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クリスマスカードは、町の大きな文房具店に売っている。バスで出掛けてカードを買って、ついでに本屋を見て、それだけサッと帰る。わたしは初め、そういうつもりだった。ちょっと遅くなることを親に言っておけば、学校帰りに行くこともできる。
ところが、補習や模試のない日曜日にわざわざ行くことになってしまった。映画とカラオケ付きで、晩ごはんまでしっかりコース。
ひとみがそれを言い出したんだ。わたしがうっかりひとみに話してしまったから。そうしたら、たまたま聞いていた尾崎も乗ってきて、ひとみは機嫌よくOKを出した。尾崎は、ついでにということで、上田にまで声を掛けた。
正直言って、わたしは腰が引けてしまった。ひとみだけならまだいい。どうして尾崎が? しかも上田が?
わたしの私服は、流行なんて無関係のものばかり。無難で地味で、男女兼用だからブカブカしたデザインだ。尾崎や上田がどんな服を着てくるのかわからないけれど、気後れした。だからといって、そのお出掛けのためにわざわざ新しい服を買おうなんていう気もない。
流行のものを調べることや知ること自体に、わたしは抵抗があった。まわりと同じになりたくなかった。まわりっていうのは、智絵を追い詰めて学校という世界から追い出した人たちだ。わたしはそこに同化したくない。
ファッションも、メイクも、音楽も、テレビ番組も、芸能人のゴシップも、わたしは知らない。知りたくなかった。共通の話題なんてもので他人とつながりたくなかった。
それでも、お出掛けを断る口実を見つけられずに、わたしは日曜日、待ち合わせ場所であるバス停に行った。
いちばんに来ていたのは上田だ。ネルシャツにジーンズにスニーカーで、わたしと大差ない格好だった。
「おはよう。文系特進クラスの女子三人の中にぼくが加わって、お邪魔じゃなかったのかな?」
「今さらでしょ。わたしもどうしてこういう組み合わせになったのか、よくわかってない」
「発起人は蒼さんだって聞いたけど? だから僕も来たんだけどな」
「わたしは一人で行くつもりだった。ひとみと尾崎が計画を立てたんだよ」
上田はちょっと迷ったような顔して、口ごもりながら言った。
「ひとみさんってさ、すごく優秀だって噂は聞いてるんだけど、ちょっと変わってるよね。今日のこと、ダブルデートだって。デートって、どういう組み合わせ? どういう意図なんだろう?」
ひとみが無邪気な顔をして、ほとんどしゃべったこともない上田に挨拶をしに行く様子は、わたしにも想像できた。
「ひとみのデートの相手はわたしのことだよ。前、二人で、完璧にデートっぽいコースで出掛けたことがある」
「それって本当に……本当の意味で、そういう気持ちがあってっていうこと?」
「わたしは違う。ひとみは、ちょっと、わたしにもわからない。ひとみがほしいのが何なのか、本当に」
話の途中で、ひらひらワンピースのひとみがやって来た。わたしたち三人でバスに乗って、いくつか先のバス停から尾崎も乗ってきた。尾崎はシンプルなニットの上着とロングスカートで、ニットが胸の大きさを強調していた。上田がチラチラそっちを見るのがわかった。
まずクリスマスカードを買った。 映画は『ロード・オブ・ザ・リング』で、すごくおもしろかった。ランチ、カラオケ、ウィンドウショッピング。一日フルコースで外出していることにわたしはだんだん疲れてきたけれど、ひとみは、はしゃいでいた。
上田が画材を見たいと言って、尾崎がついて行くと言った。わたしとひとみは待っていることになった。ショッピングセンターのオープンカフェでコーヒーを買って、わたしはひとみと向かい合って座った。
わたしが薄々感じていたことを、ひとみが言葉にした。
「尾崎ちゃんは、上田くんのこと好きみたいだね」
「あの人は中学のころから、けっこうモテるから」
「上田くんのこと? そっか、上田くんも琴野中出身なんだったね。今日のお出掛け、あたしはほんとは蒼ちゃんと二人のほうがよかったんだけど、でも、四人でも楽しいね」
楽しいんだろうか。一人でもできることを、ただ単に四人グループでやっているだけ。わたしはそう感じてしまうのだけれど。
だって、楽しいという感情をわたしが思い出した。ミネソタで過ごした夏、理屈をこねる必要もなく、自然体でいるだけでわたしは笑えた。顔が痛くなるほど笑っていたんだ。
今日は全然そんなふうじゃない。わたしはプリクラを撮るときに「笑え」と言われたけれども、その一度でさえ頬がこわばって変な顔をしていた。
ひとみは身を乗り出して声をひそめた。
「あたしね、最近ずっと思ってることがあって。普通じゃなくていいの。あたしは平田先生とデートしたい。蒼ちゃんともデートしたい」
「え?」
「あたしはどっちもほしくて、どっちも普通じゃないでしょ。平田先生は四十歳を超えてて、結婚して子どももいるのに、あたしはそういうとこが好きで。蒼ちゃんが男の子みたいな格好してくれて、あたしの隣を歩いてくれたらすごく嬉しくて」
その言葉で、わたしは完璧に理解した。ひとみに対していだいていた、何とも言えないモヤモヤの正体。
わたしに対して直接向けられる感情じゃなかったんだ。だから、イライラじゃなくて、モヤモヤした。
違うでしょ。わたしじゃないんでしょ。ひとみの本命は、いちばんほしいのは、わたしじゃなくて平田先生。
でも、平田先生は絶対に手に入らない。わたしはその代わりだ。普通じゃない恋をするための代役。手近にいて便利だし、本物の男子じゃなくて肉体的に安全だから、わたしが選ばれた。
そんなふうに言ってしまえばよかったのか。本音の言葉を叩き付けて、ひとみを拒めばよかったのか。
わたしは言えなかった。ひとみがわたしの手を握るのも拒めなかった。
「蒼ちゃんの手、大きいよね。指も長い。すごくきれいな手。王子さま的な手だよね。好き」
ひとみにとってちょうどいい、わたしは人形なんだろう。
普通じゃないことがカッコいいみたいな、壊れがちなほうがカッコいいみたいな。そういうのに憧れる年ごろ。そういうのが流行っている年代。
だから、ひとみは男子からの告白を断って、わたしとデートしたがる。わたしとデートしながら、本命は平田先生なんだとほのめかす。
メチャクチャだ。もちろんわたしだってもっとメチャクチャだけれど、でもひとみは、他人を巻き込んでこんなこと。しかも、ひとみは無邪気な顔して、巻き込んでいるなんてみじんも思っていない様子で。
わたしが恋愛を否定する主義だから、まだよかったよね。好きな相手がいる人を王子さま役に選んでしまったら、かなりひどいことになっていたはずだよ。
スーッと冷めた気持ちになったのは、自分の心を守るためだったかもしれない。辛うじていちばん身近と言えるはずのひとみが、精神的にはすごく遠いことがよくわかった。そこに寂しさを感じないためには、心を凍らせておく必要があった。
ねえ、ケリー。わたしのダイヤモンド。わたしには、わたしの恋人を名乗りたがる女の子がいるよ。わたしは彼女に恋をしない。でも、それを言っちゃってもいいのかな。誰にもこんなこと相談できない。頭の中に住んでいるダイヤモンド、きみにしか相談できない。
やがて、上田と尾崎が合流した。尾崎はやっぱり普段よりも、女としての自分を強調しているように見えた。上田はけっこう冷静で、むしろ冷淡だった。
夕食のファミレスで、上田とわたしだけになるタイミングがあった。上田はこっそり言った。
「誰かと一緒に買い物に出たことって、中学時代に菅野とちょっと遊んだことがあるくらいなんだけど」
久しぶりに菅野という名前を聞いた。小柄な野球部の、ひどく無邪気なやつ。男子校に行った。
ちょっと言葉を切った上田は、ため息交じりに続きを言った。
「さすがにやっぱり、女子のペースに合わせるのは疲れるね。悪口のつもりじゃないけど、ずっと誰かと一緒に行動するっていうのは、ぼくは慣れてないから、けっこうきつい」
「尾崎はきみといたいんじゃない?」
上田はビックリしたように視線を上げた。
「蒼さんにそんなこと言われるなんて思わなかった。そういうところ、見てるんだ? いや、見てるよね。文芸部誌のホームステイのラブストーリーも、すごいリアルだったし。蒼さんの実話なんじゃないかって思うくらい」
「それは違う。わたし自身は、恋には興味ない。まわりのことは、ちょっとは見えるけど」
「見える? 本当に? 本当にちゃんと見てる?」
「本当は見たくない。まわりのことなんて。学校という世界は、やっぱり嫌いだから。でも、成績を上げるために便利だから通ってやる。そういうつもりでいるの。わたしは誰とも馴れ合わない」
上田は小さく笑った。
「ハッキリ言葉で聞いちゃうと、蒼さんはそういうタイプだってわかっていても、やっぱり寂しいな」
「寂しい?」
「ぼくの勝手な感情だけどね。一匹狼で、どこまで行くつもり? 高校を卒業するまで? それとも一生?」
「卒業よりも一生のほうが長いのかな。わたしにはそれもわからない。いつまで生きていられるのか、って。生きていたいわけでもないし」
「そろそろやめて。本当に、寂しいっていうか、いろんな感情が引っ張り出されてあふれてしまいそうになるから、もう言わないでよ。でもね、今日は疲れたけど、学校がないのに蒼さんに会えたのは、ぼくにとっては……」
上田はそこまでしか言わなかった。言葉の続きがわかるような気もしたけれど、わたしは考えたくなかった。
いびつなダブルデートの終わりには、バスの中でひとみがわたしに寄り掛かって眠った。わたしはその体温の柔らかさにおびえながら、ぐちゃぐちゃする感情を片っ端から箱に詰めて凍らせた。
みんな恋をしている。わたしは恋を否定している。だって、意味がわからないから。
恋よりもよほど強い感情が、わたしにはある。わたしはわたしが憎い。どうしてわたしを殺してしまわないんだろうと、ことあるごとに思ってしまうほど、わたしはわたしが憎い。
自分への憎しみで埋まった胸に、ほかの要素が入ってくる隙間はほんの少ししかなくて、そこにはミネソタでの思い出が入っている。恋は邪魔で、いらない。いらないものを押し付ける人も、消えてしまえばいい。
ケリーとブレットにクリスマスカードを送った。本音をつづった近況なんて、同封できなかった。
クリスマスには模試があった。遊ぶ余裕のないことを嘆いてみせる人も多かったけれど、わたしはラッキーだと思った。恋人のイベントなんて、どうだっていい。
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どういう神経なのかわからないけれど、公開告白をする人がいる。そういうテレビ番組が流行っているせいもあるかもしれない。
雅樹のいる理系特進クラスと合同の体育の後だった。二年生の教室から、雅樹のことを「先輩」と呼ぶ声が聞こえて、そこにいる全員が校舎を見上げた。
「先輩、好きでーす!」
まわりが盛り上がるよりも早く、雅樹は勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
それで、おしまい。二年生の子は顔を覆いながら教室に引っ込んで、雅樹は仏頂面で何も言わなかった。
その日の放課後に雅樹と会った。偶然というより、たぶん、会う可能性の高い廊下をお互い選んで通った結果だと思う。雅樹は皮肉っぽく笑っていた。
「ああいうのってさ、言われたほうがむしろ晒し者だよな。女の敵だって、あちこちからチクチク言われて、居心地悪いのなんのって」
「文化祭のときは、あと半年しかこっちにいない先輩だから断ったんでしょ。後輩だったら、もうちょっと長く一緒にいられるのに」
「だから、しゃべったことない相手と付き合えって?」
「知り合いじゃなかったんだ?」
「全然知らない。それなのにいきなりあれって、テレビか漫画の影響か? ああいうわけわからないのに付き合えるほど、おれは暇じゃねえよ。勉強あるしさ。蒼、志望校、決めたんだって?」
「響告大学。担任の鹿島先生から勧められたし、同じところを狙ってるやつがいて、二人とも合格できたらなって話になった」
竜也のことを思い出しながら、わたしは言った。つい二日前に竜也から手紙が届いたところだった。
雅樹はおもしろがるような表情で小首をかしげた。
「同じところを狙ってるって、誰のことだろうね? おれも響告大学志望なんだけど」
「知ってる」
「ついでに言えば、ひとみの第二志望も響告大だろ」
「あの子は、第一志望に受かってくれたらいい」
「別々の大学になっていいわけ? 最近、ひとみとずいぶん仲がいいみたいだけど」
雅樹の「仲がいい」は含みのある言い方だった。ひとみが望んだとおり、周囲にもちゃんと、普通でない恋のように見えてしまっているんだ。
「ひとみのこと、今、すごく重い。もう、いろいろ意味がわからないよ。全部リセットしたい。文系では響告大を狙ってるのはわたしだけだから、ここで受かって、わたしのことを誰も知らない世界に行ってしまいたい。ひとみはいなくていい」
するすると口から出てしまう言葉に、わたしは自分で驚いた。どうしてこんなに無防備に白状しているんだろう? 雅樹が相手だから、気楽?
雅樹は拍子抜けした様子で、パチパチと、まつげの目立つまばたきをした。
「そんなもん? 女子の友達関係って、やっぱよくわからないな」
女子、とひとくくりにされたことに、わたしは強烈な違和感を覚えた。わたしは普通の女子高生の群れの中に溶けてしまいたくなんかない。
「ひとみは浮かれてる。それで成績が維持できてるから凄まじいけど、わたしは同じペースではいられない。死ぬ気で頑張らないと、響告大は遠い」
「判定は?」
「全然。EとかDとか。偏差値で言ったら日本トップの二校だけ、桁が違うよね。わたし、ほかでは確実に合格ラインが出せるのに」
「おれもけっこう、判定にはばらつきがあるよ。でもさ、根拠のないことを言うのは好きじゃないけど、蒼はやれる気がする。鹿島先生も口が悪い割に、蒼のことは誉めるよな」
わたしはかぶりを振った。周囲が思うほどわたしは頭がよくないし、できるように見えるとしても、見栄を張っているだけだ。でも、尻尾は出したくない。口はつぐんでおく。
「今日、部活?」
「うん。走ってたら、頭を空っぽにできる。競技の成績は全然、伸びなくなってんだ。限界ってやつ? でもまあそれでいいやって思っちゃってて、ただ頭を空っぽにする時間がほしいから、部活行って走ってる。おれの才能ってそんなもんさ」
勉強ができて、目立つ顔立ちをしていて、足も速い。何でも持っているような雅樹でも、実はあきらめている。上手に力を抜いている、ともいえるかもしれないけれど。
「冬休みの数学の課題、わたし、半分はそっちのクラスとも同じのをやることになってる。わたしにとってはかなりハードル高いから、ひととおり自分でやって、わからないのがあったら、ノート見せて」
「新鮮だな。蒼が普通のこと言ってくれた」
「普通って」
「おれら、理系と文系で別れてってよかったよな。もし同じ学部をねらうんだったら、一点の差とかで蹴落とさなきゃいけない相手同士だったわけだろ。しんどいよな、あれ。ライバルの顔が見えてたら、なおさらしんどい」
「イヤだよね。最近、点数とか順位とか評価とか偏差値とか、数字が付いて回ってばっかりで、追い詰められていく感じがする。数字が本当に嫌いになっていくのが自分でわかる」
「センター試験まであと一年ちょい、それから一ヶ月ちょっとで本場の入試だろ。それまでに足掻けるだけ足掻いて、どうにかやるしかない。蒼との腐れ縁が続けばいいな」
素直な口調で語った雅樹は、今日はずいぶん疲れているように見えた。
お互いベタベタしない関係だから、ひとみと話すよりも気楽に感じられる。そう思っていたら、わたしの心を読んだように雅樹が言った。
「おれにとっての蒼って、いちばん安全な相手なのかもしれない。恋とかわかんないって正直に言えるし。点数を公表しても驚かなくて、ましてや崇め奉ったり? そういうバカげたことはやらないし。もちろん、おれも蒼の点数にビビらねぇし」
「わたしは点数、普段はほかの誰にも言ってないよ。面倒くさい」
「おれも最初からそういう主義を表明しとけばよかった。テストが返ってくるたびに、すっげぇ厄介だよ」
雅樹は笑いながらため息をついて、じゃあ、と手を挙げて部活に向かっていった。
わたしが高三に上がる時、ちょっと大変な事が起こってしまった。両親の転勤が決まったんだ。行き先は、木場山のすぐ近く。もしもわたしが両親に付いていくとしたら、転校は避けられない。
両親は、特に母は、心配したり悩んだりする様子だった。わたしは迷うことなく決めた。
「転校はしない。下宿して、このまま卒業まで日山高校に通う」
親と離れて暮らすことについて、寂しいとはまったく思わなかった。むしろ、解放される、と気が楽になった。一人暮らしではないにせよ、親に気を遣わなくてよくなる。学校に行けなかった中学のころから、わたしはずっと親との同居がきつかったんだ。
引っ越しの荷物をまとめるので、三月は慌ただしかった。わたしの下宿先を提供してくれた人は、祖母の妹という微妙に遠い親戚だった。それまでに何度か会ったことがあった。
大叔母は、下宿生がいるときにお世話を引き受けたり引き受けなかったり、けっこう自由にやってきた人だ。旦那さんは若くで亡くなって、ちょうど下宿生のいない今は一人暮らしだった。
「あんたがいてもいなくても、あたしゃ好きにやるからね。ごはんは出すけど、顔を合わせない日もあるかもしれないし、洗濯も掃除もあんたがやんなさいね」
あいさつに行ったとき、大叔母からそう言われた。この人は本当に日本人なのかな、というファッションと雰囲気の人だった。
わたしが大叔母の家に引っ越せるのは四月一日。親と住んでいたもとの家を引き払ってから新しいところに移るまで、数日間、わたしは家がなかった。ひとまず両親の新しい家に行って、そして、ふと思い立って旅に出た。
旅といっても大した遠出ではなくて、木場山の中で最も山の深い地区に一泊二日で行ってみただけだ。宿泊先は小さな民宿。
これが素晴らしい体験になった。
わたしは歴史に興味がある。ファンタジー小説の執筆には歴史の勉強が不可欠だ。架空の世界を自分独自に組み立てるとき、「現実世界を構成する要素」というピースをたくさん持ってればいるほど強くて、創る世界に奥行きとリアリティが出せる。
興味があることだから、響告大学の受験のために世界史と日本史の両方が必要なのも、どうにかこなせている。本番の試験で出される問題は「何々について説明せよ」の一言で、解答欄はとても広い。そこをしっかり埋められるだけの知識を暗記していなければならない。
わたしが暗記するこの知識、教科書に書かれたこの知識は、一体どうやって集成されたんだろう?
ぼんやりといだいていた疑問の答えを、わたしは山奥の旅で見付けた。わたしが自分で歴史的知識の収集をやってみたからだ。
その山奥はド田舎だけれど、日本史の研究者の間では有名らしい。古代から続く特殊な信仰が残る場所だからだ。万物に神が宿るという日本古来の信仰は、明治時代、廃仏毀釈の流れの中で何かと歪められ、破壊されてしまった。でも、この山奥には今だ根づいている。
わたしも、うすぼんやりと、そんな感じのことを知ってはいた。小学校の社会科で自分が住む町について調べ学習をしたときに、よくわからないなりに神さまについて模造紙にまとめた記憶がある。
小六と中学高校で繰り返し日本の歴史を勉強して、それなりに知識が身に付いた。その上で再び、あの調べ学習で出会った神さまの痕跡をたどった。
神社や資料館で説明を読んでいると、きまって管理人が出てきて、木場山特有のフレンドリーさで、より詳しい説明を始める。そうやって聞いた生の声、歴史の生き証人による情報が、わたしの知的好奇心を強く強く刺激した。
古い信仰を今に伝える考古遺物。それが出てきた当時の様子をその目で見た人のリアルな証言。祭りの祝詞をすべて覚えている人。祝詞に込められた意味と、豊作や飢饉や迫害の歴史。
教科書に記すには、わたしが知ったことはあまりにも細かい情報だったと思う。こういう細かい情報をできるだけたくさん集めて、全体像を形作っていって、そうやって組み立てたものでようやく教科書を作れるんだと思う。
わたしは暗記が得意だから、歴史系の勉強に苦痛を覚えたことはない。それにしても、ただの暗記と歴史研究はまったく別物なのだと、ワクワクする気持ちとともにその事実を知った。
大学でやりたいことって、これだ。いや、もしも大学生としてちょっとでも生きていられるならば、の話だけれど。
でも、少なくとも進路希望調査で書く内容ができた。まだ教科書になっていない情報の収集、教科書を形作るための歴史研究を、わたしは自分でやってみたい。
楽しい、と感じだ。ミネソタで竜也やケリーやブレットたちと笑い合ったのとは違う類の、楽しいという気持ちが、わたしの胸に起こった。知ることは楽しい。学ぶことは楽しい。勉強でさんざん疲れているはずなのに、わたしは確かにそう感じた。
短い春休みは、そして終わった。わたしは下宿先に引っ越した。それからすぐに竜也からの手紙が、前の住所から下宿へと転送されてきた。わたしは、住所が変わったことと木場山で歴史を学んできたことを、竜也への返事として書いた。
新学期が始まった。学校帰りは相変わらず歩く。英語で、頭の中にいるケリーたちに語りかけながら。
文芸部誌の春号は、新入生への配布分を含めて、ずいぶんたくさん印刷された。わたしは書いたファンタジーは、夜明けの出発の物語。どこか遠くに行ってしまいたいという気持ちを込めて、やけっぱちなところはあるにしても明るいトーンの物語に仕上げた。
尾崎と上田の関係は相変わらずで、恋に恋するひとみも相変わらずだった。雅樹がまた誰かをふったという噂を聞くのも、相変わらずだった。
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文系特進クラスは基本的に持ち上がりだけれど、何人かの入れ替えがあった。理系から入ってくる人もいたし、逆に理系のクラスに行った人もいた。担任は鹿島先生のままだった。
新学期が始まってすぐの健康診断。身体測定が好きな人なんていないと思うけれど、わたしはことさらイヤな気分だった。そして、結果は、想像以上にショックなものだった。
身長が百六十五センチに対して、体重は六十八キロ。
こんなに太っているなんて、自分で思っていなかった。顔にあまり肉がつかない体質らしくて、測定に当たった養護の先生も体重計の数値を二度見した。それくらい、自分でもまわりとしても、ここまで重いだなんて、予想外の結果だった。
ショックだったし、恥ずかしかった。こんな太った姿で平然としていたなんて。もともと決してやせ型でないことわかっていた。それにしたって、限度があるだろう。
わたしは太っている。わたしは醜い。本気でそう思った。やせなければ。食べてはいけない。このままでは、わたしは、自分で自分の存在が許せない。
食べてきたばかりの朝ごはんは、体のどのあたりにあるんだろう? 重たくて汚いものが体の中にあるかのように、急に感じられた。その日の昼はまったく空腹感がなかった。弁当も半分しか食べなかった。
だって、これだけ余分なものが体についているのだから、食べる必要なんかないでしょう。わたしは自分自身に、そう皮肉をぶつけた。
下宿先では、適当な量のお米とおかずが用意してあって、適当に自分でよそって食べる。大叔母と顔を合わせてのテーブルはめったにない。それがわたしにとって好都合だった。
ダイエットの知識はなかった。揚げ物や肉は太るとか炭水化物は太るとか、正確ではない直感的な判断で、わたしは好き嫌いを始めた。煮物やサラダ、スープ類だけを食べる。もとからそんなに好きではない甘いものは、一切食べなくなった。
大叔母に頼んで、弁当からお米を抜いてもらった。量も少なくしてもらった。
「本当にこれでいいの?」
半信半疑の大叔母に、わたしは説明した。
「昼休みも課題があって食べている時間がないんです」
とっさに口を突いて出たその言葉は、完全な嘘ではなかった。わたしは昼休みも勉強に当てていた。
響告大学を受験するためには、ほかの国立大を受ける人より難易度が高いだけでなく、勉強すべき科目の数が多い。試験の内容は選択制の問題がなく、すべてが記述式。しかも、問題文の分量も多ければ記述欄も広くて、回答の文章は十分に長くなければならない。
「倒れるまでやらないことよ。あたしも極端なタチだから、あんたのこと言えないけどね」
「平気です。ちょっとくらい無茶しても、全然ぴんぴんしてますから、わたし」
大叔母の前では、ごまかし笑いの仮面が定番になった。ああ、このニキビだらけの太った顔、どうにかしたい。
やせなければ。勉強しなければ。
学校帰り、歩いて下宿まで行けば遅くなる。暗くなってしまうのを大叔母は意外にも心配していたみたいだ。一度、学校まで迎えに行こうかと尋ねられた。
わたしは断った。明るい道を選んでるから大丈夫だと。本音は、頭の中で英語を転がす時間がほしかったのと、やせるために歩きたかったからだ。
どうやったらやせるんだろう? 今ならスマホでサクッと検索して、多すぎるほどの情報が簡単に手に入る。
わたしはそのころ、親との連絡用にケータイを持ってはいたけれど、それは電話とメールをするためのものに過ぎなかった。ケータイでネットができるようになるのは、もうちょっと後のことだ。
家庭科の教科書で得た知識が、食べ物や栄養のことに関する、わたしの持つ情報のすべてだった。ダイエットの情報は乏しかった。
揚げ物を食べない。肉を食べない。お米を食べない。パンを食べない。麺類を食べない。
下宿の風呂場にある体重計に、朝と夕方と夜と、大叔母が眠った後の真夜中と、一日に何度も乗った。食べる量を減らしただけで、体重は素直に落ち始めた。最初の一ヶ月で三キロ近く。体重計の数字が減るのが、わたしの楽しみの一つになった。
食べること自体を忘れ去ってしまえばいいんだ、とも思った。そうすれば、やせたいという目標は達成できるし、余計な事が消えたぶん勉強もはかどるはずだ。
食べたくない。食べ物なんかいらない。コーヒーだけあれば十分。わたしは自分に暗示をかけた。野菜とコーヒー。安心して口に入れていいのは、野菜とコーヒーだけ。
大きな間違いだった。このときちゃんとした知識があれば、わたしは摂食障害に陥らずに済んだはずだ。
先に結果を書いておきたい。
揚げ物をはじめ、油のあるものを一切取らなかったから、肌からツヤが消えた。乾燥しがちな敏感肌は、ますますニキビの治りにくいコンディションになった。また、油不足では、わたしはさほどではなかったけれど、腸内がかさついてひどい便秘になる人も多いらしい。
肉や魚や乳製品を嫌って、タンパク質が不足した。つねに貧血気味のような、何ともいえない具合の悪さがつきまとうようになった。筋肉の量が減って、体がひどく冷えるようになった。
炭水化物という、生きるのに必要なエネルギー源を取らなかった。それでまともに生きられるはずがなかった。いくつもの心身の不調、生理不順、イライラや焦燥感。わたしはずっと飢餓状態に近くて、まともではなかった。
高校三年の春に始まった極端な好き嫌いから始まった、体のトラブル。そこから回復するまでに時間がかかった。ザックリ言って十年近く。普通、いちばんキラキラしているはずの「若い女性」の期間、わたしは三十代の今よりもずっと不健康だった。きれいじゃなかった。
食べられるようになって、体力がついたから運動ができるようになって、運動して自分の体のバランスがわかるようになった。それで初めて、あのころのわたしがどれほどひどい状態だったかがわかった。
それとも、あのころのわたしは生きることを否定して、あえて不健康でありたかったんだろうか。直感的に、そうあることを選んだんだろうか。
時たま、本当に時たま、わたしは智絵を思い出した。わたしは受験のために忙しくしている。智絵はどんな進路を選ぶんだろう。美術学校に行きたいと、ずっと前は言っていた。不登校になる前は。あの夢はもう、消えてなくなってしまったんだろうか。
智絵に会いに行けなくなった自分が不甲斐なくて、押しつぶされそうになるから、わたしは勉強のことばかり考える。チラッとミネソタのことを考えて現実逃避をする。
進路指導の学年集会がしょっちゅう開かれるようになった。その時間があれば勉強させてほしいのに、田舎の進学校は軍国主義だ。みんなで一致団結して士気を高めよう、なんて。
わたしは進路指導の先生の話なんてほとんど聞かず、ポケットサイズの参考書を見ていることが多かった。一言だけ、強烈に記憶に残っている。
「この一年間は、人格が変わるほど勉強しなさい!」
人格、と来たか。やってやろうか。わたしはもともとメチャクチャで壊れがちだけど、こんな嫌いな人格なんて、いっそのこと完全にぶっ壊してみようか。
大学に合格したいという、具体的でポジティブな目標ではなくて。わたしは、限界まで自分をいじめてやろうと決めた。それだけだ。
テスト一つごとに成績は上がった。周囲はそれを喜んだけれど、わたしは楽しいとも嬉しいとも一度も感じなかった。
やせなきゃ。追い込まなきゃ。そんな毎日だった。
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やせたね、と言われることが嬉しかった。一学期が終わるころには、そう言われることが増えていた。
でも、嬉しかったけれど、わたしはニコリともせずに仏頂面のままだった。だって、その嬉しさも中途半端なものだ。
四月に出た六十八キロという数字に比べて軽くなっただけ。百六十五センチで、ようやく六十キロを切った。それくらいだったら、少しもやせてなんかいない。わたしはきれいじゃない。
父は仕事が忙しいらしい。引っ越してから夏までの間に、顔を合わせたのは一度だけだ。母は比較的よく琴野町に来て、わたしとひとみと雅樹を外食に連れていった。わたしはそれが苦痛で、毎度のように仮病を使った。具合が悪いから行かないとか、食べたくないとか。
顔を合わせるたびにわたしがやせていることについて、母が大叔母に訴えるのを、たまたま聞いた。いつもひょうひょうとしている大叔母が、泣き出しそうな声で答えていた。
「あの子、食べてくれないの。どんな料理にしても、手を付けやしないんだから。どうすりゃいいのか、こっちが訊きたいわよ」
どこか遠い場所で心が痛んだ気がした。食事を残すことにも好き嫌いをすることにも、それによって大人たちを傷付けることにも、わたしは慣れ切って、感情が麻痺していた。
夏服は袖が短い。撫で肩気味で、二の腕がプヨプヨして太いわたしは、冬服のときよりも明らかに太って見えた。
やせたい。
落ちてくれない二の腕の肉をつかんでねじって引っ張って、噛み付いて歯型を付けた。白い皮膚の下に血の色が散って、真っ赤なアザができた。
一学期の終わりまであと数日となったある日の休み時間、ひとみに後ろから抱き付かれた。夏服越しの柔らかさと体温にゾッとした。
「蒼ちゃーん、たまにはかまってよ。ほんと、やせたよね」
「別に」
「最近、お出掛け、行けてないね。つまんない」
「わたしはそういう余裕ない。暑いから離れて」
ひとみは、わたしの手元をのぞき込んだ。
「夏休みの課題、もうやってるの? 勉強合宿の最終日までに仕上げればいいのに」
「わたし、合宿は行かないから」
「えーっ、今年も?」
受験生の勉強合宿は七泊八日。避暑地として有名な高原の研修施設を利用して、朝から晩まで、一日十三時間の缶詰の勉強をやらされる。
大部屋に六人から七人。学校から運んでいった机をそれぞれ壁に向けて、ひたすら一人で勉強、私語厳禁。三度の食事とおやつ、朝の散歩、夕方の体操と入浴、先生方が待機する質問部屋に行くことのほかは、トイレしか自由がない。
何週間か前、進路指導の学年集会で今年も勉強合宿が開催されると正式に公表されたとき、集会の後に鹿島先生がわたしは職員室に呼んだ。
「今年、どうする?」
「行きません」
「よし、逃げろ。ただし、条件は去年と同じだ。合宿が始まるよりも早く、課題をすべて終わらせて提出すること。受験生の今年は、課題の量が去年の比ではないぞ」
「わかってます」
「まあ、そのあたりは心配していない。私も、できることなら逃げたい」
「でしょうね」
「自分が受験生のときは、もっと強制力が強くてな。合宿開始よりずっと早く課題を提出したのに、追加の課題を出されて連行された」
「行ったんですか」
「大量の本を持ち込んで、さっさと課題を終わらせて、あとは好き勝手にした。悪友たちと共謀して爆竹も持ち込んで、大音量で騒ぎを起こしてやった。が、私は成績がよかったからな。悪友たちはみんなつかまって吊るし上げられたが、私は最後まで疑われもしなかった」
とんでもないことを平然と言ってのけた鹿島先生は、どうリアクションしていいかわからないわたしの前で、クスクスと楽しそうに笑った。普段はニヤっと皮肉っぽい笑みを浮かべるだけの人だから、笑い声は珍しかった。
そういうわけで、わたしは合宿に行かないために、休み時間も必死で課題に取り組んでいた。ひとみには理解できなかったみたいだ。
「勉強時間が長くて体がきついのは確かだけど、合宿自体は楽しいと思うよ。自分ひとりでは一日十三時間も机に向かい続けるって大変なのに、みんながそこにいると思ったら、なぜかできるもん」
「でも、わたしにはそれは合わない」
「残念だよー。泊まるところ、お風呂は温泉なんだよ。蒼ちゃんと温泉入りたかった。あと、ご飯もおいしいらしいのに」
それが苦痛なんだ。わたしにとっては。ひたすら縛られるタイムスケジュールもイヤだけれど、それと同じくらい、強制的に出される食事がイヤだ。人前で肌をさらさなければならない入浴時間がイヤだ。
下宿先の風呂場にある鏡を破壊してしまいたいほど、白くぶよぶよした自分のシルエットが嫌いだった。せめてもの救いは、わたしは目が悪くて、メガネなしではほとんど何も見えないことだ。そこに鏡があって白いぶよぶよが映っているという、何となくの像しかわからない。
「とにかく、わたしは行かないから」
このところ完全に、わたしは偏屈者としてまわりから見られるようになっている。流行にも化粧にも恋バナにも興味を示さない変わり者だと。
本当はときどき、まわりの声を聞いている。ダイエットの話題。やせたいという声。でも、そこには加わらない。この劣等感を人前にさらすなんて、肌をさらすのと同じくらい、耐えられなかった。
去年はどんな気持ちでこの課題をやっていただろうか。覚えていない。ミネソタにホームステイに行くために、誰よりも早く課題を片付けだけれど。
あれからもう一年経ったのか。だらだらと、じりじりと、居心地の悪い時間が這うように流れていった。その時間を過ごす間はひたすら長いように感じたけれど、終わってから振り返ると、あっという間だ。
本当は今年もミネソタに行きたかった。親にそれを言い出せなかった。お金がかかることがわかっていたし、受験勉強は終わりが見えない。成績を上げても上げても、志望校の判定はよくならない。
毎日、いつも、何かにせかされている。何かって、たぶん、自分自身にほかならないのだろうけれど。
日が暮れるまで自習室で勉強する。最終下校時刻のチャイムが鳴って、そのころにようやく学校から帰る。あたりが薄暗くなってからでないと、長い距離を歩けない。日に当たれば、極端に疲れてしまう。
その日、下宿に戻って、カバンに入れっぱなしだったケータイを取り出してみると、知らない番号からの着信があった。録音時間が短い留守電機能に、メッセージが一つ。
〈久しぶりです。竜也です。蒼さん、忙しいですよね。おれ、今年もミネソタに行きます。ブレットたちの家に。それで、出発の前に、蒼さんのところに会いに行きたいなと思ってて。ブレットたちに手紙とか書きませんか? おれ、預かっていくんで、それで、そのことを話したく……〉
ちょっと照れたような口調のメッセージは、そんな中途半端なあたりで切れていた。わたしは、気付いたら肩の力が抜けていた。
「そうだよね。わたしが存在してもいい世界は、あっちにあるんだから」
少しだけ笑って、わたしは竜也に電話をかけ返した。
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夏休みに入ってすぐ、竜也は電車に乗って琴野町まで、わたしに会いに来た。平日だったから、わたしは学校での補習の帰りだった。ミネソタで過ごす間はつねにズボンだったから、竜也の前で制服姿のスカートというのは気まずかった。
一年のうちに、竜也は背が伸びていた。わたしの目の高さとだいたい同じだ。
「お久しぶりです!」
「久しぶり。遠かったよね? よくこんなところまで来れたね」
「まあ、遠かったですけど、まったく縁のない土地ってわけじゃないんですよ。ここを走ってる路線の、特急で一時間くらい行ったあたりに親戚が住んでて、今日もそこに泊めてもらうことになってて。あ、電話でもこれ言いましたっけ」
竜也は今日、その親戚のところで晩ごはんを食べる予定らしい。だから、ここを夕方六時ごろには出なければならない。案外、時間はなかった。
駅の裏側にあるコーヒーショップで話すことにした。竜也はしきりにまわりを気にしていた。わたしが同じ高校の誰かに見られたらまずいんじゃないか、と。
「別にどうでもいいの」
むしろ目撃されるほうが愉快かもしれない。日山高校では、男女交際は自粛しろ、と集会のたびにアナウンスがある。受験生になってから、進路指導の先生はますます口うるさい。だからこそ、だ。学校という世界に反抗する材料として、誰かに目撃されて噂にでもなればいいと、わたしは思った。
小さなテーブルに向かい合って座ると、竜也はいつも笑っている顔を、少し曇らせた。
「やっぱり、蒼さん、ずいぶんやせたでしょ」
わたしは笑ったかもしれない。
「たぶんね」
「受験勉強、大変なんですか? あ、そういえば、ご両親とも別々に住んでるんですよね」
「勉強はそれなりに必死。全然、合格圏内じゃないから。でも、やれるところまでやるよ。でね、親がいないから、気が済むまでやれてる感じ。真夜中までやってても、大叔母は先に寝るから」
「体、壊さないでくださいね。ちょっと顔色も悪いみたいだし、心配です」
「平気。きみのほうは? 何か変わったこととかあった?」
竜也は、顔中をくしゃくしゃにするような、無防備でお人好しそうな笑い方をした。
「あと一歩でインターハイだったってのが、結局、最近でいちばんのニュースですね。手紙でも書きましたけど」
弓道着姿で部活仲間と一緒にふざけながら写った写真が、その手紙には同封されていた。
「惜しかったんだってね」
「決勝、一点差でした。おれ、高校総体のころはかなり調子がよくて、的中率が過去最高で、エースのポジションだったんですけどね。まあ、負けて夏に試合がなくなったから、ミネソタに行けるんです。そう思えば、結果オーライかなって」
「部活、けっこう長く休むことになるんだよね」
「うちの学校は、そのあたりは割と緩いんですよ」
「うらやましい」
「善し悪しじゃないかな。あまりにも先生からほったらかしにされてるなって感じるときもありますよ。サボり癖がついて、もとに戻れなくなったやつとかいて」
ニコニコ明るい顔をしながら、竜也は案外、わたしと目を合わせない。久しぶりに会って照れくさいんだろうなというのは、わたしにも伝わってくる。じっと見られるより、わたしにとっては気が楽だった。
手紙でおおよその近況は伝え合っている。竜也との会話は、手紙の内容の確認作業に始まって、ちょっと横道にそれながら話の枝が伸びて、という格好だ。
「じゃあ、蒼さんは今、ギターを弾いてないんですか?」
「下宿先には持ってきてない。部屋、狭いし」
「もったいないです。受験勉強で、弾いてる余裕もないんですかね」
「うん。大学に入ったら、ギターも復活させる」
「楽しみにしてます。小説とかホームページとかは続けてるんですよね?」
「そう。幸い、大叔母がパソコンを持ってて、なんとネットもつながってて、夜中だったら少し使わせてもらうこともできる。だから、集会のときとかにね、原稿の下書きを書いて、夜にそれをパソコンで打ち込んで、ホームページにアップして、みたいな」
スマホがあれば、わたしの小説活動はもっと簡単に続けられただろう。当時のネットは、スマホと比べて格段に面倒なものだった。パソコンをネットにつないでいる間は、その代わりに、家の電話が使えない。大叔母の迷惑にならないよう、夜中に最低限の接続をするだけだった。
それでも、書くことそのものは、受験生のわたしにとって唯一の安らぎであり、発散手段であり続けた。書いていたのは小説だけではなくて、小説よりも時間をかけずに一つの結論を出せる短歌もよく作った。筆箱の中に忍ばせたメモ帳に、尖った言葉を書き付けた。
コーヒーを飲みながら竜也と話して、わたしは久しぶりに笑った。高校の制服を着たままだったのに、いつも肩に乗っかっているはずの重たいものを忘れていた。竜也がミネソタの夏のあのさわやかな風を連れてきてくれたんだ。
竜也にケリーとブレットへのプレゼントを預けた。ケリーはディズニーの『美女と野獣』の小さな絵本、ブレットへは『ドラゴンボール』のコミックス。もちろん、両方とも日本語のものだ。手紙も添えた。
あっという間に時間は過ぎて、わたしは竜也を駅の改札で見送った。改札をくぐった後、竜也は振り向いて言った。
「ミネソタから帰ったら、また会いに来ます。お土産を持って」
竜也はわたしの非日常だ。夏の終わりにもう一度、非日常に会えるなら、追い詰められてばかりの毎日もどうにかおぼれずに越えていけるだろう。
「わかった。じゃあ、また、そのときに。Have a nice trip」
「あっ、発音いい! Your English is so good」
「Because I always practice talking in English, in order to communicate with my friends in Minnesota」
いつだって学校帰りに頭の中で転がしている英語を口に出してみたのは、これが初めてだ。中学で習うような簡単な単語と、受験英語を引っ張ってきた文章。
ああ、しゃべれる、という手応えがあった。
竜也が声を上げて笑った。
「あーもう、おれも英会話教室に通ってけっこう練習したのに、蒼さんのほうがちゃんとできてる。まあ、蒼さん、文系だしな。さすがっすね」
「受験生だもん。勉強してるの」
「よし、じゃあ、ほんとにそろそろ行きます。今日、ありがとうございました」
「うん。それじゃ」
わたしたちは笑顔で手を振った。
竜也の後ろ姿が見えなくなって、わたしは手を下ろした。笑っていた顔が、ため息ひとつで、重苦しいしかめっ面に戻るのを自覚した。
夏の終わりまでに、もう少し、やせられるかな。
相変わらず、竜也は細く引き締まった筋肉質な体つきだった。うらやましいなんて言うのは、きっと筋違いだ。わたしが引きこもって何もしなかった間、竜也はまじめに部活で体を鍛えていたのだから。
やせなきゃ。
竜也と話している間は楽しくて、わたしは年上だからカッコよくありたいと背筋を伸ばしていたのに、一人になった途端、いつものわたしだ。劣等感と焦燥感に絞め殺されそうになる。
駅を出る。日はまだ沈んでいない。わたしは日陰を選んで歩いた。汗が流れる。体に溜め込んだ脂肪も、こんなふうに簡単に流れて消えてしまえばいいのに。
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確率を計算してはみるけれど
所詮は全か無かの法則
絶対値でくくれば等しいベクトルも
ホントは違う方向指してる
授業中の隙を突いて作った短歌だ。五七五七七の中に鬱憤を閉じ込める。誰にも見せるつもりはなかった。見せられるような美しい言葉ではなかった。
下宿先のわたしの部屋は、ベッドとタンスと座卓に座椅子があって、普通の勉強机はない。座卓は、冬にはこたつにできるタイプのものだ。
大叔母は説明した。
「前にこの部屋にいた子が、勉強机より座卓がいいって言ったから、それをそのままにしてるんだよ。勉強机のほうがいいなら、物置にあるけど」
わざわざ模様替えをするのは面倒だったし、わたしは座卓を使うことにした。それで正解だと、すぐに思った。部屋にある座卓は勉強机よりも面積が広いから、各教科の参考書や辞書をズラッと並べられる。いちいち取り出したりしまったりの手間がないのは便利だ。
いつからか、わたしはベッドで横になることがなくなっていた。畳の上、座卓にセットした座椅子を倒して、そのまま寝る。
就寝は日付が変わってから。だいたいは一時か二時。目覚まし代わりのCDプレイヤーをセットした時刻は朝の五時半。
眠りは浅かった。音楽が鳴るより早く、CDプレイヤーがカチッとかすかな音を立てただけで、わたしは目覚めた。ジーッというホワイトノイズを聞きながら起き上がって、一晩ぶんのノルマにしている勉強の続きをする。
響告大の入試は、問題のレベルが高いとか設問の方向性がエキセントリックだとかと有名だ。でも実は、数学を除く大半の問題は、センター試験で出るようなスタンダードな問題を正確に、そして猛スピードでこなせるようになれば、どうにか歯が立つものだ。
だから、わたしはとにかく大量の過去問をどんどん解いていくことにした。まとめ方の工夫とか覚え方の工夫とか、そういう知恵と時間を使って一つのテーマをやるんじゃなくて。ひたすら、物量作戦。
一晩のノルマは、センター試験の過去問か、センター試験を想定した模試の過去問を、国英数の三教科ワンセット。問題を解いて、答え合わせをして、間違ったところの訂正をするところまで。それに加えて、授業の予習復習、補習の課題、人より一科目多いぶんの日本史の勉強。
ゆっくりベッドに横になる余裕があるわけもなかった。人間ってどうして眠くなるんだろうと、どうしようもないことを思いながら、わたしは夜中にうとうとと仮眠を取る。
ノルマを決めたことのほかにもう一つ、自分で設定したルールがある。苦手の数学の課題は誰よりも早くやってのけること。
受験対策の習熟度別授業と、朝と放課後の補習は、課題をすでに解いた状態で出ることが求められている。課題は二週間ぶんとか一ヶ月ぶんとか、まとめて出される。それを誰よりも早く全部解いて、必ず出てくる「わからない問題」を先生に訊きに行く。
数学という教科によって論理的思考がやしなわれるというけれど、わたしはどうやらその思考法が苦手らしい。「わからない問題」の解説を受けると、何がわからないのかがわかるときもあれば、結局どうしてもわからないときがある。
わからないポイントがわかれば、そこを重点的に勉強する。本格的にわからないときには、やるべきことは一つ。模範解答の丸暗記。数字も記号もすべて覚える。ひたすら書き殴って記憶する。
数学に関しては本当に、ものすごく効率の悪い勉強しかできなかった。わたしは結局、微分と積分がわからないままだ。問題を見ても、この場合は微分をするのか、それとも積分をするのかの判断がつかない。ちょっと目も当てられない話だと、受験生にはわかると思う。
それでもセンター試験の点数を上げることができたのは、マーク式という問題形式のおかげだ。答えの形が提示されているから、それが微分した結果なのか積分した結果なのかが推測できる。
要するに、小学校の問題で例えていえば、こういうこと。
169○13=□□□□
(○にあてはまる記号をマークしなさい)
(□にあてはまる数字を1つずつマークしなさい)
答えの桁数が169より多いのだから、○に入るのは、掛け算記号の「×」だとわかる。計算を間違えなければ、□に入る数字も正解できる。
わたしがセンター入試の数学で利用していたのが、この考え方だ。記述式のテストだったら、苦手の数学で八割、九割なんて点数を出せるはずがなかった。
そんなふうに必死で勉強した。居眠りして時間を浪費すると、罪悪感を覚えた。ノルマをこなせなかったときは後悔して、自分にいらだって、手にした筆記用具で腕を傷付けた。
やせたい気持ちも強烈に続いている。こんなに苦労しているのに、どうして、もっと簡単にやつれていかないんだろう?
勉強している間は頭が冴え切っている。ほとんどずっと勉強しているから、頭の中がカーッと発光しているような異様な感覚は、オフになるときがない。
何のためにこんなことをしているんだろう、というのも、もちろん考える。勉強して成績を上げて志望校に合格したとして、何があるっていうんだろう? わたし、別に生きていたくもないはずなのに。
明るい歌なんて書けるはずもなかった。
骨折のカサはコンビニに置き捨てて
泣いているのは空だけじゃない
リセットもできないくすんだ現実で
このままゆっくり死んでいくのか
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受験生の時間は加速度的に流れていく。必死で集中して問題を解いて、ああまだ十分に見直していない、完璧な回答にはほど遠いのにとあせりながら、あっという間に消えてなくなる時間に追いすがりたくても、どうにもならない。
夏の終わり、ミネソタみやげを持ってやって来た竜也に、予定どおり「またやせたでしょ」と言わせた。この夏は、やせたくてたまらなかった四月からのうちでもいちばん、食べない生活を実行できたと思う。わざと部屋を暑い状態にして、食欲が湧かないようにした。
秋になって過ごしやすくなって、食欲の秋という言葉がことあるごとに頭をよぎるようになった。食べたい。食べちゃいけない。コーヒーを飲んでごまかす回数が増える。その後に体重計に乗ると、当然ながら数百グラムの増加。そのわずかな針の動きが、苦痛。
ずっとおなかを壊している状態だった。わたしにとっては都合のいいことだった。体の中に食べ物が存在することを許したくない。
日山高校の体育の授業には伝統があって、準備運動として必ず八分間走をする。昔は十五分間走だったのが、授業時間の都合で半分になったそうだ。
だらだらと走ったり授業態度が悪かったりすると、何度でも八分間走をさせられる。わたしたち、文系理系の特進クラスの合同体育では、さすがあちこちの中学の優等生が集まっているというべきか、最初の八分で終わらなかったことは数える程度しかない。
十月後半の肌寒い日、数ヶ月ぶりに、八分間走のやり直しを食らった。先生の虫の居所が悪かったのかもしれない。やり直しは二回。合計二十四分で、特に最後の一回は全力疾走を命じられたから、かなりきつかった。
そう、きつかった。これだけ走ったら、肌寒さがかえって心地よいくらいに体が熱くなるはずだ。それなのに、わたしは震えていた。寒くてたまらなかった。汗がまったく出ていない。
無理やり前へ前へと体を進めていたのが、ひとたび走り終わってクールダウンを始めたとたん、わたしは動けなくなった。めまいがするわけでも、気持ち悪いわけでもない。ただ、体が重くてたまらない。吸い込む息さえひどく重くて、抱えているのが面倒くさかった。
わたしは息を吐いた。吐き切ると、ふわっと体が浮いた気がした。逆だった。気付いたら、グラウンドの土の上に倒れ込んでいた。
金縛りみたいな状態だった。目は開いている。まわりがざわつく声も聞こえる。でも、体がピクリとも動かない。
肩に熱が触れた。誰かの手のひらだ。
「おい、蒼。どうした? 大丈夫か?」
雅樹の声が耳元で聞こえた。息が切れている。走った後だから、当然か。
何度か揺さぶられると、唐突に体が動くようになった。わたしはのろのろと起き上がる。雅樹がわたしの肩を抱くように支えていて、振り払いたいのに、力がまったく入らない。視線を上げることさえ億劫だ。雅樹の首筋に汗が伝っているのが見えた。
わたしのまわりには人だかりができた状態だった。小走りでやって来た先生が、わたしの前にかがみ込んで、雅樹と同じことを問う。
「自分でも、わかりません」
「授業、続けられるか?」
「……無理です」
「じゃあ、保健室に行ってこい。鹿島先生からも話には聞いていたが、難関校狙いで、ずいぶん根詰めて勉強しているらしいな。ここまで無理をさせるつもりはなかった。すまん。調子が悪いときは正直に申告して、休んでいい」
体育の先生が生徒の顔を覚えているなんて思っていなかった。それとも、わたしが悪目立ちしているだけなんだろうか。夏の合宿にも行かなかったし。
一人では立てなかった。手を借りるのはイヤだったけれど、雅樹に支えてもらって立った。
「蒼、抱えていこうか?」
「ふざけないでよ」
「んなわけねぇだろ」
「わたし、重いから無理だよ」
「あのなあ」
小柄だったはずの雅樹の背丈は、わたしよりも高くなっていた。それでも、元陸上部の雅樹はすごく細くて、人ひとり抱えるなんてできるはずもない。
わたしは強引に足を前に出した。体は引きずるほどに重くて、力が入らない脚は、どうしてもぐらぐらする。
尾崎がわたしの前に立ちはだかった。いや、わたしは彼女の顔を見たわけじゃなくて、うつむきがちになる視界に、尾崎と名前が刺繍された体操服の立派な胸が現れたんだ。
「見てらんないよ。あたしも付いていく。二人がかりなら、ちゃんと支えて歩かせられるでしょ。蒼、ちょっと体にさわるからね」
「蒼ちゃん、あたしも行こうか?」
ひとみの声には、かぶりを振った。これ以上、大げさにしたくなかった。弱っているところなんて、誰にも見られたくない。
雅樹と尾崎に引っ張られるようにして、わたしは保健室に向かった。寒くて寒くて、ずっと震えていた。