☆.。.:*・゜
夜更け過ぎだ。夏の間に読もうと思っていた本を結局、今日だけで読み終えてしまった。明日からどうしよう?
読書の途中、電気がついていたら眠れないだの何だのとハルタが騒いだ。おれが生返事で応じているうちに、ハルタはいつの間にか寝入っていた。
おまえ、明るい部屋でも普通に眠れるじゃないか。また一段と日に焼けた寝顔を見下ろして、今さらだけど電気を消してやる。
コロコロ、リィリィ、と虫の音が聞こえる。白いレースのカーテンが夜風にそよいでいる。月と星の明かりが窓に切り取られて、床に四角く落ちている。
暗い部屋の中にたたずんでみる。小学生のころは、夜の暗さが怖くてたまらなかった。夜の真ん中で運悪く目覚めてしまったら、不気味な何かがすぐ後ろから迫ってくるんじゃないかと、ありもしない幻におびえて、首を縮めてうずくまった。
いつから平気になったんだっけ? 眠れない体質になるより前だと思うけれど、記憶が曖昧だ。ハルタの寝顔を見やる。夜更かしが苦手な子どもっぽい体質。健康的なやつだ。
そういえば、おれは昔から、暗いのは苦手でも夜更かし自体は平気だった。レース直前の調整は、真夜中までやっていた。一緒に起きていたはずのハルタは、いつの間にか、つぶれていた。起こしてやったら、ハルタが不機嫌になって、結局ケンカになったりした。
あのころは、おれもハルタも、怒ったり笑ったり忙しかった。最近、おれはうまく笑えない。いらだつけれど、怒れない。
おれはため息をついて、ベランダに出た。しっとりとした夜気が頬を撫でる。虫の音が近付く。
何気なく見上げて、びっくりした。星だ。洋館の瓦屋根と裏手の山とに挟まれた空に、びっしりと、まばゆい星がまたたいている。
「きれいだ」
ただそこにあるだけで美しい風景を、この島に来て、一体いくつ目撃しただろう? ここには宝物みたいな瞬間が無数にある。
初めて肉眼で見た天の川は、その名のとおり本当に、うっすらと白く輝く川の姿をしている。白い輝きのひとつひとつは、地球からじゃ見分けることができないけれど、全部が太陽よりも明るい星だ。何万年も昔に放たれた光が今、音もなく地球に降り注いでいる。
宇宙って、好きだ。地球の重力から解き放たれて、どこまでも広い星の海に飛び込んでみたい。そう思ってから矛盾に気付いて、そっとひとりごちる。
「矛盾してるよ、おれ。風が好きで、風を科学することが好きで、風をこの目に見せるF1マシンや風車のデザインが好きで。なのに、風のない、空気のない宇宙にも憧れてる」
夏の大三角の端っこがのぞいている。あれは白鳥座のデネブだ。大三角のあと二つ、こと座のベガである織姫と、わし座のアルタイルである彦星は、屋根に隠れて見えない。ベランダの手すりから身を乗り出してみたけれど、やっぱり見えない。
「ユリト、どうしたの?」
いきなり声がした。驚いたおれは、一瞬バランスを崩した。心臓の奥がヒヤリとする。手すりにしがみ付いたまま声のほうを向くと、カイリが隣の部屋のベランダに出ていた。
「ちょっと空を見たくて。カイリ、起きてたんだ?」
「うん。ユリト、星が好き?」
「星っていうか宇宙っていうか、何となくだけど、好きだよ」
「じゃあ、屋根に上ろう」
「はい?」
「屋根の上なら、ここより広い空が見えるから」
言うが早いか、カイリはベランダの手すりに上って、屋根の雨どいに手を掛けて、身軽に体を持ち上げた。唖然としているおれのほうへ、屋根の上で四つん這いになったカイリが手を差し伸べる。
「つかまって。引っ張るから」
「こ、これくらい、一人で上れるよ」
微妙に傷付いたぞ、今。おれは確かにカイリより背が低いけど、それなりに運動のできる中学生男子だ。同い年の女子にできる動きを、できないはずがない。
おれはカイリと同じやり方で屋根に上ってみせた。カイリは、猫みたいな四つん這いのまま、おれを待っていた。
「いちばん高くなってるとこ、座りやすいから」
カイリは恐れる気配もなく立ち上がって、屋根の高いほうへと歩いていく。慣れているんだろうか。それはさすがに真似できない。中腰になって、そろそろと進む。ここで転んだり睡眠発作を起こしたりしたら悲惨だ。
屋根の中心線の丸瓦に腰掛けたカイリの隣に、おれも腰を下ろした。カイリが黙って空を指差す。おれは改めて、空を仰いだ。
さっきとは比べ物にならない広さの宇宙が、そこに輝いていた。
白い星、青い星、赤い星、またたく星、流れる星、ぶちまけた砂粒みたいな星の集まり。ほぼ完全に満ちた月は、クッキリと模様を描くクレーターを抱え込んで、その黄金色の光で銀河をかすませている。
地上は暗い。海には一つ、灯台が海面に淡い光を落としている。波のきらめきに目を凝らすと、かすかな潮騒を風が耳に届けた。風に誘われて、おれはまた空を仰ぐ。さっきは見えなかったベガとアルタイルが、天の川のほとりに輝いている。
「きれいすぎて、信じられないな。ずっとこうして眺めていたい」
自分の中が空っぽになって、透明で温かい何かによって満たされていく。今おれを取り巻いている景色は圧倒的で、感動なんていう平凡な言葉じゃ、少しも追い付かない。
「ユリトは龍ノ里島が気に入った?」
「この島の景色が嫌いな人なんていないと思う」
「ここには景色しかないよ。人間が便利に暮らすためのもの、何もない」
「何もない場所で生きていけるくらい、おれもシンプルでピュアな人間だったらいいのに」
「とうさんのこと?」
「悪い意味じゃないんだ。純粋に、スバルさんがうらやましい。好きな場所で、好きな仕事をして生きてる。理想的な大人だ」
ふと疑問を思い出した。星空からカイリへと視線を下ろす。月を見上げていたカイリも、おれの視線に気付いた様子で、こっちを向いて首をかしげた。
「何?」
「変なこと言うんだけど、スバルさんの年齢、若いなと思って。今、三十六歳だよな? で、カイリはおれと同じで中三だから、スバルさんの二十一歳くらいのときの子どもだろ? スバルさんは二十七歳まで大学院で研究してたって聞いたから、学生結婚ってこと?」
「そっか。そういうことになるね」
「あっ、ごめん、あの……ごめん……」
カイリの母親、スバルさんの奥さんの話は、本人たちからも田宮先生からも聞いていない。調子に乗って突っ込んだことを言ってしまった。
気まずい沈黙が落ちた。潮騒、風の音、虫の声。
ふっと、かすかな息の音をたてて、カイリが微笑んだ。さっきとは違う話題だった。
「今日はハルタとたくさん話したよ。でも、ハルタのことよりユリトのことをたくさん知った」
「おれのこと?」
「ハルタが話すのは、ユリトのことばっかり。ハルタは、ユリトが大好きなんだね。何をするにも、どこに行くにも、ユリトがいちばん近くで背中を押してくれるから心強いって言ってた」
「あいつ、あまりにも危なっかしいから、ほっとけないんだ」
「危なっかしいのは、ユリトもそうだと思うけど」
ぐうの音も出ない。昼間、いきなり倒れて迷惑を掛けたのは、ほかでもないおれだ。今はもはや見栄を張るのも疲れてしまった。格好を付ける余裕もない。こんなの、自分らしくないはずだけど。
「どうしてこうなっちゃったのかな……」
「眠れなかったり、倒れたりすること?」
「それもひっくるめて、今の状況、全部。最初の原因は何だったんだろう? 調子が狂い出した直接のきっかけは何だったんだろう? どこまでさかのぼって答えを探せばいいんだろう?」
「それがわかったら、ユリトのためになるの?」
「答えがハッキリしない問題って、苦手なんだ。だから、きちんと答えが出せる数学や理科が好きで」
その一方で、おれが抱えるこの問題は、ハッキリした答えを出すのが怖い。おれの調子を狂わせる大きな要因は、間違いなく、ハルタだから。
おれにできないことを、ハルタは平然とやってのける。何でもできるはずのおれが、どうしてもハルタに勝てない。
ハルタがおれを嫌っているなら、それか、ハルタがどうしようもない不良だったら、おれは気楽だ。あいつのせいでおれがおかしくなったんだと上手に訴えて、まわりに納得してもらえる。おれは味方に囲まれて、王さまになれるだろう。
なのに、ハルタはいいやつだ。世話が焼ける弟だけど、おかげでおれは孤独だったことがない。学校での評価はおれのほうが上だけど、本当はハルタのほうが輝かしい才能を持っている。
自慢の弟なんだ。ハルタに言ってやったことはないし、誰の前でもそれを語ったことはない。でも、ハルタはおれの自慢だ。そして、だからこそ、おれはハルタに嫉妬する。おれがハルタに勝てないことをいちばんよく知っているのは、おれ自身だ。
「ハルタの将来の夢は、レーサーなんだってね」
「ああ、うん。あいつらしいよな」
「ユリトがいっぱい調べてくれたって。ハルタひとりじゃ何もできなかったけど、ユリトが手伝ってくれたから、レーサーになる方法がわかったって。ハルタは、ユリトを喜ばせるためにも、いつか必ずチャンピオンになるって言ってた」
スーッと、心に隙間風が吹いた。喜べないと思った。今のおれは、ハルタの活躍を受け止めることができない。あいつが輝けば輝くほど、影みたいなおれは、どんどん黒ずんで闇に呑まれていく。
「勝手なんだよ、ハルタは。おれの気も知らないで」
ハルタのバカ野郎。おまえと違って、おれは純粋な人間じゃないんだ。おれはおまえに、どうしようもない劣等感をいだいている。
「ユリトは、将来なりたいもの、ないの?」
カイリの透明な声は、龍ノ里島のきれいな景色の一つみたいで、おれはカイリの前で嘘をついちゃいけない気がした。
「レース、いいなって、おれも思ってた。ハルタと一緒に初めて本物のサーキットに行ったとき、レーサーになりたいって言ったハルタはすごく正しいと感じた。でも、おれには、レーサーになれるような才能はない。ハルタの真似をしたくないしな」
「ハルタは、ユリトのほうがいろんな才能があるって言ってたよ」
「まさか。そんなことないって、おれ自身がいちばんわかってる。おれはちょっと手先が器用なだけで、サーキットで高速マシンを走らせるような反射神経も動体視力もない。マシンのカッコよさに憧れても、乗ってみたいとは思えない」
「乗りたくないの?」
「能力的に無理だ。自分の身の丈はわかってる。そこがハルタとのいちばんの違いかもな。あいつには、何も考えずに突っ込んでいく勢いと度胸がある。おれは、何か全部わかっちゃって、できないことはやりたくない。だから、何でもできるように見える」
言葉にして、気付いた。おれが何で立ち止まっているのかが、ストンと理解できた。
おれ、できないと思っているんだ。まっすぐ生きていくことができそうになくて、このまま進んでいきたくないせいで、体が拒否反応を起こしている。
カイリが、また違うことをおれに尋ねた。
「ユリトは、クルマ、好き?」
その「好き」という響きがくすぐったくて、一瞬だけ戸惑う。呑みかけた息とともに、答えを吐き出す。
「好きだよ。クルマは好きだ」
「ほかにも、好きなものがある?」
問われるままに思い描けば、素直な言葉が口からあふれる。
「クルマだけに絞れない。機械が好きだ。流線型のボディで風を味方にする、そういうデザインや機構が好き。この手で作り上げたマシンを走らせる、マシンに走ってもらう、その感覚が好き。機械に命が宿る瞬間を感じるのが好き」
レーサーは一人じゃマシンを走らせられない。マシンを設計するエンジニアがいて、レースの現場でピットインをする整備士がいて、チームをまとめるリーダーがいる。おれが憧れるのは、レーサーとマシンを支えるピットインチームのほうだ。
だけど、その憧れは本物なんだろうかと、何度も何度も自分に問い掛けている。レーサーになる才能がないから、自分にできそうな仕事を仕方なく選んで、それを憧れという言葉にすり替えているんじゃないか?
「好きなものを仕事にしたい?」
「それができたら最高だと思う。でも、どうなんだろ? できるのかな?」
「自信ないの?」
「自信ないよ。本当はいつだってそうだ。自分の計算高さというか、卑怯さを知ってる。自分で自分を疑ってる。でも……弱音吐いて、ごめん」
「謝らなくていい。話していいよ」
どうしてカイリは、おれの言葉を簡単に引き出してしまうんだろう? 複雑なやり方で封印しておいたはずの本音が、あっさりとこぼれていく。
「やってみたいことも好きなことも、できるとわかってからじゃなきゃ、口に出せない。おれはいつも兄貴役で、学校では優等生役で、できないとか自信がないとか言えない。おれには、口に出しちゃいけないことがいっぱいある」
「苦しいんだね」
夜の色に染まったカイリの目は、星の光をいくつも宿して、キラキラしている。
誰かの目を正面から見つめたことは、この島に来るまで、最近なかったかもしれない。カイリと目を合わせていると息ができなくなるのに、カイリの目はあまりにもきれいだから視線をそらしたくない。
「おれは、プラモートが大好きだから実車のレースに興味を持って、風をつかんで走るマシンに憧れて、自分でも作ってみたいと思ってた。子どもっぽい夢で、誰にも言えなかった」
「ユリトらしい夢だね」
「でも、おれはもっと別のものを目指すべきだって、学校や親は期待してるよ。いい大学に行って、いい会社に就職したり官僚になったりして、いい生活をする。そういうレールの上を走るべきだって」
いい大学、いい会社なんて言い方をされると、おれの大好きなサイエンスの世界さえ一気に色あせる。興ざめだ。でも、鈍感な大人たちはそれに気付かない。
だけど、何だかんだ言って、器用なおれはレールの上にいる。嫌が応にも時間は過ぎていく。このままじゃ、おれも鈍感な大人になってしまう。大人に近付くにつれて、自分が嫌いになっていく。
ユリト、と、歌うように澄んだ声がおれの名前を呼んだ。カイリが、ほんの少し、微笑んでいる。
「わたしは、学校でのユリトを知らない。ユリトがちょっとずつ自分のことを話してくれて、ハルタからたくさんユリトのことを聞いて、それだけしか知らない。わたしはただ、シュトラールに命を与えた、風が好きなユリトだけを知ってる」
おれの手に、カイリの手から生まれた熱の記憶がよみがえった。命あるものに奇跡が訪れると告げて、カイリはシュトラールの割れたシャーシを直した。奇跡? 魔法? カイリにはどうしてそんなことができる?
疑問を蒸し返さなかった自分に、今さらながら違和感を覚えた。いや、疑問に思うことへの違和感、だろうか。
龍ノ里島の景色のひとつひとつに、命の躍動を感じる。一瞬一瞬が奇跡みたいにキラキラして、なまなましい。命の形に手で触れることができる気がする。どんな奇跡も起こっておかしくないんじゃないか。
でも。だけど。
「カイリは、どうしてここにいるんだ?」
直感的に口を突いて出た問いは、自分でも思いがけない形をしていた。カイリが、ふわりと笑った。
「わたしがここにいる理由? そうだね。ただの気まぐれ。ちょっと見てみたくなっただけ。ありふれた夢を、最後に一つ」
「夢? 眠ってるときに見る夢のこと? それとも、目を開けて見る夢?」
「さあ? わたしにもわからない」
カイリは星空を仰いだ。きれいな横顔。長いまつげ。細い首筋。急に、カイリに触れてみたくなった。抱き寄せたら柔らかいことを、おれの体は覚えている。
ダメだ。触れたらきっと止まらなくなる。自分でもろくに知らない、体の奥のドロドロと熱いものが、一瞬でおれを支配してしまう。そんなのは汚い。吐き気をもよおすくらい醜いおれを、出会ったばかりのカイリには見せられない。
「カイリは……カイリが好きなものは、何? おれのシュトラールみたいな何かが、カイリにもある?」
「何だろう? たくさんある。でも、たくさんあったら、一つもないのと同じかもね。ああ、そういえば、歌がある」
「歌?」
「歌うことは好き。体で感じるもの全部を歌にする」
「聴いてみたい」
うなずいたカイリは、少し照れているように見えた。
しおさいさわぐ つきよのかげに
ほしをあおげば みちるなみだの
ゆめじをたずね まようはだれぞ
いのちあるもの たゆたいゆけば
いつかねむりに おちるときまで
みみをすませて ちしおのながれ
かぜのかなたに さやかにひかる
きみのゆくえは とわずがたりの
せつなにであい わかれはとわに
ねむりねむれば いつかはあわん
かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ
いのちあるもの きみにさちあれ
「兄貴! おい、兄貴、起きろってば!」
肩をつかんで揺さぶられて、痛くて不快で、それで目が覚めた。ベッドサイドのハルタを、寝起きの機嫌の悪さのまま、思いっ切りにらんでやる。
「何だよ。おまえの声、うるさいんだよ」
「よく言うぜ。朝もけっこう耳元で呼んだのに、兄貴、全然起きなかったんだぞ。こんな時間まで寝やがって。さすがに寝すぎだっての」
「こんな時間?」
「十一時過ぎてんぞ。もうすぐ昼飯だから起こしてやったんだ」
「は? 十一時?」
言われてみれば確かに、電気をつけなくても部屋は明るくて、窓にのぞく外の景色は、太陽の光と黒い影のコントラストがまぶしい。あれは真っ昼間の日差しだ。
おれは体を起こした。寝坊するなんて、いつ以来だろう? それに、ずいぶんぐっすり眠っていた。夢を見たかどうか覚えていない。普段は、途切れがちな浅い夢の中で、ああでもないこうでもないと悩んで迷ってばかりなのに。
ハルタが妙に嬉しそうにニマニマしている。
「兄貴の寝顔、久々に見たぜ。超レアだと思ったから、デジカメで写真撮っといた」
「バカ、消せよ。誰にも見せるな」
「もう遅いっての! カイリに見せたら、かわいいっつってたぜ」
「み、見せたのかよ? しかも、かわいいって何だよ!」
「だって、かわいいじゃん、兄貴。化粧してる女子より、まつげ長いもんな!」
「黙れ、この野郎! 写真、今すぐ削除しろ!」
ハルタにつかみ掛かろうとしたけど、運動能力でおれが勝てるわけもない。身軽に逃げ出したハルタは、後ろ手に隠していたデジカメを出して、画面をおれに向けた。おれの寝顔が表示されている。最悪だ。
「この写真見せたら、絶対、かあちゃんが喜ぶぜ。倒れるんじゃなく、普通に寝てる兄貴の顔、最近ほんとレアだし」
「消せって言ってんだよ! 寝顔なんか、人に見せるもんでもないだろ!」
「兄貴、冷たーい。家族なんだからいいじゃねぇか」
「カイリにも見せたくせに」
「起こしたのに起きなかったっていう証拠写真だったんだよ。おれとカイリ、朝から港に行ってきたんだ。兄貴は珍しく熟睡してたから、それ以上、声掛けなかったんだけど」
「港? そういえば、釣りに行くって言ってたな」
ハルタはデジカメのスイッチをオフにしながら、開けっ放しのドアのほうを指差した。
「とにかく、そろそろ昼飯だから、着替えて下りてこいよ。あんまり寝すぎると、それはそれでカイリが心配するからな」
「カイリカイリって、おまえ、さっきからしつこくないか?」
「あ、バレたか。だってさ、兄貴とカイリ、ちょっといい雰囲気じゃねえ?」
「はぁ? ふざけてんのか?」
「ふざけてねぇよ。兄貴が女子とまともにしゃべるとこ、珍しいだろ。最近はチナミとも全然しゃべんねぇし。チナミがさ、ユリくんに避けられてるかもーとか言ってたぜ。避けてんのか?」
「別に、そういうわけじゃない」
「ふぅん。まあ、とにかく、すぐ飯だから、さっさと来いよ。どーせ兄貴は、パジャマのままじゃ部屋から出たくねぇとかゴネるんだろうし、おれ、先に行くからな。腹、減ったしさ」
「ああ、先に行ってろ」
ハルタを見送って、おれはベッドから下りながら、昨日の夜の記憶をたどった。
カイリと一緒にベランダから屋根に上って、星を見ながら話をした。将来の夢、好きなもの、正直な気持ち。歌が好きだと、カイリが言ったところまでは覚えている。カイリの歌を聴いたことも覚えている。静かで透き通った子守唄みたいな曲だった。
あの後、どうしたっけ?
そこで記憶が途切れている。おれはいつ屋根から下りたんだろう?
兄貴、早く来い、とハルタがしつこくおれを呼んでいる。階下から魚を焼く匂いがする。ひどく喉が渇いていることに気付いた。十一時過ぎまで寝ていれば、当然か。
おれは着替えて、手早く髪を直してから、一階の台所へ下りた。
料理係のカイリを手伝って、冷やしうどんと焼き魚の昼食を食卓に並べていたら、スバルさんが帰ってきた。四人で食卓を囲んで、いただきますと手を合わせる。
スバルさんが気楽な調子で提案した。
「昼を食べたら、風車の見学を兼ねて龍ノ背山と、海流発電をやってる龍ノ尾崎までドライブに行こうか。海流発電の設備は海の下にあるから見えないけど、龍ノ尾崎の断崖絶壁からの景色がすごいんだよ」
「ぜひ行ってみたいです」
「ユリトくんは、もう眠気は取れた? 午前中に声を掛けようと思ったら、ぐっすり寝てるってハルタくんに聞いてさ」
「おかげさまで、こんなに寝たのは久しぶりです。自分でも驚きました」
「よかったじゃないか。ここにいる間は時間を気にせずに、ゆっくりしてほしいな」
スバルさんの笑顔に、素直にうなずけない。みんなが起きて動いていたときに、おれだけ眠って、何もせずにサボっていた。胸に罪悪感がある。頑張って働き続けなければ、この世に存在することを許されないような気がする。
昼食の後、スバルさんに仕事関係の電話が掛かってきた。三十分くらい待っててと言って、スバルさんは部屋に引っ込んだ。
「ドライブとか、仕事の邪魔にならないのかな?」
皿洗いを手伝いながらカイリに訊いたら、カイリは小さく肩をすくめた。
「大丈夫だよ。風車の見回りはとうさんの日課だし。ユリトたちをクルマに乗せて一緒に回っても、別に問題ない」
「それならいいんだけど」
「ユリト、今日は顔色いいね」
「ちゃんと眠れたみたいで、自分でもびっくりしてる。頭はスッキリしたけど、時間を無駄にしちゃったよな」
「無駄じゃないよ。眠る時間も、人間にとっては大事」
「わかってるつもり。ああ、それと、カイリに訊こうと思ってたんだった。おれ、昨日の夜、迷惑かけなかったか? いつ自分が眠ったのか、全然覚えてなくて」
ハルタに聞かれないように、カイリに顔を近付けて、早口でささやいた。カイリがかぶりを振ったら、ふわっと揺れた髪から、いい匂いがした。あ、ヤバい。近すぎる。
次の瞬間。
「あっれー? おれ、来ちゃまずかった?」
ニヤニヤしたハルタが台所の入口から顔をのぞかせている。
「な、何だよ、おまえ? 洗濯物、もう干してきたのか?」
「洗濯、まだ終わってなかった。で? 兄貴はいつの間にカイリと仲良くなってたわけ? 昨日も今日も、兄貴は部屋にこもってばっかで、カイリはおれと一緒にいたのに。あー、もしかして、昨日ぶっ倒れたとき? 膝枕なんかしてたもんな」
「お、おまえには関係ないだろ。だいたい、仲良くなるって、含みのある変な言い方するなって」
「含みとか、別にねぇよ。ただ、やっぱお似合いだと思ってさ」
「バカ、何言ってんだ!」
「何って、事実じゃん。兄貴、女子が苦手だろ? 追い掛け回されたり声掛けられたりしたら話すけど、そうじゃなきゃ近寄らねぇもん。そのくせ、カイリとは接近しても大丈夫なんだな? それ、すっげー特別だろ」
ハルタのからかいに、おれはとっさに反撃できない。口をパクパクしていたら、からかわれている片割れのくせにマイペースなカイリが、きょとんと首をかしげた。
「ユリト、女の子に追い掛け回されたりするの?」
「や、別にそんな……」
おれの弁解を、ハルタがへし折った。
「カイリ、兄貴は超モテるんだぜ! 成績はダントツで学年一だし、生徒会長だし、おれと同じでイケメンだし、スポーツもけっこうできるし、女子にとっちゃ減点するとこねぇじゃん? ま、おれから見りゃ、兄貴は口うるさくて年寄りくさすぎるけどな」
「そっか。ユリト、モテるんだ」
素直に納得しないでほしい。ハルタが言うように、おれは女子が苦手だ。女子という言葉でひとまとめにしてしまうのは失礼だとわかっているけれど、まとめてみんな苦手なんだ。だって、話が噛み合わない。ノリについていけない。
定期的に、おれを巡る噂が立つ。たいてい、学校でも目立つ女子がおれのことを好きだという内容だ。じゃあ剣持くんのほうはどうなのかと、おれは根掘り葉掘りしつこく問いただされる羽目になる。
おれは無難で八方美人な答え方をしてしまうからダメなんだ。噂の相手がだんだん本気になる。まわりにあおられて、おれに告白する。「そんなつもりじゃなかった、ごめん」って、何度、同じ断り方で女子を泣かせてしまっただろう?
一人二人、たまにそういう人が現れることがあるくらいなら、まだいい。もっと極端な話も、最近聞く。剣持ユリトを落としてしまえって、ゲームや賭けみたいなことをしている女子グループもいるらしい。囲い込まれるみたいで、すごく怖い。
おれは、まるでモノだ。条件がいいから手に入れたいって。それを恋だと呼ばれても、うんざりしてしまう。好きだっていう言葉さえ、何もかも信用できなくなる。
「浮ついた感情なんて、押し付けられても困るんだよ。女子は面倒だ」
口を突いて出た本音に、ハルタが冷やかしの声を上げた。
「うっわー。世の中のフツーの男子にそれ聞かれたら、兄貴、袋叩きだぞ」
「黙れ」
ハルタだってモテる。飛び抜けて運動ができて、元気いっぱいで目立って、誰とでも分け隔てなく仲良くなれる。弱い者いじめみたいに理不尽なことがあれば、先輩だろうが先生だろうがおかまいなしで食って掛かる。
モテるというより、そうだ、ハルタの場合はおれとは違うんだ。ちゃらちゃらした憧れなんてものを超えた強い想いを、相手にいだかせる。本当の本気で惚れられる。
残酷なことに、ハルタは何も気付いていない。レーサーになりたいという夢だけが、ハルタの唯一絶対の関心事だ。恋愛が入る隙間なんてないらしい。
「そういや、兄貴、思い出したんだけどさ、おれのクラスの女子から、ユリト先輩に訊いといてって言われてたことがあって」
皿洗いを終えたカイリが手を拭いて、興味深そうにおれを見る。おれはカイリから目をそむけた。
「何を訊いとけって?」
「八月最後の土曜日、空いてるかどうか」
「空いてないって言え。おれは学校の女子と花火大会なんか行くつもりはない」
「あ、なるほど、花火の日だったのか」
「毎年だろ。覚えろよ」
「いつもチナミが呼びに来てから、そういや花火だったって思い出すんだよなー。今年も三人で行くか?」
幼なじみのチナミちゃんの名前に、胸の奥がズキッとした。春先には断ち切ったはずの想いが、まだ痛む。
「おれは行かない。ハルタとチナミちゃんだけで行ってこいよ」
「えーっ、何でだよ? 兄貴が行かねぇんなら、おれも行かなくていいや。わざわざ人が多くて暑いとこに出ていかなくても、花火なら、うちのベランダから見えるしな」
「それじゃ、チナミちゃんがかわいそうだろ。毎年、浴衣まで着て張り切ってるのに」
「あいつはあいつで、ほかの友達でも誘えばいいんだ。てか、誰かに誘われてんじゃねぇかな。兄貴、知ってるか? チナミのこと好きってやつ、意外といるんだぜ」
知らないわけがない。この目で見た。チナミちゃんが何を思っているのかも、チナミちゃんの口から語られるのを聞いた。そのときようやく、おれは自分の想いに気付いた。気付いた瞬間に失恋するって、最悪だ。
とにかく、と、おれは声を大きくした。
「おれは花火大会には行かない。ハルタ、おまえはチナミちゃんと一緒に行け。チナミちゃんちのおじさんも、ハルタを頼りにしてるんだ」
「命令かよ? おい、兄貴、何で急に機嫌悪くなってんだ?」
「おまえには関係ない」
思いっ切り、嘘だ。ハルタ、おまえが元凶だ。
おれは、うるさいハルタのそばをすり抜けて台所を出た。
ちょうどのタイミングで、洗濯機が仕事の完了を知らせて鳴った。大雑把なハルタに任せるより、おれが洗濯物を干したほうがいい。おれはハルタに声を掛けず、一人で、家の裏手にある洗濯小屋へ向かった。
☆.。.:*・゜
生徒会室は、特別教室が並ぶ棟のいちばん端にある。言い換えると、放課後には使われない場所のいちばん奥だ。
ひとけのなくなった放課後の廊下は、当然というか、通行以外の方法で使われることになる。意中の人をこの廊下に呼び出すというのが、うちの学校の伝統的な告白スタイルだ。おれも生徒会室に向かう途中、呼び止められたことが何度かある。
三月初めのことだ。おれは一人で卒業式関連の仕事をしていた。もうちょっとしたら、ほかの生徒会役員メンバーも来る予定だった。換気のために、窓だけじゃなく、廊下側の引き戸も半端に開けていた。
足音が聞こえて、やっと誰か来たかと思ったら、違った。足音は、生徒会室より向こう側で止まった。
「き、来てくれて、ありがとな」
男子の震える声がした。ああ、告白か。盗み聞きする趣味はないんだけど、この状況じゃ、どうしようもないな。
知らない声だった。しっかり声変わりしているから一年生ではないだろうなと、おれは当てずっぽうなことを考えた。
「お、おれがこれから言うこと、わかってると思うし、おれはおれで、どんな答えが返ってくるか、わかってる。だけど、おれ、もうすぐ大事な試合があって、今のモヤモヤのままでいたくないから……す、好きです。チナミちゃんのこと、ずっと、好きでした」
チナミ? 幼なじみと同じ名前に、ドキリとした。まさか本当に、あのチナミちゃんのことなのか?
ペンを動かす手を止めたおれの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。心臓をギュッとつかまれた気分になる。
「ありがとうございます、先輩。でも、ごめんなさいっ」
チナミちゃんだった。おれは糸に引かれるように立ち上がって、足音を殺して、ドアのそばに潜んだ。
先輩と呼ばれた人は、遠目に顔を見たことがある。おれと同じ学年のサッカー部の人だ。チナミちゃんと同じ体育委員。球技大会や体育祭の準備期間中、二人が仲良くしゃべる様子を何度も目撃した。
「いや、おれのほうこそ、気持ちを押し付けて、ごめんな」
「謝らないでください。あたしみたいにガサツな女の子を好きになってくれて、ありがとうございます」
「ガサツじゃないさ。元気で頑張り屋で、おれ、初めて話したときから、ほんと……でも、チナミちゃんには剣持兄弟がいるもんな。かなわないって、わかってた」
「剣持兄弟って、やだな、幼なじみってだけのつもりなんだけど。何か、みんなにそう言われるんですよね」
「だって、チナミちゃんと剣持兄弟の三人でいたら、そこだけすげぇキラキラしてるもんな」
キラキラ、か。他人の目には、おれたち三人はキラキラに見えているのか。おれは、ざわつく胸を押さえた。
光景を見ていられない。本当は耳をふさいでしまいたい。でも、聞きたい。光景の中に飛び込んでいって、ぶち壊しにしてしまいたい。
少し黙ったチナミちゃんが、彼の言葉に応えた。
「あの二人だけですよ、キラキラしてるの。ハルタもユリくんも昔から知ってますけど、このごろ、あたしじゃ手が届かないくらいキラキラしてますもん」
「チナミちゃんも十分、輝いてるけどな。あのさ、ぶっちゃけついでに、失礼なこと訊いていい?」
「何ですか?」
「噂なんだけどさ、チナミちゃんが好きな相手、剣持兄弟の兄のほう?」
息ができなくなった。うなずいてくれと、すがるような気持ちで願った。
沈黙。
それから、チナミちゃんは告げた。
「あたしもその噂、聞きました。でも、違います。ユリくんのほうが条件はいいって思うし、顔もきれいだけど、あたしが好きなのは、ハルタのほうなんです。ずーっと昔から、ハルタなんです」
おれは、うぬぼれていたかもしれない。チナミちゃんは、いつもおれに「すごいね」と言ってくれる。チナミちゃんが選ぶのはケンカ相手のハルタじゃなく、一目置いているおれのほうだと勝手に思っていた。
ああ、でも、わかっていたかもしれない。学校の行き帰り、おれたちとチナミちゃんが一緒になるときは、並び方が決まっている。左側がハルタで右側がチナミちゃん、おれが一人で後ろを歩く。ハルタとチナミちゃんが言い合うのを、おれは笑って聞いている。
チナミちゃんと二人で歩いたこと、最近あったっけ? おれはなくて、ハルタはたまにある。帰りに偶然会ったからってハルタは言うけど、本当は違うんだろう。チナミちゃんはハルタだけを待っていたんだ。
おれは力が抜けて、そろそろと座り込んだ。チナミちゃんとサッカー部の彼の会話は、声が聞こえているのに意味がわからない。
バカみたいだ。チナミちゃんがハルタを選ぶのを聞いた瞬間に、自分の想いをハッキリと知った。おれはチナミちゃんが好きだったんだ。
ハルタにはチナミちゃんを取られたくないと思っていた。頼れる優等生のユリトでいれば、チナミちゃんはおれを好きでいてくれると勘違いしていた。
痛いな。おれはまたハルタに負けた。おれは精いっぱい頑張っているのに、頑張りが通用しない負け方で、ハルタに奪われた。
胸に穴が開いたようで、傷口に風が吹き抜けていくみたいで、痛くて寒い。次にチナミちゃんに会ったら、どんな顔をすればいい? 今晩、ハルタの前で普通にしていられる?
ぶちぶちと音をたてて、おれの中で、おれを支える糸が切れる。こんなにいっぱいあったんだ。チナミちゃんの前でカッコつけようと、ポーズを取っていた部分。
だけど、全部じゃない。全部だったらピュアなのに、おれは計算高い。頼れる優等生だねと誉めてくれるなら、チナミちゃんじゃなくてもいいらしい。剣持ユリトという操り人形を吊るす糸は、まだまだこんなにたくさん、切れずに残っている。
「最悪だ……」
つぶやいたとき、廊下から二人はいなくなっていた。おれは頭を抱えてうずくまったまま、動けずにいた。
☆.。.:*・゜
洗濯物を干し終わって、そばの木陰で龍ノ原湾を眺めていたら、ハルタがおれを呼ぶ声が聞こえた。あちこち探し回っているらしい。
「来るなよ、面倒くさい」
ひとりごちた途端、ギシギシと耳障りに軋みながら、二階の網戸が開けられた。降ってきたのは、カイリの声だ。
「あ、ユリト、いた」
目を上げたら、窓からカイリが顔を出していた。その隣にハルタが割り込んだ。肩が触れ合っている。
「おーっ、兄貴えらい! 洗濯物、やってくれてたのか。サンキュー!」
「別に。おまえがやったら、グチャグチャになりそうだしな」
「兄貴、噂してたら、ちょうどチナミから連絡来たぞ。絵葉書だ。二人とも元気してるかー、って」
「おまえ、チナミちゃんにここの住所、教えてたのか?」
「教えたよ。だって、しばらく留守にするっつったら、どこ行くんだって訊いてくるからさ。チナミが相手なら、隠さなくていいじゃん。今からチナミに電話しようぜ」
ハルタはいつチナミちゃんと話をしたんだろう? おれはいつからチナミちゃんと話していないだろう?
よく倒れるようになって、人を避けるようになった。話をしても、覚えていられないことがあるせいだ。おれは、頭がおかしくなっている。記憶力のよさには自信があったのに。
「電話なら、おまえだけで掛けろよ」
「何だよ、やっぱ機嫌悪ぃ。カイリ、兄貴って面倒くさいんだぜ。一回へそ曲げたら、なかなかもとに戻らねぇんだ」
ごく近い距離で、ハルタはカイリに笑ってみせた。カイリもちょっと笑い返している。
じりっと胸が痛んだ。しかめっ面が直らない。一緒に笑えないおれは仲間外れかよ。ハルタのバカ野郎、チナミちゃんの話をしながら、カイリとベタベタするな。
ハルタには、ベタベタしているつもりなんてないんだろう。あれがいつものハルタの距離だ。だからこそ余計に、おれは腹が立つ。人のふところに飛び込んでいって簡単に受け入れられるハルタに、嫉妬する。
「おい、ハルタ」
自分でもゾッとするくらい冷たい、低い声が出た。
「何だよ?」
「チナミちゃんにいい加減な返事をするなよ。ちゃんと向き合え。気付いてやれよ、バカ」
ここにいるのがおれだけだったら、きっと、チナミちゃんからの連絡は来ない。ハルタがいるから、絵葉書が来た。夏の予定を訊かれたのも、ハルタだけだ。おれじゃない。
そういうサインはいくつもあって、しょっちゅう目に入って、ひとつひとつ数えるたびに、おれはやるせなくなる。
おれはあきらめたんだぞ、ハルタ。なのに、おまえ、自覚なすぎるんだよ。おまえがいつまで経ってもその程度なら、おれがあきらめた意味、全然ないじゃないか。
胸の奥をいぶす思いは、決してきれいなものじゃない。恋から逃げ出した自分を正当化しているだけだ。チナミちゃんを想って身を引いたわけでも、ハルタの背中を後押ししてやるわけでもない。
ふられるとわかっていてチナミちゃんに告白したサッカー部の彼は、なんて立派だったんだろう。おれはハルタに負けるとわかった瞬間、自分で自分の心を捨てた。
おれは、臆病で卑怯だ。
風車見学に出掛けるまでに、もうしばらく時間をつぶすことになった。さっきスバルさんが受けた電話は東京にある重工業会社の本社からで、午後の会議で龍ノ里島の風車のデータが急遽必要になったから送ってくれ、という内容だった。
スバルさんは申し訳なそうに手刀を切って、部屋にこもった。気分がささくれたおれにとっては、むしろちょうどよかった。
「散歩、行ってくる」
ハルタがトイレに入っている隙にカイリにだけ告げて、おれはバッグを手に、帽子をかぶって外に飛び出した。目的もなく、山頂のほうへと、乾いたアスファルトの上を駆ける。あっという間に息が切れて、とぼとぼと歩く羽目になる。
暑い。風が吹いていても、日差しがきつくて気温が高い。動けば、やっぱり暑いと感じた。汗が噴き出す。
龍ノ背山に連なる尾根は勾配がきつい。道はまっすぐではなく、うねりながら続いている。ヘアピンカーブを曲がりながら、錆びたガードレールを手で触れた。
「こういうコース、シュトラールの十八番だ」
レーサー泣かせの急激なコーナーもアップダウンも、シュトラールは着実に切り抜ける。トルクのある走りで粘り勝ちするのが、シュトラールのスタイルだ。それを実現するために、徹底的に冷静にセッティングを練るのが、おれの戦術だ。
バカみたいだ。
散歩しながら、古びた道をプラモートのコースになぞらえて、空想にふけっている。何をやっているんだか。
バカバカしいのに、背中に斜め掛けにしたバッグの中に、小さな相棒の存在を感じる。もしも小学生の自分に話し掛けることができるなら、文句を言いたい。
「何でこんなに好きになったんだよ?」
あのころは、プラモートでいちばん速くなれば天下を取れるつもりでいた。大人に勝てるものがあることが誇らしかった。いつか自分も大人になるんだってことを、少しも理解していなかった。
カッコ悪いんだよ、こんなの。
大人になれば、自動車模型なんていうおもちゃは卒業しなきゃいけない。なのに、あまりにも深くのめり込んでしまった。一つも捨てられないんだ。壊れたパーツやつぶれたネジ、歪んだシャフトや割れたホイール。
おれの机の中をのぞく人がいれば、きっと、整然と分類されてしまい込まれたガラクタの数々に呆れてしまうだろう。頭がおかしいとすら思うかもしれない。
やっぱり、おれは異常なのかな。自分でも、せめて、もう使えないパーツくらいは捨ててしまおうとしたことがある。何度もある。勉強の邪魔になるし、生徒会や部活で忙しいのに、何をやっているんだって。
でも、つらくて捨てられなかった。自分でも意味がわからない。
ものを捨てるのが苦手なのは昔からで、だから、最初からたくさんのものを持たないように気を付けてきた。なのに、いつの間にこんなに増えてしまったんだろう? 机の中にもおれの頭の中にも、ぎっしりと、捨てなきゃいけないはずのものが詰まっていて。
レースに出ることはもうないくせに、シュトラールのメンテナンスやクリーニングをサボると、罪悪感がある。眠れない体質になってから、ますますだ。夜通し勉強するのにも飽きたら、気付いたときには手がシュトラールを求めている。
依存症ってやつだよな。プラモート依存症。レース依存症。子ども時代依存症。
おれは、いつしか足を止めて、じっと考え込んでいた。ぐるぐる、ぐるぐると、同じことばかりを悩み続けて、苦しくなって叫びたくなって暴れたくなって。
声を殺したまま叫ぶ。
「…………ッ!」
脚を上げて、錆びたガードレールを蹴った。ガゥン、と鈍い音。かかとがジンジンと痛む。
コースを仕切るフェンスに激突すれば、当然、ダメージがあるものなんだ。こうやって不用意にぶつかると、プラモートの場合、適切な装備をしてやらないと、簡単に吹っ飛んでコースアウト。レースでは一発でリタイヤだ。
プラモートは、ラジコンと違って、方向制御装置が付いていない。コーナリングは、左右に張り出したフロントとリヤのバンパーに、地面と水平方向に回転するローラーを付けて壁に沿わせることで、クリアする。
おれはもう一度、足を上げてガードレールを蹴った。急斜面を九十九折で上っていく、百八十度のヘアピンカーブ。
こんな急角度で突っ込むコーナーがあるときは、速度の乗り過ぎに注意する。衝撃を逃がすため、フロントバンパーには、バネを仕込んだ可動域を作っておくか。
ローラーは、おれはたいてい低めの位置にして重心を下げる。重心の問題だけじゃなく、アップダウンの激しいコースで車体が跳ねることを考慮すれば、低い位置のローラーなら壁に引っかかって動けなくなる心配がない。
いや、バネの効きやマスダンパーの位置を工夫して、マシンを跳ねさせないのがいちばんいい。地面に貼り付くような走りを目指さなきゃいけない。龍ノ里島みたいにきつい勾配の多いコースの場合は、特に。
「何なんだよ……」
曲がりくねった道路を見ると、プラモートでの攻略法を考えてしまう。どうしても、このバカバカしい癖が抜けない。
タイヤの直径は小さいのが好きだ。トルクのあるモーターと合わせれば、トップスピードは劣っても、マシンは難所のコーナーや坂をぐんぐんと越えていく。そんな走りで、おれとシュトラールはレースに勝ってきた。
おれはガードレールのそばにへたり込んだ。目を閉じる。セミの声が降ってくる。木漏れ日に首筋を焼かれる。
「どうかしてる。今日のおれ、おかしいだろ」
自分の体調への不安がある。ハルタに対する嫉妬がある。チナミちゃんへの失恋を思い出した。カイリの前でどう振る舞えばいいかわからない。
今という時間につまずいて、未来が少しも見えなくて、そうしたら、過去に追い立てられている。
情けないな。
顔を上げて目を開けたら、ガードレール越しに、山肌に溶け込むように建つ石の祠に気が付いた。大人の体格ではないおれが這っても入れないくらい、小さな祠だ。
龍ノ神がそこに祀られているんだろう。おれがガードレールを蹴ったこと、見られていたんだ。そんなわけないか。龍ノ神なんてもの、存在するはずがない。
平たい自然石を組み合わせたような祠だった。祠の扉が開いている。その中には、龍ノ神の代わりに何が入っているんだろう?
おれは立ち上がって、ガードレールを乗り越えた。山に踏み込んで、祠の前にしゃがむ。中をのぞくと、鏡のようなものが一枚、置かれていた。鏡だととっさに思ったのは、その滑らかな表面に光が反射したからだ。
あれが御神体? 何なんだろう。金属っぽいけれど、透き通っているようにも見える。祠の中が暗くて、よくわからない。
不意に。
「ユリト」
後ろから呼ばれて、飛び上がりながら振り返る。
「カ、カイリ」
「驚かせた?」
「足音くらい立ててよ。びっくりした」
カイリはおれの真後ろにいた。サラサラした髪が、山を渡る風に揺れる。カイリは首をかしげた。
「龍ノ神の祠、どうかした?」
「中に何が納められてるのかと思って。これ、何なんだろう?」
カイリは、こともなげに答えた。
「鱗」
「え、ウロコ?」
「そう。龍の鱗。信じても、信じなくてもいいけど」
カイリはおれに背を向けた。ガードレールに手を掛けて、ひらりと飛び越える。
「龍ノ里島の人たちは、これを龍の鱗として祀って信仰してるのか?」
カイリは肩越しに振り返って、また首をかしげた。透き通る声は、おれの質問に答えなかった。
「とうさんが、そろそろ行けるって。だから、呼びに来たの」
カイリはさっさと歩き出した。取り残されるような格好のおれは、もう一度、龍の鱗らしきものを見やって、それからカイリを追い掛けた。
「どうしておれがここにいるってわかった? 山道を登るとも下るとも言わずに出てきたのに」
「何となく」
カイリはそっと笑った。その笑顔は、ずるい。清楚という、今まで使ったこともない言葉を思い出した。カイリの笑顔は、凛として少し甘くて、清楚だ。
胸の奥に熱がある。どこかがひどく痛いような気がして、おれは息を吐いた。熱と痛みがどこから来るのか、薄々、理解し始めている。
途方に暮れている。
カイリは、チナミちゃんとは全然違うのに、どうしてなんだろう? 失恋した瞬間に知った熱と痛みに、これはよく似ている。でも、もっと熱い。もっと痛い。
バカだな、おれは。カイリと会えるのは、きっと一生に一度きり。この夏だけだ。なのに、どうして?
熱い。痛い。自覚してしまうと、もう、苦しいのが喉元までせり上がってきて、どうしようもなかった。頭の中につらつらと現れては消える言葉が、声になってくれない。
山道を帰る間、おれとカイリの間に会話はなかった。