昼を過ぎたころになっても、部屋を通り抜けていく風は涼しい。にぎやかなセミの声も、慣れればむしろ耳に心地よかった。家でハルタがよく聴いている日本語の歌詞のポップスより、よっぽどいい。日本語の歌詞は、ついつい追い掛けてしまうから疲れる。

 部屋のダイニングテーブルに向かって、ひたすら課題を解いている。高校入試の過去問の数学。中学三年で教わるべき内容は、自分で全部、勉強し終えた。あせっているつもりはない。これがおれのペースだ。飛び級とか、できればいいのに。

 一次関数の直線l上にある点Pとy軸上にある点Aを通る直線mの、y=-2のときの傾きを求める。点Pが直線l上を動いて、直線mの傾きが変わって、ある特定の条件下で形作られる図形の面積を求める。
 中学レベルの数学はパズルだ。スパッと答えが出る。素数階段とかリーマン予想とか、数というもの自体に迫る学問に立ち入ると、神秘や真理みたいな、うまくアプローチできない何かに近付いてしまうけれど。

「神秘か」
 今朝、まぶしい光に包まれた海辺でおれが目にしたのは、何だったんだろう? 破損していたこと自体がおれの見間違いだったみたいに、今、シュトラールのシャーシとチップには傷跡ひとつ残っていない。
 見間違いだったはずはない。カイリが確かに、何かをしたんだ。何かって、何だ? カイリは何と言った? 奇跡?

 不意に、開けっ放しのドアの向こうから、元気のよすぎる声が聞こえた。
「たっだいまー!」

 ハルタだ。玄関で叫んだ声が、ここまで飛んできた。ハルタは、昼食の後にどこかに行っていたけれど、帰ってきてしまった。面倒だな。あいつ、絶対に邪魔しに来る。
 案の定、軽快な足音が階段を駆け上がってきた。その勢いのまま、全身汗びっしょりのハルタは、部屋に姿を現した。

「兄貴、見ろ! カブトとクワガタ、つかまえたぞ! こんなデカいの、初めて見た!」
 ハルタがおれの目の前に突き付けたのは、即席の虫かごだった。ペットボトルの底を切って網をかぶせただけの代物だ。透明なプラスチックの内側で、立派な角を持つカブトムシとクワガタがのそのそと動いている。

「こいつら、夜行性だろ? 寝ぼけてるじゃないか」
「そっ。昼寝中をつかまえたんだ。虫捕り網とか使わずに、手でつかんだんだぜ。こんなことできるって、ビックリだ」
「よかったな」

 棒読みで言ってやりながら、解きかけの数式に意識を戻す。
 虫はあんまり得意じゃない。カブトムシやセミは平気だけれど、夜の外灯に群がっている虫には背筋がゾッとする。特に、毒々しい色の鱗粉をまとったガは、本当にダメだ。

 視界から問題集が消えた。ハルタがかっぱらったんだ。
「こんなもん、ここでやる必要ねぇだろ」
「返せよ」
「やなこった。って、うげえ、これ高校入試の過去問じゃん。こんなの、普通は三学期にやるんじゃねぇのか?」
「それじゃ遅すぎる。返せってば」

「へへーん、返さねぇよ。兄貴、今日はこれから探検に行くぞ! カイリが、学校に忍び込む方法、知ってるって!」
「学校? 行ってどうするんだ?」
「だから、探検すんだよ! 学校ったって、普通の学校じゃねぇぞ。もう使われなくなった学校なんだ。チラッと眺めてきたんだけどさ、木造で一階建ての超古い建物だった。な、行ってみようぜ!」

「行かない」
「ふぅん? 夜に行くほうがいいのか? 肝試ししたら、すっげー迫力ありそうな場所なんだけど」
「だから、おれはそういう……」

 尖った言葉もいらだった顔も、慌てて引っ込める。部屋の入り口に、カイリが立っていた。ハルタと同じく汗をかいている。カイリは首をかしげた。
「ユリトは勉強? 邪魔だった?」

 ハルタがおれの問題集をテーブルの上に投げ捨てた。
「なあ、行こうぜ、兄貴。学校、誰もいないんだってよ。おもしろそうじゃん」
「おもしろそうって、だけど……」
「別に、無理やり首に縄付けて引っ張ってくつもりはねぇけどさ、兄貴もちょっとは付き合えよ。せっかくカイリが山とか海とか案内してくれるって言ってんのに」

 チクッと、胸に小さな棘が刺さった。
 ハルタが抱えたペットボトルの虫かごは、細工が丁寧だ。ハルタはプラモートのセッティングやメンテナンスも大雑把だから、あんなにきれいに仕上げるはずがない。きっと、あれはカイリがハルタのために作ったんだ。そして、二人で山に行ってきたんだ。

 学校にも、おれが行かないと言ったら、ハルタはカイリと二人で行くんだろう。まあ、ハルタの好きなようにさせればいいさ。あいつは天真爛漫で、誰とでもすぐに仲良くなる。ハルタが誰と友達になろうと、おれはおれだ。関係ない。

 本当に? 関係ないって、本当に言えるか?
 胸にチクチク刺さる棘がある。一体いくつ刺さっているんだろう? その正体も、とっくにわかっている。
 おれとハルタは、兄弟だからワンセット。おれはいつでもハルタの隣にいて、おれと違って太陽みたいなあいつを見て、そのたびに小さな棘が増えていく。
 嫉妬だ。おれはあいつになれない。おれはあいつがうらやましい。

「ユリト」
 カイリの澄んだ声がまっすぐに、痛む胸に染み入った。顔を上げたら、カイリはおれを見つめていた。おれは反射的に笑顔をつくる。
「何?」
「行こう?」

 自分がまぎれもなく、単純明快なハルタと同じ遺伝子を持っているんだって、こういうときに気付く。カイリがおれを誘ってくれた。その一言で、おれは胸の痛みを忘れ去る。なんて単純明快なんだろう。
「課題は、夜にやることにしようかな」

 おれが椅子を立ったら、ペットボトルの虫かごを抱えたハルタは、屈託なくガッツポーズをした。