ふと、表からクルマの音が聞こえた。スバルさんが帰ってきたらしい。
 壁に掛けられた時計を見ると、そろそろ午後五時だ。まだ外は十分に明るい。日本でも西の外れにある龍ノ里島は、日が暮れるのが遅い。

 ただいまー、というスバルさんの声がして、返事したほうがいいのかなと思っているうちに、足音が階段を上ってきた。おれはベッドの上で体を起こした。
 開けっ放しのドアをコツコツとノックしてから、スバルさんは部屋に顔をのぞかせた。

「ただいま。やっぱりユリトくんひとりだったか」
「おかえりなさい。カイリとハルタは釣りに行ってます。ぼくだけが家にいるって、靴でわかりました?」
「うん。どうした? 何かあった? 体調が悪い?」

 おれは一瞬、正直に言うべきかどうか迷った。スバルさんはおれの体調のこと、知っているんだろうか?
「スバルさん、田宮先生から、ぼくの体調について聞いてますか?」

 言葉を選ぶような間があった。スバルさんは真顔になって口を開く。
「睡眠発作を抱えてるという問題のこと?」
「ご存じなんですね。カイリは知らなかったみたいだけど」
「デリケートな問題だと思って、教えておかなかったからね。もしかして、発作が起こってしまった?」

「はい。龍ノ原小中学校を見学に行ったときに、急に。いつも、きっかけや前触れもなく起こるんですよね。ハルタたちにフォローしてもらえるタイミングでよかったです」

 おれは笑顔で嘘をついている。フォローなんて、されたくなかった。カイリに睡眠発作のことを知られたくなかった。ハルタに借りを作りたくなかった。
 部屋に入ってきたスバルさんは、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

「ぼくと田宮先輩の思惑は、外れちゃったな」
「え? 思惑って何ですか?」
「龍ノ里島の自然の中にいだかれたら、ユリトくんの睡眠障害が治るんじゃないかって、楽観的なことを考えていたんだ。田宮先輩も、生き方に悩んだときにこの島に来て、元気になって帰っていったから」

「田宮先生が、生き方に悩んでいたんですか? それ、いつのことですか?」
「学生時代だよ。ぼくが大学三年生で、田宮先輩が大学院の一年目だったころだ。田宮先輩は、本当は研究の道に進みたかった。でも、そのためにはお金も時間も掛かる。田宮先輩のご実家は当時、苦しい状態だったらしくて、早く就職するよう言われていた」

 大学院時代に教師になるかどうか悩んだという話は、田宮先生からチラッと聞いたことがある。笑い話みたいに軽い口調だった。でも、研究者か教師か、一生を左右する大きな分かれ道だ。笑い話程度の悩みじゃなかったはずだ。

「田宮先生は、どうして龍ノ里島に来たんですか? スバルさんが誘ったんですか?」
「夏休みに実家に帰りたくないと言っていた田宮先輩に、それじゃうちに来ますかって声を掛けてみたんだ。半分冗談だったんだけど、田宮先輩は本当に付いてきた」

「スバルさんのご実家、龍ノ里島なんですか?」
「いや、ぼくの実家はこの隣の島なんだけどね。せっかくだから、もっといなかに行こうって話になって、龍ノ里島の親戚の家に、田宮先輩と二人で転がり込んだ。楽しかったなあ。朝から晩まで、小学生に戻ったみたいに、海でも山でも遊んで回ったんだよ」

 スバルさんは、遠い目をして微笑んでいる。
 二十歳を過ぎた大人の男ふたりが遊んで回る姿なんて、うまく想像できない。例えば、おれとハルタの十年後? 無理だ。思い描こうとしても、イメージは真っ白にかすんでしまう。

「田宮先生は龍ノ里島で過ごして元気になって、結局、家族に言われたとおり就職したんですね。研究者じゃなくて、教師になった。後悔しなかったんでしょうか?」
「したと思うよ。今でも未練は残ってると思う」
「やっぱり、そっか」
「誰だってそうさ。何かを選んで別の何かを捨てたら、後悔するし未練もいだく。だけど、田宮先輩は教師になって、後悔や未練以上に大きなものを獲得できたはずだ。だから、今でもあんなに生き生きしてる。ユリトくんは、そう感じない?」

 生き生きしている、か。確かに、田宮先生はほかの先生方と何かが違う。物理学や機械工学の知識が膨大なだけじゃなく、頭の回転が速いから授業がおもしろいだけでもなく、もっと別のどこかが特別なんだ。

 田宮先生の何が違ってどこが特別なのか、今、少しわかった気がする。
 悩んだり迷ったりする気持ちをちゃんと覚えているからだ。大人になる前のおれたちがたくさん悩んで迷うことを、忙しい大人たちは忘れがちだけれど、田宮先生は違う。だから、おれに龍ノ里島に行くことを勧めることもできた。