少年チューンナップ

☆.。.:*・゜

 目を開けたとき、状況がよくわからなかった。布が見えた。体の下に感じるのはコンクリート。でも、頭の下には、もちもちと柔らかい枕がある。
「ユリト、起きた?」
 声が降ってきた。カイリの声だ。ぼんやりした視界の真ん中には、何かの布越しに、おれを見下ろすカイリの顔。木陰だろうか、薄暗い。

「おれは……?」
「いきなり倒れた」

 唐突に、おれは状況を理解した。
 見えている布の正体、胸だ。タンクトップを着たカイリの胸。下手をしたら額に触れそうな近さに、その胸がある。おれの頭の下にあるのは、カイリの太ももだ。つまり、膝枕というやつだ。

 ボッ、と音がしそうな勢いで顔がほてった。言葉が出ない。全身、固まってしまう。ヤバい以外の何物でもない。
 起き上がらなきゃ。離れなきゃ。でも、この状態から体を起こすには、カイリの胸が邪魔だ。メチャクチャ大きいってわけじゃないけど、おれの顔をのぞき込むために前かがみになっているから、視界の中での存在感がすごい。これ、ほんとにマジでヤバい。

 カイリの手がおれの額に載せられた。その手が動いて、頬と首筋にも触れる。
「体温、戻ったね。倒れたときは体温が低くなってた。呼吸数も心拍数も少なくて」

 ちょっと待って、カイリは何で平然としていられるんだ? おれは視線をそらすこともできないくらい、本気で頭がパニックなのに。
 かすかな風を感じる。視界の隅に、カイリがおれの帽子をうちわ代わりにあおぐのが見えた。

「気分悪くない?」
「だ、だい、じょうぶ……」
「ここは校舎の外だよ。風が抜けて涼しい日陰を探して、ハルタと二人で運んできた。ハルタは今、うちまで走って飲み物を取りに行ってる。ユリト、脱水症状気味だから」

 校舎の水道は止まっていること。近くにあった自動販売機もすでに撤去されたこと。唯一残っている商店に行くより家に戻るほうが近いこと。カイリの説明を、回らない頭で一生懸命、理解する。
 ということは、今、おれとカイリの二人きり?
 やめてくれよ、もう。朝もヤバかったけど。ずぶ濡れで透けていて、気になって仕方なくて。

 だけど、今はある意味、それ以上だ。だって、接近どころか接触していて、手でも顔でもちょっと動かすだけで、いくらでもヤバいことをやってしまえる。
 おれは魔が差してしまいそうで、その一方、緊張しすぎて体が動かない。理性と衝動がギシギシとせめぎ合う均衡状態。少なかったと聞いたばかりの呼吸数と心拍数が、急激に上昇する。

 ほてりは、でも、長く続かなかった。
「ハルタに聞いた。半年近く前から、ユリトはときどき倒れるんだって」
 逆さ吊りにして冷水に突っ込まれた気分。

「……聞いたんだ」
「うん。ユリト、夜、あんまり眠れないんでしょ。その反動で、昼間にいきなり意識を失って眠ってしまうって、ハルタが言ってた」
 カイリに弱みを知られてしまった。スーッと心が冷えていく。ハルタのバカ野郎。誰にでもペラペラしゃべるなよ。こんなの、カッコ悪いのに。

 おれが教室で倒れた後の、学校の女子たちの反応が頭によみがえった。実は病弱なのを隠して微笑んでいるのが逆に貴公子っぽくて素敵だって、おれを誉めているつもりらしかった。
 ふざけるなよ。意味がわからない。病弱なんて、おれはそんなんじゃないのに。そもそも貴公子でも何でもない。笑っているのは、ただの仮面だ。

 眠れない夜のいらだちと、疲れの取れない体の重さと、いつ倒れるかわからない不安と恐怖。こんなものに耐えなきゃならない。投げ出すこともあきらめることも許されない。おれの気持ちは、誰にも理解されない。

「ハルタから、どこまで聞いた?」
「少しだけ。二言、三言くらい。ユリトはいつも体調が悪いから心配だって、ハルタが泣きそうな顔してた」
「実際、あいつ、すぐ泣くから。おれは確かに体調悪いけど、薬を飲んだりするようなことでもないんだ。眠くなる薬を病院で出されそうになったときも断った」

「どうして?」
「薬を飲んだら、自分は病気だって認めることになる気がした。違うんだ。おれは病気なんかじゃない。今までうまくやってこられた。失敗や挫折はときどきあったけど、ちゃんと踏み台にして、頑張り続けることができた。このまま行けるはずなんだ」

 目を閉じながら、カイリから顔をそむけた。耳の下には、カイリの太ももの少し湿って柔らかい感触。その肌にキスしたい衝動が起こった自分に、瞬間的に吐き気がした。
 カイリの手が、おれの額に触れて、髪を撫でた。

「ユリトは色が白いね。髪も肌もきれい。まつげが長いから、ハルタとは目元の印象が違う。全体的に似てる顔だけど」
「兄弟だから似てるよ。目元は、おれが母親似。このまつげのせいで、小さいころ、よく女の子だと間違われてた。ユリ、って親がおれを呼ぶから、普通に勘違いされるよな」

「ユリトの顔、男の子の顔だと思うけど」
「ありがとう。そう言ってくれるのは、昔からハルタだけだった。おれが女の子に間違われるたびに怒ってたの、おれじゃなくてハルタだったんだ。だからあいつ、おれをユリって呼ぶのをやめて、兄貴って。それまで呼び捨てだったくせにさ」
「ハルタは、ユリトのこと大事なんだね。いいな。わたしは一人だから」

 カイリは父親のスバルさんとの二人暮らしで、学校でも中学生は一人だったみたいだ。おれの常識では考えられない環境のこの島で、カイリは何を思って生きてきたんだろう?
 急に、カイリのことを知りたくなった。ときどき寂しそうな顔をするのは、どうして? カイリはずっとこの島で暮らしていたい? どこか遠くに行きたいって考えたりしない? 違う自分になれたらって想像することはない?

「カイリは、一人はイヤ?」
「どうして訊くの?」
「訊いてみたいだけ。何ていうか、カイリは、おれの学校にいるような女子とはちょっと違う。不思議な雰囲気だよな」
「不思議かな?」

「静かなのに、暗いわけじゃなくて、自然体な感じで、嘘なんてつきそうになくて」
「そんなふうに見える? これでも、昔はにぎやかだったんだよ。それに、嘘はつかないけど、隠しごとはする」
「そりゃ、誰だって全部を人に見せるわけじゃないさ。隠しごとくらい、おれも……」

 いや、それ以前に、おれは嘘つきなんだろうけど。いい人のふりをしている。優等生の役を演じている。笑顔の仮面をかぶっている。
 演技がうまくなりすぎた。本当の自分の面影が見えなくなるときがある。まあ、別にいいか。このまま全部、子ども時代の自分なんて忘れてしまうほうが気楽だ。

「ユリトはどうして龍ノ里島に来たの?」
 カイリが、今さらなことを言い出した。おれが担任の田宮先生の紹介で龍ノ里島のスバルさんを訪ねることになったのは、カイリだってわかっているはずだ。
 でも、そうか。普通、ただの教え子に離島での夏休みなんか、勧めるわけがない。自分の後輩を伝手に、都会から遠く離れた辺境に行けだなんて。

「授業中に倒れて以来、担任の田宮先生がおれを気に掛けてくださってるんだ。進路の相談にしても、どこの高校や大学に行きたいかだけじゃなくて、もっとちゃんと将来のことを話し合って。そんな話の中で、スバルさんのことが出てきた」

 おれは将来、何になりたいのか。今、何に興味があるのか。子どものころ、何が好きだったか。
 自分自身の歴史を読み解くうちに、いちばん強く輝く存在に気が付いた。プラモートのシュトラール。勢いよく走る、小さな自動車模型。もっと速く走ってほしくて、一生懸命に調べた機械の仕組み。

 おれが夢中になれるのは、生徒会活動や部活のバスケじゃない。勉強するのが好きなのは、シュトラールのためにたくさんの知識を得ようと思ったあのころ、サイエンスをおもしろいと感じたからだ。

「先生は、好きなものに没頭して生きればいいって言った。でも正直、おれはその言葉に納得できない」
「どうして?」
「おれが田宮先生にしゃべったの、プラモートのことだよ。小学生のころにハマってたおもちゃの話だ。学校じゃ誰にも言えないくらい幼い趣味で、みんなとっくにそんなもの卒業してる」

「でも、ユリトは今も、シュトラールを大事に思ってるでしょ?」
「ダメなんだよ、こんなんじゃ。プラモートのことで頭がいっぱいだった小学生の自分から卒業しなきゃいけない。成長しなきゃいけない。実際、親も普通の先生方も、おれが大人みたいに振る舞うことを期待してる。田宮先生だけが違うことを言う」
「プラモートを好きなままでいいって?」
「うん。それで、おれが田宮先生の言葉に納得できないままでいたら、好きなものに没頭して生きてる人として、スバルさんを紹介された」

「だから、ここに来たの?」
「スバルさんという人と話すためと、自然の中で過ごすために、ちょっと行ってこいって言われた。ちょっとって場所でもないんだけど。田宮先生も、何度か龍ノ里島に来たことがあるらしい。島の生命力を分けてもらえるような場所だったって話してくれた」

 カイリが、そっと笑った。
「龍ノ里島の生命力。感じてくれる人が、都会にもいるんだ」
「おれも感じるよ。むしろ、都会に住んでるからこそ、この島に生命力があふれてるのを感じる。すごくキラキラした場所だな、って」
「ないものねだりだよ。この島をどんなにきれいだと感じたとしても、二十一世紀の人間が住むには、やっぱり不便だから」
 ふと、駆けてくる足音が耳に届いた。砂を蹴って、運動場をまっすぐに突っ切ってくる足音。
 おれは、いつの間にか閉じていた目を開けた。ハルタが白いビニール袋を振り回しながら、こっちへ突進してくる。

「兄貴ーっ! 目、覚めたか?」
「ああ、さっき覚めた」
「んじゃ、とっとと起き上がれよ! 膝枕とか、見てるこっちが恥ずかしいっつーの!」
「えっ? あ、そ、そういえば……」

 カイリの太ももの感触を思い出して、一気に頭に血が上る。ずっと膝枕だった。その状態に馴染んでしまっていたおれって、頭おかしいんじゃないか? 額や髪をカイリに撫でられたのも、赤面ものどころの問題じゃない。
 おれは寝返りを打つ要領でカイリの胸を避けながら、急いで体を起こした。ハルタがニヤニヤ笑いで、おれに指を突き付ける。

「やーい、ムッツリスケベ! 学校では上品なふりしてっけど、実は普通にオトコだな、兄貴?」
「へ、変なこと言うなよ!」
「否定すんなって。勃ってたくせに」
「なっ、ば、バカ野郎っ!」
「勃って当然だろ、あの状況」
「おまえ、マジで殴るぞ!」
「やれるもんならやってみな! ま、兄貴が回復してよかったぜ。倒れるたびに、もう目ぇ覚まさねぇんじゃねぇかって、すっげー不安になるんだよなー」

 ハルタはビニール袋からスポーツドリンクを取り出すと、おれの頬に押し当てた。よく冷えている。ペットボトルを伝う水滴が、ぽたぽたと、おれの首筋に落ちた。

「大げさなんだよ、おまえは。倒れるといっても、いつも三十分くらいで目覚めるだろ」
「兄貴は倒れてるときの記憶がないからいいかもしんねぇけど、おれは毎回見てんだぜ? その三十分がどんだけ長いと思ってる?」
「あーはいはい、悪かったよ」
「何だよ、その言い方! 人が心配してやってんのに!」

 ハルタは口を尖らせた。裏表のないハルタに不満そうな顔をされると、おれのほうが気まずい。ごめんと口走りそうな唇をギュッと噛む。もともと荒れていた皮膚が割れて、舌先に鉄の味がにじんだ。

 ビニール袋には、スポーツドリンクがもう一本とコーラが一本、入っていた。ハルタはカイリにスポーツドリンクを渡して、自分はコーラの蓋を開ける。途端に、コーラが泡立ちながら噴き出した。

「おわぁっ?」
「バカだな。振り回しながら走ってきたんだから、噴き出すに決まってるだろ」
「うわー、もったいねえ! ちょっと待てよ、これ、爆発しすぎ!」

 あふれ出してやまないコーラに、ハルタは悪びれもせずに笑っている。おれもカイリも、つられて笑ってしまった。
 ペットボトルのスポーツドリンクを口に含む。甘くて少し塩辛い。ゴクリと飲み込むより先に、カラカラになっていた口や喉が水分を奪って吸い込んだ。こんなに喉が渇いていたのか。気が付かなかった。

 ハルタは全力疾走して大汗をかいたのに、飲もうと思っていたコーラが半減してしまって、物足りなかったらしい。一瞬でコーラを飲み干したハルタの前に、カイリが自分のペットボトルを差し出した。

「コーラじゃないし、飲みかけだけど、これでよければあげる」
「間接キスになるじゃん。マジでいいのか?」
 平然としてキスなんて言えるハルタは、子どもなのかバカなのか。まさかおれの知らないところで経験を積んでいるわけじゃないだろうし。
 カイリのほうも、相変わらず平然としている。

「ハルタが気にしないなら、わたしは気にしない」
「じゃ、遠慮なくもらう」
「どうぞ」

 喉を鳴らして、ハルタはカイリから受け取ったペットボトルを空にする。上を向くと、尖り始めた喉仏が目立った。
 ハルタは、おれより日に焼けている。ずっと同じくらいの体格だったはずが、最近少し、年下のハルタのほうが筋肉が目立つようになってきた。声変わりは、おれのほうが先だ。それ以外の成長がどうなのか、相部屋の兄弟でも、実は知らない。

「なーに見てんだよ、兄貴? カイリと間接キス、うらやましいのか?」
「バカ。変なことばっかり言うな」

 図星を指された。うらやましいって言葉は正解だ。ただし、うらやましい対象は間接キスじゃなくて、ハルタの開けっ広げな性格だ。屈託がなくて無邪気で、何も考えていないのに要領がいい。おれには真似できない。
 ハルタになりたいわけじゃない。ハルタはハルタ、おれはおれだ。でも、どうしても、うらやましい瞬間がある。
「なあ、兄貴。レーサーになるにはどうしたらいいんだろ? 何か知ってるか?」
 ハルタが初めておれにそう言ったのは、おれが小学五年生のころだった。ハルタは小四だった。

 それはプラモートの大きなレースの帰りのことで、おれはテンションが低かった。ギリギリのところでハルタに負けた。ストレートの多い、スピード重視のハルタの得意なコースではあったけれど、悔しかった。

「レーサーって、急に何言い出すんだ?」
「言い出したのは急だけど、前から思ってたんだよ。プラモートがチップに記憶したレースの再現映像を初めて見たときから、ずーっと思ってたんだ。おれ、レーサーになりたい!」

「レーサーって、プロのレーシングドライバーって意味か?」
「そっ! 世界一速いクルマに乗りたい!」
「世界一って、バカだな。どれだけ難しいと思ってる?」
「誰でもなれるもんじゃねぇのはわかってるよ。だから、なりてぇんだ、世界一」

 ハルタは漠然と、レーサーになりたいと言うけれど、クルマのレースにもいろんな種類がある。
 わかりやすいところでいえば、ツーリングカーとフォーミュラカーのレースは、見た目の印象が全然違う。ツーリングカーは、路上を走る普通のクルマと比較的似た姿だ。フォーミュラカーはタイヤがカウルで覆われていない、独特の形をしている。
 サーキットの中でやるレースか、市街地の道路を走るか、オフロードの環境を駆け抜けるか。スプリントレースなのか、耐久レースなのか、ラリーなのか。

 たいていのレースは、毎年決まったシーズンに開幕して、あちこちを転戦してポイントを加算していくチャンピオンシップ形式だ。フィギュアスケートやテニスの世界選手権と、システムが似ている。
 そういうざっくりしたことを説明すると、ハルタは目を輝かせて聞いていた。そして言った。

「おれさ、昔から、F1ってカッコいいなって思ってた。普通のクルマはそこまで興味ねぇんだよ。だって、似てないじゃん、形」
 F1というのは、フォーミュラカーレースの最高峰のシリーズだ。人ひとりがギリギリ乗り込める、速さだけを追求した極限のマシンがしのぎを削る。

「世界一になりたいって、F1レーサーになりたいって意味か?」
「F1レーサーの頂点に立ちたい。やるからには、狙うのは一位だろ! 今日のレースでおれのマシンがやったみたいにさ、将来はおれ自身が、誰よりも速いスピードで走ってやるんだ」

 ハルタらしい、単純明快な将来の夢だった。
 おれはちょっと納得した。ハルタがプラモートのレースを見守るとき、応援するというより自分に言い聞かせるようなエールを叫ぶ。「頑張れ!」じゃなくて、「行くぞ、行けるぞ!」って。ハルタはレース中、自分がプラモートに乗っているつもりになるんだろう。

 なあ、と、ハルタがおれにまとわり付いた。
「どうやったら、レーサーになれるんだろ? F1のマシンに乗るにも、やっぱ、クルマの免許とかいるのかな?」
「いるんじゃないのか? 詳しくは知らないけど」
「へえ、兄貴も知らないことあるんだな」
「当たり前だろ」

「じゃあさ、誰に訊いたらわかる?」
「ネットで調べてみたらいい」
「どうやって調べんだ? ケータイ?」
「とうさんのパソコンを使わせてもらえよ。ケータイじゃメモリが小さいから、サイトによってはうまく表示されない。調べ物をするには、パソコンだ」

「ふーん。ケータイって、意外と不便なのか。そんじゃ、兄貴、家に帰ったら、調べんの手伝ってくれよ」
「手伝うって、おまえな、どうせおれが全部やることになるんだろ? 調べてくださいって言えよ」
「はいはーい。調べてくださーい。お願いしまーす」

 ハルタは大雑把で、いい加減で、わかりやすくて、人に甘えるのがうまくて。気付いたら、ハルタの甘えを受け入れてしまっている。ハルタには、人の心を簡単に動かす何かが備わっている。
 たぶん、そういうところがハルタの魅力っていうやつなんだろう。おれは、いちばん身近にそれを思い知っている。
 調べてみると、F1マシンに乗り込むところまでたどり着くには、三種類のライセンスが必要だとわかった。
 まず、普通の運転免許証。カートと呼ばれるマシンでのレースだけは免許証なしでいけるけれど、それ以外のクルマでレースに参戦するためには普通の運転免許証を持っていないといけない。

 それと、国内向けのレースライセンス。クルマ好きの一般人でも、けっこう持っていたりするらしい。逆に言うと、国内向けのライセンスだけ持っていても、レーサーとして食べていくのは難しい。
 だから、一人前のレーサーになるには国際レースライセンスが必要だ。レースの成績に応じてステップアップ試験を受けられる国際ライセンスで、最高ランクであるスペシャルライセンスを取得できて初めて、F1マシンに乗ることが許される。

「というわけで、三種類の免許証を取らなきゃいけなくて、何度も試験があるみたいだ」
「ふぅん。じゃあ、やっぱ、十八歳まで待たなきゃ、レーサーになるための修行とかができないってことか?」

「いや、レーシングカートっていうのは、免許なしでいけるみたいだ。カートのレースに子どものころから出場して腕を磨いてきたって人が、現役レーサーには多いらしい」
「えっ、何それ? おれでも出られるレースがあるってことか?」

「いきなりレースっていうのは無理だろ。まあ、でも、カートを運転することはできるんじゃないか? サーキットが近所にないか、とりあえず探してみよう」
「よっしゃ、何かワクワクしてきた! なあ、兄貴も一緒にサーキット行ってみようぜ。そんで、コースの上を走ってみるんだ。二人でレースしたら楽しそうだ!」

「バーカ。最初は練習だって言ってるだろ。あっ、ほら、このサーキットなら近いぞ。電車とバスを乗り継いだら、おれたちだけでも行ける場所だ」
「子ども向けの体験教室あるじゃん! 行くっきゃねぇよな!」

 二人でパソコンの前で騒ぎながら、プラモート用じゃない本物のサーキットに思いを馳せて、親にも何も言わずに体験教室の申し込みをした。おれたちがあんまり騒ぐから様子を見に来た父親が、申し込み完了のメールを見て呆れて、同行してくれることになった。

 たった一回の体験教室で、誰の目にも明らかな才能を発揮したのは、おれじゃなくてハルタだった。おれは「初めての割にはうまくできたね」と、大人から頭を撫でられる程度。ハルタは桁が違った。
 予想できていたことだから、おれはショックを受けたりしなかった。ああ、やっぱりこいつが主人公なんだなと思った。

 昔から年下のハルタのほうが足が速いし、うまく泳げる。鉄棒の大車輪も、バク転も、高いところから飛び降りながらの宙返りもできる。運動能力でハルタに追い付くのは、ちょっと器用に球技がこなせるだけのおれには、絶対に無理だ。

 カート教室の授業料は高かった。それでも、ハルタは月に二回、サーキットに通うことになった。父親はおれも一緒に通うように勧めてくれたけれど、断った。レーサーになりたいという夢は、ハルタのものだ。おれが真似したって、どうしようもない。

 危なっかしいばっかりの弟だと思っていたのに、譲れない夢を先に見付けたのはハルタのほうだった。取り残された気がした。おれとハルタは違うんだから、あせらなくていいさ。そう考えようとしても、何だかうまくいかなかった。
☆.。.:*・゜

 中途半端になってしまった学校探検の後、カイリとスバルさんの家に戻って、おれは部屋にこもった。ベッドに寝転んで、参考書に線を引いたり、気晴らしに本を読んだりする。

 いきなり眠ってしまうことを睡眠発作と呼ぶらしい。おれの場合、発作は連続して起こりやすい。今日じゅうにまた倒れるかもしれないから、外に出るのはやめた。
 軽い頭痛がしている。発作が起こるたび、無意識下で息を止めている時間があるようで、目が覚めてからも、ちょっとした酸欠状態がしばらく続く。

 カイリとハルタは、釣りに出掛けている。昨日フェリーから降り立った波止場の浮き桟橋で釣り糸を垂れたら、エサをまいてやるだけで、簡単にアジが釣れるらしい。ついでだから泳いでくると、ハルタが張り切っていた。

 二人きりで海、か。カイリとハルタ、楽しんでくるんだろうな。悔しいけれど、今日は仕方がない。海のそばで睡眠発作が起こったらと想像すると、怖い。泳いでいるときだったら最悪だ。
 いや、意識がないときに溺れ死ぬなら、苦しくも怖くもないのかな? だったら、案外いいのか。でも、水死体って悲惨だよな。

 死というもののイメージをネットで検索したことがある。死にたいわけでも死体に興味があるわけでもなかったけれど、自分が死んだらどうなるんだろうと、唐突に気になった。
 きれいな死に方ってないんだな、と感じた。首を吊ったら、目玉や舌が飛び出すし、腹の中のものが下に垂れ流しになる。手首を切るときは、血が固まらないように湯船につかる必要があるから、死体はふやけてぶよぶよになる。

 列車に飛び込んだら、百パーセント、バラバラ死体。ニュースで出てくる、頭や全身を「強く打って死亡」というのは、原形をとどめないグチャグチャな状態という意味らしい。屋上から飛び降りるのも、体はメチャクチャに壊れるだろう。
 睡眠薬は、顔も体もパンパンに腫れたようになるらしい。毒薬はどう考えても苦しくて、暴れまくった死にざまは決してきれいじゃないはずだ。

「このままダラダラ生きてくのかな、おれ」
 生きるのがイヤなんじゃなくて、ダラダラなのがイヤだ。細く長く退屈な人生を歩んでいくより、叶えたい夢に燃えて派手に燃え尽きる人生のほうがいい。

 ハルタは、おれの憧れる派手な人生を送ることになるかもしれない。レーサーって、死と隣り合わせの生き方だから。
 母親は最初、ハルタがカート教室に通うことに断固として反対した。レーサーになんかなっちゃいけないと、弱々しく泣きながらハルタに訴えた。おれたちがうるさいときには、もっとうるさい声で怒鳴って叱り飛ばすような母親なのに、その日の泣き方は全然違った。

 レーサーが背負うリスクは、猛スピードで走るマシンでのクラッシュだけじゃない。レースの間、レーサーの心拍数は跳ね上がる。F1レーサーの場合、平均して、一分間に二百以上になるらしい。つねに全力疾走しているような心拍数だ。
 心拍数が極端に高まった心臓に、強烈な重力が掛かる。それに、レーサーは耐火スーツを着ているから、レース中の体温は上がりっぱなしになって、すごい量の汗をかく。水分補給もできない。血液がドロドロになって、血圧が急上昇する。

 つまり、レース中のレーサーは、いつ心臓が止まってもおかしくない危険なコンディションにある。しかも、一瞬でも気を抜いたらクラッシュするデスマッチ。怖い。おれは、そんなマシンに乗ることなんてできない。そんな怖いマシンは愛せない。
 だけど、ハルタはやるんだ。母親の反対に正面からぶつかって、何が何でもレーサーになってやると宣言した。

「レーサーになって、世界チャンピオンになってやる。伝説って呼ばれるくらい勝ってやる。かあちゃんに世界旅行をプレゼントしてやる。だから、おれを信じろ!」

 毎日毎日、何度も何度も、ハルタは母親を説得した。飽きっぽいハルタが一ヶ月以上も頑張った。母親はついに折れて、ハルタがカート教室に通うことを許した。
 あれから四年経った。ハルタは月に二回、サーキットに行っている。そのくせ、毎日サーキットに出没する金持ちの子よりも速い。年齢別の大会でも、何度か優勝した。うらやましいやつだ。おれなんか、部活のバスケでは県大会に進んだこともない。

 ハルタの運動能力や動体視力みたいに飛び抜けたものを、おれは持っていない。少し人より器用に勉強できて、優等生らしい振る舞いを知っているだけ。
「つまんないやつ。前からわかってたけど」
 おれは参考書を枕の上に投げ出した。

 島での様子を知らせてほしいと、両親からも田宮先生からも言われている。おれとハルタで共有するようにと、ケータイを一台、契約して持たされた。でも、ここはケータイの電波が届いていない。連絡するには、スバルさんの固定電話かパソコンを借りるしかない。
 また睡眠発作が起きましたなんて、報告したくない。大丈夫ですと嘘をついても、きっとハルタが暴露してしまう。こっちから連絡しなければしないで、そのうち両親や田宮先生から電話がかかってくるんだろう。

 面倒くさい。
 疲れ果てている。全部イヤになる瞬間が、発作みたいにやって来る。衝動的に爪と指の間に工具を突き込んだことが、一度だけある。
 ふと、表からクルマの音が聞こえた。スバルさんが帰ってきたらしい。
 壁に掛けられた時計を見ると、そろそろ午後五時だ。まだ外は十分に明るい。日本でも西の外れにある龍ノ里島は、日が暮れるのが遅い。

 ただいまー、というスバルさんの声がして、返事したほうがいいのかなと思っているうちに、足音が階段を上ってきた。おれはベッドの上で体を起こした。
 開けっ放しのドアをコツコツとノックしてから、スバルさんは部屋に顔をのぞかせた。

「ただいま。やっぱりユリトくんひとりだったか」
「おかえりなさい。カイリとハルタは釣りに行ってます。ぼくだけが家にいるって、靴でわかりました?」
「うん。どうした? 何かあった? 体調が悪い?」

 おれは一瞬、正直に言うべきかどうか迷った。スバルさんはおれの体調のこと、知っているんだろうか?
「スバルさん、田宮先生から、ぼくの体調について聞いてますか?」

 言葉を選ぶような間があった。スバルさんは真顔になって口を開く。
「睡眠発作を抱えてるという問題のこと?」
「ご存じなんですね。カイリは知らなかったみたいだけど」
「デリケートな問題だと思って、教えておかなかったからね。もしかして、発作が起こってしまった?」

「はい。龍ノ原小中学校を見学に行ったときに、急に。いつも、きっかけや前触れもなく起こるんですよね。ハルタたちにフォローしてもらえるタイミングでよかったです」

 おれは笑顔で嘘をついている。フォローなんて、されたくなかった。カイリに睡眠発作のことを知られたくなかった。ハルタに借りを作りたくなかった。
 部屋に入ってきたスバルさんは、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

「ぼくと田宮先輩の思惑は、外れちゃったな」
「え? 思惑って何ですか?」
「龍ノ里島の自然の中にいだかれたら、ユリトくんの睡眠障害が治るんじゃないかって、楽観的なことを考えていたんだ。田宮先輩も、生き方に悩んだときにこの島に来て、元気になって帰っていったから」

「田宮先生が、生き方に悩んでいたんですか? それ、いつのことですか?」
「学生時代だよ。ぼくが大学三年生で、田宮先輩が大学院の一年目だったころだ。田宮先輩は、本当は研究の道に進みたかった。でも、そのためにはお金も時間も掛かる。田宮先輩のご実家は当時、苦しい状態だったらしくて、早く就職するよう言われていた」

 大学院時代に教師になるかどうか悩んだという話は、田宮先生からチラッと聞いたことがある。笑い話みたいに軽い口調だった。でも、研究者か教師か、一生を左右する大きな分かれ道だ。笑い話程度の悩みじゃなかったはずだ。

「田宮先生は、どうして龍ノ里島に来たんですか? スバルさんが誘ったんですか?」
「夏休みに実家に帰りたくないと言っていた田宮先輩に、それじゃうちに来ますかって声を掛けてみたんだ。半分冗談だったんだけど、田宮先輩は本当に付いてきた」

「スバルさんのご実家、龍ノ里島なんですか?」
「いや、ぼくの実家はこの隣の島なんだけどね。せっかくだから、もっといなかに行こうって話になって、龍ノ里島の親戚の家に、田宮先輩と二人で転がり込んだ。楽しかったなあ。朝から晩まで、小学生に戻ったみたいに、海でも山でも遊んで回ったんだよ」

 スバルさんは、遠い目をして微笑んでいる。
 二十歳を過ぎた大人の男ふたりが遊んで回る姿なんて、うまく想像できない。例えば、おれとハルタの十年後? 無理だ。思い描こうとしても、イメージは真っ白にかすんでしまう。

「田宮先生は龍ノ里島で過ごして元気になって、結局、家族に言われたとおり就職したんですね。研究者じゃなくて、教師になった。後悔しなかったんでしょうか?」
「したと思うよ。今でも未練は残ってると思う」
「やっぱり、そっか」
「誰だってそうさ。何かを選んで別の何かを捨てたら、後悔するし未練もいだく。だけど、田宮先輩は教師になって、後悔や未練以上に大きなものを獲得できたはずだ。だから、今でもあんなに生き生きしてる。ユリトくんは、そう感じない?」

 生き生きしている、か。確かに、田宮先生はほかの先生方と何かが違う。物理学や機械工学の知識が膨大なだけじゃなく、頭の回転が速いから授業がおもしろいだけでもなく、もっと別のどこかが特別なんだ。

 田宮先生の何が違ってどこが特別なのか、今、少しわかった気がする。
 悩んだり迷ったりする気持ちをちゃんと覚えているからだ。大人になる前のおれたちがたくさん悩んで迷うことを、忙しい大人たちは忘れがちだけれど、田宮先生は違う。だから、おれに龍ノ里島に行くことを勧めることもできた。
 おれの睡眠障害を理解しようとしない先生も、実はいる。まさかあの剣持ユリトがサボり病にかかるなんて、と冗談っぽく話す声を、職員室のそばで聞いてしまった。睡眠発作を心配する母親がおれに学校を欠席させた翌日だった。
 サボってない。本当につらいんだ。自分で自分をコントロールできない。この苦しみとみじめさを疑うなら、サボり病なんて言うあなたが同じ症状に陥ってみればいい。

 悔しいのと同時に、ふつりと、張り詰めた糸の一本が切れた。他人からの信用を失うって、胸に隙間風が吹くような気分だ。寂しさと悲しさの中間。むなしさって言葉が、いちばん近い。
 おれはそっとかぶりを振った。ネガティブにねじれた胸の内をスバルさんに悟られないように、用心深い笑顔の仮面をかぶっている。

「田宮先生には感謝しています。おもしろい本を紹介してくださったり、大学時代に研究されていたことを教えてくださったり。田宮先生とお話ししてると、楽しいんです」
「中学生にして研究の話が楽しいとは、ユリトくんは将来有望だよ。まあ、実際、田宮先輩やぼくの専門は、サイエンスの中でも特に楽しい研究の一つなんだけどね」

 スバルさんはいたずらっぽく笑った。田宮先生と同じ笑い方だ。ワクワクできる魔法がここにあるんだよ、と自慢するみたいな笑顔。おれの嘘くさい笑顔の仮面なんかより、ずっと純粋で子どもっぽい。

「流体力学って、すごく幅が広い分野で、おもしろいですよね。気体でも液体でも同じ原理が観測されるし、電子の渦も流体力学で説明できるし、宇宙関連の技術ではいろんな場面で登場するし」
「よく知ってるね。ぼくや田宮先輩の大学時代の研究は、主に気体の流体力学で応用寄りだった。つまり、電子や粒子みたいな基礎科学を理論するんじゃなくて、商品として工業化する一歩手前のあたりを研究していたんだ」

「具体的には、風力発電の風車の空力をコンピュータでシミュレートする研究だったんでしょう? 理論上の世界で風車を作って風を当てて、どれくらい効率よくタービンを回して発電することができるか、計算して調べるんだって聞きました」

「風車以外にも、風をつかまえる形をしたものの空力は、いろいろ調べたよ。ヘリコプターのプロペラや飛行機の翼、火力発電や原子力発電のタービン。風をつかまえるのと表裏一体の、風を逃がして活かす構造も見てみたくて、F1マシンもシミュレーションの素材にした」
「あ、F1マシンのダウンフォースですね。風を味方に付ける発想のあのデザイン、カッコいいですよね」

 F1マシンのボディは、空力を徹底的に追究したデザインになっている。このデザインによって、マシンの空気抵抗が限界まで削られると同時に、空気がマシンを地面に押し付ける強烈な力、ダウンフォースが獲得される。

 ダウンフォースがなければ、マシンは安定しない。軽量化するほうがいいんじゃないかと穴だらけのスカスカの車体を作っても、そんなのは吹っ飛びやすくてかえって遅い。空気抵抗を利用して地面に貼り付く走りをするほうが圧倒的に速いんだ。

「ハイスピードで移動する乗り物は、クルマでも新幹線でも飛行機でも、全部そうさ。いかにして空気抵抗を、ダウンフォースや揚力として利用するかが大事。強引にぶつかっていくだけじゃダメだ。うまく、いなしていかなきゃ」

「正面から邪魔しに来る風を味方にするっていう発想、逆転的ですよね。最初にきちんと証明して理論化した人はすごいなって思います」
「だよね。理論的に証明した人、工業的に実証した人、既存のデザインに飽き足らず、より効率的な形を目指して研究を重ねる人、いろいろ。物好きなマニアじゃないと、こういう分野には携われない。ぼくもそのうちの一人だね」

「物好きなマニア、ですか」
「サイエンスが好きで好きでしょうがないマニアだよ。ぼくの場合は、自分で設計した風車の羽の形が本当に好きで、ずっと見ていても飽きない。いや、もっと美しくしてやる方法はないかと、いつも考えてる」

 目を輝かせるスバルさんに圧倒される。何でこの人はこんなに無防備でいられるんだろう? 物好きなマニアだなんて、どうして平気で名乗れるんだろう?

「スバルさんは、自分の好きな研究を仕事にされてるんですね」
「ああ、ちょっと語りすぎかな。ごめん」
「いえ……うらやましいです」

 おれは目を伏せる。スバルさんが柔らかく笑う気配があった。
「ぼくなりに迷う気持ちもあったけどね。どんな形でサイエンスに携わるのがいいのか。都会の研究所でこれをやるか、現場である離島に拠点を据えるか」

「やっぱり、迷ったんですか?」
「迷ったよ。だって、都会の大きな会社で風力発電のプロジェクトリーダーにでもなれば、大出世間違いなしだ。だけど、ぼくは現場を選んだ。生まれ育った離島という環境で、好きな研究ができるなんて、最高じゃないか」
 龍ノ里島を始めとする離島には、風力発電や海流発電、太陽光発電の施設がたくさん建てられている。住む人が減って余った土地を、次世代エネルギーの発電施設の実験場として、いろんな企業に貸しているためだそうだ。

 スバルさんも実は、大きな重工業会社の社員として龍ノ里島に派遣されている。島暮らしの気楽な格好で発電施設を管理する仕事で、都会のオフィスでネクタイを締めて働くのと同じ給料をもらっているらしい。

「後悔や未練、スバルさんにもありますか?」
「もちろんあるよ。ぼくも一度は島を離れて暮らしたことがあるから、ここの不便さは身に染みてわかる。コンビニもファーストフード店もない。新聞の朝刊は夕方にしか届かない。台風が来たら船が止まって、店から商品が消えてしまったりね」

「ぼくはまだここに来て二日目で、きれいな場所だなってくらいにしか思っていないけど、生活するのはやっぱり大変なんですね」
「大変だ。でも、ぼくは島が好きなんだよ。龍ノ里島は特にね、生まれ故郷ではないのに、すごくなつかしい。できれば龍ノ里島から離れたくないけど、八月いっぱいで全員移住するって決まっちゃったから、こればっかりは仕方ないな」

 最後の夏、と田宮先生から聞いたとき、どういう意味かと質問した。何かの比喩かと思った。でも、島に人が住む最後なんだと、本当に文字どおりの意味なんだと説明されて、言葉に詰まった。そんな寂しい場所が日本にあるなんて、想像したこともなかった。

「人がいなくなって、建物だけ残るんですか?」
「うん。家も学校も神社も波止場も、そのまま残していく。だんだん自然が呑み込んで、いつか壊れてしまうのを待つ。壊そうにも、ここには重機もないし、予算も付かない。どうしようもないんだ」

「廃墟の島になるんですね。スバルさんが龍ノ里島に来たのは、八年くらい前でしたっけ? そのころには、ここが無人島になるなんて予想できなかったんじゃないですか?」
「いや、わかってたよ。こんなに早いとは思ってなかったけど、いつかはきっと、人が全員いなくなるのはわかってた。龍ノ里島との別れは、最初から覚悟してた」
「覚悟しなきゃいけないのに、ここに来たんですか? どうして?」

 スバルさんは、嘘偽りのない笑顔で答えた。
「好きだから。ユリトくんは、出会った瞬間に魂が震える体験をしたこと、ない?」

「魂が震える、ですか?」
「ありふれた表現で申し訳ない。人でも島でも町でも、研究や興味の対象でも何でもいいんだけど、その理由を言葉で表せないくらい本気で、一瞬で好きになってしまうものって、あると思うんだ。そういうとき、魂が震える」
「わかる気がします」

 おれにとって、プラモートがそうだった。一台六百円、全長十五センチちょっとの自動車模型。
 かつてはブームになったらしいけれど、おれが小さいころなんて、まわりの子どもは誰もプラモートをやっていなかった。たまたま近所に模型屋があって、たまたまそこにプラモートが売られていて、たいして高くないことがわかって、お小遣いで買ってみたんだ。

 指先に神経を集中して、父親に借りた工具を使って、細かいパーツを組み立てる。プラスチック製の小さなギザギザの組み合わせがモーターの回転を車軸に伝えて、コインくらいの直径のタイヤが勢いよく回る。シンプルなおもちゃだ。
 シャーシに動力を組み込んで、ボディをかぶせて、キャッチを留めて、車体の裏のスイッチを初めてオンにした瞬間、その軽快なモーター音のとりこになった。家の狭い廊下を疾走するプラモートの雄姿は、すごくキラキラしていた。

 スバルさんは、優しい声で噛みしめるように語る。
「ぼくが龍ノ里島を選んだ理由は、特にないよ。ただ、どうしようもなく心を惹かれただけ。大好きなこの島の最後の時間に居合わせることができるのは、きっと幸運だ。こんな寂しさを味わえば、ぼくは一生、この島が好きだったことを忘れないだろうから」

 終わってほしくないと願っても、必ずいつか終わりは訪れる。島も人間も同じだと、カイリが言っていた。
 窓の外からハルタの大声が聞こえてきた。釣りから戻ってきたらしい。スバルさんがクスッと笑った。

「ハルタくんは元気がいいね」
「うるさくて、すみません」
「いやいや。ああいう元気いっぱいの男の子は、昔からうらやましかった。ぼくは本が好きなインドア派だったからね。今思えば、もったいないな。せっかく島で暮らしていたんだから、もっと外で遊んでおけばよかったよ」

 ただいまーっ! と、ハルタが勢いよく玄関を開ける音がした。カイリが少し笑っているのも聞こえた。
 ああ、まただ。ハルタばっかり、カイリと仲良くしている。あっという間に人と友達になって、一生忘れられないくらいの思い出を簡単に作ってみせる。
 うらやましいを通り越した嫉妬が、おれの胸の奥に、じわりと黒い染みを作った。頭痛がぶり返してきた。