冷たくて、透明で、薄暗い。海が唸る音を、鼓膜じゃなく全身で感じる。
体と意識が別々の場所にあった。入り乱れて荒れ狂う海流がおれの体をもてあそぶのを、おれ意識は、少し離れたところから眺めている。意識のほうは、やはり物理的な存在ではないらしくて、激流に呑まれることもなく、じっとそこに留まっている。
おれは生きているんだろうか。死んでいるんだろうか。
黒々とした断崖絶壁の付け根はずいぶん深くて、光が十分に入ってこない。ゴツゴツした岩肌には、海底洞窟の入り口とおぼしき亀裂がある。亀裂へ吸い込まれながらぶつかり合う海水の流れが見える。
ぐるりと周囲を見渡すと、白い巨大な水車があっちにもこっちにも建っていた。魚も寄り付かない激流の中で、想像していたよりはゆっくりと、水車は回っている。墓標みたいだと思った。
おれの体を運ぶ流れが、一基の水車のほうへと向かっていく。水車の回転に巻き込まれたら、人間ひとり、簡単に押しつぶされてしまうだろう。おれ、今から本当に死ぬんだな。
「バカ」
聞こえるはずのない声が聞こえた。静かに透き通った少女の声。
カイリ?
「ユリトのバカ。やってることも考えてることもメチャクチャだ」
カイリがおれの視界を横切っていく。
どうしてここに?
激流をものともせず、泳ぐというほどの動きも見せずに、カイリはおれの体を追い掛けてつかまえた。水車の直前で反転して海中に立ち止まって、動かないおれの体を抱きしめる。
次の瞬間、おれは、柔らかなぬくもりに抱きしめられていると気が付いた。顔を上げると、キスできそうなほど近くに、カイリのきれいな顔がある。
「な、何で……おれ、一体、どうなってるんだ?」
酸素も音もない世界で、荒れ狂う海流にとらわれることなく、おれとカイリはここにいる。いくつもの、回る水車。頭上で逆巻く高波。闇に沈む海底。触れる者を拒むような断崖絶壁。
カイリの薄茶色の目に、おれが映り込んでいる。
「人間は愚かだ」
ささやく声には、いらだちがにじんでいる。確かにカイリの声だけれど、何か違う響きを帯びている。潮騒のように大きな、山に吹く風のように涼やかな、途方もない何者かの息吹を感じる。
カイリが、カイリじゃない。ただの一人の少女ではあり得ない。
「きみは誰?」
ひどくつたない問いだ。でも、ほかに何と問えばいいだろう?
「わたしは、おまえがカイリと呼ぶ存在。それ以外の何である必要がある?」
「カイリは……人間、なのか?」
「違う」
「じゃあ、カイリは……」
どんな名前で呼べばいい存在なんだ? おれを抱きかかえる腕も密着した柔らかい体も、その温かさも、こんなになまなましいのに。
「わたしという存在の正体を知って何になる? わたしはただ、最後に夢を見たかっただけ。おまえに何を告げるつもりもなかった」
「夢? 最後って?」
「人間を守るためにここにいるわたしが、守るべき人間をすべて失ったら、消えてゆくよりほかにあるまい。だから最後に一つ、他愛ない夢を見てみたいと思った。ただの人間の娘になって、わたしの知らぬ世界を知る者と、ありふれた言葉を交わしてみたかった」
逆巻く海流が全部、透明な鱗に変わっていく。圧倒的に巨大な存在が、おれとカイリを包み込んでいる。ハッとして仰向くと、晴れた日の海の色をした両眼が、波間から差す太陽の光にきらめきながら、おれを見下ろしていた。
「龍……!」
「この姿もまた、たわむれの一つに過ぎぬ。気に入ってはいるがな」
龍が微笑む気配があった。
体と意識が別々の場所にあった。入り乱れて荒れ狂う海流がおれの体をもてあそぶのを、おれ意識は、少し離れたところから眺めている。意識のほうは、やはり物理的な存在ではないらしくて、激流に呑まれることもなく、じっとそこに留まっている。
おれは生きているんだろうか。死んでいるんだろうか。
黒々とした断崖絶壁の付け根はずいぶん深くて、光が十分に入ってこない。ゴツゴツした岩肌には、海底洞窟の入り口とおぼしき亀裂がある。亀裂へ吸い込まれながらぶつかり合う海水の流れが見える。
ぐるりと周囲を見渡すと、白い巨大な水車があっちにもこっちにも建っていた。魚も寄り付かない激流の中で、想像していたよりはゆっくりと、水車は回っている。墓標みたいだと思った。
おれの体を運ぶ流れが、一基の水車のほうへと向かっていく。水車の回転に巻き込まれたら、人間ひとり、簡単に押しつぶされてしまうだろう。おれ、今から本当に死ぬんだな。
「バカ」
聞こえるはずのない声が聞こえた。静かに透き通った少女の声。
カイリ?
「ユリトのバカ。やってることも考えてることもメチャクチャだ」
カイリがおれの視界を横切っていく。
どうしてここに?
激流をものともせず、泳ぐというほどの動きも見せずに、カイリはおれの体を追い掛けてつかまえた。水車の直前で反転して海中に立ち止まって、動かないおれの体を抱きしめる。
次の瞬間、おれは、柔らかなぬくもりに抱きしめられていると気が付いた。顔を上げると、キスできそうなほど近くに、カイリのきれいな顔がある。
「な、何で……おれ、一体、どうなってるんだ?」
酸素も音もない世界で、荒れ狂う海流にとらわれることなく、おれとカイリはここにいる。いくつもの、回る水車。頭上で逆巻く高波。闇に沈む海底。触れる者を拒むような断崖絶壁。
カイリの薄茶色の目に、おれが映り込んでいる。
「人間は愚かだ」
ささやく声には、いらだちがにじんでいる。確かにカイリの声だけれど、何か違う響きを帯びている。潮騒のように大きな、山に吹く風のように涼やかな、途方もない何者かの息吹を感じる。
カイリが、カイリじゃない。ただの一人の少女ではあり得ない。
「きみは誰?」
ひどくつたない問いだ。でも、ほかに何と問えばいいだろう?
「わたしは、おまえがカイリと呼ぶ存在。それ以外の何である必要がある?」
「カイリは……人間、なのか?」
「違う」
「じゃあ、カイリは……」
どんな名前で呼べばいい存在なんだ? おれを抱きかかえる腕も密着した柔らかい体も、その温かさも、こんなになまなましいのに。
「わたしという存在の正体を知って何になる? わたしはただ、最後に夢を見たかっただけ。おまえに何を告げるつもりもなかった」
「夢? 最後って?」
「人間を守るためにここにいるわたしが、守るべき人間をすべて失ったら、消えてゆくよりほかにあるまい。だから最後に一つ、他愛ない夢を見てみたいと思った。ただの人間の娘になって、わたしの知らぬ世界を知る者と、ありふれた言葉を交わしてみたかった」
逆巻く海流が全部、透明な鱗に変わっていく。圧倒的に巨大な存在が、おれとカイリを包み込んでいる。ハッとして仰向くと、晴れた日の海の色をした両眼が、波間から差す太陽の光にきらめきながら、おれを見下ろしていた。
「龍……!」
「この姿もまた、たわむれの一つに過ぎぬ。気に入ってはいるがな」
龍が微笑む気配があった。