いつの間に、おれの手はマシンより大きくなっていたんだろう?
マシンというのは、モーターひとつと電池ふたつで走る自動車模型のことだ。ミニ四駆という。
ずっとミニ四駆が好きだった。速くなるように改造を重ねて、レースに出ては勝ったり負けたりして、いろんな感情をともにしながら、ずっと大切にしてきた。
なんてね。人前でむきになってそう主張したりはしないけれど。
ミニ四駆が、いわゆるおもちゃだっていうことはわかっている。わかっていても、好きなものは好きだし、やっぱり単なるモノだとは思えないし、ついつい呼び掛けたりもしてしまう。
「なあ、シュトラール」
今日みたいに、マシンを小さなプラスチックケースに入れてカバンの奥に潜ませて、学校に連れてくる日もある。放課後の生徒会室に一人でこもって、予算の振り分け案や行事の要項の資料なんかを作るとき、やる気が折れそうになるたびにマシンに触れる。
おれの手のひらの上に今、一つの完成したフォルムがある。おれの相棒、シュトラール。
ミニ四駆の車体は、F1マシンと戦闘機の中間みたいなデザインだ。塗装では十分に隠し切れない、細かな無数の傷。レースに夢中になっていたのは小学生のころまでだけれど、今でもメンテナンスは欠かさない。
ボディとカバーを外して、ギヤのグリスアップをする。電気系統に触れる金属部分や、駆動の精度に直結するピニオンやシャフトの劣化状態を調べて、傷んでいれば交換する。ローラーやタイヤの掃除もする。ギミックを解体して、ちょっといじって組み直す。
草レースさえめったにやらなくなったから、交換が必要な傷みなんて、ほとんどない。改造したところで、誰かに見せるあてもない。ただ、マシンに触れたいだけだ。
躍動する機械のシンプルな命の構造には、おれの夢が詰まっている。エンジニアになりたい、クルマや飛行機を作ってみたい、宇宙に関わる仕事をしたい。高校二年生、十七歳の今という時間は、夢の途中にある一座標だ。
車体の裏にあるスイッチを入れる。シャァァァッ、と軽快な音を立てて四輪駆動のタイヤが回る。
目を閉じたら、コースが見える。スタートラインにフロントバンパーをそろえて、出走を待つ静寂。シグナルがともる瞬間の緊張感を、今でも心臓は覚えている。
レディー、ゴー!
その瞬間、マシンは一斉に走り出す。歓声に包まれるレース会場。走り抜け、と祈りながら拳を握って、おれは相棒の活躍を見守るんだ。
目を開けてみる。おれの前にあるのは、生徒会室の会議机と、まだ片付かない資料、過去の議事録とメモの山。
「わかってるよ。現実逃避は、ほどほどにしないとな」
白地に赤のグラデーションを配したマシンに、おれは苦笑いでつぶやいてみせた。スイッチをオフにして、モーターの回転を止める。
そのときになって、初めて気が付いた。生徒会室のドアが開いていたこと。ドアのそばに女子が一人、立っていたこと。
彼女は目を丸くしている。何か言い差したような唇の形があまりにも柔らかくて、おれは息が止まった。ドキリと高鳴る心臓。変だな。小学校時代から人前に立ち慣れているおれは、めったなことじゃ上がったりしないのに。
沈黙が、一秒、二秒。
彼女が目をしばたたかせて、少し首をかしげた。
「ごめんなさい。ドア、開いてて。音が聞こえたから、何だろうって。のぞき見するつもりじゃなかったんだけど」
透き通った、落ち着いた声だ。うっかり聞き惚れてしまう。またドキリと心臓が鳴る。彼女の声はきれいで、どこかなつかしい。もっとしゃべってほしいと思った。
いや、待てよ。おれは何を考えているんだ。今、そういう場面じゃないだろ。
「お、おれのほうこそ、ごめん。変なところを見せちゃって。カッコ悪いな」
たぶん、かなり滑稽だっただろう。生徒会長のおれが、はたから見ればおもちゃに過ぎない自動車模型を手に、自分の世界にひたっていた。
油断していた。だって、最終下校時刻も近付いた今ごろになって、校舎の外れにある生徒会室に足を向ける人がいるとは想定していなかったんだ。
ばつが悪くて頭を掻いたら、彼女は口元だけで、そっと微笑んだ。
「そのクルマ、走るの? 速そうな、軽そうな音が鳴ってた」
「走るよ。ただ、リモコンで操縦するわけじゃないから、ちゃんとしたコースを走らせる必要があるけどね。こんな狭い部屋の中じゃ、すぐ壁にぶつかって、車体が傷んでしまう」
そそくさとマシンをケースにしまい込もうとしたら、彼女に待ったを掛けられた。
「見せてもらってもいい?」
「興味ある?」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
マシンを軽く掲げてみせたら、彼女は生徒会室に入ってきた。
「ありがとう」
何気なくてありふれた一言をつぶやく声は歌っているみたいにきれいで、きれいなのは声だけじゃなかった。きれいな顔をした子だ。見つめてしまって、慌てて目をそらす。
マシンというのは、モーターひとつと電池ふたつで走る自動車模型のことだ。ミニ四駆という。
ずっとミニ四駆が好きだった。速くなるように改造を重ねて、レースに出ては勝ったり負けたりして、いろんな感情をともにしながら、ずっと大切にしてきた。
なんてね。人前でむきになってそう主張したりはしないけれど。
ミニ四駆が、いわゆるおもちゃだっていうことはわかっている。わかっていても、好きなものは好きだし、やっぱり単なるモノだとは思えないし、ついつい呼び掛けたりもしてしまう。
「なあ、シュトラール」
今日みたいに、マシンを小さなプラスチックケースに入れてカバンの奥に潜ませて、学校に連れてくる日もある。放課後の生徒会室に一人でこもって、予算の振り分け案や行事の要項の資料なんかを作るとき、やる気が折れそうになるたびにマシンに触れる。
おれの手のひらの上に今、一つの完成したフォルムがある。おれの相棒、シュトラール。
ミニ四駆の車体は、F1マシンと戦闘機の中間みたいなデザインだ。塗装では十分に隠し切れない、細かな無数の傷。レースに夢中になっていたのは小学生のころまでだけれど、今でもメンテナンスは欠かさない。
ボディとカバーを外して、ギヤのグリスアップをする。電気系統に触れる金属部分や、駆動の精度に直結するピニオンやシャフトの劣化状態を調べて、傷んでいれば交換する。ローラーやタイヤの掃除もする。ギミックを解体して、ちょっといじって組み直す。
草レースさえめったにやらなくなったから、交換が必要な傷みなんて、ほとんどない。改造したところで、誰かに見せるあてもない。ただ、マシンに触れたいだけだ。
躍動する機械のシンプルな命の構造には、おれの夢が詰まっている。エンジニアになりたい、クルマや飛行機を作ってみたい、宇宙に関わる仕事をしたい。高校二年生、十七歳の今という時間は、夢の途中にある一座標だ。
車体の裏にあるスイッチを入れる。シャァァァッ、と軽快な音を立てて四輪駆動のタイヤが回る。
目を閉じたら、コースが見える。スタートラインにフロントバンパーをそろえて、出走を待つ静寂。シグナルがともる瞬間の緊張感を、今でも心臓は覚えている。
レディー、ゴー!
その瞬間、マシンは一斉に走り出す。歓声に包まれるレース会場。走り抜け、と祈りながら拳を握って、おれは相棒の活躍を見守るんだ。
目を開けてみる。おれの前にあるのは、生徒会室の会議机と、まだ片付かない資料、過去の議事録とメモの山。
「わかってるよ。現実逃避は、ほどほどにしないとな」
白地に赤のグラデーションを配したマシンに、おれは苦笑いでつぶやいてみせた。スイッチをオフにして、モーターの回転を止める。
そのときになって、初めて気が付いた。生徒会室のドアが開いていたこと。ドアのそばに女子が一人、立っていたこと。
彼女は目を丸くしている。何か言い差したような唇の形があまりにも柔らかくて、おれは息が止まった。ドキリと高鳴る心臓。変だな。小学校時代から人前に立ち慣れているおれは、めったなことじゃ上がったりしないのに。
沈黙が、一秒、二秒。
彼女が目をしばたたかせて、少し首をかしげた。
「ごめんなさい。ドア、開いてて。音が聞こえたから、何だろうって。のぞき見するつもりじゃなかったんだけど」
透き通った、落ち着いた声だ。うっかり聞き惚れてしまう。またドキリと心臓が鳴る。彼女の声はきれいで、どこかなつかしい。もっとしゃべってほしいと思った。
いや、待てよ。おれは何を考えているんだ。今、そういう場面じゃないだろ。
「お、おれのほうこそ、ごめん。変なところを見せちゃって。カッコ悪いな」
たぶん、かなり滑稽だっただろう。生徒会長のおれが、はたから見ればおもちゃに過ぎない自動車模型を手に、自分の世界にひたっていた。
油断していた。だって、最終下校時刻も近付いた今ごろになって、校舎の外れにある生徒会室に足を向ける人がいるとは想定していなかったんだ。
ばつが悪くて頭を掻いたら、彼女は口元だけで、そっと微笑んだ。
「そのクルマ、走るの? 速そうな、軽そうな音が鳴ってた」
「走るよ。ただ、リモコンで操縦するわけじゃないから、ちゃんとしたコースを走らせる必要があるけどね。こんな狭い部屋の中じゃ、すぐ壁にぶつかって、車体が傷んでしまう」
そそくさとマシンをケースにしまい込もうとしたら、彼女に待ったを掛けられた。
「見せてもらってもいい?」
「興味ある?」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
マシンを軽く掲げてみせたら、彼女は生徒会室に入ってきた。
「ありがとう」
何気なくてありふれた一言をつぶやく声は歌っているみたいにきれいで、きれいなのは声だけじゃなかった。きれいな顔をした子だ。見つめてしまって、慌てて目をそらす。