いつの間に、おれの手はマシンより大きくなっていたんだろう?
 マシンというのは、モーターひとつと電池ふたつで走る自動車模型のことだ。ミニ四駆という。

 ずっとミニ四駆が好きだった。速くなるように改造を重ねて、レースに出ては勝ったり負けたりして、いろんな感情をともにしながら、ずっと大切にしてきた。
 なんてね。人前でむきになってそう主張したりはしないけれど。

 ミニ四駆が、いわゆるおもちゃだっていうことはわかっている。わかっていても、好きなものは好きだし、やっぱり単なるモノだとは思えないし、ついつい呼び掛けたりもしてしまう。
「なあ、シュトラール」

 今日みたいに、マシンを小さなプラスチックケースに入れてカバンの奥に潜ませて、学校に連れてくる日もある。放課後の生徒会室に一人でこもって、予算の振り分け案や行事の要項の資料なんかを作るとき、やる気が折れそうになるたびにマシンに触れる。

 おれの手のひらの上に今、一つの完成したフォルムがある。おれの相棒、シュトラール。
 ミニ四駆の車体は、F1マシンと戦闘機の中間みたいなデザインだ。塗装では十分に隠し切れない、細かな無数の傷。レースに夢中になっていたのは小学生のころまでだけれど、今でもメンテナンスは欠かさない。

 ボディとカバーを外して、ギヤのグリスアップをする。電気系統に触れる金属部分や、駆動の精度に直結するピニオンやシャフトの劣化状態を調べて、傷んでいれば交換する。ローラーやタイヤの掃除もする。ギミックを解体して、ちょっといじって組み直す。

 草レースさえめったにやらなくなったから、交換が必要な傷みなんて、ほとんどない。改造したところで、誰かに見せるあてもない。ただ、マシンに触れたいだけだ。
 躍動する機械のシンプルな命の構造には、おれの夢が詰まっている。エンジニアになりたい、クルマや飛行機を作ってみたい、宇宙に関わる仕事をしたい。高校二年生、十七歳の今という時間は、夢の途中にある一座標だ。

 車体の裏にあるスイッチを入れる。シャァァァッ、と軽快な音を立てて四輪駆動のタイヤが回る。
 目を閉じたら、コースが見える。スタートラインにフロントバンパーをそろえて、出走を待つ静寂。シグナルがともる瞬間の緊張感を、今でも心臓は覚えている。
 レディー、ゴー!
 その瞬間、マシンは一斉に走り出す。歓声に包まれるレース会場。走り抜け、と祈りながら拳を握って、おれは相棒の活躍を見守るんだ。

 目を開けてみる。おれの前にあるのは、生徒会室の会議机と、まだ片付かない資料、過去の議事録とメモの山。
「わかってるよ。現実逃避は、ほどほどにしないとな」
 白地に赤のグラデーションを配したマシンに、おれは苦笑いでつぶやいてみせた。スイッチをオフにして、モーターの回転を止める。

 そのときになって、初めて気が付いた。生徒会室のドアが開いていたこと。ドアのそばに女子が一人、立っていたこと。
 彼女は目を丸くしている。何か言い差したような唇の形があまりにも柔らかくて、おれは息が止まった。ドキリと高鳴る心臓。変だな。小学校時代から人前に立ち慣れているおれは、めったなことじゃ上がったりしないのに。

 沈黙が、一秒、二秒。
 彼女が目をしばたたかせて、少し首をかしげた。

「ごめんなさい。ドア、開いてて。音が聞こえたから、何だろうって。のぞき見するつもりじゃなかったんだけど」

 透き通った、落ち着いた声だ。うっかり聞き惚れてしまう。またドキリと心臓が鳴る。彼女の声はきれいで、どこかなつかしい。もっとしゃべってほしいと思った。
 いや、待てよ。おれは何を考えているんだ。今、そういう場面じゃないだろ。

「お、おれのほうこそ、ごめん。変なところを見せちゃって。カッコ悪いな」
 たぶん、かなり滑稽だっただろう。生徒会長のおれが、はたから見ればおもちゃに過ぎない自動車模型を手に、自分の世界にひたっていた。

 油断していた。だって、最終下校時刻も近付いた今ごろになって、校舎の外れにある生徒会室に足を向ける人がいるとは想定していなかったんだ。
 ばつが悪くて頭を掻いたら、彼女は口元だけで、そっと微笑んだ。

「そのクルマ、走るの? 速そうな、軽そうな音が鳴ってた」
「走るよ。ただ、リモコンで操縦するわけじゃないから、ちゃんとしたコースを走らせる必要があるけどね。こんな狭い部屋の中じゃ、すぐ壁にぶつかって、車体が傷んでしまう」

 そそくさとマシンをケースにしまい込もうとしたら、彼女に待ったを掛けられた。
「見せてもらってもいい?」
「興味ある?」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
 マシンを軽く掲げてみせたら、彼女は生徒会室に入ってきた。

「ありがとう」
 何気なくてありふれた一言をつぶやく声は歌っているみたいにきれいで、きれいなのは声だけじゃなかった。きれいな顔をした子だ。見つめてしまって、慌てて目をそらす。
 おれは手のひらの上にマシンを載せた。せめて表面だけでも、冷静なふりを押し通さなきゃ。
「傷だらけだろ、こいつ。あちこちパーツを取り替えながらだけど、小五のころから使ってるから、もう六年になるのか。小六のときの全国大会も、こいつで出たし」

 おい、おれ、全然冷静じゃないよ。見も知らぬ相手に、しかもミニ四駆の公式レースなんて無縁そうな女子を相手に、何を言っているんだ?
 でも、口数が増えたのは、緊張しているせいとは違う。どっちかというと、緊張感が足りないせいだ。気が緩んでしまった、というか。

 なぜ?
 彼女とは初対面じゃないような、不思議な感じがする。おれのことを何もかも知っている、気の置けない相手みたいだ。
 そんなはずはない。出会った人の顔も名前も、おれはいつも完璧に記憶している。こんなきれいな声と姿の持ち主なら特に、絶対に忘れない。

 彼女が少し体をかがめて、おれの相棒をのぞき込んだ。無造作に背中に流しただけの彼女の髪から、いい匂いがする。その髪に触れてみたくなって、おれの心臓がドキドキと暴れた。

「ほんとだ。この子、実は傷だらけだね。丁寧に色を塗ってあるから、あんまり目立たないけど。大切なものなんだ?」
「ああ、大切だよ。おれにとっては、昔からずっと、すごく大切な相棒で親友で、将来の夢を教えてくれた存在。絶対に手放せない」

 彼女がおれを見上げた。思いがけなく近い。おれはまた息を呑む。笑顔の作り方さえ忘れてしまう。
 なぜ?

「会長さんって、ほんとはそういうしゃべり方するんだね」
「え? しゃべり方?」
「普段は、おれじゃなくて、ぼくって言ってる。素行も口調も仕草も徹底的に礼儀正しくて、こんな王子さまが現実にいるんだって騒がれるくらいなのに」
「そう……いえば、そうだ。何か、ごめん。失礼だよね、たぶん」
「どうして?」
「だって、態度、変えちゃって。なれなれしくて、ごめんね。あ、じゃなくて、あの……」

 舌が回らない。なぜ? 自分が自分じゃないみたいだ。体にコントロールが利かない。
「謝らないで。わたしは気にしない」
「だけど、変な意味で特別扱いみたいな、こういうのって」
 ルール違反をしているようで、あせりが募る。ルールなんて定めたのは、ほかでもないおれなのだけれど。

 なぜ、いきなり、おれの言葉も態度も砕けてしまったんだろう? 猫かぶりのおれが率直な話し方をするのは、弟の前だけのはずだ。
 弟の前だけ? いや、何かが引っ掛かる。ずいぶん前に似たようなことがあった気がする。いつ? どこで? 誰を相手に?

 彼女がマシンのリヤウィングを指差した。
「シュトラールって、この子の名前?」

 銀色でつづった、STRAHL《シュトラール》。ミニ四駆としての商品名じゃなくて、おれが自分のマシンに付けた名前だ。
 マシンに自分だけの名前を付けるレーサーは、小学生のころでも珍しかった。もし付けていたとしても、表立ってマシンの名前を呼ぶなんて、そんな子どもっぽいことは誰もしなかった。おれも、シュトラールという名前について、尋ねられたって明かさなかった。

 昔の習慣で、おれは口ごもった。彼女は頬に小さなえくぼを刻んだ。
「シュトラールは、ドイツ語で、輝きっていう意味だよね。ドイツ語は、響きがカッコいいけど、日本人にとってはつづりが読みにくいから、模型やクルマや機械の公式の名前には、あまりならない。だから、自分だけの名前にしやすいんだよね」

 思わず「えっ」と言うのと、息を呑むのと、同時にやらかそうとしたおれの喉は、間抜けに上ずった声を詰まらせた。おれは咳払いをしてごまかして、つぐんでいた口を開いた。
「名前、付けたりするの? きみも模型とか、好きだったりする?」
「うん」

 まっすぐにおれを見つめて微笑む彼女の目は、透き通りそうに薄い茶色。
 強烈なデジャ・ヴを覚えた。この場面をどこかで経験した気がする。

「もしかして、おれ、前にどこかできみに会った?」
「え?」
 つい訊いてしまった。彼女に小首をかしげられて、おれは猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「ごめん」

 おれは視線をそらした。まるで下手なナンパだ。頬が熱い。何だ? どうしたんだ、おれは? おかしいだろう、こんなの。胸の高鳴りが、まったく落ち着く気配もない。
 クスッと、彼女が笑った。

「デジャ・ヴ、なのかな。わたしも何となく、シュトラールの名前を知ってるような気がして。いつ、どこで会ったんだろ?」
「シュトラールと?」
「うん。それと、会長さんも」

 シュトラールの小さな車体を隔てて、おれの手のひらと彼女の指先が、ごく近いところにある。その気になれば、簡単に触れてしまえる。その距離は、でも、なぜだか限りなく遠い気がして。
 どうしよう。どうすればいいんだろう。
 口を開けば、自分が何を言ってしまうかわからない。けれど、話をしたい。

「おれ、会長じゃなくて、ちゃんと名前あるんだけど」
「そっか。そうだね。知ってる」

 彼女に名前を呼ばれたら、きっと、おれの化けの皮は全部、はがされてしまう。
 でも、それもいいかな。この出会いにはきっと、甘ったるくて珍しくもない名前が付いているはずで、おれはその名前を確かめてみたい。
 彼女のまなざしがくすぐったくて、おれのひどく熱い頬は、自然と笑ってしまった。おれは小さな深呼吸をして、言った。

「きみの名前、教えてもらっていい?」

 その瞬間、なぜだろう、海の匂いを思い出した。遠い島で過ごした二年前の夏が脳裏によみがえった。
 海の色も空の色も深く輝いて、目に染み入るほどに強い。今日は一体、何時間、こうして二つの青色を見つめているだろう?

 朝、本土からフェリーに乗った。昼過ぎに大きな島に着いて、そこで一回り小さなフェリーに乗り替えた。ずっと甲板に立って潮風に吹かれながら、海と空を見ていた。フェリーの大らかなエンジン音が体の芯に響いて心地よかった。

 午後三時。おれは龍ノ里島《たつのさとじま》に到着した。浮き桟橋に降り立つと、海の匂いに混じって、船の排気と機械油と赤錆びの匂いがした。海辺まで迫った山並みからセミの声が降ってくる。波の音。風の唸り。太陽の光。

「遠くまで来たんだな」
 ぽつりとつぶやいてみた。甲板のベンチでグースカ寝ていた弟が、盛大な伸びをして、ピョンと飛び跳ねた。
「すっげぇな! ほんと、離れ小島って感じ。海も空も気持ちいい色してるじゃん!」

「今日はおまえ、船酔いしてないみたいだな」
「へーきへーき! 兄貴こそ、ずっと起きてたんだろ? いきなりぶっ倒れたりすんなよ!」
「しないよ。余計なお世話だ」

 フェリーの大きさに比べて、乗客は圧倒的に少なかった。おれたち以外は、新聞と郵便と食料品と生活雑貨を運んできたおじさんと、大きい島の病院に検診に行っていたおばあさんだけ。
 おじさんが運転する軽トラックは、ついでにおばあさんを助手席に乗せて、浮き桟橋からコンクリートの波止場へと渡っていく。

 一人の男の人が、軽トラックとすれ違いながら、波止場からこっちへ駆けてくる。彼は、おれたちに向かってまっすぐに手を振っている。
「兄貴、あの人かな?」
「たぶんね。あ、こら、指差すな」
「悪ぃ悪ぃ」
「気を付けろよな」

 おれは帽子をかぶってリュックサックを背負い直して、駆けてくる彼のほうへと歩き出した。おれを追い越して飛んでいこうとした弟の首根っこをつかまえる。頭の中では、挨拶のシミュレーション。

 彼は、前もって聞いていたとおり、背が高くて優しげな印象だ。やせ型だけれど、日に焼けているから、貧相な感じはしない。おれが口を開くより先に、彼が話を切り出した。
「きみたちが、剣持兄弟だよね?」

 おれは帽子を取って頭を下げた。
「はい、ぼくは剣持有理人《けんもち・ユリト》です。こっちは弟の……」
「おれは陽太《ハルタ》!」
 ああ、バカ、丁寧語くらい使えよ。おれはハルタを押しのけて、よそ行きの笑顔を作り直した。

「越田昴《こした・スバル》さん、ですね?」
「うん、スバルです」
「突然お邪魔することになって、ご迷惑をおかけします。これから一週間、よろしくお願いします」

「迷惑なんて、全然。こちらこそ、よろしく。ぼくも楽しみにしていたんだよ。田宮《たみや》先輩から、ぼくのことは聞いてる?」
「うかがってます。田宮先生の、大学時代の研究室の後輩なんですよね? 工学部の機械工学科で流体力学の研究をしていたって。その経験を活かして、今は風力発電や海流発電の仕事をなさっているんでしょう?」

 田宮先生は、おれのクラスの担任だ。理科が専門の三十八歳。スバルさんは、田宮先生の二学年下の後輩らしい。でも、額がずいぶん後退している田宮先生に比べて、スバルさんはずっと若々しく見える。カッコいい顔立ちをした人だ。
 スバルさんはクスクスと、楽しそうに笑った。

「ユリトくんは、田宮先輩が言っていたとおりだね。中学三年生とは思えない逸材って。流体力学なんて言葉をサラッと口にするとは恐れ入った」
「え、いや、サイエンスというか物理学というか、そういう世界が好きなだけです。あ、田宮先生も本当は一緒に島に来たかったと言っていました」
「だろうね。先輩はこの島のこと、ずいぶん気に入ってくれていたから」

「スバルさんが担当されている発電用の設備にも興味津々でしたよ。よかったら、ぼくにも設備を見学させてください」
「大歓迎だよ。自分の専門分野に興味を持ってもらえるって、すごく嬉しいことだから」
 ハルタが手を挙げながら割り込んできた。
「おれもおれも! 兄貴と違って難しい話はわかんねえけど、でっかい風車とかさ、回るもんって、すげえ好き!」

「じゃあ、ハルタくんもぜひ、近くで風車を見てよ。初めてなら、けっこう迫力あると思うよ。それにしても、二人とも似てるよね。双子みたいだって言われるだろう?」
「言われるよ。おれは中二で兄貴が中三だけど、よく勘違いされんだ。でも、メチャクチャそっくりってわけじゃねぇだろ? 性格とか特技とか、まったく逆だしな」
「雰囲気は全然違うね。似てるとは思うけど、間違えたりはしないよ」

「だよな! 兄貴はこのとおり口うるさいインテリ系。おれは完璧にスポーツ系で、部活はやってないけど、陸上部と体操部とサッカー部から助っ人に呼ばれんだ」
「へえ、それはすごい。運動神経がいいんだね。学校の外で何かスポーツをやってるの?」
「レーシングカート。サーキットで、一〇〇ccのカート走らせてる。おれ、将来は絶対、プロのレーサーになるんだ」

 運動神経も動体視力も抜群のハルタなら、時速三百キロを超えるF1マシンも乗りこなせるかもしれない。でも、今ここで問題にすべきなのは、こいつの失礼さだ。スバルさんにはちゃんと挨拶しろって、あれほど言っておいたのに。

 ハルタが失礼ですみませんと、おれはスバルさんに謝ろうとした。喉まで出かかった声が止まったのは、いつの間にかスバルさんの隣に立っていた人物のせいだ。
 女子、だ。すごくきれいな子。おれやハルタと同じくらいの年だろうけど、スラリと手足が長くて背が高い。おれもハルタも、少し彼女を見上げる形になる。

「え。この子、誰? なあ、兄貴」
 声変わり途中のハルタのささやきが、微妙に裏返った。誰って訊かれても、おれも知らない。田宮先生は何も言っていなかった。

 彼女が首をかしげた。無造作に背中に流した髪は太陽の光を浴びて、茶色くきらめいている。白いタンクトップとジーンズのショートパンツ。小麦色の素肌がまぶしすぎる。

「わたしは、海里《カイリ》。きみたちが、とうさんのお客?」
「とうさんって、スバルさんのことですよね?」
「そう」

 スバルさんが頬を掻いた。
「娘のカイリだよ。ユリトくんと同じ中学三年生だ。父ひとり、子ひとりの暮らしでね。カイリはこう見えて料理も家事もできるし、この島のことなら何でも知ってる。こっちにいる間、何かあればカイリを頼ってくれていいよ」

 カイリさんは一瞬だけ笑った。薄い茶色に透き通る目が、じっとおれを見つめる。
「よろしく」
 少し低い、澄んだ声。はしゃいで甲高く叫ぶクラスの女子たちとは全然違う。化粧をした上目遣いの制服姿なんて、カイリさんは無縁なんだろうな。そう思うと、頬はほてったままだけれど、いくらか気楽になった。

「よろしくお願いします。お世話になります」
「敬語じゃなくていい。同い年だし」
「え? あ、それはそう、です、けど」
「呼び方も、カイリでいいから。わたしも、ユリト、ハルタって呼ぶ」

 名前を呼ばれた瞬間に、またドキッとした。合わせていられない視線を、うろうろとさまよわせる。
 新たに視界に入ってきたのは、カイリさんの華奢な鎖骨、軽く持ち上がった胸元の布地。スタイルいいな。クラスの女子もこのくらいあるっけ? じゃなくて。
 胸から目をそらしたら、今度は、むき出しの二の腕や脚が気になる。ああもう、目のやり場がない。しかも、いきなり呼び捨てって、おれにはハードルが高すぎる。

 スバルさんが、別に助け舟を出してくれたわけじゃないだろうけれど、ポンと手を叩いて陸のほうを指した。

「さて、ここにいても暑いだけだし、我が家に移動しようか。改めまして、ユリトくん、ハルタくん、龍ノ里島へようこそ。海と空と風と山を、ゆっくり楽しんでいってほしい」
☆.。.:*・゜

 龍ノ里島は、新月三日前の月みたいな、左側が肉付いたクレセント型をしている。海岸線は、ギザギザと入り組んだ断崖絶壁だらけ。船を寄せられるのはクレセントの内側、波止場がある龍ノ原《たつのはら》湾の一帯だけだ。
 龍ノ原は、昔は「龍ノ腹」と書いていたらしい。龍ノ里島の地名は全部、龍の体になぞらえて付けられている。人が住んでいるのは、今は龍ノ原のみだそうだ。

 スバルさんが整備や計測をしている発電用の風車は、島のあちこちに建っている。龍頭《たつがしら》の二基と龍肩峠《たつがたとうげ》の二基は、人が住む龍ノ原の電源だ。龍ノ背山《たつのせやま》のてっぺんの三基は、龍ノ原とは反対側の海岸線にある灯台の電源。
 龍ノ尾崎《たつのおさき》の断崖絶壁の下には、逆巻く潮の流れを利用した海流発電の設備があって、ここに建てられた灯台に電気を供出している。

 というふうに、サイエンス方面の話ばかり、おれは事前に調べていた。ハルタはそうじゃなくて、龍ノ里島の海を撮った写真をネットで拾っては喜んで、荷造りをするときも真っ先に水着と浮袋をカバンに入れていた。

「兄貴のほうが変なんだよ! 夏休みだぜ? 離れ小島だぜ? 小難しいことばっか調べて眉間にしわ寄せんじゃなくてさ、海を楽しまなくてどうすんだよ! まさか宿題持ってくとか言うのか?」
「おまえは持ってかないのかよ? また成績落ちるぞ」
「体育さえパーフェクトなら、勉強の成績なんかどうでもいいっつーの。おれは中学卒業したら、本格的に、レーサーになるための修行に入るんだしな」

「進学は?」
「するもんかよ。バイトしながら、サーキットに入りびたってやるんだ」
「レーサーになるためには、中学レベルの理科は完璧にしとけよ。もちろん、そのほかにも、クルマや空力の基礎くらい勉強しといたほうがいい。それと、英語は世界共通の……」

「兄貴、この写真見ろ! 海、すっげー透き通ってる!」
「おい、ハルタ」
「わかってるって。クルマの仕組みくらい知ってるっての。プラモートのレース、おれだって全国大会出てんだし。おれのマシンのほうが、コースによっちゃ兄貴より速いもんな」
「おれより速い? ふざけるなよ。おまえの無茶なセッティングはコースを選びすぎるだろ。トップスピードだけ速けりゃいいってもんじゃないんだぞ」

「あーぁ、兄貴の言うこと、いちいち年寄りくせえ。それで中三とか、信じらんねぇよ。もうちょっと、はっちゃけてみれば?」
「うるさい。おれはおまえとは違うんだ。勉強だって生徒会の仕事だって、人の期待を裏切るわけにはいかないんだからな」
「だーかーらー、夏休みぐらい、そういうのやめろってんだ。兄貴はまじめすぎるんだよ。またぶっ倒れんぞ?」

 うるさい。余計なお世話だ。おれはおまえにはなれない。
 ハルタは自由だ。元気よく飛び出していって、いつだって晴れやかに輝いて、誰よりも人目を引く。モーターひとつと電池ふたつで走る自動車模型、プラモートのレース会場でも、あっという間に友達を作っていた。

 おれはハルタとは違う。初対面の誰とでもそつなく話せるけど、自信を持って友達と呼べる相手は、ほんの一握り。人に嫌われないように上手に立ち回れるだけで、人に愛されるキャラクターじゃない。

「ま、今年の夏休みは全面的に兄貴に感謝してるけどな。兄貴のおかげで島に行けるんだ。憧れてたんだよな、超絶いなかで過ごす夏休み! サンキュ、兄貴!」

 ハルタは真夏の太陽みたいに明るく笑って、おれの背中をパシンと叩いた。まあな、と返してやりながら、おれはハルタの目を見られなかった。ハルタの笑顔の日差しだけで、おれは炎天下のミミズみたいに干からびて動けなくなりそうだ。

 おれが龍ノ里島に行くことになったのは、当たり前のはずの日々につまずいてしまったから。ちょっと逃げてみろと、おれを送り出してくれた田宮先生の声が、頭にこびり付いている。
 逃げる、か。おれ、逃げ出したいように見えたのかな? ちゃんとやっているつもりだったんだけどな。
☆.。.:*・゜

 カイリさんとスバルさんの家は、龍ノ原の集落を見晴らす山手にある。港からたいした距離じゃないけれどクルマで移動したのは、スバルさんが仕事場からおれたちの出迎えへ直行したからだ。
 スバルさんの職場である発電施設は、島のいろんな場所にある。龍頭から龍ノ尾崎まで、うねうねした道なりに測ると、三十キロくらいあるらしい。しかも山道だ。クルマなしじゃ話にならない。

「ぼくは毎日、風車全基を見回っているんだ。龍ノ里島の山道は、最近ではぼくの専用道路だよ。龍ノ原の人たちは、祭りのときくらいしか山に入らないからね」
 運転しながら、スバルさんはそう言った。おれはあいづちを打った。

「昔は龍ノ原以外にも集落があったんでしょう?」
「うん。龍ノ里島は大きな漁業基地だったんだ。昭和四十年代までは人口が増え続けて、港のそばの龍ノ原だけじゃ収まりきれずにね、島のあちこちに人が住んでいた。海の男のための酒場もたくさんあったって話だよ」

「港町だったってことですよね。そのころはずいぶん活気があったんでしょうね」
「龍ノ原湾は港として優秀な形をしているし、有名なジンクスもあるから漁師たちが集まった。命懸けで海に出る漁師たちはみんな、かなり信心深いんだ。その名残で、龍ノ原の人たちは今でもそのジンクスを信じて、お願いごとをしたりする」

「ジンクスですか?」
 意外にも、ハルタがそれを知っていた。
「ジンクスってか、伝説だろ? 龍ノ神《たつのかみ》が守ってる島だから、ここから船出したら、海で遭難しにくいって。遭難しても、奇跡的に助かったり。だから、昔の龍ノ里島にはデカい漁船が集まってきてたんだろ。おれ、ネットでその話、見付けて読んだ」

 そういえば、何日か前にハルタが騒いでいた気がする。龍ノ里島の伝説がどうのこうのと、まるでゲームみたいな話をしていた。おれは数学の問題集を解きながら、適当に聞き流していた。
 クルマを運転するスバルさんは、バックミラー越しにハルタに微笑んだ。

「龍ノ里島のこと、調べてきてくれたんだね。嬉しいな。龍ノ神の祭りは、今でも細々と続いているよ。山のあちこちに祠があって、島民総出で、定期的に掃除をして回っているしね」
「そういうの、おれ、好きだから。何かカッコいいなーって。それと、カッコいいって言えば、このクルマも! 四駆だよな」

「うん、四輪駆動。普通の二輪駆動よりパワーがあるから、龍ノ里島の山道には向いててね。ハルタくんは、やっぱりクルマが好き?」
「好きだけど、どっちかっつーと、兄貴のほうが詳しいぜ。な、兄貴! 兄貴も四駆のゴツいやつ、すげー好きだろ? このクルマ、色的には兄貴のマシンに近いし、そそられるんじゃねぇの?」

 丁寧語が全然使えない上に言葉足らずで考えなしのハルタの脇腹をつついて黙らせる。うぐっと言って沈んでいったハルタを、バックミラー越しのスバルさんが笑った。おれはごまかし笑いをして、四駆のパワフルなエンジン音に負けないように声を張り上げる。

「すみません、ハルタが失礼な口の利き方をして」
「気にしないよ。それより、ユリトくんのマシンって、どういうこと?」

 プラモートに夢中だったなんていう子どもっぽい話、初対面の人の前でしたくない。だいたい、おれはとっくにレースに出るのをやめている。まあ、話題を撤回しようにも、もう遅いけれど。

「自動車模型の話です。電池二本で動くサイズの自動車模型で、ぼくはパワーと安定性重視、ハルタはスピードと軽さ重視のセッティングにしてます……してました。小学生のころの趣味だったんですよ」
「なるほど、走る自動車模型か。プラモート?」

「ご存じなんですか?」
「ぼくも昔、きみたちと同じ趣味を持ってたよ。男は誰でも通る道なのかな? ちなみに、ぼくはユリトくんと同じく、コーナリングに重きを置くセッティングにしていた」

 スバルさんの答えに、軽く驚いた。中学生なのに意外と子どもっぽいんだね、と笑われるかと思っていた。だって、言ってしまえばおもちゃの話だ。特におれは、年齢の割に大人びていると見られていて、模型云々と口にするようなタイプじゃない。
 ハルタは、話に乗ってくれたスバルさんに尻尾を振る勢いだった。

「同じ趣味って、第一世代のブームかな? 近所の模型屋のおっちゃんが見せてくれたやつ。レギュレーション合わせて、レースしたことあるぜ。昔のやつでも、一緒の条件だと、けっこういい勝負するんだよな」
「レースか。なつかしい響きだね。小遣いをつぎ込んで性能のいい充電式の電池を買って、草レースと携帯型のゲーム機に使い回していたな。充電池は公式レースじゃ禁止されてたっけ」

「それ、昔の話。今は公式で認定された充電式のやつがあって、みんなそれ使ってる」
「へえ、そうなんだ。ゲーム機に乾電池を使う話も、古いよね」

「そのゲーム機も、模型屋に飾ってあるから知ってる。灰色で、すっげー分厚くて、画面がちっちゃいやつ。ボタンの数も少ないよな」
「そう、それだ。友達との付き合いで、ゲームもそれなりにやってたけど、育成ゲームが流行ったときに付いていけなくなって、模型ひとすじになったな。それも結局、進学だ何だで、やらなくなっちゃったけど」

 ハルタに話して聞かせるスバルさんを、おれは少し離れたところから見ている。
 スバルさんって、変わった大人だ。だって、楽しそうにおもちゃの話をする大人なんて変だろう。模型屋のおじさんや田宮先生くらいのものだと思っていた。二人とも変わり者を自称している。どうしてそういうのが恥ずかしくないんだろう?

 おれは何となく、助手席のカイリさんをうかがった。じっと黙っている。女子はプラモートの話なんか興味ないのかな。それとも、おれやハルタがいるから口を開かないのか。まあ、おれとしては、静かな人のほうがいい。お互い干渉しないで済む。