ぎながら、二階まで吹き抜けのホールを見渡して、ほう、と息をつく。

「カッコいい建物ですね」
「だろ? ぼくも一目惚れでね。龍ノ里島に住むことになって、いくつか空き家を紹介されたんだけど、もうここ以外は目に入らなかった。エアコンが付いてなかったり、何かと設備が古いのが玉にキズかな」

 風が抜ける造りになっているらしい。エアコンなしでも十分に涼しくて、快適だ。白いレースのカーテンが風に揺れている。
 ハルタが早速、ホールの真ん中で自分の荷物をあさって、中からビニール袋を取り出した。袋には、赤と青の双子星のロゴ。

「じゃーん、プレゼントとおみやげ! ついでに自分のぶん。えーっと、これが兄貴のぶんだな」

 ハルタに押し付けられた箱は、ミニ四駆のシャーシだった。おれが小学生のころから愛用している、後輪の車軸の上にモーターが入るタイプのものだ。

「え、何、どうして急に?」
「急じゃねぇだろ。兄貴のシュトラール、だいぶ長らくシャーシ割れてんじゃん。何で交換しねぇの? 金がないってわけでもないくせに」
「いや、だって……」
「だっても何もねぇだろ? 走らせなきゃ、シュトラールがかわいそうだ」
「……もう遊んでばっかりもいられないだろ」

 子どもっぽい趣味を卒業しなきゃいけないと、まわりからのプレッシャーのようなものを感じる。だって、おれはもう中学三年生だ。半年後には高校受験を控えている。

 部活に打ち込んでいるとか、ギターを始めたとか、サッカーなら誰よりも知っているとか、将来の夢を見据えているとか、あっさり童貞を卒業したとか、大人に近付くことがおれたちの年代のステータスだ。

 ミニ四駆のレースなら負けないよなんて、もう胸を張ったりできないだろ。ハルタは何でそれがわからないんだよ?
 ぶつけたかった言葉は、改めて押し付けられたシャーシの箱に叩きつぶされた。物理的に。箱が唇にぶつかって、あまりの痛みに、涙目になる。

「グダグダ言わずにシャーシ交換! そんで、おれのトルネードとレースだ! トルネードもスイッチがいかれ気味だし、一緒に交換するぞ。あっ、そうだ。久々にスピード組み立て勝負しようぜ」

 ちょっと待て、ハルタ。本当に意味がわからない。おれは、ミニ四駆はもうやめようと本気で思っているんだってば。
 ところが、スバルさんまでハルタみたいに床に座り込んで、おみやげの箱を開けて大喜びしている。おみやげというのは、新品のミニ四駆一式だった。

 あのシャーシは癖の少ないバランス型だ。しかも、使わなくなったパーツも再利用できるからと、ハルタが山ほど、いろんな素材を分けてあげている。スバルさんはミニ四駆経験者である上、機械工学に通じているから、すぐ、いい感じにマシンを進化させられるだろう。

 いや、おれはやらないってば。
 だけど、胸がざわめく。どうしようもなく、ざわめく。
 スバルさんは屈託なく笑っている。

「なるほど、これはおもしろい。最近のミニ四駆って、昔とはけっこう違うんだな。いじり甲斐がありそうだ。今日はもう仕事は終わらせてあるし、ぼくもレースの仲間に入れてもらうよ」
「とーぜん! やったね。これで今回の夏休みは絶対、一瞬たりとも退屈せずにすむぞ。なっ、兄貴!」

「どうしておれを巻き込むんだよ?」
「そりゃ、兄貴が巻き込まれたがってるからだよ。シケたツラばっかしてんじゃねえって。兄貴がポンコツになったの、ミニ四駆やめるとか言い出してからだろ」
「学校のことで忙しいから、遊んでる場合じゃないって、自分で選んだんだ。いつまでも子どもの遊びなんかしていられないって」

「子どもの遊びか? でも、ミニ四駆の開発してんのって、大人じゃん」
「そりゃそうだけど」

「ま、ぐちゃぐちゃどーでもいいこと言ってんじゃ、時間がもったいねぇよな。まずは、スバルさんに見せるエキシビジョンってことで、シャーシのスピード組み立て勝負、やるぜ! 工具箱くらい持ってきてんだろ?」
「当たり前だ」

 口走って、ハッとする。走らせもしないミニ四駆なのに、いつでも連れて歩いて、メンテナンスを欠かさず、旅先にまで小さな工具箱を持ってきている。
 ハルタが真夏の太陽みたいな笑顔で、おれの背中を叩いた。

「やっぱ、そうだよな! いつもそのバッグ使ってるもんな。シュトラールと工具を持ち運ぶときの、いちばんちっちゃいバッグ。ケータイと財布はポケットに入れてんのに、バッグに何入ってんだって、シュトラール以外ないよな」

 ハルタに見透かされていた。カッと体の芯が熱くなったのは、恥ずかしさのせいでも怒りのせいでもなかった。忘れたつもりになっていた純度の高い何かが、その存在を主張するように、おれの体を内側から激しく揺さぶったんだ。

 卒業なんか、できるはずないんだ。
 だけど。だから。

 必死になって、古い自分に別れを告げて、前へ前へ進もうと決めたのに。追いすがってこられても、おれは前みたいに、好きなものを好きだと、きちんと言える自信がないのに。

 一台六百円、全長十五センチちょっとの自動車模型。輝きという名前の相棒を、好きなままでもいいんだろうか。子どもの夢を卒業しないままで、いいんだろうか。

 迷っている。悩んでいる。

 おれは今、立ち止まっている最中だ。次の一歩を、どんなふうに踏み出せばいいんだろう? わからなくて苦しい。でも、うずくまってあきらめることだけはしたくない。

 ふと、白いレースのカーテンをふわふわ舞わせて、潮風がゆったりと過ぎていった。頬を撫でる潮風は、甘いような、なつかしいような、不思議な香りがする。
 窓の下に見晴らす海から潮騒の音が聞こえてくる。海が歌っているようだと思った。