おれは手のひらの上にマシンを載せた。せめて表面だけでも、冷静なふりを押し通さなきゃ。
「傷だらけだろ、こいつ。あちこちパーツを取り替えながらだけど、小五のころから使ってるから、もう六年になるのか。小六のときの全国大会も、こいつで出たし」
おい、おれ、全然冷静じゃないよ。見も知らぬ相手に、しかもミニ四駆の公式レースなんて無縁そうな女子を相手に、何を言っているんだ?
でも、口数が増えたのは、緊張しているせいとは違う。どっちかというと、緊張感が足りないせいだ。気が緩んでしまった、というか。
なぜ?
彼女とは初対面じゃないような、不思議な感じがする。おれのことを何もかも知っている、気の置けない相手みたいだ。
そんなはずはない。出会った人の顔も名前も、おれはいつも完璧に記憶している。こんなきれいな声と姿の持ち主なら特に、絶対に忘れない。
彼女が少し体をかがめて、おれの相棒をのぞき込んだ。無造作に背中に流しただけの彼女の髪から、いい匂いがする。その髪に触れてみたくなって、おれの心臓がドキドキと暴れた。
「ほんとだ。この子、実は傷だらけだね。丁寧に色を塗ってあるから、あんまり目立たないけど。大切なものなんだ?」
「ああ、大切だよ。おれにとっては、昔からずっと、すごく大切な相棒で親友で、将来の夢を教えてくれた存在。絶対に手放せない」
彼女がおれを見上げた。思いがけなく近い。おれはまた息を呑む。笑顔の作り方さえ忘れてしまう。
なぜ?
「会長さんって、ほんとはそういうしゃべり方するんだね」
「え? しゃべり方?」
「普段は、おれじゃなくて、ぼくって言ってる。素行も口調も仕草も徹底的に礼儀正しくて、こんな王子さまが現実にいるんだって騒がれるくらいなのに」
「そう……いえば、そうだ。何か、ごめん。失礼だよね、たぶん」
「どうして?」
「だって、態度、変えちゃって。なれなれしくて、ごめんね。あ、じゃなくて、あの……」
舌が回らない。なぜ? 自分が自分じゃないみたいだ。体にコントロールが利かない。
「謝らないで。わたしは気にしない」
「だけど、変な意味で特別扱いみたいな、こういうのって」
ルール違反をしているようで、あせりが募る。ルールなんて定めたのは、ほかでもないおれなのだけれど。
なぜ、いきなり、おれの言葉も態度も砕けてしまったんだろう? 猫かぶりのおれが率直な話し方をするのは、弟の前だけのはずだ。
弟の前だけ? いや、何かが引っ掛かる。ずいぶん前に似たようなことがあった気がする。いつ? どこで? 誰を相手に?
彼女がマシンのリヤウィングを指差した。
「シュトラールって、この子の名前?」
銀色でつづった、STRAHL《シュトラール》。ミニ四駆としての商品名じゃなくて、おれが自分のマシンに付けた名前だ。
マシンに自分だけの名前を付けるレーサーは、小学生のころでも珍しかった。もし付けていたとしても、表立ってマシンの名前を呼ぶなんて、そんな子どもっぽいことは誰もしなかった。おれも、シュトラールという名前について、尋ねられたって明かさなかった。
昔の習慣で、おれは口ごもった。彼女は頬に小さなえくぼを刻んだ。
「シュトラールは、ドイツ語で、輝きっていう意味だよね。ドイツ語は、響きがカッコいいけど、日本人にとってはつづりが読みにくいから、模型やクルマや機械の公式の名前には、あまりならない。だから、自分だけの名前にしやすいんだよね」
思わず「えっ」と言うのと、息を呑むのと、同時にやらかそうとしたおれの喉は、間抜けに上ずった声を詰まらせた。おれは咳払いをしてごまかして、つぐんでいた口を開いた。
「名前、付けたりするの? きみも模型とか、好きだったりする?」
「うん」
まっすぐにおれを見つめて微笑む彼女の目は、透き通りそうに薄い茶色。
強烈なデジャ・ヴを覚えた。この場面をどこかで経験した気がする。
「もしかして、おれ、前にどこかできみに会った?」
「え?」
つい訊いてしまった。彼女に小首をかしげられて、おれは猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「ごめん」
おれは視線をそらした。まるで下手なナンパだ。頬が熱い。何だ? どうしたんだ、おれは? おかしいだろう、こんなの。胸の高鳴りが、まったく落ち着く気配もない。
クスッと、彼女が笑った。
「デジャ・ヴ、なのかな。わたしも何となく、シュトラールの名前を知ってるような気がして。いつ、どこで会ったんだろ?」
「シュトラールと?」
「うん。それと、会長さんも」
シュトラールの小さな車体を隔てて、おれの手のひらと彼女の指先が、ごく近いところにある。その気になれば、簡単に触れてしまえる。その距離は、でも、なぜだか限りなく遠い気がして。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
口を開けば、自分が何を言ってしまうかわからない。けれど、話をしたい。
「おれ、会長じゃなくて、ちゃんと名前あるんだけど」
「そっか。そうだね。知ってる」
彼女に名前を呼ばれたら、きっと、おれの化けの皮は全部、はがされてしまう。
でも、それもいいかな。この出会いにはきっと、甘ったるくて珍しくもない名前が付いているはずで、おれはその名前を確かめてみたい。
彼女のまなざしがくすぐったくて、おれのひどく熱い頬は、自然と笑ってしまった。おれは小さな深呼吸をして、言った。
「きみの名前、教えてもらっていい?」
その瞬間、なぜだろう、海の匂いを思い出した。遠い島で過ごした二年前の夏が脳裏によみがえった。
「傷だらけだろ、こいつ。あちこちパーツを取り替えながらだけど、小五のころから使ってるから、もう六年になるのか。小六のときの全国大会も、こいつで出たし」
おい、おれ、全然冷静じゃないよ。見も知らぬ相手に、しかもミニ四駆の公式レースなんて無縁そうな女子を相手に、何を言っているんだ?
でも、口数が増えたのは、緊張しているせいとは違う。どっちかというと、緊張感が足りないせいだ。気が緩んでしまった、というか。
なぜ?
彼女とは初対面じゃないような、不思議な感じがする。おれのことを何もかも知っている、気の置けない相手みたいだ。
そんなはずはない。出会った人の顔も名前も、おれはいつも完璧に記憶している。こんなきれいな声と姿の持ち主なら特に、絶対に忘れない。
彼女が少し体をかがめて、おれの相棒をのぞき込んだ。無造作に背中に流しただけの彼女の髪から、いい匂いがする。その髪に触れてみたくなって、おれの心臓がドキドキと暴れた。
「ほんとだ。この子、実は傷だらけだね。丁寧に色を塗ってあるから、あんまり目立たないけど。大切なものなんだ?」
「ああ、大切だよ。おれにとっては、昔からずっと、すごく大切な相棒で親友で、将来の夢を教えてくれた存在。絶対に手放せない」
彼女がおれを見上げた。思いがけなく近い。おれはまた息を呑む。笑顔の作り方さえ忘れてしまう。
なぜ?
「会長さんって、ほんとはそういうしゃべり方するんだね」
「え? しゃべり方?」
「普段は、おれじゃなくて、ぼくって言ってる。素行も口調も仕草も徹底的に礼儀正しくて、こんな王子さまが現実にいるんだって騒がれるくらいなのに」
「そう……いえば、そうだ。何か、ごめん。失礼だよね、たぶん」
「どうして?」
「だって、態度、変えちゃって。なれなれしくて、ごめんね。あ、じゃなくて、あの……」
舌が回らない。なぜ? 自分が自分じゃないみたいだ。体にコントロールが利かない。
「謝らないで。わたしは気にしない」
「だけど、変な意味で特別扱いみたいな、こういうのって」
ルール違反をしているようで、あせりが募る。ルールなんて定めたのは、ほかでもないおれなのだけれど。
なぜ、いきなり、おれの言葉も態度も砕けてしまったんだろう? 猫かぶりのおれが率直な話し方をするのは、弟の前だけのはずだ。
弟の前だけ? いや、何かが引っ掛かる。ずいぶん前に似たようなことがあった気がする。いつ? どこで? 誰を相手に?
彼女がマシンのリヤウィングを指差した。
「シュトラールって、この子の名前?」
銀色でつづった、STRAHL《シュトラール》。ミニ四駆としての商品名じゃなくて、おれが自分のマシンに付けた名前だ。
マシンに自分だけの名前を付けるレーサーは、小学生のころでも珍しかった。もし付けていたとしても、表立ってマシンの名前を呼ぶなんて、そんな子どもっぽいことは誰もしなかった。おれも、シュトラールという名前について、尋ねられたって明かさなかった。
昔の習慣で、おれは口ごもった。彼女は頬に小さなえくぼを刻んだ。
「シュトラールは、ドイツ語で、輝きっていう意味だよね。ドイツ語は、響きがカッコいいけど、日本人にとってはつづりが読みにくいから、模型やクルマや機械の公式の名前には、あまりならない。だから、自分だけの名前にしやすいんだよね」
思わず「えっ」と言うのと、息を呑むのと、同時にやらかそうとしたおれの喉は、間抜けに上ずった声を詰まらせた。おれは咳払いをしてごまかして、つぐんでいた口を開いた。
「名前、付けたりするの? きみも模型とか、好きだったりする?」
「うん」
まっすぐにおれを見つめて微笑む彼女の目は、透き通りそうに薄い茶色。
強烈なデジャ・ヴを覚えた。この場面をどこかで経験した気がする。
「もしかして、おれ、前にどこかできみに会った?」
「え?」
つい訊いてしまった。彼女に小首をかしげられて、おれは猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「ごめん」
おれは視線をそらした。まるで下手なナンパだ。頬が熱い。何だ? どうしたんだ、おれは? おかしいだろう、こんなの。胸の高鳴りが、まったく落ち着く気配もない。
クスッと、彼女が笑った。
「デジャ・ヴ、なのかな。わたしも何となく、シュトラールの名前を知ってるような気がして。いつ、どこで会ったんだろ?」
「シュトラールと?」
「うん。それと、会長さんも」
シュトラールの小さな車体を隔てて、おれの手のひらと彼女の指先が、ごく近いところにある。その気になれば、簡単に触れてしまえる。その距離は、でも、なぜだか限りなく遠い気がして。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
口を開けば、自分が何を言ってしまうかわからない。けれど、話をしたい。
「おれ、会長じゃなくて、ちゃんと名前あるんだけど」
「そっか。そうだね。知ってる」
彼女に名前を呼ばれたら、きっと、おれの化けの皮は全部、はがされてしまう。
でも、それもいいかな。この出会いにはきっと、甘ったるくて珍しくもない名前が付いているはずで、おれはその名前を確かめてみたい。
彼女のまなざしがくすぐったくて、おれのひどく熱い頬は、自然と笑ってしまった。おれは小さな深呼吸をして、言った。
「きみの名前、教えてもらっていい?」
その瞬間、なぜだろう、海の匂いを思い出した。遠い島で過ごした二年前の夏が脳裏によみがえった。