カイリがおれに尋ねた。
「チップがもとどおりになってシャーシの傷が治ったら、シュトラールは走れるの?」
「ああ。でも、この島には模型屋とかないよな」
「ないよ。わたしが言いたいの、そういうことじゃなくて。ユリトはシュトラールに命があるって、本気で信じてるよね。命あるものは、龍ノ神が見守ってるよ」

 おれはカイリの目をのぞき込んだ。唐突に何を言い出すんだろう? まっすぐにおれを見つめ返す目はふざけている様子もない。
「どういう意味? おれが信じてたら、シュトラールに命が宿るってこと?」

 薄い唇が、透き通る声が、歌うように告げる。
「龍ノ里島に訪れる、最後の奇跡。まもなく眠りに就く島の、小さなたわむれ」

 シュトラールを持つおれの手に、カイリが濡れた手を重ねた。
「な、何だよ?」
「シュトラールには、さわらないよ。機械は海水を嫌うから。ユリト、シュトラールを想って。正直な願いを込めて、想って」
「正直な願い?」
「生き返ってほしいでしょう?」

 ドクン、と、カイリの手が熱を持った。気のせいなんかじゃない。確かに熱い。人の体温ではあり得ないくらいに。
 熱はおれの手に飛び込んで、そして突き抜ける。

 シュトラールが熱に包まれる。レースを走り切った直後みたいに、シュトラールの車体が熱い。そして、かすかな振動と涼やかな駆動音が、唐突に起こる。
 そんなはずはない。シュトラールには今、モーターも電池も入っていない。

 何が起こった、と問うより早く、熱は引いた。振動も音も引いた。
 カイリの手が離れていく。
 まばたきなんか一度もしなかった。ずっとシュトラールを見つめていた。なのに、いつそれが起こったのか、わからなかった。

「割れて、ない……?」
 無傷のチップが、整然としてそこにある。シャーシにも傷ひとつない。復元された? 生き返った?
 カイリが静かに告げた。
「命が、あったから」

 おれはカイリを見つめた。
「どういうこと?」
「レディー、ゴーで走り出したら、シュトラールはユリトに応えてくれるんでしょ? ユリトと共鳴するための命が、この子には本当にあった。奇跡は、命あるものにだけ訪れる」
「奇跡? 命あるもの?」

 カイリは立ち上がった。おれは視線をさらわれた。呆けたように、海の輝きを映す瞳を見つめてしまう。
 ふっと、カイリが頬を緩めた。

「ユリト、シュトラールをバッグにしまって、バッグをここに置いて。帽子も邪魔」
「は? 何で?」
「泳ごう」
「お、おれが?」

 カイリはおれを見下ろして、首をかしげた。
「ユリトって、ほんとは、おれって言うんだ? さっきからそうだよね」
 しまった。うっかりしていた。今まで家族以外の人の前では、ぼくという一人称で通してきた。言葉遣いも、できるだけ丁寧にしようと心掛けていたのに、今、カイリの前では崩れていた気がする。

「何か、あの……ごめん」
「どうして謝るの?」
「ここにいる間、行儀よくしなきゃって決めてたのに」
「必要ないよ。ハルタみたいに、自由にしてれば? それより、カバン置いて。濡れちゃいけないもの、カバンと一緒にここに置いて」

 言われるままに、おれは帽子を脱いで、シュトラールをバッグにしまって、バッグを体から外した。財布もケータイも、部屋に置いてきている。濡らしたくないのは、シュトラールだけだ。いや、全身ずぶ濡れにも、あんまりなりたくないけれど。

 おれが立ち上がると、カイリはいきなり、おれの手首をつかんだ。濡れた細い指。カイリのほうが背は高いけれど、手はずいぶん華奢だ。おれの手と全然違う形をしている。

 形が違うのは、手だけじゃない。体じゅう全部だ。濡れて肌に貼り付いた服のせいで、そばにいるだけで恥ずかしくなるほど、カイリの体の形がわかってしまう。
 すごい勢いで、おれの頬に熱が集まった。

「ちょ、て、手を、あのっ」
「飛び込むよ」
「はい? ま、待って、ここ、海面から、かなり高い」
「今は潮が引いてるから、三メートルくらいあるかな」
「な、三メートルって、飛び込む高さ?」
「思いっ切り遠くまで飛ばないと、海底が浅いとこに落ちたらケガするよ」
「ええぇぇっ? 待ったなしかよっ?」

 カイリがおれの手を引いた。うっかりぶつかったカイリの体は、想像以上に柔らかい。間近な横顔が笑っている。目を奪われた一瞬の間に、カイリは駆け出していた。もちろん、おれも引っ張られて走る。

「レディー、ゴー!」
 カイリの掛け声とともに、おれとカイリの足はコンクリートを蹴って、キラキラ輝く海の上へと躍り出した。