わたしの書いた小説がコンテストで入選した。
 読めばおなかがすくような、誰かと一緒においしいごはんが食べたくなるような、そんな短編小説を募ったコンテストだ。
 入選作は、わたしのものを含めて十数点あって、『美味しい物語』というタイトルの短編集が編まれた。今、その本は書店に並んでいる。

 美味しい料理や、思い出に残るごはんの物語。あなたなら何を書くだろう?
 わたしは、新撰組の沖田総司を書いた。肺の病気のために寝付いていたのか、「任務に就いた」という記録が見られない時期の沖田だ。
 空想を交えて書いた小説の中で、沖田は、好き嫌いの多いわがままな青年だ。にこにこと人当たりのよいふりをしながら、出した食事をろくに食べてくれない。「ほんまに意地悪な人や」と、世話係の町娘はくやしさに唇を噛む。

 この物語を思い付いたとき、最初に浮かんだイメージは「匂い」だった。うんざりするほどの血の匂いと、真心を込めて作られた料理の匂いが、同時にわたしの頭の中に立ち現れた。まるで記憶のフラッシュバックのように、強烈なイメージだった。

 いや、血の匂いと料理の匂いが同時にやって来たのは、確かにわたし自身の記憶だったかもしれない。
 肺の病気による喀血ではないけれど、わたしは、喉から口の中まで血に満たされた経験がある。血を吐いたときに口の中でどんな匂いがするかを知っている。
 食べることと命を保つことがとても近い関係にあるのを知っている。生きることがイヤでイヤでたまらなかったころ、わたしは上手に食事を取ることができなかった。

 普通、人間には空腹感と満腹感がある。人間は「おなかの減り具合」という体感のセンサーによって、おおよその食事時間を測ることができる。
 わたしには、それができなかった。わたしは人間として、あるいは生き物として、おかしかった。機能が狂っていた。

 空腹か満腹かわからなかった。味を感じることができても、おいしいと感じることができなかった。食事を取れば、胃の中に食べ物が入っていることを気持ち悪かった。際限なく食べて全部を吐く。そんな呪いのような習慣を絶てない日々が続いた。

 摂食障害、という。
 食べることや飲むことを拒絶するのも、食べることへの調整が利かずに食べすぎてしまうのも、食べた後で食事行為を否定して吐かずにいられないのも、摂食障害だ。

 ダイエットをしている人、食べ歩きが趣味の人は、ドキリとするかもしれない。呪いの言葉のように「ダイエット」が付きまとっているのを感じるとか、食べ歩きをしても楽しさより罪悪感があるとか、もしそうなら、立ち止まって自分と向き合ってみてほしい。

 食べることと生きることは、とても近い。食事のバランスやリズムに意識を向ける余裕がないとき、もしくは食べることでしか自分が満たされないと感じるとき、きっと生活がうまくいっていない。どこかの歯車が噛み合っていない。

 わたしは中学生のころから、歯車の噛み合わない人生を送ってきた。そろそろ二十年。まさかこの年齢まで自分が生きているとは想像もできなかったし、今でもまだ、消えてしまいたい願望はある。
 でも、消えるにはまだ早い。達成していない目標があるんだから。

 目標というのは、小説だ。
 小説を書きたい。小説家と名乗りたい。一つのコンテストで入選しただけでは、まだ少しも満足できない。筆を折るのは人生をやめるときだ。書きたいものがあるうちは、わたしは生き続けなければならない。
 これからここで語るのは、嘘の物語だ。わたしの経験してきた人生に似ているかもしれないし似ていないかもしれない、事実の種明かしをする予定のない、嘘の物語だ。

 主人公の名前を「蒼《あおい》」としよう。思い出のある名前なんだ。小学生のころに思い描いていた、人間のふりをして学校に通う人魚のストーリー。その主人公の名前が、蒼だった。
 そう、わたしは、小学生のころにはもう小説らしきものを書いていた。人生でいちばん初めに完成させたのは、五歳のころ、年上のいとこと一緒に作った絵本だ。うさぎのぬいぐるみを主人公にしたお話だった。

 わたしは山奥で生まれ育った。県内でもその一帯は独特な歴史を持っていて、山の神さまへの古い信仰がひっそりと残っていた。
 親の仕事の都合で、幼いころのわたしは、そんな不思議な山奥を転々と引っ越しした。ショッピングセンターがあるちょっと大きな町にも、テレビの電波が届かないくらいのいなかの村にも住んだ。

 二年か三年で次の場所に引っ越すとわかっていたから、友達付き合いはあっさりしておこうと決めていた。友達の家に遊びに行くことも、めったになかった。
 一人っ子だし、寂しくないのかと親に訊かれることもあった。わたしは「別に」と答えるだけだった。確かに、小学校に上がったばかりのころは寂しがりやだったかもしれない。でも、いつの間にか、寂しさという気持ちを忘れてしまった。

 子どものころのわたしは一人で勉強をして、一人でお話を書いて、一人で唄を歌って、過ごしていた。
 今やっていることも、あのころと似ている。わたしは自宅でライターの仕事をして、小説を書いてはウェブに公開したり賞に応募したりして、地方都市のインディーズロックバンドで歌っている。

 なんてね。
 ここまで書いてきた短いプロフィールの中でも、わたしはすでにいくつもの嘘を物語っている。
 本当のわたしは離島育ちで、隠れキリシタンの子孫だ。一人っ子ではなく、弟がいる。バンドを組んでいたのは学生時代のことで、今はカラオケで歌ったり、気まぐれにギターを弾いたりする程度だ。

 こんなふうに、わたしは嘘の物語を書き進める。事実ではないことも書く。
 けれども、蒼の青春はわたしのたどってきた道によく似ているから、どうやったってわたしの真実はにじみ出てしまうだろう。

 事実と真実は違う。事実を並べるだけでは、真実は隠されたままだ。嘘とも呼べる物語として描くことで、真実は初めて見えてくる。それが小説の醍醐味であり、おもしろさであり、恐ろしさでもある。
 わたしは、わたしの真実を書こう。普段は眠っている、毎日血を流していたころの自分を、この嘘の物語を書いている間だけ呼び起そう。

 始まりは、中学二年生の春。蒼であるわたしが山奥から都会へと引っ越した四月。
 蒼は、気が付いたときには、学校に行けなくなっていた。その日のことから書き起こそう。
 学校が好きか嫌いかなんて、考えたこともなかった。考える必要がなかったんだ。それまで、わたしはごく普通に学校に通うことができていたのだから。

 夜に眠れなくなったのが先か、朝に起きられなくなったのが先か。
 気が付いたら、起き上がれないほどの重苦しい頭痛の朝が続いていた。毎朝、体が冷えて、指先が動かなかった。

 四月下旬だ。春の遠足の日は汗ばむ陽気だったし、それから毎日どんどん暖かくなってきている。そもそも、引っ越してきたばかりの琴野町《ことのちょう》は一年を通して暖かく、冬場だって氷点下になる日がなくて、雪もめったに降らない。

 それなのに、わたしは毎朝、凍えながら布団にくるまって、浅い夢の中でうなされている。起こしに来る母が心配するくらい、本当に毎朝。
 うなされているのは、頭が痛くてたまらないせいだ。無理やり起きて朝ごはんを胃に押し込んだら、急に胃がキリキリと痛んで耐えられなくて、吐いてしまった。

 その日は学校を休んだ。昼間は食事もせずに、死んだように寝ていた。おかげで、夜は眠れなかった。翌朝はまた頭痛と吐き気で学校を休んだ。
 おかしい。何かのバランスが壊れている。

 休み続けて、そのままゴールデンウィークに入ってしまった。休日の朝も、わたしは起きられなかった。親に病院へ行くことをすすめられた。わたしは「イヤだ」と言った。
 病院に行って検査をしたところで、体に異常はないはずだ。それが自分ではわかる。
 じゃあ何がおかしいのかって、たぶん、新しい学校の空気を「キモチワルイ」と感じてしまう心のほうだ。

 わたしはこの四月、転校生だった。始業式、学年集会でのあいさつ、学力テスト、健康診断、部活からの勧誘、遠足。いろいろあって、忙しかった。毎日ぐったり疲れ果てていた。
 前の学校は、全校で百六十人。いなかの小さな学校だった。新しい学校は、七百人規模。新興のベッドタウンが校区内にあって、毎月何人かが転入してくるようなところだ。

 よく言えば活気があるけれど、ハッキリ言って落ち着きがない。人口が多い反面、駅ビルやショッピングモールはなくて、都会とはいえない。古くから琴野町に住む人とベッドタウンに家を建てたばかりの人の間に、みぞのようなものがある。

 とげとげしい、と思った。空気が優しくない。
 どうしてそう感じたのかというと、女子も男子も楽しそうに興じるおしゃべりのテーマが「誰かの悪口」だからだ。

 あっちからもこっちからも派手な笑い声が聞こえると思えば、先生だとか先輩だとか、欠席しているクラスメイトだとか、別のクラスの有名人だとか、とにかく誰かをバカにして、その人の物真似をしたりしている。
 ゲラゲラ笑い転げる輪の中に誘われて、昼休みを一緒に過ごした日があった。自分の顔が引きつっているのがわかった。胃がキリキリした。

「ごめん、ちょっとトイレ」
 隣にいた子に断って、輪を抜ける。
「一緒に行こうかー?」
 大声で言われる。
「ウチも行こっかなー?」
「あっ、ウチもー」
 ぞろぞろついてこようとする。

 わたしは振り返って、作り笑顔で答えた。
「もう校内の配置とか頭に入ったし、迷わないから大丈夫。ありがとう」
 ついてくるな。そう吐き捨ててしまいたかった。

 この一件が決定打だった。わたしは最初から友達なんか作るつもりもなかったけれど、琴野中学校は絶対に無理だと思った。何でこんな学校に通うことになっちゃったんだろう?
 一人で過ごそうと決めた。もともと、一人でいても平気なタイプだ。
 開き直ったつもりだった。でも、聞こえてくるまわりの声は、どうしたって、うっとうしかった。

 気晴らしをしたい。どこか遠くに行きたい。
 何となく、そんなことを考えた。だから五月の連休の初日の朝、衝動的に列車に乗った。向かった先は、前に住んでいた木場山郷《こばやまごう》だ。

 わたしはケータイを持っていなかった。一九九八年の話だ。仕事をしている大人なら、半分くらいはケータイを持っていただろうか。家にインターネットがあるのは、全体の半分くらいだっただろうか。そんな時代だった。

 わたしは、乗り換えの駅で、家に電話をかけた。
「木場山に行ってくる」
 親は慌てていた。わたしはろくに受け答えをせずに、いちばん仲のよかったひとみに電話をかけた。
「今日、ちょっと会える?」

 とんとん拍子で話がまとまって、わたしはその晩、ひとみの家に泊めてもらうことになった。着替えも何も持っていなかったし、ひとみの家に上がるのも初めてだったけれど。
 ちょうど、ひとみは部活のために学校に向かおうとするところだった。わたしが乗る、山道を行く列車が木場山郷に着くのは、ひとみの部活が終わる昼ごろだ。わたしは、学校でひとみと落ち合うことにした。

 列車を使ったことは、あまりない。木場山郷を離れて買い物や旅行に出るときは、親が運転する車に乗っていた。木場山郷の住人にとって、二両編成の列車は、車を運転しない世代のお年寄りが町の病院へ行くためのものだった。

 淡い色の若葉がキラキラする五月初めの山の景色。花が咲いている。蝶が飛んでいる。窓を開ければ、きっと、うぐいすの声が聞こえるはずだ。
 外の景色は明るすぎて、睡眠不足のわたしの目にはつらかった。光が眼球の奥まで刺さってくるみたいだ。

 わたしは目を閉じた。列車の揺れは不規則で、ときどきガタンと車体がひどく弾む。眠りたかったけれど、列車の揺れが気になって、木場山の駅に着くまで結局、一睡もできなかった。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 私服で中学校の門の前に立つと、変な感じがした。
 視界に映る人はみんな、学校指定の体操服やジャージだ。グラウンドでは部活の片付けに入ったところだった。

 いきなり、後ろから声をかけられた。
「蒼? 何で?」
 男子の声だ。声変わりが始まったばかりのかすれがちな声。
 振り返ると、そこに立っていたのは、思ったとおり、雅樹《まさき》だ。部活の練習の一環で、校外を走ってきたらしい。

「何でって、ここにいて悪い?」
「いや、そうじゃないけど。どうしたんだ?」

 雅樹は同い年で、陸上部で、わたしよりも十センチくらい背が低い。小麦色に日焼けしている。目がパッチリとした顔立ちは華があって、アイドル系といってもいいくらい。物おじしない性格で、女子からも男子からも先生方からも人気がある。

 実は、雅樹とはずいぶん昔から縁がある。わたしと雅樹は同じ保育園だった。二人とも親が共働きだったからお迎えが遅くて、ほかに誰もいなくなった園舎で、お利口さんにして先生の手をわずらわせずに、おとなしく遊んでいたらしい。
 一緒に眺めていた絵本のこととか、おゆうぎ会で雅樹が演じた役とか、断片的な記憶はわたしの中にもある。母親同士が仲が良かったから、わたしの家が引っ越した後も、ときどき連絡を取り合って、年に一度は食事会をしていた。

 小六と中一で、わたしと雅樹はまた同じ学校の同じクラスになった。まわりには「親同士がもともと知り合いだ」とだけ言っておいた。引っ越しの多いわたしにとって唯一の幼なじみなのだけれど、そんな言い方は気恥ずかしくて、誰にもできなかった。

 わたしは雅樹から顔を背けた。引け目を感じてしまった。雅樹は頑張っている。わたしは学校を休んでばかりいる。
 でも、雅樹はわたしの後ろめたさなんて気付きもしない様子だった。

「新しい学校、どう?」
「どうって、別に……普通」
「ま、蒼は勉強できるし、どうとでもやれるか。おれは、張り合う相手がいなくなって物足りないけどさ」
「ひとみがいるでしょ」

「三羽烏《さんばがらす》とか三つ巴とか言われてたのが、ツートップになった。危機感が薄れた感じ。おれの成績、落ちるかも」
「人のせいにしないでよ」
「蒼は、高校も町のほうの公立に行くんだろ? おれもひとみも、そっちに出ていく予定。そっちでまた一緒の学校になれるんじゃないかな」

 わたしが住む県では、公立高校のほうが偏差値が高い。私立高校は、全寮制のエリート進学校が一校ある以外は、公立高校のすべり止めとして受験する感じだ。
 木場山から通える高校もある。でも、大学に進むことを考えているなら、木場山を出て町に住んで、進学校である公立高校に通うのがいい。

 わたしはそっぽを向いたまま、顔をしかめた。
「二年も先のことなんて、わかんない」
「たった二年じゃん。受験勉強は早めにキッチリやっとかなきゃいけないし、おれやひとみみたいに木場山から出たいって考えがあるなら、なおさらだ。下宿をどうすればいいのかとか、親や先生たちとも話し合って情報を集めないと」

 また、わたしは引け目を感じた。わたしは何の苦労もしなくても、ちょうどのタイミングで親が町のほうに転勤になった。親の転勤にくっついているだけで、大学進学に有利な公立高校の近くに住むことができている。

 ふと、グラウンドのほうから大声が聞こえてきた。
「雅樹ー! ランニングの途中でサボるんじゃねぇぞ! 一年に示しがつかねぇだろうが!」
「ヤベ、部長に見付かった。じゃあな、蒼!」

 雅樹はすごいスピードで、陸上部が輪を作っているほうへ走っていった。風が動いたとき、かすかに汗の匂いがした。
 珍しいシーンだったな、と気付いた。中学に上がってから、わたしと雅樹は、学校では一対一で話したことがなかった。ケンカをしていたわけではなくて、噂になるのを避けるためだった。

 不思議なことに、別の小学校出身の子たちの目に映る雅樹は、わたしや同じ小学校出身の子たちが知っている雅樹とは、どこか違っていた。雅樹の顔が整っているのはわたしも認めるけれど、「カッコいい!」っていうのは違う気がしてしまう。
 他校の子にそれを言うと、全力で否定された。「学年でいちばんカッコいいよ!」って。

 雅樹は顔がよくて、成績も運動神経もよくて、しゃべるとおもしろい。頼まれればイヤとは言わないから、リーダー的なポジションに就くこともある。まあ、雅樹だったら目立って当然なのかなって、木場山を離れた今になって急にわかった気がする。

 木場山中学校と書かれた門柱に背中を預けてぼんやりしていたら、制服姿のひとみがグラウンドから飛び出してきた。
「蒼ちゃん! お待たせ!」

 ああ同じだ、と思った。ついこの間まで、毎日こんなふうだった。バレー部のわたしのほうが部活上がりの時間が早くて、合唱部のひとみを校門のところで待っていた。
 でも違うんだ、とも思った。わたしは私服だし、グラウンドに入りづらくて門の外にいた。待ち合わせの場所は、門からいちばん近い桜の木のそばだったのだけれど。

 わたしは背が高くて、ひとみは小柄だ。十五センチくらいの差がある。ひとみは丸顔で、丸い目とぷっくりした唇をしていて、髪が長い。そういう特徴も、わたしと正反対。わたしは面長で、切れ長の目と薄い唇、髪はずっと短くしている。
 ひとみは遠慮なくわたしに抱き着いた。
「会いたかった! 遊びに来てくれてありがとう!」
「大げさ。引っ越してから、まだ一ヶ月も経ってないんだよ」
「まだ一ヶ月って信じられない! 学年が上がってからいろいろ忙しかったし」
「だろうね」

「学力テスト、どうだった? こっちはね、今回は雅樹くんが一位だったよ。雅樹くんは、三教科では国語だけがネックだけど、今回のテストは科学の説明文がメインだったから得意分野だったって」
「それで、ひとみが二位」
「うん。蒼ちゃんがいたらどうなってたかなって、雅樹くんと話したよ」
「わたしは五教科あるときのほうが強いし」

 先生方が「三羽烏」と呼んだ、わたしとひとみと雅樹。木場山のようないなかではめったに出ないような成績優秀な子どもが、同じ学年に三人もいる。そういう意味だ。
 成績優秀といっても、三人ともタイプが違う。わたしは英語と社会が強い文系。ひとみは三教科がバランスよく、全部できる。雅樹は「数学と理科は高校レベル」と言われるほどの理系。
 でも、わたしはたぶん、本当はそんなに優秀なんかじゃない。楽しみながら競える相手がいなくなって最初の学力テストは、全然ダメだった。

「わたしぐらいの成績の人、ほかにもいたよ。新しい学校での学力テスト」
「えっ、そうなんだ? 都会はやっぱり違う? みんな塾に行ってる?」
「ほとんどみんな行ってるみたい。学校は同世代の人が集まるだけの場所で、勉強を教わる場所は塾。そんな感じの人、多い」

「じゃあ、そういう人って、授業を聞いてない?」
「うん、わたし、目が悪いからさ、前のほうの席にしてもらって助かったけど、後ろのほうは何かメチャクチャ。木場山では想像もできない光景だと思う」
「そうなんだ。大変そう」

「それに、教科書の出版社が違うんだよね。そしたら、社会と理科は習った範囲が微妙にズレてたし、数学も式の書き方の癖とかがちょっと違う。英語が悲惨。習ってない単語がいっぱいあって、学力テストでは、見たことない点数だった」

 三教科の中では、英語がいちばん得意だ。数学は必ず計算ミスを出してしまう。国語は問題文との相性に左右される。でも英語は、物心つく前からディズニーソングのCDを聴いて覚えていたおかげで、ペーパーテストもスピーキングもヒヤリングもできる。

 それなのに、だ。単語の意味を答えるだとか、下線部の英文を日本語にするだとか、肝心のところに、わたしの習っていない単語が現れた。中一のころは、テストで空欄のまま提出したことなんてなかったのに。

 新しい学校のことを考えると胃がキリキリするのは、あの英語のテストも関係があるかもしれない。
 だって、『The Little Prince』は直訳すれば「小さな王子」だけれど、『小公子』ではなく『星の王子様』なんだって。知らなきゃ答えられない。いちばん正答率の高かった単語テストで、わたしだけが間違った。

 ひとみは小首をかしげて、ぷっくりした唇を突き出した。
「蒼ちゃんだったら、中間テストで巻き返せると思うよ」
「そうであることを願うけど」
「制服、かわいい?」
「全然。古くさい感じのセーラー服」
「セーラー服、いいじゃん! 木場山は古くさいブレザーだもん」
「ブレザーのほうがマシだよ」

 卒業まで着ないとわかっていた木場山中のブレザーは、卒業生からおさがりをもらった。琴野中のセーラー服は新品を買った。新入生と同じ、のりのきいた新品の制服を着て、新入生に交じって部活見学をした。その居心地の悪さといったら、ひどかった。

 ひとみは「思い出した!」と言うように、ポンと手を打った。
「そうそう、学年が変わって、まずクラス替えがあったんだよね。二クラスだから、半分しか入れ替わらないけど。それで、『蒼ちゃんって隣のクラスだっけ?』って、どっちのクラスでも言っちゃう感じだった。最近やっと言わなくなったの」

 その瞬間、感じた。わたしの居場所はここにはないんだ、と。
 やっぱり、ここはわたしの帰る場所ではないんだ。わかっていた。木場山中に入学したときから、みんなと一緒にここを卒業することはないんだと知っていた。それを今、改めて確認した。
 まあ、「おかえり」じゃなくて「遊びに来てくれてありがとう」だもんね。

 ひとみはずいぶん急いで部室を抜けてきたらしい。ようやく合唱部の面々が追い付いてきて、わたしに声を掛けた。ほかの部でも次々と下校が始まって、わたしは以前のクラスメイトたちに囲まれた。

 木場山は小さな中学校だから、部活は強制参加だ。文科系は合唱部と吹奏楽部しかない。運動部も人数的に制約が大きくて、サッカー部や男子バスケ部は存在しない。男子だけの野球部と女子バスケ部、男女いるのがバレー部と卓球部と剣道部と陸上部。
 新しい学校で、わたしは帰宅部だ。あちこちの部に呼ばれて見学だけはした。でも、何もしないことにした。

 木場山中のバレー部は楽しかったけれど、集団行動が疲れるときもあった。琴野中では部活を何もしないという選択肢があると知ったとき、ホッとした。こういうのがわたしの本質なんだと思う。
 わたしは、みんなで一つのことに熱中する、ということができない。一歩、引いたところにいる。一緒に笑ったり泣いたりしてみせる自分を、観客席にいるもう一人の自分が眺めている。

 人との出会いと別れもそう。初めましての瞬間に、別れの日までのカウントダウンを始める。相手との間に透明な壁を作っておく。さよならするとき、悲しみのダメージを受けずにすむように。

 わたしとの再会を喜ぶみんなの真ん中で、わたしは声を上げて笑ってみせながら、心はひどく冷めていた。
 もう木場山には来ない。わたしが抜けた穴は、とっくにふさがっている。戻るための場所は、もうここにはないんだ。

 部活を終えて制服に着替えた雅樹が、陸上部の同級生と一緒に門から出てきた。雅樹はわたしのほうにチラッと笑ってみせた。
 わたしは目をそらした。

 気持ちが晴れるんじゃないかと思って木場山に来てみたのに、逆に心がふさぐだけだった。ゴールデンウィークが過ぎたら、また毎日、琴野中に通わなければならない。
 できるんだろうか? できないんじゃないか。
 わたしはこのまま学校に行けないんじゃないだろうか。
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 胸に差した恐れは、現実のものになった。
 学校、という世界が、真っ黒で重たい存在感でのしかかってくる。わたしはその下に踏みつぶされて動けない。

 朝、起きることが苦痛だ。セーラー服のそでに腕を通すことが苦痛だ。同じ制服の群れの中を登校するのが苦痛だ。教室で自分の席に座っているのが苦痛だ。授業中に聞こえてくる雑談の声が苦痛だ。先生の隙を突いて手紙を回すよう、背中をつつかれるのが苦痛だ。休み時間の楽しそうな悪口が苦痛だ。給食の時間が苦痛だ。下ネタばっかりの恋バナに誘われるのが苦痛だ。トイレに行くとき、ついてこようとする人が苦痛だ。小テストで隣の人と交換して丸付けするのが苦痛だ。「成績いいんだね」と、下心のある目をして近寄ってくる人が苦痛だ。集会で人酔いするのが苦痛だ。

 親切そうな様子で、わたしの顔をのぞき込む人がいた。クラスでいちばん派手な女子。
「蒼ちゃん、学校、慣れてきた? この学校さー、転校生が多いんだよね。ウチも中学に上がるときに引っ越してきたクチだし。だからさー、転校生のいじめって、あんまないんだ。元よそ者って苦労するじゃん? そのへん、ウチらみんなわかってるもん」

 そう、転校生はいじめのターゲットにならない。それはわたしも感じていた。
 だけど、この学校にはいじめがある。たくさんある。ターゲット選びがどういう基準なのか、わたしにはわからないけれど。

 その日、クラスでいちばん派手な彼女は、たびたびわたしに話しかけに来た。彼女のグループはみんなスカートが短くて、化粧をしている。わたしは全然そんなタイプじゃないのに。
 放課後、別のグループの女子たちがわたしを囲んで、ひそひそした声で口々に種明かしをした。

「蒼ちゃん、あの子ら、うるさかったでしょ? あの子ら全員、すごいバカなんだよね」
「バカだよねー。授業中も遊んでるじゃん。塾もね、おバカご用達のとこに行ってて、しかもレベル低いクラスなんだよ」

「ウチらの学年、ここ何年かでいちばんバカなんだって。先生たちが言ってた。その中でも、あの子ら、いちばんバカだからね」
「蒼ちゃんをグループに引き入れて、平均レベルを上げようとしてるっぽいけど」
「っていうか、宿題とか予習とか写させてほしいからじゃない?」
「だよねー、ずるいよねー。すっごいヤな感じ」

「ねえ、蒼ちゃん、ウチらのとこ来たらいいよ。アタシらは、ニュータウンができる前から琴野に住んでる家のグループなんだよね」
「そう、おじいちゃんが地主さんって子ばっかりなの。だからね、アタシらといたら、いろいろ安心だよ」
「あの子らの家ビンボーだから、一緒にいたら、リップとかメモ帳とか、すぐなくなるよ」
「怖いんだよねー。でも、絶対、盗ったとか言わないし」

 話を聞いているうちに、胃が痛んだ。めまいがした。視界の焦点が合わなくなった。息が苦しくなった。作り笑いをした頬はこわばりっぱなしだった。
 でも、笑いながら「あの子らはバカ」と言ってのけるこのグループは、本人たちがいるところでは、絶対に悪口を表に出さない。二つのグループ同士は仲がいいのだと、わたしは今まで思っていた。実際はそうではないらしい。

 延々と続きそうなおしゃべりを、わたしは「ごめん」と言って断ち切った。
「ごめん、図書館に行くから。勉強しないと」
 勉強っていうのは、学校という世界では最強クラスの装備品だ。勉強ができるだけで、身を守ることができる。多少の無理も通せる。どのグループからも、先生方からも、一目置かれる。

 わたしはたびたび教室を抜け出す。起きられなくて欠席することも、だんだん増えた。
 担任が臨時の家庭訪問に来た。わたしは部屋に閉じこもっていた。母が申し訳なそうに対応していた。
 家庭訪問くらいでは、わたしの行動は変わらない。「自分で勉強する」がわたしの免罪符だった。いい点数さえ取れば、先生方は結局、わたしの行動を黙認した。

 両親の口数が減った。わたしの体調が悪い朝、母はあきらめ切ったため息をついて、学校に欠席の電話を入れる。
 わたしも、学校に行こうが行くまいが、口を開かない日が多くなった。学校に行く日の朝はどうにか食事を取るけれど、行かない日は寝ている。昼間は適当なものを食べていた。でも、夜になると、いつ何を食べたか思い出せなかった。

 頭が働かない。勉強だけはする。中間テストの点数はよかった。学校でも、口を利かない。体育や音楽の先生からは「出席しろ」と文句を言われる。うなずくことはできない。きっと嘘になるから。

 一日一日、ドロドロと間延びしながら、ひどくゆっくりと過ぎていく。頭が痛くて胃が痛くて、体が動かない。何も感じたくない心は、冷たい泥沼に沈むように、どんどん鈍っていく。
 罪悪感と情けなさが絶え間なく襲ってくる。学校に通うという普通のこと、当たり前のことができない。こんな自分が情けない。

 ひとみから電話がかかってきたとき、わたしは寝ているふりをした。ひとみの前で、情けない自分をさらけ出せるはずがなかった。雅樹からも二度、電話があった。わたしは応じなかった。

 夏が目前に迫ったころ、眠れない真夜中に窓を開けて、涼しい風を部屋に入れながら、何となく唄を口ずさんだ。
 声を息に乗せて、喉を震わせる。小さな声で歌う。

 歌うことは好きだ。木場山中のころ、合唱部に入らなかったのは、声楽の歌い方にはピンとこなかったから。
 わたしが好きな曲調は、テンポが速くて明るい唄。ラヴソングは苦手。ダンスミュージックもちょっと違う。アニメの主題歌にあるような、自分自身を見つめる歌詞や、未来に進んでいこうとする力強い歌詞がいい。

 ほんのちょっと歌っただけで、わたしはやめた。
「喉が痛い……」
 声を出さない日が続いているせいだ。高い声も低い声も出なかった。声が喉を通っていくときにこすれる感じや、キュッと喉をすぼめるときに力を入れる感じ。たったそれだけの当たり前の感触が、痛くて耐えられなかった。

 信じられない。学校に行けないだけじゃなくて、唄を歌うことさえできなくなっているなんて。
 部屋の隅にギターがある。ハードケースに入ったまま、ふたを開けてもいないギター。中学に上がるときに、叔父さんがおさがりでくれた上等のアコースティックギターだ。

 去年は頑張って練習していた。簡単な弾き語りなら、どうにかできるようになった。練習を一日サボると、取り戻すのに三日かかるという。だから、レベルを落としたくなくて、毎日ちょっとでもいいからギターにさわるようにしていた。
 なのに。頑張っていたのに。引っ越しのバタバタで練習ができなくて、それっきりだ。もう全然、指が動かなくなっているんじゃないか。ギターに触れて確かめるのが怖い。

 そして思い出した。
 わたし、こっちに来てから小説も書いていない。
 空想のストーリーを思い描くには、大きなエネルギーが必要だ。そんなエネルギー、今はどこにもない。

 どうにか食べて、眠れるときにうなされながら眠って、成績という免罪符を維持するために勉強する。それだけの毎日。
 自分が生きているのかどうか、実感がなかった。