青空さんと病院で会ったあの日から数日が経ち、学校は夏休みに入った。と、いっても家にも、そしてこの街にさえ居場所のない私は、夏休みの方が苦痛だった。
偏差値の高い大学を目指しているわけでもないのに、率先して希望者のみの補習や模試の予定を入れたのも、自宅にいたくなかったからで。
蝉の鳴き声と、照りつける太陽の日差しに負けそうになりながらも、制服に着替えて学校に通っていたのはそのためだった。
今日の補習は一教科だけだったので、補習が終わってお昼を食べ終えても、まだ太陽は高い位置にいた。今から帰るとすると、夕方よりはだいぶ早く駅に着いてしまいそうだ。
できれば、もう少し――あと二時間ぐらい時間を潰したいのだけれど、どうしよう……。
少し考えて、それから青空さんの言葉を思い出した。そういえば、図書館をおすすめされたのに結局、あれから一度も行っていなかった。
「せっかくだし、行ってみようかなぁ」
図書館ならクーラーも効いているだろうし、面白い本でもあれば夕方までの時間つぶしになる。そう考えた私は、校舎の外に出て、少し離れたところにある図書館へと向かった。
北上高校の図書館は、校舎の外――広い敷地の奥にあった。青空さんに話を聞いてすぐに行こうと考えた私が、断念した理由がそこにある。私立高校だけあって、北条高校の敷地は広い。ちょっと休み時間に行ってみようかな、と思うには距離があった。
校舎を出てから五分ちょっと、歩いたところにそれはあった。夏休みということもあり、人気のない図書館はひんやりと涼しくて過ごすにはちょうどよかった。これなら、夏休みの宿題を持ってきてここでするのもいいかもしれない。貸し出しカウンターの隣にあった、今月のおすすめ図書から一冊の本を手に取ると、空いているテーブルへと向かった。
読み終えた本を閉じ、伸びをすると時計が目に入った。
「うそ、もう五時!? ……っ」
思わず声に出してしまい、慌てて口を押さえる。幸い、周りには人はいなくて、ホッと息を吐き出した。
それにしても、いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。元あった場所に本を戻すと、私は図書館をあとにした。
翌日も、そのまた翌日も私は補習のあと図書館に向かった。人気のないと思っていた図書館は、私以外にも利用者がいたようで、何カ所かある読書スペースで本を読んでいる人、課題をやっているのだろうか、勉強をしている人、それから涼みに来ているのか寝ている人もいた。私はというと、最初の頃は本を読んでいたけれど、いい加減宿題を進めなければと思い、図書館に通い始めたから一週間が過ぎた頃には、学校に用はないけれど宿題を持ってまっすぐ図書館へと向かうようになった。夏休みなのに毎日学校に通うので定期の更新をしてほしいと言ったら、宿題をするぐらいなら家でも自宅の近くの図書館でもできるじゃない、なんて親からは小言を言われたけれど、別に気にならなかった。
今日も宿題の続きをしようと、誰もいない机に数Ⅰの教科書と、それから問題集を広げた。
どれぐらい時間が経っただろう、気が付くと一つ椅子を挟んだ隣の席に、誰かが座っているのが見えた。いつの間にそこにいたのか……。全然気付かなかった。
そして私は、その子に見覚えがあった。名前はわからないけれど、多分クラスメイトだ。でも、どうしてそこに座っているんだろう。いくつも席は空いているのに……。とはいえ、どうしてそこに座っているの? なんて、尋ねられるわけもなく、私は少し居心地の悪さを覚えながらも、再び宿題へと意識を向ける。そして、そんなことは何回かあった。
別に席が埋まっているわけではないのに、私の、それも一つ席を空けた隣に彼女は座ると、別に何かを話すでもなく、ただそこで本を読んでいた。いったいどういうつもりなのか疑問に思うこともあったけれど、今更聞くこともできず、気付けば八月になっていた。
お盆休みの期間はさすがに学校も開いていなかったので、一週間ぶりに図書館を訪れた。休みに入る前に借りていた本をカウンターで返すと、私はいつものように机に向かうと宿題を広げた。図書館に通っていたおかげで、今年は例年に比べて早く宿題が終わりそうだ。
今までは……。友人たちと遊んだり、部活に精を出したりしていた夏休みを思い出して、胸の奥がどんよりと重くなるのを感じた。
「はぁ……」
気分が沈む。黙々と宿題をする気分ではなくなってしまった私は、新しく入荷していた本を持ってくることにした。
面白そうな本を二冊ほど取って席に戻ると、いつものようにクラスメイトがそこにいた。いつもと違うのは……彼女が宿題を広げていたこと。
ちらっと見ると、問題集を始めたところのようで、まだあと数十ページは残っているようだった。……この時期からやり始めて間に合うのだろうか。
一瞬、そんな思いがよぎったけれど、私には関係ない。
席に着くと、彼女のことなんて気にしていない、そんな態度で私は本を広げた。
「うーーーん」
「…………」
「あれ? これって……。えええーー」
気にしないようにしようとすればするほど、隣から聞こえてくる独り言が気になって仕方がない。再び気付かれないように盗み見ると……どうやら因数分解でつまっているようだった。
そこは、その前の問題の応用で……。あ、違う。そうじゃなくて……。
思わず口から出かかった言葉を、飲み込む。名前も知らない、話したこともないクラスメイトから急に声をかけられても気持ち悪がられるだけじゃないだろうか。たまたまいつも近くの席に座るだけで、別に何の意図もなかったのに、話かけられてホント気持ち悪かった、なんて言われるかもしれない。そんなことになるぐらいなら、何も言わない方が……。
『……俺、頑張るから』
その瞬間、頭の中に、あの日の青空さんの言葉がよぎった。
『逃げないで、頑張るから』
そうだ、青空さんは逃げないって、頑張るんだって言ってた。
私だって、あの日決めたじゃない。もう逃げないって。頑張るんだって。
青空さんに、胸を張って、会えるように。
だから……。
私は、からからに渇いた口を潤すように唾を飲み込むと、口を開いた。
「……そっちじゃなくて」
「え?」
その声に、クラスメイトが不思議そうな顔で私を見た。
拒絶されるかも、そう思うと、やっぱり怖い。ごめん、青空さん。
私はクラスメイトの方を見ることなく、独り言ですよ、とでも言うかのように視線は本に向けたまま、小さな声で呟いた。
「……さっきの問題と同じ……。問いⅠ……」
「問いⅠ……? ……ああ!」
私の言葉に、さっきの問題の応用だと気付いたのか、何かを思いついたかのような声を上げて、それからシャーペンを走らせ始めた。
……それ以降の問題に関しては特にわからないところもなかったのか、シャープペンシルを走らせる音が聞こえていた。
青空さんの頑張ってるのに比べたら、ちっぽけかもしれないけど。それでも、この学校に入って、こんな風に自分から誰かに何かを伝えるのは初めてだったから……。いつの間にかじっとりと湿っていた手をスカートで拭うと、小さく息を吐き出した。そして、すぐそばから聞こえてくるシャープペンの音を聞きながら、私は読みかけだった本の続きに再び視線を向けた。
本を読み終わり、そろそろ帰ろうか。そう思って立ち上がろうとしたとき視線を感じた。
「……ねえ」
声をかけてきたのは、隣の隣の席に座っていたあのクラスメイトだった。彼女は、私の方をじっと見ていた。
「福島さん」
「なに……? えっと……」
「あ、私のことわかる?」
口ごもる私に、その子はおかしそうに笑う。申し訳ないけれど、やっぱり名前は思い出せない。首を振った私に、その子はもう一度笑った。
「やっぱりね。同じクラスだってことは?」
「それは、わかる」
「ならよかったー。私ね、栗原莉緒《くりはらりお》って言うの」
「ゴホン」
話を続けようとした栗原さんの声を遮るようにして、どこかから咳払いをする音が聞こえた。私と栗原さんは顔を見回すと、どちらともなく図書館の外に出た。
「怒られちゃったね」
「だね」
肩に掛かるポニーテールを揺らしながら悪びれなく笑う彼女につられるようにして私も笑った。そんな私に、彼女――栗原さんは嬉しそうに言う。
「さっきはありがとう! 問題、教えてくれたでしょ?」
「あ、えっと……うん。や、別に……」
「あそこ、前にテストで出たときもわかんなくて。だから、助かっちゃった」
ニッコリと笑うと、左頬にえくぼができるのが見えた。屈託ない笑顔を浮かべると、栗原さんは続ける。
「ね、明日も図書館いる?」
「え……。うん、いると思うよ」
思うよ、なんて嘘だ。ホントは明日も明後日も、夏休みの平日はほとんど図書館で過ごしてきたし、これからもそうだ。
そんな私のもやもやなんて気付かないように、栗原さんは言う。
「やった! じゃあ、またわからないところあったら教えてよ」
「私が……?」
「うん。あ、ダメだった?」
「ダメじゃない!」
ダメなんかじゃない。むしろ……。
「私でいいの……? だって、友達でもなんでもないのに……」
私なんかで……。
でも、栗原さんは、キョトンとした表情で言った。
「なら、友達になればいいじゃん」
「え……?」
「私さ、福島さんと話してみたかったんだ」
栗原さんの言葉の意味がわからずにぽかんと口を開けたままの私に、少し照れくさそうに言った。
「……じゃなかったら、あんなふうに毎回同じ机に座らないでしょ」
「あ……」
そう、だったんだ。まさかそんなふうに思っていてくれてたなんて思わなかった。だって、みんな私になんて興味ないんだとばかり……。
「福島さん、今『私になんて興味ないんだと思ってた』って思ってるでしょ」
「っ……」
思っていたことを言い当てられて、言葉に詰まる。そんな私を、栗原さんは笑った。
「それね、逆だからね」
「え……?」
「みんなが福島さんに興味ないんじゃなくて、福島さんがみんなに興味なかったから、だからみんな福島さんに話しかけられなかったんだよ」
「ちが……」
違う、そんなことない。そう言いたかったけれど、心の奥で、その通りだと認める自分自身がいた。
「興味がない、とはちょっと違うかもしれないけど……。でも、ここは私の居場所じゃないから。……そんなふうに思っているのが伝わってきてたよ」
「っ……」
もう、何も言えなかった。
だから私は、その場から逃げるように駆け出した。
「あっ……」
背中に、栗原さんが何か言う声が聞こえたけれど、立ち止まることはないまま、私は駅へと向かって走った。
胸が苦しかった。心が痛かった。
どうしてあんなこと言われなきゃいけないの。私のことなんて、なんにも知らないくせに。何があったかなんて、知らないくせに!
「はあ……はあ……」
全力で走って、汗なのか涙なのかもはやわからない液体が頬を伝う。何がこんなに悲しいのかわからなかった。でも……。
「うれし、かったのに……」
話をしたかったって言ってもらえて、本当はとっても、とっても嬉しかったのに。
自分の中の情けない部分やみっともない部分を見透かされていたようで……。
「もう、嫌だ……」
ぽたぽたと地面に小さな染みを作るしずくを必死に拭うと、私は駅のホームへと向かった。
その日の夜、明日、図書館に行きたくないな、なんて思っていると、朝起きたら熱が出ていた。夏風邪は馬鹿がひく、なんて誰かが言っていたな……。そんなことを思いながらベッドに寝転んでいると、夢を見た。
あの病院の中庭で、頑張るよと言っていた青空さんの夢を。
私も頑張るって決めたのに、結局、私は何かを頑張れているのだろうか。
こんな情けないままの私で、本当に戻ってきた青空さんの隣にいられるのだろうか。
私だって頑張ったと、胸を張って言えるのだろうか。
そんなことを、熱に浮かされながらずっと考え続けていた。
結局、熱が引くまでに丸々三日ベッドの上で過ごすはめになった。熱が下がったのが土曜日の朝だったので、図書館に向かうことができたのは月曜日のことだった。
久しぶりの外出は緊張と、でも開放感でいっぱいだった。けれど、図書館が近づくにつれてあの日の栗原さんとの会話が気持ちを重くしていく。彼女は今日も来ているのだろうか。そしてまた、私の隣の隣の席に座るのだろうか。……ううん、あんなふうに逃げた私のそばになんてもう来てくれないかもしれない。せっかく、話をしたいと思っていたと言ってくれていたのに。
うだうだと考えているうちに、図書館に着いてしまった。意を決して扉に手をかける。が……。
「あれ……」
いない……。
そこに、栗原さんの姿はなかった。
ホッとしたような、少し残念なような複雑な気持ちを抱えながら、私はおすすめの本が置いてある棚へと向かった。新しい本は来ているだろうか。そんなことを考えていると、ガタンッと大きな音がした。
「え……?」
見覚えのない男子が、私のすぐそばに立っていた。どうやらこの男がで乱暴に本を棚に入れて、落としてしまったようだった。男子は落ちた本をちらっと見ると、拾うことなく立ち去っていく。
「…………」
本をこんな風に扱うなんて……。私は、落ちた本を拾うと、本棚へと直した――。
「ちょっと、あなた!」
「…………」
「あなたよ、あなた!」
「え、私……?」
後ろから肩をつかまれて、慌てて振り返った。そこには、司書さんだろうか。真っ白なブラウスに黒のスカート、そして首から吊り下げ札をかけた女の人が立っていた。
その女の人は、凄い形相で私をにらみつけた。
「あなたね! 図書館の本をそんなふうに扱っていいと思っているの!?」
「え……」
「何組の生徒? 担任の先生は? ああ、もう! 本が折れちゃってるじゃない!」
どうやらさっきの男子が落とした本を、私が落としたのだと勘違いしているようで、司書の女性は私が戻した本を取り出すと、折れた端っこを突き出すように私に見せた。
「ち、違います。それ、私じゃなくて……」
「嘘おっしゃい! あなたが乱暴に落として拾うところを見てたんですよ!」
「ちが……。その前にいた男子が落としたから私……」
「人のせいにするの!?」
「だから……」
どうしたら信じてくれるんだろう。頭ごなしに怒鳴られて、周りの視線も痛い。ひそひそと何かを話しているのが聞こえる。きっと、私のことについて言ってるんだろう。
「あ……」
そのとき、視界の隅に、見覚えのあるポニーテールが見えた。あれは……。
「栗原さん……」
けれど、栗原さんは私のことなんて気にとめることもなく、図書館の外へと出て行った。
「っ……」
私が、悪い。あんな態度を取られるようなことをしてしまった私が……。
それはわかっている。でも……!
ギュッと閉じた目からは涙がにじみそうになって、私は図書館の床を見つめた。
けれど、その態度が気に入らなかったのか、目の前の女性はさらに声を荒らげた。
「そうやって泣いたら何でもすむと思ってるの!? 高校生でしょ? ちゃんと謝らないといけないきは謝るの! わかる!?」
わからない。私はやってないのに、どうしてこの人はこんなにも私を怒るんだろう。どうしたらいいの。誰か、誰か助けて……。
「あのー」
「え?」
「何? あなた」
私の背後から、声が聞こえたのはそのときだった。
「栗原さん……」
「誰、あなた」
「その子の友達なんですけど。……その子、なんにもしてないですよ」
「何を言ってるの! 私はさっき……!」
反論されたことにより、さらにヒステリックに叫んだ女性に、栗原さんは言う。
「だって、そんなことする子じゃないですし。それに、ほら」
栗原さんが指さした方へと視線を向ける。そこには、見覚えのある男子と……その男子を引っ張るようにして連れてくる女子の姿があった。
「莉緒ー。捕まえてきたよー」
「ありがとー!」
不服そうな表情の男子は、私を見るとそっぽを向いた。
「怒るんだったらこの人にしてよ。福島さんはこいつが落とした本を拾っただけなんだから」
「……そうなの?」
司書の女性は怪訝そうに私に尋ねる。だから私は、小さく頷いた。
「……っ。そ、それならそうとさっさと言えばいいじゃない。ほら、あなた! ちょっとこっちに来なさい!」
ばつが悪そうな顔で私に吐き捨てると、その人は目の前の男子を連れてどこかに行こうとした――。
「待ってください」
「っ……なにか」
「連れて行く前に、福島さんに言うことがあるんじゃないですか?」
「……っ。勘違いして、ごめんなさいね!」
これでいいでしょ! と、ばかりに早口で言うと、司書の女性は男子を連れてどこかに行ってしまった。
「なーに、あの言い方! もっとちゃんと謝ってよ!」
「栗原さん……」
「酷いよね!」
そうやって怒ってくれる栗原さんの優しさが温かくて……我慢していた涙があふれ出した。
「っ……え、大丈夫? ちょ、ちょっと外行こっか?」
慌てたように私の背中を押すと、私は栗原さんに連れられて図書館を出た。
少し離れたところにあるベンチに座ると「ちょっと待ってて」と言って栗原さんはどこかに行ってしまう。私は、鞄から取り出したハンカチで、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。
「お待たせ」
「あ……」
「水でよかった?」
栗原さんは、ペットボトルのミネラルウォーターを私に手渡すと、隣に座った。いつもより、椅子一つ分近い場所に。自動販売機で買ってきてくれたであろうそれを口に含むと、からっからに渇いた喉を、冷たい水が潤してくれた。
「ありがとう……」
ペットボトルを握りしめたままそう言うと、栗原さんは「どういたしまして」と言って笑った。
ありがとう、じゃなくて、謝らなければいけない。この間の態度を――。ううん、今までの態度を謝って、それで……私と、友達になってって……。
「っ……」
頭ではわかっているのに、声にならない。どうしたら……。
「あの、さ」
「え……?」
私が躊躇っているうちに、栗原さんがこちらを向いた。
「あの、ね……この間は、ごめん!」
「え……」
どうして、栗原さんが謝るの……? だって、悪いのは私で……。私が、自分自身が今を受け入れられずに、みんなに、栗原さんに嫌な思いをさせていたのに……。
「なんで謝るのって顔してる」
「だ、だって……。だって、悪いのは、私だもん。私があんなことを栗原さんに言わせた。栗原さんの言うとおりだよ。私、本命の学校を落ちてここに来て……。それで、どうしてもその事実が受け入れられなくて……。こんなところ、本当は来るつもりじゃなかったのにって。あんなことがなければ、今頃はみんなと一緒の高校に行ってたのにってずっと、ずっとそう思ってた!」
そう、ずっとずっとそう思ってた。――青空さんに、会うまでは。
あの日、青空さんに出会って、どこで学ぶかじゃない。誰と出会うかが重要なんだって、教えてもらうまでは――。
「思ってた、ってことは、今は違うってことでしょう?」
栗原さんは優しく微笑む。
「受験失敗組でも二つに分かれてて、まあしょうがないよね! って通う子と、福島さんみたいにここは私の居場所じゃないって思い詰めて――それで、結局中退しちゃう子とかね」
「っ……」
「最初はね、福島さんもやめちゃうのかなぁって思ってたんだけど、でも途中からなんかちょっと変わった? って、思って。つまらなそうな顔、しなくなったからかな。それで、話してみたいなって思ったんだ」
少しでも、前を向きたいって思ってた。その気持ちを、わかってくれた人が、いたなんて……。
「って、福島さん!? 泣かないで!?」
「あ……」
「ごめんね? 私、言い過ぎちゃった? いつもみんなに言われるの。莉緒はずけずけ言いすぎるって」
慌てたように早口で喋る栗原さんに……私は笑ってしまった。そんな私を栗原さんは不思議そうに見つめていた。
栗原さんは、ちゃんと話をしてくれた。今度は、私の番だ。
「ちが……。そうじゃなくって……うれ、しくて……」
「え……?」
「あり、がとう。……それから、ごめんなさい」
ペットボトルを握りしめる手に力が入る。誰かにわかってもらいたいと、本音を話すことはこんなにも緊張するのだと思い出す。それはあの日、誰にも本当のことを信じてもらえなかった、あの高校受験の日以来、初めての感覚だった。
「この間、図書館で……逃げてごめんなさい。なのに、今日助けてくれて、嬉しかった。……友達だって、司書さんの手前、そう言ったっていうのはわかってる。でも、もう誰も私のことを友達だなんて言ってくれる人はいないって思ってたから、本当に嬉しかった」
「福島さん……」
「図々しいのはわかってる。でも……私と、本当に友達になってもらえると、嬉しいです」
ペコッと音を立ててペットボトルが凹んだ。でも、そんなことよりも……今、隣で栗原さんがどんな顔をしているか、そっちの方が気になって……怖くて……顔を上げることができない。
嫌だ、と言われたらどうしよう。どうしてあんたみたいなのとって、また言われたら……。
「ふっ……ふふっ……」
「え……?」
隣から笑い声が聞こえてきて、思わず顔を上げた。一体どんな顔をしているのか、そう思っていた栗原さんは、笑っていた。目尻に浮かんだ涙を拭いながら。
「栗原さん……?」
「あのね、福島さん。友達って頼まれてなるもんじゃないって知ってる?」
「っ……」
それは、確かに、そうだ……。頼まれてなる友達になんてなんの価値があるのか。そんな義理の付き合いのような友達に……。
「ご、ごめ……」
「ねえ、福島さん。私の名前、覚えてる?」
「……栗原さん?」
「そっちじゃなくて、下の名前」
下の名前……?
「莉緒……」
「せーかい。私さ、友達には名前で呼ばれたい人なんだ」
「え……?」
どういう意味だろう? 言葉の意味がわからず、首を傾げてしまう私に、栗原さんは左頬にえくぼを浮かべて笑うと言った。
「だからさ、莉緒って呼んでよ。私のこと」
「い、いいの……?」
「当たり前じゃん。それにさ、司書さんへの手前友達だって言ったって、そう言ってたけど……」
「違うの……?」
だって、それ以外にどうして……。
でも、私の質問に栗原さんは頬を膨らませると……私の頬を引っ張った。
「ちーがーいーまーすー! この前、図書館の帰りに言ったじゃん。なら友達になればいいじゃんって。忘れちゃった?」
「あ……」
「忘れてたんだ……」
栗原さんは私の頬から手を離すと、ガックリと肩を落とした。
「あれ……言うの勇気いったんだよ」
「そう、なの……?」
「そうなの! ……頼まれて友達になるもんじゃない、なんて格好つけたこと言ったけど……どうやったら福島さんと仲良くなれるかなって、ずっと考えてたんだから」
そんなこと、思ってくれている人がいたなんて知らなかった。あの居心地の悪かった教室で、誰とも喋らず、誰とも関わらず、何のためにここにいるのかわからなかった私と、友達になりたいなんて思っていてくれた人がいたなんて……。
「あー、もう! 恥ずかしい! こんな恥ずかしいこと言うつもりなかったんだからね! わかってる!? ……梓!」
「え……」
「っ――。今、梓って呼んだ? とか、聞き返さないでよね!」
隣に座る栗原さんの顔が耳まで真っ赤になっているのを見て、思わず笑ってしまう。そんな私の態度に気付いたのか、口をとがらせて栗原さんがこちらを向いた。
「なに……?」
「なんでもない。……ありがとう、莉緒」
「っ……べ、別に!」
莉緒はペットボトルを口に含むとミネラルウォーターを一気に飲み干した。さっきよりもさらに赤くなった耳を見て小さく笑うと……私は、空を見上げた。
青空さんに、会いたい。
会って、友達ができたよって伝えたい。
ほんの少しだけど、前に進めたよって。青空さんのおかげだよって。
「…………」
――青空さんは、八月の終わりには退院できると言っていたけれど……。
蝉の鳴き声も、ほとんど聞こえなくなり――もうすぐ夏が終わろうとしていた。
数日後、なんとか夏休みの宿題を終えた莉緒とともに私は教室にいた。夏休み明けだというのに始業式があるわけでもなく、数日後からはじまるテスト範囲の確認と宿題の提出で終わった。
「はぁ……」
「どうしたの? 元気ないね」
「莉緒……」
思わずため息を吐いた私に、莉緒が不思議そうに尋ねてくる。
「何かあった?」
「何か……」
どちらかというと、何もなかったからため息を吐いている。八月末には退院できると言っていたはずの青空さんは、今日の電車には乗っていなかった。
そもそも、退院したらもう病院には通う必要はないから乗ってこないのではないか、と気付いた頃には、電車は青空さんが乗る駅を過ぎていた。
青空さんのお兄さんである車掌さんに聞こうかな、と思ったけれど、今日は違う人が乗っていた。夏休み中は乗る時間が違うからお兄さんに会わないのかな、と思っていたけれど、今日も会えないなんて……。
「何でもない、ことはないけど……」
青空さんのことは、まだ莉緒には話せていない。ううん、青空さんのことだけじゃない。高校受験の件も、だ。私なんかのことを友達だと、そう言ってくれた莉緒だから、いつかは話さなければ、と思っているんだけど……。
「梓?」
「……もうちょっと落ち着いたら、話、聞いてくれる?」
恐る恐る尋ねた私に、莉緒はいつものように左頬にえくぼを浮かべると笑った。
「梓が話したくなったらでいいよ。……友達だから、じゃなくて、梓が本当に話したいって思ったときでさ」
「莉緒……」
私が考えていることなんてお見通しとばかりに莉緒は言う。そんな莉緒だからこそ、いつかちゃんと話したいと思えるんだと思う。
「ありがとう」
「どういたしまして?」
顔を見合わせてくすくすと笑う私たちを、クラスメイトが不思議そうな顔で見つめていた。
「莉緒、福島さんと仲良くなったの?」
「そうだよー。梓のおかげで私、宿題もテスト勉強もバッチリだからね!」
「え、嘘。いいなー! 福島さん、私にも教えてー」
「う、うん。いいよ」
「やったー!」
莉緒の友達だろうか、クラスメイトが何人も私の机の周りに集まってくる。……こんな日が来るなんて、北条に入学した頃は思いもしなかった。ただただ辛くて悲しくて嫌で仕方がなかったのに、こんなふうに誰かと笑える日が来るなんて……。
「莉緒、ありがとう」
周りにいたクラスメイトが去ったあとで、私は莉緒と一緒に教室を出た。突然、お礼を言った私に、莉緒は怪訝そうな表情を向けた。
「……何が?」
「莉緒のおかげで、クラスメイトとも馴染めそうだから……」
入学してから五ヶ月。ようやく、この学校の一員になれた気がする。それは、きっと今隣にいてくれる莉緒のおかげだから……。でも、私の言葉に莉緒は首を振った。
「別に私のおかげとかじゃないよ。多分だけど、みんな梓と仲良くなりたかったんだよ。ただ、梓が近寄るなって雰囲気を出してたから今まで近づけなかっただけで」
「え……?」
私、と……?
「梓、気付いてないと思うけど、雰囲気が柔らかくなったよ。教室にいても、もう居場所がないなんて感じないでしょ? だから、周りの子たちも、梓に話しかけてもいいんだって思ったんじゃないかな」
そうなの、だろうか。私が――私の気持ちが変わったから、だから……? 今まで誰も私に話しかけてこなかったのは、私が嫌われてたからじゃなくて、私が、みんなを拒絶していたから……?
「……でも、きっとそんなふうに周りに思ってもらえるのも莉緒のおかげだよ」
「ちが……」
「違わないよ! ……莉緒がいてくれるから、あの教室で一人じゃないって思えたんだよ。だから、ありがとう」
「な……」
プイッとそっぽを向いてしまった莉緒の耳が赤くなっているのを見て、私は笑った。そんな私を見て莉緒も笑った。
私たちは校門を出たところで別れた。莉緒は隣町に住んでいるらしく、学校のそばのバス停からバスに乗るんだと、夏休み中、図書館からの帰り道に聞いた。
私は駅までの道のりを一人で歩き、タイミングよく来た電車に乗った。一人で乗る電車は退屈で、でもほんの少しそれに慣れてきたことに寂しさを覚える。青空さんはいつ戻ってくるのだろうか。
青空さん、私、学校で笑ってるよ。友達と笑い合ってるよ。
早く会って伝えたい。
青空さん……。
「梓」
「え……?」
最初、青空さんのことを考えすぎて、幻聴が聞こえたんだと思った。でも、降り立った最寄り駅のホームにいたのは、間違いなく青空さんだった。
「梓!」
「青空さん……!」
駆け寄った私は――青空さんの姿に、言葉を失った。だって……青空さんは……。
「青空、さん……」
「ただいま」
「青空さん……」
おかえり、と言いたいのに開いた口からうまく言葉が出てこない。青空さんは、車椅子を器用に操作すると、私の方へと近づいた。
「歩けなくなっちゃった」
「どうして……」
「……思ったより悪化しててね。切断は免れたんだけど、自力で歩くのが厳しくて……」
青空さんは苦笑いを浮かべながら左足に触れるとそう言った。
「悪化って……。大丈夫なの……?」
「うん。大丈夫になるように、こうなったんだ」
「そ、う……なんです、か……」
なんて言っていいかわからなかった。だって、大丈夫なわけないじゃない。歩けないなんて、大変なことになったのに……。
「梓」
「……ぅ」
「そんな顔、するなって」
青空さんは手を伸ばすと、私の頬を両手で挟んで、それから笑った。
「俺なら大丈夫だから。今って、バリアフリーも進んでて、意外と不便じゃないんだよ。ここだって、エレベーターがあるし」
「青空さん……」
「だからさ、――そんな可哀想な人を見るような目で、見ないで」
「あ……」
そう、だ……。青空さんがこうやって笑っているのに、私が暗い顔をしていてどうするの。辛いのは、悲しいのは私じゃない。青空さん自身なんだから。
「ごめ……」
「謝るのもなし」
「……はい」
「よろしい」
そう言って青空さんは笑う。だから、私も……青空さんに負けないように、満面の笑みを浮かべた。
ちょっと話そうか、青空さんはそう言って器用に車椅子を反転させると、進み始めた。ホームの端のベンチには誰もいなくて、私はベンチに、青空さんはその隣に車椅子を止めて並んで座った。
青空さんが隣にいる、それだけで心臓がドキドキと音を立てる。……でも。
「これ、気になる?」
「あ……」
私の視線に気付いたのか、青空さんが困ったように笑う。気にならない、と言ったら嘘になる……。だから、私は小さく頷いた。
「だよね」
「ごめんなさい……」
「いや……。ここで『気にならない』って言われる方が、気を使われてるんだろうなって思うから。むしろ、本当のことを言ってくれた方がいいよ」
青空さんは悲しそうに微笑む。今、こんな顔をさせたのは、私だ……。
――何を怖じ気づいていたんだろう。足がなくなったって、青空さんは青空さんだ。
私が前を向くきっかけをくれた、大事な人だ――。
「青空さん!」
「ん?」
「私ね、同じクラスに友達ができたんです」
突然の私の言葉に、青空さんは一瞬驚いたような表情をしたあと、嬉しそうに笑った。
「本当に!? うわー、よかった。頑張ったね」
私の頭を優しく撫でると、青空さんは本当に嬉しそうにそう言ってくれる。だから……。
「はい! ……青空さんのおかげです」
「俺の?」
青空さんは不思議そうに首を傾げた。そんな仕草が妙に可愛くて笑ってしまう。私は、隣に座る青空さんの手をそっと握りしめた。
「青空さんが、俺も頑張るって言ったから。だから、私も頑張ろうって思えた。手術を頑張る青空さんに負けないように、今度会うときに胸を張って会えるような自分になりたいってそう思って」
そこまで話して、一呼吸置いた。息を吸い込むと、心臓がいつもよりもうるさいのがわかる。緊張している。でも、この緊張は、嫌なものじゃない。
「青空さん、私に話したいことがあるって言ってくれてたでしょう。その前に、私も青空さんに言いたいことがあるんです。……先に話してもいいですか?」
「……うん」
もう、バレてるかもしれない。でも、それでもきちんと自分の口で伝えたかった。
「青空さんが好きです。青空さんがいてくれたから、私は一歩踏み出すことができた。あの日、電車の中で青空さんが言ってくれた言葉が、私の世界を変えた。真っ暗でもう何の希望も未来もないと思っていた私に、見方を変えてくれた。こんなにも世界がきらめいていたんだって教えてくれた」
「梓……」
私の手を、青空さんは握り返してくれない。ダメだったのだろうか……。もしかしたら、青空さんの話というのも同じものではないか、そんな都合のいいことを思ったこともあったけれど……。
「青空さん……」
やっぱり、一方的に、私が青空さんを想っていただけだったんだ。
「ごめんなさい……」
私は、握りしめていた青空さんの手をそっと離した。
「……梓!」
「え……?」
けれど、その手を、青空さんは握りしめた。私の手を、強く、強く握りしめた。
「ごめん、梓。俺……っ」
握りしめられた手は、熱くて、そして小さく震えていた。
「自信がなかった。今日会ったら、梓に気持ちを伝えようって、君と会って俺がどれだけ救われたか。梓のことが、どれほど好きか……そう想っていたのに……」
「せい、あ……さん……」
青空さんの瞳からは、涙があふれていた。その涙が、頬を伝い、重なった私たちの手の甲へと落ちる。
その涙はとても温かくて、綺麗だった。
「こんな足になって、梓の隣を歩くこともできない。梓に助けてもらうことしかできないのなら、いっそ気持ちを伝えずにこのまま友達でいた方がいいんじゃないかってそう思って……」
「そんなこと……っ」
「うん……。梓、これから俺と一緒にいると大変なこともたくさんあると思う。行けない場所だってたくさんある。周りの目だって気になるかもしれない。でも、それでも……こんな俺と、一緒にいてくれますか……?」
青空さんの言葉に、次から次へと涙があふれてきて言葉にならない。こんなに嬉しいのに、涙が止まらない……。
「っ……あ……せ、いあ……さ……」
「好きだよ、梓。俺は、梓のことが大好きだ」
青空さんは両手を広げると、優しく微笑んだ。
「おいで」
その言葉に、私は広げられた青空さんの腕の中に飛び込んだ。
青空さんの腕の中は、優しくて、温かくて……まるでお日様に抱きしめられているみたいだった。
――どれぐらいそうしていただろう。私たちはそっと身体を離すと、顔を見合わせて笑った。照れくさくて、恥ずかしくて笑うことしかできなかった。
それから、青空さんはこれからのことについて話し始めた。
「手術が終わったから、これからは以前ほど病院には行かなくてよくなったんだ」
「そうなんですね……」
よかったような、寂しいような……。
「っ……!」
病院に行かなくてよくなったことはいいことなのに、一緒に電車に乗れなくなることが寂しいだなんて、自分勝手もいいところだ……。
私はみっともない気持ちを抑えつけたくて、手のひらをギュッと握りしめた。
でも、そんな私の隣で、青空さんは笑った。
「ちょっと残念だけどね」
「え?」
「せっかく二時間も梓のことを独り占めできる時間だったのにさ」
「せ、青空さんっ!」
青空さんの言葉に、頬が熱くなるのを感じた。慌てて顔を両手で隠すけれど、そんな私を青空さんはわざと除き込んでくる。
「え、梓は違った? そっか、そう思ってたのは俺だけだったんだね」
「ち、ちが……。そんなこと……」
ない、と言おうとした私を――青空さんが笑いながら見ていることに気付いた。これは、もしかしなくても……。
「青空さん……。もしかして私のこと、からかってます??」
「ん? なんのことかな?」
おかしそうに笑う青空さんに、もう! と、想ったけれど、でも……青空さんが笑っていることに安心したので、からかわれたことはどうでもいいような、そんな気持ちになった。でも、何も言わない私に、青空さんは不安そうな表情を見せた。
「梓? 怒った? ごめん、からかうつもりはなかったんだけど、梓の反応が可愛くてつい……」
「…………」
「梓? 梓ちゃん? あーずーさー……?」
「ふふ……」
思わず笑ってしまった私に、青空さんも笑う。
「嵌められたー!」
「先に意地悪したのは青空さんですー」
「……それも、そうか」
顔を見合わせて笑う、そんな他愛もない時間が幸せなんだと、初めて知った。こんな時間が続いてほしい。たとえどんな困難があったとしても、青空さんとなら乗り越えられる気がする。ううん、そうであってほしい。
「あーおかしい。……で、なんだっけ。あ、そうだ。病院には行かなくなったから朝は会えなくなるんだけど、その分……土日にデートしませんか?」
「デート……?」
「そう。デート。……嫌?」
「嫌じゃない!」
青空さんの言葉を遮るようにして言う私に、青空さんはもう一度笑った。今日だけで、何度も青空さんの笑顔を見た気がする。これからたくさんの時間を一緒に過ごすことができれば、もっといろんな青空さんの顔を見ることができる。それが嬉しくて、幸せで、胸の中が温かくなる。
「じゃあ、土日は一緒にいろんなところに行こう。平日は会えない分、いっぱい会おう」
「平日……。そうですよね、朝会えないとなるとそうなりますよね……」
通学に二時間かかる私は、授業が終わってから帰ってくると六時……遅いときは七時過ぎにになる。それから会うとなると、私の両親はいい顔をしないだろう。たとえ、私に対して無関心を貫いていたとしても。
「ごめんなさい、私のせいで……。学校がもっと近かったら……」
「梓だけのせいじゃなくて」
でも、私の言葉に、青空さんは困ったような表情を浮かべた。
「梓に会いたいから終わる時間に学校まで迎えに行く、なんてことができたらいいんだけどね……。この足で外出するとなると、やっぱり家族に心配も負担もかけるから」
「あ……」
「今日も、本当のこと言うとこの駅まで兄に送ってもらったんだ。たまたま仕事が休みだったから。慣れたら大丈夫かもしれないけど、今はまだ、ね」
「ごめんなさい……」
少し考えればわかることだ。八月に手術して、今はまだ九月になったところだ。青空さん本人も大変だろうし、ご家族だって心配に決まっている……。
なのに、そんなことも考えずに私は、私のことばかり考えて……。
「謝らせたい訳じゃないんだ。……それに、俺だって休日以外も梓に会いたい。だから、会えるように頑張るから、もう少しだけ待ってくれる?」
「無理、しないでくださいね?」
「心配しないで」
そう言って青空さんは私の頭を優しく撫でた。
そのあと、お互いの連絡先の交換をしたり、会えなかった間の話をしたりしていたけれど、そのうち青空さんのスマホに連絡が入った。どうやらお兄さんからだったようで、そろそろ帰らなければいけないと画面を見ながら残念そうに青空さんは言った。
「もう少しいたかったけど……ごめんね」
「そんな……。会えただけで、嬉しかったです」
連れてきてくれたお兄さんのおかげで会うことができたのだ。感謝することはあっても、文句なんてあるわけがない。それは青空さんも同じだったようで「まあね」と言って笑った。
「でも、今日会えてよかった」
お兄さんはホームの外で待っているらしく、私は車椅子を器用に操る青空さんの隣を歩いていく。
「そうですね。今日会えなかったら次のお兄さんの休みまで会えなかったかもしれないですもんね」
「それも、あるんだけど……」
青空さんはなぜか視線をそらすと、口ごもる。どうしたというのだろう?
「青空さん?」
もう一度、尋ねた私に青空さんは渋々口を開いた。
「……今日、俺誕生日なんだ」
「えっ!?」
「だから何? って感じだよね。恥ずかしいな、俺」
驚く私に、青空さんは照れくさそうに笑う。
「でも……。やっぱり今日、梓に会いたいなって思って。それで、本当に会えたから嬉しくて」
「そ、そんなの……知ってたらプレゼントとか……」
「プレゼントなら、もうもらったよ」
「え?」
嬉しいもの……? でも、青空さんになんにもあげてないのに……。思い当たるものもなく首を傾げた私に、青空さんはおいでおいでと手招きをする。その手に誘われるようにして近づくと――青空さんは私の手を引っ張った。
「きゃっ」
突然のことにバランスを崩した私は、気が付くと青空さんの腕の中にいた。
「ご、ごめんなさ……」
「こうやって、梓が俺のそばにいてくれることが、一番のプレゼントだよ」
「え……」
「もう一度、梓に会いたいって、ずっとそればっかり想ってた。だから、こんなに幸せな気持ちにしてくれた梓がそばにいてくれること以外に、欲しいものなんてない」
「青空さん……」
私は何も言えなかった。言えば、涙があふれてしまいそうだったから。
「でも……」
「え?」
私の耳元で、青空さんがまるでいたずらを思いついた子どものような声で言った。さっきまでとは違う声のトーンに思わず顔を上げた私は、ニッコリと笑う青空さんと目が合った。
「梓が何も用意してないってしょんぼりするぐらいなら」
「ぐらいなら?」
「好きだって、もう一回言って?」
「っ……!?」
真っ赤になった私に、追い打ちをかけるように青空さんは続ける。
「もう一回聞きたい」
「なっ……」
「ダメ?」
「ダメ!」
身体を押すようにして立ち上がると、私は青空さんに背中を向けた。頬だけでなく、耳まで熱くなっているのを感じる。ちらっと後ろを見ると、青空さんはニコニコと嬉しそうに笑っていた。
「梓、可愛い」
「可愛くないです!」
「可愛いよ」
青空さんの言葉が恥ずかしくて、顔を見ることもできない。そんな私の隣に並ぶと、青空さんはそっと手を握りしめた。
「梓」
「…………」
「ごめんね? からかい過ぎちゃった」
「…………」
「梓ー?」
青空さんは少し心配そうに私の顔をのぞき込む。だから、私は……。
「っ……!」
「えっ……ええっ!?」
「さっきの仕返し!」
一瞬、唇の触れた頬に手を当てると、青空さんは私に負けないぐらい真っ赤な顔で、口をパクパクとしながら、声にならない声を出す。私だって恥ずかしくて仕方なかったけど、何でもないふりをしながら青空さんの手に手のひらを重ねた。
「…………」
でも、やっぱり顔を見ることができなくて、お互いにそっぽを向いたままその場から動けずにいた。
どうしよう……。
困っている私たちを救うように、青空さんのスマホが鳴った。
「……兄が着いたって」
「そうなんですね……」
「うん……。行こうか」
私たちは歩き出す。普段は階段で下りるところを、駅の奥にあるエレベーターを使って下に降りた。駅の外は相変わらず日差しが熱い。けれど、どことなく風は秋の匂いがしていた。
「青空」
「兄ちゃん」
目の前に止まった車が窓を開けると、そこには――私服姿の車掌さんがいた。制服姿しか見たことがなかったので少し不思議な気分……。
そんなことを考えていると、エンジンを止めたお兄さんが車から降りてきた。
「お待たせ……って、何その顔」
「別に……!」
「ちゃんと会えてよかったな」
幼い子どもにするように、頭を撫でるお兄さんの手を、青空さんは鬱陶しそうに払う。そんな青空さんの態度に少しビックリした。こんな顔もするんだなぁ……。
「やめろよ」
「えー。なに? 梓ちゃんの前だから格好つけてんの?」
「ちが……!」
「ほら、梓ちゃんに笑われてるぞ」
こらえようと思ったのに、気が付くと笑ってしまっていた私を見てお兄さんは言った。
「っ……。ごめん、格好悪いところ見せた」
少し赤くなった頬を隠すように腕で顔を覆う青空さんは、なんだかとても可愛くて私はもう一度笑ってしまう。そんな私の態度に、青空さんは恨みがましい視線をお兄さんに向けた。
「もういいって」
「ごめん、ごめん。なんか青空のそんな態度、珍しいから」
お兄さんは笑うと、後部座席のドアを開けた。開いたドアの横に車いすをつけると、青空さんは起用に車の中へと移動していく。ときおり、お兄さんに手伝ってもらいながらも、少しでも自分でできることは自分でしよう、と思っているであろう青空さんの気持ちが伝わってくる気がした。
車に乗り込んだのを確認すると、お兄さんは運転席へと移動した。エンジンをかける音が聞こえると、青空さんは車のドアを閉めて窓を開けた。
近くにいるはずなのに、ドア一枚しか隔ててないはずなのに、こんなに寂しく感じるのはどうしてだろう。昨日まで、ずっと会ってなかったのに、会えた途端、こんなにも別れが辛い。
俯いてしまった私の頭を、青空さんの手が優しく撫でた。
「それじゃあ、また」
「はい……」
頷くと同時に車が動き出す。あっという間に見えなくなった車の姿を、動けないままずっと見つめ続けていた。
いい加減、帰らなきゃ。ようやくそう思えたのは、真っ赤な夕日があたりを照らし始めた頃だった。ふわふわとした気持ちと、ショックな気持ち、それからほんの少しの寂しさがごちゃまぜになって、どうしたらいいのかわからない。
青空さんと付き合えることになって嬉しいはずなのに……。
「あれ……?」
トボトボと歩き始めた私は、スマホに一通のメッセージが届いていることに気付いた。送り主は……。
「青空さん?」
アプリを開くと、そこには聖愛さんからのメッセージがあった。
『いろいろビックリさせたと思う。でも、梓のことが好きで、一緒にいたいっていう気持ちに嘘はないから。これから二人でたくさんの思い出を作っていこう。大好きです』
送信時間は、今から十五分も前。車が出発してすぐに送ってくれたんだろう。青空さんを見送った私が、きっとしょんぼりしてるだろうと思って……。
「青空さん……」
だから私も、一言だけメッセージを送った。
『私も、青空さんが大好きです』
と――。
送ったメッセージに既読を示すマークがついたのを確認して、私は前を向いて歩き出した。これから先、たくさんの楽しいを青空さんと作っていくんだ。
沈み始めた夕日を、見つめながら。
付き合い始めたあの日から、私は週末になるのを心待ちにしていた。メッセージアプリではやり取りをしているけれど、やっぱり実際に会いたい。電話で話はしているけれど、直接声を聞きたい。そう思うのは仕方のないことだと思う。
「早く明日にならないかな」
『そうだね、梓に会いたいよ』
「私も青空さんに会いたいです。……っ」
思わず言ってしまった言葉に恥ずかしくなる。つい昨日も青空さんに「あの日はあんなにだいたんだったのに」なんて笑われるたけど、あれはきっと青空さんに久しぶりに会えて、そして付き合えることになってどこかハイになっていたんだと思う。じゃないと、あんな……あんなこと……。
『梓? どうかした?』
「あっ、う、ううん。なんでもないです!」
突然、無言になってしまった私を、青空さんが心配そうに尋ねた。誤魔化そうと慌てて返事をするけれど……電話の向こうから青空さんの笑い声が聞こえた。
「……青空さん?」
『梓のことだから、またあの日のこと、思い出してたのかな? と、思って』
「っ……!」
言い当てられたことが恥ずかしくて、私は思わず電話を枕に押し付ける。けれど、そんな私の行動さえお見通しとでも言うように、枕の下から漏れ聞こえる青空さんの笑い声。
『ごめんってば』
「声が笑ってます」
『ごめん、ごめん。梓の反応が可愛くてつい、ね』
「もう……」
こんな会話を、あの日から毎日のように繰り広げている――なんていうと、バカップルだとか頭がお花畑だとか言われそうだけれど、私はいたって真剣で……。でも、恥ずかしくて仕方がないのに、その照れくささすら心地いい気がするのは、どうしてだろう。
『あ、ごめん。そろそろ切るね』
時計を見ると、十時を過ぎていた。そろそろ電話をやめないとまた……。
「ごめんなさい。うちの親がうるさくて」
『いや、あれは俺が悪いよ。あんな時間まで喋ってたら怒られても仕方ないし』
青空さんと付き合うようになった翌日、初めて電話をしたとき、あまりの嬉しさか私たちは電話を切ることを忘れてしゃべり続けた。そろそろ切らなければいけない、それはお互いわかっていたのに、切りたくなくて気付かないふりをしていた。……お母さんが部屋のドアを開けるまでは。
「何時だと思ってるの!」そう言われて時計を見ると、日付がちょうど変わった頃だった。突然の乱入者に慌てた私たちは、挨拶もそこそこに電話を切ったのだった……。
「でも……」
『そういえば、お母さんとその後どう?』
「……前よりは、マシだと想います」
私が高校に落ちたことに劣等感を抱いていたように、母親も悩んでいたんだと今ならわかる。それは私が落ちたこともだし、カンニングという冤罪についてもそうだ。でも……。
口を開こうとしたそのとき、部屋にノックの音が響いた。
「ご、ごめんなさい。母親かも」
『うん、それじゃあまた明日』
いつもなら名残惜しいはずのその言葉もそこそこに電話を切ると、私はドアに向かって返事をした。
「はい」
ドアの開く音と同時に、母親が顔を出した。
「……電話中だったの?」
「まあ……」
「そう」
何の用だろう。遅くまで電話して、って言われるほど遅い時間でもないし……。
いぶかしげに見つめていると、母親は私の勉強机の椅子を引っ張り出して座った。
「……お母さん?」
「梓、最近楽しそうね」
「……え?」
こんな時間まで浮かれたように電話をしていることに対しての嫌味か何か? と、一瞬思った。でも……。
「うん、楽しいよ」
素直に、そう答えることができた。
青空さんと出会って、世界の見え方が変わった。自分の思考がどれだけちっぽけだったかに気付けた。受験に落ちたからなんだ。誤解されたからってなんだ。そんなことにずっと囚われたままでいるよりも、今を全力で楽しんで生きていく方が何倍もいい。
そう私に気付かせてくれたのは、青空さんだった。だから……。
「そうなのね」
私の返事に、母親は微笑むだけだった。
もしかしたら、この人はこの人なりに私のことを心配していたのかもしれない。みんなが行くはずの学校に行けず、友人たちからは信じてもらえず、この街で生きづらさを感じたまま過ごさなければいけない私のことを。
そんなことを考えていると、母親が少しためらいながら、それでも口を開いた。
「――さっきの電話、彼氏?」
「え?」
「この間、電話してたのも同じ子?」
「……うん」
なんとなく、親に彼氏の、好きな人の話をするのは恥ずかしくて、つい返事に戸惑ってしまう。でも、そんな私の態度なんて気にならないようで、母親は話を続けた。
「そう。……どんな人?」
「どんなって……」
どんな人……。優しくて、温かくて、私のことを想ってくれてて、それで……。
「前を向いている人」
「前を?」
「うん。苦しい時でも、辛い時でも前を向いて頑張ってる人。……私が前を向くきっかけをくれた人」
青空さんがいなかったら、莉緒とも、他のクラスメイトとも未だに話ができてなかったかもしれない。クラスの中で一人、誰ともかかわらないままだったかもしれない。でも、青空さんが教えてくれたから。前を向いて一歩踏み出すことの大切さを。
「そう、素敵な人なのね。……お母さんも、いつか会ってみたいわ」
「……いつか、ね」
私の返事に、母親は少し意外そうな顔をして、それからもう一度微笑んだ。
用はそれだけとばかりに、部屋を出て行こうとする母親の背中に、私は声をかけた。
「お母さん!」
「……なに?」
「私ね、友達もできたし、学校楽しいよ。だから、もう大丈夫だよ」
「――そう。なら、よかった」
母親の声が涙声になっているのに気付いたけれど、私はもう何も言わなかった。
早く青空さんに会いたい。
会って、あなたのおかげで母親と――お母さんと仲直りすることができたよって、伝えたい。
「早く、明日にならないかな」
天気予報は晴れ。明日は――青空さんとの初デートだ。
翌日、九月にしては良すぎる天気に、片付けそびれていた夏物のワンピースを着ると、カーディガンを羽織って家を出た。今日の待ち合わせは青空さんの最寄り駅だった。
普段は降りない駅で降りると、私は改札へと向かった。
休日の駅はたくさんの人がいた。青空さんはどこだろう、きょろきょろと辺りを見回すと、青空さんは改札から少し離れたところにいた。
「っ……」
駅は人であふれているのに、車いすに乗る青空さんの周りにはぽっかりと誰もいない空間ができていた。配慮して開けてくれている人もいるだろう。でも、どこか邪魔そうに、露骨に迷惑そうにそこを避けて歩く人もたくさんいたから……。
「青空さん!」
「梓?」
わざと明るい声で名前を呼ぶと、青空さんがパッと顔を上げてこちらを見た。私が駆け寄ると、周りの人がジロジロとこちらを見るのが分かった。でも、気にするもんか。
「待たせちゃいました?」
「今来たところだよ」
お決まりの台詞を言い合うと、私たちは顔を見合わせて笑った。
「行こうか」
青空さんは車椅子のタイヤに手を添える。……私は、そんな青空さんの背後に回った。
「梓?」
「これ、私が押してもいいですか?」
それは、この一週間ずっと考えていたことだった。この間は隣を歩いたけれど、青空さんと一緒にこれから先も出かけるのであれば、きっと私が押すことで手伝えることもあるはずだ。
「でも……」
「私が押すのじゃ不安かもしれないけど……少しでも、青空さんの助けになりたくて」
「…………」
私の言葉に、青空さんが振り返った。その表情は曇っている。
「言ったよね? 可哀想だって想われたくないって」
「思ってないです」
「嘘だ。思ってないならどうして……」
「青空さんのことが好きだから」
青空さんが息を呑むのがわかった。でも、きちんと伝えたい。私の想いを。覚悟を。
「これから先も青空さんと一緒にいたいから。青空さん一人じゃ乗り越えられないことがあったとしても、二人なら乗り越えられるかもしれない。私が青空さんに助けられたように、今度は私が青空さんの助けになりたい」
「……梓」
「ダメ、ですか……?」
俯いてしまった青空さんに不安になる。思い上がりだっただろうか。私なんかが、青空さんの助けになりたいなんて……。
「……ない」
「え?」
「ダメじゃない」
青空さんは振り返ると、泣きそうな顔で笑っていた。
「ありがとう」
そんな青空さんに首を振ることしかできなくて、私は車椅子のグリップを握りしめる手に力をこめた。
「……それじゃあ、お願いしようかな」
「はい」
私は足を踏みしめると、車椅子を押して歩き出した。一歩、また一歩と私が歩くと、車椅子も進んでいく。
きっとこれが本当の意味での、私たちの始まりなんだ。
本当は不安もまだまだある。段差はどうしたらいいのか、とか階段しかないようなところはどうするのかとか。でも、それでも私たちは進まなければいけない。二人で、乗り越えていかなければいけない。
私は顔を上げると、私たちの進む先を見つめた。
私は、手元のプリントと渡されたチケットを見つめたまま、かれこれ数十分悩んでいた。
「梓、どうしたの?」
「莉緒……」
授業が終わったというのに動かないでいる私に莉緒は不思議そうだ。周りを見回すと、教室にはもう私たちの姿しかなかった。そりゃそうだ。ホームルームが終わってからすでに三十分は経っている。普段なら私だってもう教室にいない時間だ。
それなのに、どうしてここにいるかというと……。
「文化祭のチケット?」
手の中のそれを見た莉緒は余計に不思議だとでも言うかのように首を傾げた。
「それがどうかしたの? あ、もしかして彼氏誘うとか? 来たら紹介してね! 梓の彼氏見てみたい」
「……それが、迷ってて」
「どうして? 他校に彼氏がいる子は結構誘ってるよ? 一般公開は土曜日だし」
「うん、そうなんだけど……」
言いよどんでしまうのは、莉緒のことを信用していないからじゃない。ただ、どんな反応をされるかが不安なだけで……。
不安……?
私は、自分自身の思考が信じられなくて、ショックを受けた。今の言葉は、莉緒にも、そして青空さんにも失礼だ。
決めたじゃない。二人で一緒に進んでいくんだって。二人で乗り越えていくんだって。
「あの、ね。莉緒には言ってなかったけど」
「うん?」
「私の彼氏……青空さん、病気で足が動かなくて、それで……車椅子に乗ってるの」
「…………」
無言になる莉緒に、私は俯いてしまう。なんて弱い覚悟なんだろう。でも、莉緒だから。莉緒にだから受け入れてほしいし、受け入れてもらえるって信じている。
信じているけど……。
私は、そっと顔を上げると、莉緒を見つめた。莉緒は――首を傾げた。
「で?」
「え……?」
「それでどうしたの? あ、バリアフリーの問題? そうだよね、外は大丈夫でも校舎の中は階段で移動だもんね。どうしよっか、一度担任に相談してみる?」
「…………」
「梓?」
思った以上の反応に、今度は私が言葉を失う番だった。
「どうしたの? あ、周りの視線が気になるとかそういう話だった?」
「あ、ううん……。バリアフリーの話であってるんだけど……。ビックリ、しないの?」
「何に?」
ビックリする意味がわからないとでも言うかのような返答に……私はおかしくなって、思わず笑ってしまう。不安になんてなる必要なかった。信じて、よかった。
「なんでもない」
「えー? 何笑ってるの?」
「なんでもないって。そっか、担任に相談したらいいんだね」
来てもらいたいけどどうしたらいいんだろう、そればっかり思っていたけれど。そうか、相談してみればいいんだ。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
「今から行く?」
「着いてきてくれるの?」
「用もないし。それに誰かが一緒に行ってくれる方が心強いでしょ?」
「莉緒……」
友人の優しさに、胸が苦しくなる。こんなふうに言ってくれる友達が、私にもいた。けれど、彼女たちはみんなあの一件で離れてしまった。そのことを、今もなお莉緒に打ち明けられずにいた。
もしも、莉緒にあのことが知られたときに、どんな反応をされるのかが、怖い。莉緒のことを信じているなんて言ったくせに、もしもまた、莉緒もあの子たちと同じように離れて言ってしまったらと思うと――私は怖くて仕方がないのだ。なのに、そんな私に莉緒は優しくしてくれる。こんな、秘密を持っている私に……。
「梓?」
「……ううん。ありがとうね、莉緒」
「これぐらい、なんともないよー」
隣でニコニコと笑ってくれる莉緒を見ると、罪悪感でいっぱいになるのに……私はそんな莉緒になんでもない顔をして笑いかけた。
「それじゃあ行こっか」
莉緒と一緒に教室を出ると、私は職員室へと向かった。
「せんせー」
「どうした?」
「あのね、梓が聞きたいことがあるんだって」
担任を見つけた莉緒は、まるで友達にでも話しかけるように先生に言う。こういう風に喋れるのは莉緒の凄いところだと思う。馴れ馴れしいというよりは親しみをこめて、そして言われた相手にも嫌な気持ちにさせない。私には真似できない。
「おう、福島。どうした?」
「あ、えっと……校内のバリアフリーについて、聞きたいんですけど……」
「バリアフリー?」
私の質問に、先生の頭にはてなマークが浮かんでいるのがわかる。説明の仕方を間違えた……。どうすれば……。パニックになりそうな私に、莉緒は助け船を出してくれた。
「文化祭でね、梓が招待したい人が車椅子に乗ってるんだって。でも、うちの教室って三階でしょ? だから、どうしたらいいかなって」
「ああ、そういうことか。事前に言ってくれれば、職員室内にあるエレベーターを使ってもらうことができるぞ」
「……職員室の」
「エレベーター?」
今度は私と莉緒がはてなマークを浮かべる番だった。職員室に、エレベーターがあるなんて聞いたことない……。
「普段は使用禁止なんだが、事情があって階段を上れないときや車椅子の生徒には使用を許可してるんだ。ちなみに、職員室横のトイレに多目的トイレが設置されてることは知ってるな?」
「……知ってた?」
「知らなかった」
「お前らなぁ……」
顔を見合わせる私たちに、先生はため息を吐いた。
「どっちも入学のパンフレットに書いてあるぞ」
「あー……読んだような、読まなかったような」
「……私も」
本当はパンフレットなんて読んだことも見たこともなかったけれど、莉緒に合わせてそう言った。そんな私たちに、先生は本日二度目の大きなため息を吐いた。
「あれ、俺が作ったやつなんだから、そんなこと言わないでくれよ」
「先生が作ったの?」
「そう。頼まれて。……って、まあそんなのはどうでもいいんだ。福島、車椅子の人でも安心して来てもらえるようになってるから、呼びたい人がいるなら来てもらえよ」
「ありがとうございます」
これで、何の心配もなく青空さんを文化祭に呼ぶことができる。ホッと息を吐き出すと、莉緒が嬉しそうに私の手を握った。
「よかったね、梓」
「ありがとう、莉緒」
「私、着いてきただけだし」
なんてことないよ、と言うかのように笑う莉緒に上手く笑い返すことができない。
「梓?」
思わず俯いてしまった私に、莉緒は不思議そうに首を傾げる。そんな私たちに、先生は机の中から何かを出すと、差し出した。
「何これ」
「紙?」
「購買のジュース引換券だ。この間、買おうと思ったらちょうど冷えてなくてな。お詫びにともらったんだが、お前らにやるよ」
「え、なんで?」
莉緒は怪訝そうな表情をしていたけれど、私は……もしかしたら先生は全部知っているのかもしれないと、そう思った。知ってて、それで話をしろと言ってるのかな、と……。
「ありがとう、ございます」
「なんか、よくわかんないけどありがとうございますー。そしたら、これ引き換えに行こう」
「うん」
私は先生にペコリと頭を下げると、莉緒と一緒に職員室を出た。まだ開いていた購買でジュースを引き換えると、私たちは中庭へと向かった。肌を撫でる風が心地よくて、気持ちが落ち着いていく。今なら、話せるかもしれないと、そう思った。
「梓? 飲まないの?」
ベンチに座ったあともジュースを開けることなく黙り込んでいる私を、莉緒は心配そうに見つめる。私は……ジュースをベンチに置くと、莉緒の方を向いた。
「……私、ね。莉緒に話せてないことがあって」
「うん……」
「もしかしたら、その話を聞いて、莉緒が私のことを嫌になるかもしれない。でも……莉緒に聞いてほしいの。知ってほしいの。……できれば、私のことを信じてほしい。でも、もし無理でも……」
「信じるよ」
「え……?」
莉緒は、真剣な口調で言った。
「梓が嘘を吐くわけないって、私知ってるから。だから、梓が言うなら信じる」
「莉緒……」
まだ、何も話してないのに、なのに信じると言ってくれた。私が言うことだから、無条件で信じると。そう言ってくれた。もう、それだけで嬉しくて、涙があふれてくる。
「あり、がとう……」
「聞かせてくれる……?」
「うん……。あのね……」
私は、あの日の事を話し始めた。今もなお、私の心の奥で燻り続けているあの出来事を。
「っ……なに、それ! 酷い!」
「莉緒……」
話し終えた私の隣で、莉緒は怒っていた。試験官の先生に、過去の友人に。
「どうして誰も梓の話を信じないの!? 庇わないの!? 一人ぐらい、先生に抗議してくれたっていいのに!」
「それは……」
あの状況で私を庇えば、その子まで退出させらされていただろう。そんなこと……。
「でも! 友達がそんな風に濡れ衣を着せられてたら、怒るのが本当の友達でしょ!? 私が梓の友達でその場にいたら、絶対に怒ってた!」
「……ありがとう」
莉緒の言葉が上辺だけのものじゃなくて、きっと莉緒なら本当に怒ってくれたんだろうなって思えるから……。
「そう言ってもらえるだけで嬉しい」
「それで……そのあと、どうなったの?」
「……どうって?」
「だから、本当にカンニングしたやつは……」
私は首を振ることしかできなかった。あのときの子が誰なのか、今も私にはわからないしわかったところでどうすることもできない。もしも受かっていれば私の代わりに今もあの学校に通っているだろうし、落ちていたら……私が受けることができなかった市内の二次募集に応募してどこかで高校生活を送っていることだろう。
「そんなの!」
「……うん、酷いよね。悔しいって思う。……思ってた」
「思ってた、ってことは……今はもう、そうは思ってないってこと?」
「……うん」
本当は、まだちょっと辛いときはある。でも、こうやって怒ってくれる友達に出会えたから。
「……でも、もしも。もしもだよ? 濡れ衣を着せられたことが明らかになって、それで……」
「そんなこと、ありえないよ」
私は、莉緒の言葉を遮った。そんな私の言葉に、莉緒は小さく「ごめん」と言うと黙ってしまった。
本当は、何度も何度も考えた。もしも、本当のことがわかって、今からでもあの高校に通えて、それで友達からも「信じてあげられなくてごめんね」って言ってもらえたらって、何度も、何度も考えた。今更だっていい。今からだっていい。あの日をやり直せたらって。
でも、そんなこと……。
「まあ、でも……そのおかげで……って言ったら変だけど、北条に来ることになったから莉緒にも出会えたし、ね」
「梓……」
それも、私の本心だった。あんなことが会ったから、北条に来ることになって、莉緒に会えた。もしもあのまま高校に受かってたら、きっと莉緒に会うことはなかったから……。
「青空さんにも、でしょ?」
「っ……」
「あ! 赤くなった」
「もう!」
からかうように言う莉緒と顔を見合わせると、私たちは笑った。
たくさんの「ああだったら」「こうだったら」はあるけれど、今、私はここで笑っている。それでいい。それが、一番いい。
「文化祭、楽しみだね」
「そうだね」
鞄の中に入ったチケットを、今度会ったら青空さんに手渡そう。今、私はこんなにも素敵な友達に囲まれた高校生活を送っているんだと、見てもらいたいから。
その日は、快晴だった。十月の終わりの土曜日、待ちに待った文化祭の日がやってきた。今日は、一般公開のため学校内に保護者や中学生、それから他校生の姿もあった。
もうすぐ着くと、と青空さんからメッセージが届いたのは十一時を少し過ぎた頃だった。
「莉緒。私、抜けてもいいかな?」
「大丈夫だよー。ってか、もうすぐ交代の時間だから、そのまま回ってきていいよ」
「ありがとう!」
一緒に受付をしていた莉緒にそう言うと、私は校門へと急いだ。
青空さんはどこにいるんだろう。たくさん人がいるけれど見つけられるかな……。少し不安に思ったけれど、そんな不安はすぐに解消された。それは人混みの中で青空さんの周りだけが妙に空間ができている……とか、そんなマイナスな理由ではなく、私が青空さんを見つけるよりも早く、青空さんが私の名前を呼んでくれたからだった。
「梓!」
「青空さん! お待たせしました!」
「大丈夫、今ちょうど受付してもらったところだから」
青空さんは、胸につけた『ゲスト』と書かれたシールを見せてくれる。どうやら招待チケットと引き換えにこのシールをもらえるようだ。
「梓は俺と回って大丈夫なの?」
「うん、ちょうど店番終わりだったから」
「梓のところは何やってるんだっけ?」
「コスプレ写真館です」
いろんな服を着てデジカメで写真を撮る。そしてその場で印刷してプレゼントする。たったそれだけではあるけれど、意外に好評で朝から行列ができていた。
「そっか。……それは、俺は厳しいね」
「あ……。ごめんなさい」
着替えとなると、補助が必要となるようで……。車椅子の青空さんにコスプレ衣装を着てもらうことは難しいだろう。本当は二人で写真を撮りたかったけれど、仕方ない。
「で、でも他にもいろんなお店あるし! いっぱい回りましょう!」
「そうだね」
少し寂しそうに青空さんが微笑むから、私は目一杯楽しんでもらおうと、行くところにチェックをつけたパンフレットを取り出した。
「どこから行きしょうか? 甘味処も気になるし、フランクフルトも売ってるって言ってたよ! それから、かき氷に……」
「梓、それ食べるところばっかり」
「あ……」
青空さんに笑われて、私は失敗に気付く。たしかに、私がメモしているところは全部私が食べたいものばかりだ……。
「ごめんなさい……」
「いいよ、今言ってくれたやつ全部行こう」
「いいんですか?」
「うん。梓の嬉しそうな顔見てたら、なんかお腹すいてきちゃったし」
「もう!」
笑う青空さんの後ろにつくと、私は車椅子に手をかけた。ガタン、とならないようにそっと押し始めると、青空さんが小さな声で「ありがとう」と言ったのが聞こえた。
それから二人で、たくさんのお店を回った。途中、体育館でやっていた軽音楽部のライブを見たりもした。
周りの目が全く気にならない、と言えば嘘になるし、誰かがどこかでヒソヒソと何かを言っている声にモヤモヤすることもあるけれど、それでもこうやって青空さんと一緒に学校の中を歩けるのが楽しかった。でも……。
「え、あれって一組の福島さん?」
「車椅子? もしかして彼氏?」
「うわー、大変そう……」
「っ……」
すれ違いざまに言われると、悲しくなる。どうしてそんなこと言われなきゃいけないのか。大変かどうかなんてどうしてわかるの? そう言い返したくなってしまう。
「なっ……」
「梓」
「んぐ」
買ったフランクフルトを、言い返そうと開けた私の口に放り込むと、青空さんは笑った。
「美味しい?」
「……うん」
「よかった」
ゴクンと飲み込むと、さっきまでのイライラも一緒に飲み込んでしまったようで、少し気持ちが落ち着く。青空さんは凄い。本当は私なんかよりも、青空さんの方がずっとずっと傷ついているはずなのに……。
「ねえ、梓」
「え?」
そんな私に、青空さんはどこか遠くを見ながら声をかけた。
「あれって何?」
青空さんの視線の方向を追うと、そこには図書館があった。夏休みに、私がずっと通っていた図書館が。
「あれ、図書館です。ほら、前に青空さんが教えてくれた」
「あれが……。ね、行ってもいい?」
青空さんの言葉に、私はパンフレットを確認する。図書館は……。
「開いてるみたいなので大丈夫です。でも、特になんのお店もやってないみたいですけど……」
「中を見てみたいだけだから」
「じゃあ、行きましょうか」
私は青空さんの車椅子を押すと、少し離れた場所にある図書館へと向かった。夏休み中はあんなにも通った場所だったけれど、最近は忙しかったり、莉緒や他の友達と過ごす時間が増えたりと、行くのは久しぶりだった。
重いドアを開けると、空気が変わる。念のため司書さんに車椅子での入館の確認を取って、私たちは誰もいない図書館の中へと進んだ。
「ここが、姉ちゃんの言ってた……」
「青空さんが言ってたとおり、面白い本がたくさんありましたよ」
「そっか……」
青空さんは辺りをキョロキョロと見回すと、私に尋ねた。
「梓はいつもどこに座ってたの?」
「私はあそこです」
窓際の日の当たる席を指さすと、青空さんは車椅子を操作してそちらへと向かう。慌てて後を追うと、机の前で立ち止まっていた。
「青空さん?」
「……これ、どけてくれる?」
青空さんは三つ並んでいる椅子のうち、二つを指さすとそう言った。どうしたというのだろうか。私は青空さんの意図がわからなかったけれど、言われたとおり机から椅子をどけた。
「ありがとう。そしたら、梓はそこに座って」
「ここ、ですか?」
言われたとおり一つ残った椅子に座る。いったい……。
「っ……」
青空さんは椅子があったところに車椅子をつけると、私の方を向いた。それはまるで隣り合って座っているように見えて、思わず言葉を失う。
「いいなぁ」
机の上に頭を乗せると、青空さんは呟いた。
「俺もこうやって、梓とここで勉強したり、本を読んだりしたかった」
「青空さん……」
「同い年だったら……こんなふうに、一緒に過ごせたのかな」
同い年の、青空さんと一緒に……。そんな高校生活が送れたら、どんなに幸せだろう。毎日、学校で会って「おはよう」って言って。一緒に授業を受けて、帰り道にどこか寄り道なんかしたりして。
「楽しそうですね」
「ね。……ね、梓。俺のこと、青空って呼んでよ」
「え……」
「同い年だったら、きっとそう呼んでたでしょ?」
それは、そうかもしれないけれど……。でも……。
「ね、お願い」
「っ……」
「梓」
「……せい、あ」
「なぁに」
青空さんはふにゃっとした笑顔でこちらを見ると、嬉しそうに笑っていた。初めて見るそんな顔に、心臓が破裂しそうなほどうるさくて、顔が熱くて……。私は思わず自分自身の腕で顔を隠した。
「梓? どうしたの?」
「……恥ずかしい」
「可愛いなぁ。……ね、もう一回呼んで」
「……ダメ」
「どうして?」
「どうしても」
私の返事に青空さんはクスクス笑うから……からかわれていたんだと気付いて、私は顔を上げた。
「梓?」
「そろそろ行きましょうか。青空さん!」
わざと「さん」を強調する私に青空さんはまた笑ったけれど、私は気にせずに椅子から立ち上がり、青空さんの車椅子に手をかけた。
図書館を出たところで私のスマホに連絡が入った。
「あ、まずい」
メッセージを確認して、慌ててポケットに手を入れるとそこには小さな鍵があった。
「それ、何?」
「えっと……教室にある金庫の鍵、です」
「金庫?」
「今日の売り上げとかを入れるために用意してたんですけど、鍵を私が持ったままにしちゃったみたいで、鍵が開けられないって連絡が……」
交代の時に渡さなきゃと思っていたのにすっかり忘れていた。
「これ、教室まで持って行かなきゃいけなくて……申し訳ないんですけど……」
「うん、じゃあ行こうか」
「え……?」
どこかで待っていてもらえないか、そう言おうと思っていたのに――。青空さんは当たり前のようにそう言うと、不思議そうに首を傾げた。
「梓? 行かないの?」
「一緒に行ってくれるんですか?」
「行っちゃダメだった?」
「い、いえ。それじゃあ行きましょう!」
車椅子を押す手に力を込めると、私は教室へと向かった。途中で寄った職員室で事情を話してエレベーターを使わせてもらうと、三階まで一瞬で着いた。
「普段、階段めっちゃしんどいのに……」
「今日はラッキーだね」
ですね! と、言ってしまっていいのかわからず、苦笑いを浮かべてしまう。
エレベーターを降りると、一瞬、周りの人がこちらを見たのがわかった。でも、みんな自分たちの出し物に忙しいのか、そこまで私たちのことを気にすることはなく、私はホッと息を吐いた。
「あ、福島!」
教室の近くまで歩いて行くと、私のことを待っていたのか、クラスメイトの男子が廊下で慌てたように声をかけてきた。
「ちょっとすみません」
青空さんに断りを入れて、私はその子の元へと向かった。
「ごめんね、鍵すっかり忘れてて」
「いや、こっちこそごめんな。……デートだったんだろ?」
「あ、うん……。まあ、ね」
私の後ろに見える青空さんの姿を見て、茶化すように言う男子に照れくさくて適当な返事をすると、私はポケットから出した鍵を渡した。
「ありがと。んじゃ、ホントごめんな」
男子は慌てて教室へと入っていく。私は、そんな男子の背中を見送ると、青空さんの元へと戻った。
「お待たせしました」
「…………」
「青空さん?」
「……ね、梓」
「なんですか?」
「……違う」
私の返事に、青空さんは不服そうだった。いったいどうしたのか……。
「ね、梓。梓のクラスはコスプレ写真館、だったよね」
「はい。それが、どうか……」
「入ろうか」
「え、ええ!?」
私の返事なんか待たず、青空さんは教室へと向かっていく。ちょうど、お客さんが途切れたタイミングだったのか、列に並ぶこともなく、教室へと入っていく青空さんのあとを私は慌てて追いかけた。
「せ、青空さん?」
「すみません。写真、撮りたいんですけど」
「あ、はーい。……って、福島? それに……」
青空さんの姿を見て、クラスメイトは顔を見合わせている。教室の中の空気が固まったのがわかって、居心地が悪い。でも、青空さんはそんなの気にならないように受付をしていたクラスメイトに話をする。
「彼女と写真を撮りたいんだけど……北条高校の制服ってある?」
「あ……。ちょっと待ってくださいね」
その言葉に、何かを思いついたのか、クラスメイトは相談を始め――そして、青空さんを手招きした。完全に置いてけぼりにされた私が所在なくいると、こっちこっちと別のクラスメイトが手招きした。
「さっきの、福島さんの彼氏?」
「うん」
「かっこよかったね! 写真、今準備してるからさ、ちょっと待ってて」
そうこうしている間にも、私の前には片付けていたはずの机と椅子が準備されて、そこに座るように指示をされる。隣に並べられた机には椅子の準備はなく……なんとなく、今から何が起きるか、わかった気がした。
「お待たせしましたー!」
その声に顔を上げると、そこには北条高校の制服――のシャツを着てブレザーを羽織った青空さんの姿があった。照れくさそうに私を見ると、青空さんは笑って隣の机へとやってきた。
「どう、かな?」
「すっごく、似合ってます」
「ホント?」
「はい! まるで、クラスメイトみたい!」
私の言葉に、青空さんはニッコリと笑った。
「……じゃあ、似合ってます、じゃなくて」
「え?」
隣の机に、起用に車椅子をはめ込むと、青空さんは私の方を向いた。
「似合ってるね、でしょ」
「っ……」
「同じクラスの男子に、敬語なんて使う?」
「それは……」
たしかに、そうなんだけど……。
「ほら、言ってみて?」
「っ……」
「梓」
ダメ押しのように耳元で言われると、もう逆らうことなんてできない。
「似合って……るね」
「やった」
嬉しそうに笑う青空さんの隣で、私は真っ赤になった顔を隠すのに精一杯だった。なのに……。
「はーい。じゃあ、写真撮るんでこっち向いてくださいー って、福島? 何、顔隠してんの?」
「ほら、梓。言われてるよ」
「わかってます……」
「違うでしょ?」
「っ……わかって、るよっ」
やけくそのように言うと……私の手に、何かが触れた。
「え……?」
いつの間にか、私の手を青空さんがギュッと握りしめていた。いつもは、後ろから青空さんを押しているから、こんなふうに手をつなぐことなんてなくて……。
「っ……」
「撮りまーす。ハイチーズ!」
必死に笑顔を作るけれど、意識は全部手元にいっていて……。きっと真っ赤な顔で映ってるんだろうな、なんて思うと写真を見るのが恥ずかしくて仕方なかった。
借りていた制服を返す頃には写真の印刷も終わっていたようで、青空さんと一緒にそれを受け取るとお礼を言って教室を出た。
「綺麗に撮れてるよ」
「ホントに……?」
「うん。ほら」
再びエレベーターを借りて中庭へと出た私たちは、近くのベンチに座った。青空さんから手渡された写真には、幸せそうに微笑む青空さんと、恥ずかしそうに笑う私たち――が机の下で手をつないでいる姿が映っていた。
「ホントだ……」
「あーあ。ホントにクラスメイトだったらよかったのになー」
残念そうに呟く青空さんに、私は……。
「クラスメイトじゃないけど……。彼女だし……ね、青空君」
「……梓、今なんて?」
「な、なんでもない!」
「え、よく聞こえなかったからもう一回言ってよ」
「もう言わないー!」
「えーー!」
じゃれ合いながら笑い合う。そして、なんとなく会話が途切れたとき、青空さんと目が合った。
「ね、梓」
「……何?」
「キス、してもいい?」
「そ、そんなの……」
突然の問いかけに、どうしていいかわからなくなる。でも、青空さんの瞳は私を捉えて放さない。
「同級生なら……このシチュエーションで、キス、しないわけないと思うんだけど、どう思う?」
「それは……そうかも、だけど……」
「じゃあ、いい……?」
小さく頷いた私の唇に、そっと優しく青空さんの唇が触れる。恥ずかしくて、心臓が苦しい。
青空さんの顔を見ることができず、俯いたままの私に、青空さんは小さく笑った。
「可愛い」
「もう……!」
「ね、もう一回、名前呼んで」
「せい……んっ」
名前を最後まで呼ぶことなく、私の唇は青空さんに塞がれた。二度目のキスは甘酸っぱくて、泣きそうなぐらい幸せだった。
十一月になり、緑だった葉っぱたちが赤や黄色に色付き始め、少し肌寒さを感じ始めた。
文化祭のあの日以降も、青空さんのことは青空さんとしか呼べなかったし、相変わらず敬語も混じる私に青空さんは「仕方ないなぁ」なんて笑ってた。でも、それでも前よりはぐっと距離が縮まったような気がしていたし、二人一緒の時間をもっと過ごしたいと思っていた。
それでも、やっぱり会えない時間はちょっぴり辛くて……。特に、朝、電車に一人で揺られていると、青空さんと一緒だったときのことを思い出しては寂しくなってしまう。そんな私を気遣うように、電車が発車するまでの時間、青空さんのお兄さんが青空さんのことを面白おかしく教えてくれた。小さい頃、どんな子どもだったとか、サッカーより野球派だとか、片付けるのが苦手だとか。
いろいろ聞いた話を電車の中からメッセージで送ると、青空さんは嫌そうな反応をするけれど、でもそんな時間すら愛おしかった。
そういえば、この間、青空さんのお兄さんが不思議なことを言っていた。
「四月のはじめの頃に、梓ちゃんの話を青空から聞いたよ」
って――。五月の間違いだと思うんだけど……今度、青空さんに聞いてみようかな。そんなことを思いながら、私は一人学校へ向かう電車に揺られていた。
そんな平日とは対照的に、休日になると、平日会えない寂しさを埋めるかのように、私たちはたくさんの場所に行った。
『もうすぐ着くよ』
『楽しみだね』
そんなメッセージのやりとりさえ、嬉しかった。
秋の花火大会に、ピクニック。季節外れの海。砂浜を車椅子で進むには難しく、タイヤの隙間に大量に挟まった砂をホースで洗いながら笑い合った。そんな何気ない瞬間を、青空さんはよく写真に撮っていた。彼のデジカメにはたくさん写真があって「印刷したら見せてね」と私が言うたびに「また今度ね」と青空さんは笑っていた。
そんな穏やかな日々に、青空さんが病気であることなんて忘れてしまいそうになる。こんな日々が、ずっと続くんじゃないかって。
けれど、そうじゃないことは私たちが一番よく知っていて、その日も、青空さんから来た一本の連絡に、気持ちが重くなった。
『明日、病院に行くことになったから、会うの明後日でもいいかな』
金曜日の夕方に突然来た連絡。土曜日に映画に行こうって約束をしていたのだけれど……。
『大丈夫だよ』
病院って何かあったの? そう尋ねたかったけれど……。何度も文字を打ち直しては消して……。結局、その五文字を送るので精一杯だった。
私は、ため息を吐いてスマホをベッドに放り投げる。何かあったのなら、きっと言ってくれるはず。そう思ってはいるけれど……。
「はぁ……」
もう一度、ため息を吐いたそのときだった。バタバタと走るような音がして、私の部屋のドアが開いたのは。
「梓!」
「ちょっと、お母さん。勝手に開けないでって……」
「今、高校から電話がかかってるの!」
「高校から? 私、何かしたっけ……」
提出物もきちんとしてるし、試験結果だって悪くない。別に学校から電話が来るようなことなんて……。
「今、通ってる方じゃなくて……!」
「え……?」
「だから!」
母親の言葉は、私の頭を真っ白にさせるには十分すぎるほどだった。
「――それで、なんの電話だったの?」
「……私の、カンニングの疑惑が晴れたって」
日曜日。前日に病院に行った青空さんを外出させるのは……と思い、青空さんの家に遊びに来ていた。ベッドにもたれるようにして並んで座った私たちは、手をつないだまま金曜日にの電話について話をしていた。
「え……?」
「……なんか、カンニングした子、ちゃんと受かってて学校に通ってたらしいんだけど、やっぱり無理して背伸びして入った学校だったから上手く馴染めなかったんだって」
その結果、学校を休みがちになり、冬休みまであと一ヶ月、というこの時期に退学することになったらしい。その際、ずっと言えなかった……と泣きながら本当のことを話したそうだ。
「……そっか」
「うん……」
なんと言っていいかわからないのだろう。青空さんも黙り込んでしまう。私だって一昨日、電話がかかってきて頭がパニックになった。母親はテンション高く喋り続けているし、父親は……苦笑いを浮かべたままどこか他人事のようだった。
「それで?」
「え?」
「梓は、どうするの?」
どうする、か……。
「あのね、申し訳なかったって先生たちが電話の向こうで言ってたの。今度正式に謝りに行くからって。学費も、十二月分までの差額は補償するし、一月からでも四月からでも私の都合のいい時期に転入してきてくれたらいいって」
「うん」
「すっごく丁寧に話してくれて、お母さんも喜んでて……でも」
私は青空さんと手を繋いでいない方の手のひらをギュッと握りしめた。今から私が言うことは、青空さんを幻滅させるかもしれない。あんなに心配してくれていたのに。でも……。
「断っちゃった」
「やっぱり」
「……ビックリしないの?」
「梓なら、そうするんじゃないかなって思ったから」
繋いだ手に力が込められたのがわかる。青空さんの手のひらから伝わってくるぬくもりが優しくて、心まで温められるようだった。
「うん。……私の居場所は、もう私自身で作ったから。ずっとカンニングをしたんだって思われてるのが嫌だったけど……でも、もうあそこに未練はないかな」
「そっか。でも、お母さんは? 大丈夫だった?」
「うーん、ちょっとショック受けてたけど……。でも、大丈夫だと思う。ちゃんと私の気持ち伝えたから。きっとわかってくれると思う」
一昨日、電話がかかってきてからたくさん話をした。今までのこと、そしてこれからのこと。あんなにも話をしたのなんて、いったいいつぶりだろう。
もしかしたら、もっと早くこうやって話をしていたら、何かが違ったのかもしれない。
「こんなふうに思えるようになったのは、青空さんのおかげだよ」
「俺?」
「そう。きっとね、青空さんと出会ってなかったら今でもあの学校にこだわったままだったと思うし、今回の話もきっと飛びついてたと思う。でも……青空さんが前を向くことの大事さを教えてくれたから。どんなときでも、自分自身が選んだ未来を精一杯生きていくことの大切さを教えてくれたから。だから……」
「梓……!」
気が付くと私の身体は青空さんに抱きしめられていた。青空さんの腕は小さく小刻みに震えていた。
「……青空さん?」
泣いているの? とは聞けなかった。だって、聞いたらきっと青空さんは涙の理由を説明しなきゃいけないから。だから私は言葉の代わりに、青空さんの背中にそっと腕を回すと、ギュッと抱きしめ返した。青空さんのぬくもりが私の体温と合わさって心地いい。
「ごめん」
青空さんが顔を上げたのは、それからしばらくしてだった。目元が赤くなっていたから、やっぱり泣いていたんだと思う。
「大丈夫?」
「うん……。なんか、梓の話を聞いたら、泣けちゃって……。みっともないね」
青空さんが恥ずかしそうに笑うから……私はそれ以上何も聞けなかった。
その代わり、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「そういえば……青空さんって、私が話しかける前から私のこと知ってたって、本当?」
「ゲホッ! ……だ、誰がそんなこと……」
「お兄さん」
「っ……言うなって言ったのに!」
目尻に涙を浮かべてむせる青空さんの背中をさすると、青空さんは困ったような顔で私を見つめる。
「ち、違うんだよ。別にずっと見てたわけじゃなくて、その……いつも同じ電車に乗ってる子がいるなって……。その、いつも小説読んでるけど、何読んでるんだろう、とか……あの制服って姉ちゃんと同じところだよな、とか……そんなことを……」
「青空さん?」
「別に、ストーカーとかじゃないし、その……気になる子を目で追っちゃうと言うか……なんと言うか……」
「青空さん!」
「え?」
私の声なんて届いていないかのように話し続ける青空さんを、私は慌てて止めた。だって……。
「そこまでは、知らなかった」
「え?」
「ただ、四月の頭に、青空さんが私の話をお兄さんにしてたって、聞いただけで……」
「……嘘」
「ホント」
「っ……!!」
青空さんは、頭を抱えてしまう。そんな態度が可愛くて、私は思わず笑った。
「……青空さん、私のこと、知ってたんだ」
「……ん」
「ずっと、見ててくれたの?」
「…………」
「青空さん?」
私の言葉に、青空さんは観念したように頷いて、顔を上げた。その目は真剣で、ジッと私を見つめていた。
「――あの頃の俺は、再発がわかって、でも仕事をしている家族にも迷惑を掛けたくなくて、無理して強がって「一人で病院に通うよ」なんて言って、本当は怖くて仕方がないのに、あの電車に揺られてたんだ」
青空さんはぽつりぽつりと話し始める。それは、私がまだ青空さんを知らなかった頃の話だった。
「もちろん検査結果なんかは両親にも聞いてもらわなきゃいけなかったし、全く迷惑をお掛けない、なんてことは無理だったんだけど、それでも俺一人が我慢すればいい。またあのときみたいにみんなに迷惑掛けたくないってそればっかり思ってた。それでも、もう検査なんか嫌だ。治療なんか嫌だって、電車に乗ったけど、病院に行きたくない。今すぐ逃げ出したいって思うときもあった。――そんなときだよ。梓を電車で見かけたのは」
「え……?」
「俯いて、希望もなにもないって顔で電車に乗っている梓に俺はなぜか自分を重ねた。でも、一つだけ違ったのは……梓は逃げなかった。どんなに暗い顔をしていても、電車が着いたら顔を上げて、高校に向かう梓の姿に、俺は勇気をもらったんだ」
違う、私はそんなたいした人間じゃない。逃げなかったんじゃない、逃げる結城がなかっただけ。逃げられるなら、逃げたかった。でも、それすら怖くて、ただひたすら流されるままに高校に通っていた。そこに自分の意思なんて、存在しないかのように。
「梓はそんなことないって言うかもしれない。大げさだって笑うかもしれない、でも、どんなにしんどくても毎日学校に通う梓は俺にとって、太陽みたいに輝いて見えたんだ」
「青空さん……」
そんなふうに思ってもらう資格が、私にあるのだろうか。こんな私が、青空さんの太陽だなんて……。でも、一つだけ確かなことがある。
「私にとっても、青空さんは太陽のような存在だった。あなたがいたから、私は前を向けた。あなたがいたから頑張れた。乗り越えられた」
「梓……」
「私たち、似たもの同士なのかもしれないね」
「そうだね」
お互いが、お互いを支えにして――お互いを追いかけて前を向いたつもりでいたのに、実は二人一緒に、前を向いて歩いていたなんて。
「ね、青空さん」
「ん?」
「私ね、青空さんと一緒にいられて幸せだよ」
「俺もだよ」
「ずっと、ずっと一緒にいようね」
私の言葉に、青空さんは微笑むとギュッと手を握りしめた。
この手のぬくもりが、いつまでも私のそばに在りますように――。
心の底から、そう願った。
そのあとしばらく他愛のない話をして、私は青空さんの家をあとにしようとして――ふと、思い出したことを尋ねた。
「もしかして、なんだけど」
「どうかした?」
「前に、私が本を好きだってどうして知ってたの? って聞いたことあったでしょ? あれってもしかして……」
そこまで言った私は目の前で、赤くなった顔を隠すように口元に拳を当てた青空さんの姿に笑ってしまった。
「なんでもない」
「笑ってるだろ」
「笑ってないよー」
ケラケラと笑いながら、私は青空さんに手を振って、青空さんの家を出た。ここから、自宅までは電車で一駅だ。
数分後、最寄り駅に着いた私は、辺りを見回した。一昨日までとなんにも変わっていない。でも、もう誰の視線も怖くない。
高校への編入を断った私に、先生たちが何かできることはないかと聞いてくれた。そのときに、頼んだのだ。私の名前も、本当の犯人の名前を出さなくてもいいから、誤解されている今の状況をどうにかしてほしい、と。先生たちは快く受け入れてくれ、今日の朝には学校のHPに『お詫びとお知らせ』という形で謝罪文が載っていた。読む人が読めば私のことだってわかるだろう。小さな街だから、悪い噂もいい噂も回るのにそう時間はかからない。時間はかかったとしても、きっと……。
かつての友人たちのことを思い出すと、まだほんの少しだけ胸が痛む。もしもいつか、また連絡が来る日が来たらそのときは……。
私はいつかの未来を思い描きながら、自宅への道のりを歩き始めた。
青空さんから連絡が来たのは、翌日のことだった。次の日曜日の予定を変更して、海に行きたいとメッセージには書かれていた。
海と言えば、少し前に二人で行って上手く車椅子を動かすことができず悪戦苦闘した……。リベンジをしたい、とかそういうことなのだろうか?
よくわからないまま返事を送り、そしてあっという間に日曜日はやってきた。前日の土曜日はまた病院に行っていたらしいけれど、大丈夫なのだろうか……。
「大丈夫、ただの検査だから」
尋ねても青空さんは笑うだけだから、私はそれ以上聞けなくて……。
「そっか、ならよかった。海、楽しみですね」
電車の窓から見えてきた海を指さしてそう言うことしかできなかった。
十一月ももう終わりという時期に海に行く人などほとんどいないのか、駅で降りるのは私と青空さんの二人だけだった。二人で電車に乗るのにもだいぶ慣れ、私が後ろから車椅子のタイヤをあげるだけでスロープを出してもらうことなく乗り降りができるようになっていた。
駅を出ると海風に乗って潮の匂いが漂っていた。私は、車椅子を押す手に力を込めて、進み始めた。前回来たときは、まずどうやって車椅子で砂浜に降りられるのか、それがわからずに辺りを彷徨った。
「こっちだったよね」
「そうだね」
今日は迷うことなく、車が降りることのできる坂道を車椅子で下っていく。途中、何度か石にタイヤを取られそうになったけれど、なんとか砂浜まで降りることができた。
「危なかった……」
「ありがとね」
「これぐらいなんてことないよ」
ニッコリ笑うと、私は車椅子を動かしていく。坂道はまだいいのだ。それよりも問題は……。
「砂浜、上手く進めるといいんだけど……」
「それなんだけど……。ね、少し手を貸してくれる?」
「え……?」
私は差し出された青空さんの手を握りしめる。いったいなにを……。
「よっ……と!」
「せ、青空さん!?」
青空さんは、私の手を支えにして、立ち上がった。左足を地面につけず、片足だけでバランスを取っている。
「だ、大丈夫なの!?」
「大丈夫。……梓、向こうまで歩いて行ってくれる?」
「え、あ……じゃあ、車椅子に……」
「ううん、俺はこのままで。……梓、一人で行ってほしいんだ」
いったい、何をする気なんだろう……。不安なまま私は青空さんの手を離すと、十歩ほど離れたところまで歩いて行く。その間、青空さんは車椅子を支えにして立っていた。
「ここでいい?」
「うん。……待ってて」
そう言ったかと思うと、青空さんは、車椅子から手を離して――左足を地面につけた。
「え……?」
「っ……」
ゆっくり、一歩ずつ、青空さんは前に進む。歩けなくなった、と言っていた足を引きずるようにしながら、ゆっくりと、でも確実に。
足が痛むのか、ときおり顔をゆがめながら、それでも足を止めることはなかった。
「あず……」
「青空さん……」
「っ……!」
あと一歩、というところで青空さんはバランスを崩した。
「危ない!」
私は慌てて青空さんへと手を差し出す。その手に掴まるようにして、なんとか青空さんは体勢を保った。
「セーフ!」
「セーフって……青空さん……!」
「ビックリした?」
「ビックリした!!」
思わず大きな声を出してしまった私に、青空さんはいたずらが成功した子どものような表情を浮かべると嬉しそうに笑った。
「やった! 梓のこと驚かせたくて練習してたんだ。でも、最後の最後でこけちゃった」
「そんなこと……」
「前に向かってきちんと歩いて行く梓を見ていたら、俺も負けてられないなって思ったんだ。痛くたって歩ける足がある。歩けるうちに、梓と一緒に並んで歩きたいって。でも、ダメだなぁ……。こんな距離さえも、一人じゃ歩けないなんて……」
青空さんの言葉に、何かが引っかかった気がした。でも、それが何か考えるよりも、今は……。
「青空さん!」
「え?」
私は、支えていた青空さんの身体を起こすようにして離れると、手を握りしめた。
「転びそうになったら、私がいつでも支えるから」
「梓……」
「だから、一緒に歩こう。二人で。一人で歩けなくたって二人なら歩けるよ! ゆっくり、私たちの速度で、二人で歩いて行こう?」
「――ありがとう」
そう言いながらも、私の手を握りしめる青空さんの力は弱々しくて、自分自身を情けなく思っているのが伝わってきた。だから……。
「いった……!」
「へへっ」
私は、思いっきり青空さんの手を握りしめた。
私が後ろ向きのときは、青空さんが前を向かせてくれた。今度は、私の番だ。
「何を……」
「青空さん。私、青空さんが大好きだよ」
「梓……」
「どんな青空さんでも、大好きだよ」
「……うん。ありがとう。……俺も、梓のことが、好きだよ」
青空さんの顔が、近づいてくるのがわかった。見上げるようにして青空さんを見つめるのはなんだか久しぶりで、少し恥ずかしくて、思わず顔を背けそうになる。
「逃げないで」
でも、そんな私の頬に手を添えると、青空さんは私の唇にキスを落とした。
誰もいない浜辺でしたキスは、ほんの少しだけ潮の香りがした。
「――ね、写真撮ろうか」
それからしばらくして、青空さんは鞄からカメラを取り出すと私に向けた。
「青空さんのことも撮ってあげるよ」
「俺はいいよ」
「……じゃあ、二人で撮ろう?」
私は青空さんの手からカメラを取ると、タイマーをセットして手を伸ばした。
『3……2……1……パシャッ』
カメラから聞こえる無機質な音に合わせて、私たちは笑顔を向ける。上手に取れたか見せて貰うと、ニッコリと笑う青空さんと、目をつぶった私が映っていた。
「もう一回! もう一回撮ろう?」
「ダーメ」
「なんでー!」
私が取れない位置にカメラを掲げる青空さんに飛びつくようにした――その瞬間、バランスを崩して、私たちは砂浜に転がった。
砂だらけになったお互いの姿を見て、私たちはどちらともなく吹き出した。
こんな些細で、くだらないことすら、青空さんと一緒なら楽しくて、幸せで、胸があたたかくなる。
どうか、これから先も、こんな時間をずっとずっと過ごすことができますように――。
私は、空に浮かぶ太陽に小さく祈った。
十二月に入り、街にはクリスマスソングが流れ、浮かれた空気が漂っていた。それは私も例外ではなく、青空さんへのクリスマスプレゼントに頭を悩ませていた。
何をあげたら喜んでくれるだろうか。でも、バイトもしていない私じゃあ、たいしたものはあげられないし……。
「うーん」
「どうしたの?」
教室で一人ウンウンと唸っていた私に、莉緒が不思議そうに近づいてきた。
「あ、莉緒。クリスマスプレゼントをね」
「青空さんの?」
「そうそう。普段使ってもらえるようなものがいいんだけど……」
「ちなみに、予算は?」
「う……」
口ごもる私に、莉緒はため息を吐いた。
「うーん……。あ、じゃあ梓。私のバイトしてるお店で一緒にバイトしない?」
「バイト? 莉緒のバイト先ってカフェだっけ?」
「そうそう。って、言っても短期のバイトだけどね。デートだなんだで次の土日のバイトがいなくて。……あ、でも」
「うん、土日は青空さんに会うから……」
「そっかぁ。梓と一緒なら楽しいかなぁって思ったんだけど……」
残念そうに笑う莉緒の言葉に、心が揺れた。バイト代があれば青空さんへのプレゼントも買えるし……。
「ちょっと、聞いてみる!」
「梓?」
私は、青空さんに次の土日、莉緒と遊びに行ってもいいかというメッセージを送った。返事は、すぐ返ってきた。
「いいって!」
「ホント?」
「うん、なんか青空さんも用事があったらしくて、ちょうどよかったみたい」
「そっか! じゃあ、店長に連絡しておくね!」
莉緒は嬉しそうに言うと、スマホを取りに席へと向かった。青空さんに会えないのは残念だけど、これで青空さんにプレゼントが買える。そう思うと、次の土日が楽しみで仕方がなかった。
週末、二日間のバイトを終えた私は、貰ったお給料を持って近くのショッピングモールへとやってきた。どこのお店もクリスマスセールをしていて、男性向けのプレゼントもたくさん置いてあった。帽子や手袋、マフラーといった定番商品はたくさんあるけれど、どれもピンとこない。
財布……とも思ったけど、思ったよりも高くて、予算をオーバーしてしまうし……。
「どうしよう……」
困り果てた私は、とりあえず店内をぐるぐる見て回る。……そんなとき、ふと一件の雑貨屋さんが目に入った。クリスマス、というよりは冬をモチーフにした雑貨が並んでいたけれど、その中に真っ青の何かが見えたのだ。この時期に多いのは赤や緑のクリスマスカラーなのに青色なんて珍しいな、と思って引っ張り出すと……。
「ブランケット?」
それは、空がプリントされたブランケットだった。手触りもよく、暖かそうで、これなら車椅子に乗る青空さんにぴったりだと思った。それに、真っ青の空も、まるで青空さんのことのようだし……。
「よし、これにしよう!」
レジに持って行くと、それをラッピングして貰った。これで、青空さんへのクリスマスプレゼントは決まった。あとは、クリスマスデートをするだけだ。
「はぁ……」
「どうしたの? プレゼント、買えなかったの?」
「莉緒……」
火曜日、私は学校でため息を吐いていた。理由は、昨日来た青空さんからのメッセージだ。
「……今週末、会えなくなったって」
「あら……。残念」
「二週連続で会えないなんて、付き合い始めてから初めてだよ……」
九月のあの日から、毎週土日のどちらかは会ってたし、どっちかに用があって会えない週があっても、その翌週には会えていた。だから、こんなに会えないなんて……。
「寂しい……」
「って、言っても二週間だけでしょ? 夏休みのことを思えば、全然じゃない?」
「それは、そうなんだけど……」
頭では理解していても、気持ちは追いつかない。私はもう一度深くため息を吐いた。
「予定が空いちゃったよお……莉緒ぉ」
「残念。私は、今週末もバイトです」
「私も……!」
「それが、今週は人、足りてるんだよね。ごめんね」
「そっかぁ……」
莉緒の言葉に私はガックリと肩を落とす。仕方がない、今週末は久しぶりにのんびりと凄そう……。また来週には会えるだろうし。
――そう、思っていた。
けれど、週が明けて月曜日が来ても青空さんから連絡が来ることはなく、そして私が送ったメッセージに既読を示すマークがつくこともなかった。もちろん、電話にでることも――。
連絡が取れないまま、火曜日になった。もしかしたら青空さんに何かあったのだろうか……。一度、家に行って……。でも、連絡が取れないからといって家に押しかけるのも……。
「そうだ、青空さんのお兄さん……!」
お兄さんに聞けばいいんだ。もし、青空さんに何かあったのなら、お兄さんに聞けばわかるはずだ。車掌さんであるお兄さんになら、明日も会うことができる。
そう思った私は翌朝、いつもよりも早い時間に家を出た。
駅にはいつものように電車が来ていて、すぐそばにはお兄さんの姿があった。
私に気付くと、お兄さんは優しく微笑んでくれる。
「おはよう、今日は早いね」
「おはようございます。……あの、青空さんって……」
「ああ、それで」
お兄さんは困ったように頬をかくと、辺りを見回した。そして誰もいないことを確認すると、小声で話し始めた。
「青空、インフルエンザにかかっちゃって」
「インフル、エンザ?」
思わぬ病名に、変なところで区切ってしまった。インフルエンザって……。確かに、今年はもうインフルエンザが流行りだしてるってテレビでもやってたけど、まさか……。
「そう。しかも、悪化したせいで今、入院してるんだ」
「え、ええ!? だ、大丈夫なんですか!? 私、お見舞い……」
「ストップ。インフルエンザだから、行ったら梓ちゃんにも移っちゃうでしょ」
「あ……」
確かに、そうだ。もしかして、それで私には連絡をくれなかったとか……?
けれど、お兄さんは私の疑問に首を振った。
「それはね、ただ単に病院が携帯禁止なだけ」
「そうなんですか?」
「うん。それから、心配かけたくないから、退院してから連絡するって言ってたんだけど、なかなか熱が下がらなくて、まだ退院許可が出ないんだ。でも、もうすぐ退院できるはずだから、そしたら……また、会ってやってよ……」
「はい」
悲しげに微笑むその表情に、思わず胸がざわつく。ただ、青空さんのことが心配なだけ? それとも……。
「あの、おにいさ……」
「あ、ごめんね。そろそろ出発の準備をしなきゃいけないから」
申し訳なさそうにそう言うと、お兄さんは乗務員室へと入っていく。私はその背中を見送りながら、小さくため息を吐くと、電車へと乗り込んだ。
今はとにかく、連絡を待つしかない。もうすぐ退院できるって言ってたから。そうしたらきっと連絡をくれるはず。
けれど、そんな私の想いはあっけなく打ち砕かれる。
青空さんからの連絡は次の日もそのまた次の日も……そしてその週末にさえも来ることはなかった――。
やっぱり、おかしい。
そう思ったのは、水曜日の朝だった。相変わらず、メッセージは既読にならないし、電話も繋がらない。それどころか――。
「休み……ですか?」
「ええ。本日、瀧岡は休みです」
月曜日の朝も、火曜日の朝も駅にお兄さんの姿はなかった。今までも、公休日でいないことはあったけれど、三日も連続で休みだなんて……。
「あの、休みの理由は……」
「それは、プライベートなことなので、お答えすることはできません」
「でも……! ……いえ、そう、ですよね……」
食い下がった私に、駅員さんは怪訝そうな表情を見せると、乗務員室へと入っていく。私は、どうしたらいいかわからず、でも電車の発車する音が聞こえ、慌てて飛び乗った。
やっぱり、何かあったんじゃないか。だって、そうじゃないとこんな……。
もう、迷惑かもしれないなんて考えるのはやめよう。私の勘違いや早とちりだったら謝ればいいじゃない。青空さんに会って「心配性だなぁ」っていつもみたいに笑われるほうが、こんな気持ちのままでいるよりよっぽどいい。
今日で学校も終わりだし、明日の朝一で青空さんの家に行こう。明日はちょうどクリスマスイブだから、この間買ったあのブランケットを持って、青空さんに会いに行こう。
会いたい、会いたいよ。青空さん……。
ギュッと締め付けられるように胸が苦しくなる。鼻の頭がツンとなるのを必死にこらえると、私は窓の外の真っ青な空を見つめ続けた。
翌朝、相変わらず連絡の取れないままの画面を確認すると、私はラッピングしてもらったブランケットを持って部屋を出た。玄関で靴を履きながら、ブーツにしようか、それとも車椅子を押しやすいスニーカーにしようか悩んで、やっぱり念のためにとスニーカーを履いた。クリスマスの日にスニーカーを履くなんて、私ぐらいじゃないかな。と思ったら妙に可笑しくなった。
ずいぶんと底のすり減ったスニーカーを見て、次に青空さんと出かけるまでに買い換えなきゃいけないなぁなんて思っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい?」
なんてタイミングだろう、と玄関のドアを開けると、そこには――青空さんのお兄さんの姿があった。
「え、どうして……?」
「説明はあとでするから! とにかく、来て!」
お兄さんの言葉に、私は荷物を取ると、玄関を飛び出した。お兄さんは車で来ていたようで、家の前に見覚えのある車が横付けされている。いつも、青空さんが後部座席に乗っていた車。けれど今日は、後部座席はガランとしていた。
「シートベルト締めた? そしたら、出発するよ」
慌てた様子で、エンジンをかけると、お兄さんは車を走らせる。ナビに表示された行き先を見ると、どうやら目的地は青空さんの自宅のようだった。
自宅に行くということは、もう退院したのだろうか? なら、なんでこんなにお兄さんは焦っているのだろう。
車が赤信号に引っかかると、お兄さんは「くそっ」と小さく呟くと、ポケットから取り出した携帯を確認する。そして、ダッシュボードを開けると、一通の封筒を取り出した。
「これは……?」
「……青空から、梓ちゃんに」
「え……?」
差し出されたそれを受け取ると、お兄さんは再び車を走らせる。私は、震える手で封を開けると、中から一枚の便箋を取りだした。それは、いつか電車の中に置かれていたのと同じものだった。
『
梓へ
梓のことが、大好きでした
でも、もう俺は梓に会うつもりはありません
いつまでも元気で
そして、俺のことなんて忘れて、幸せになってください
青空
』
「な、んですか……? これ……」
「……青空が、全部終わったら、これを渡してくれって。でもさ、こんなのダメだよ。こんな終わり方、あっていいわけないよ……」
お兄さんは、絞り出すような声で言うと、ハンドルを思いっきり叩いた。
「くそっ……!」
その行動に、私は背中に冷や水をかけられたような気分になる。だって、普段のお兄さんはもっと温和で……こんな行動、絶対にしない。なら、今は、どうして……。
「おにい、さん……。今、自宅に向かってるんですよね……? 青空さんは、退院して自宅にいるんですよね……? 元気になったんですよね……?」
「…………」
「お兄さん!」
「……確かに、青空は今、自宅にいる」
その言葉にホッとした。――けれど、次の瞬間、まるで空中から地上に落とされたみたいな衝撃を私は受けた。
「看取るために、帰ってきたんだ」
「みと、る……?」
看取るって、なに……? どういう意味……? 誰を看取るの? まさか、そんな、そんな……!
「嘘!」
「僕だって、嘘だと思いたい! でも、もう時間がないんだ! 青空にも、僕たちにも!」
泣き叫ぶようにして言うと、お兄さんは車を止めた。いつの間にか、青空さんの自宅に着いていたようだった。
私は、お兄さんに連れられるようにして、家の中に入る。シーンとした家の中は、まるで今から怒ることを暗示しているようで、苦しくて、そして怖かった。
「こっち」
二階にある青空さんの部屋、ではなくお兄さんは一回の玄関横にある部屋のふすまを開けた。そこは、和室になっていて、部屋には青空さんのご両親にお姉さんの姿があった。そして――みんなに囲まれるようにして、布団に横たわる青空さんの姿も。
「青空さん……!」
駆け寄って握りしめた手は、まだ温かかった。でも……。
「もう、すぐ……だと、思うわ」
「え……?」
お母さんは手元の機械を確認すると、震える声でそう呟いた。
その言葉に、頭の中が冷たくなるのを感じた。
「青空さん……? 嘘でしょ? ね、目を開けてよ! 青空さん!」
ギュッと握りしめた手に、微かに力が入る。そして、青空さんは微笑んだ。
「青空さん! わかる? 梓だよ! 会いに来たよ!」
「あ……ず……」
青空さんの口がほんの少し開いて、何かを言おうとしているけれど、息が漏れるだけで聞き取ることはできない。でも、私には聞こえた気がした。「梓」と呼ぶ、青空さんの声が。
「ね、青空さん。私、まだ青空さんにクリスマスプレゼント渡してないよ! デート行くのだって楽しみにしてたよ! なのに、なのに!」
「あ……ず……さ……」
「青空さん!!」
私の叫び声と同時に、部屋にピ――――というアラートが鳴り響いた。それから、青空さんのご両親やお姉さん、それにお兄さんの悲鳴も。
「いやあああ!」
「青空! 青空!!」
「うわああああ!」」
「う、そ……」
もう動くことのない青空さんの身体に、みんなが泣きながら縋り付く。
微笑むようにしてなくなった、青空さんの身体に――。
それ以上は、その場にいることはできなかった。家族のお別れの時間に、私がいちゃいけない。いくら青空さんと付き合っていたとはいえ、他人だ。
お兄さんは申し訳なさそうにしていたけれど、最後のお別れに連れてきてもらえただけでも十分すぎるほどだった。
日の並び的な問題らしく、今日の夜がお通夜、明日がお葬式になると、帰り際、玄関の外まで見送ってくれたお兄さんに言われた。
「でも、辛ければ、無理に来る必要は……」
「行かせて、ください……」
「ありがとう」
お兄さんは悲しげに微笑むと何かを渡そうとして、私が持っていた紙袋に視線を向けた。
「……それは?」
「あ……」
それは、渡すことのできなかった、青空さんへの……。
「クリスマスプレゼント、渡しそびれちゃいました……」
「梓ちゃん……」
もう二度と、渡すことのできない、プレゼント……。
「――それ、さ」
「え?」
このままどこかに捨ててしまおうか、そんなことを考えていた私に、お兄さんは言った。
「僕が預かってもいいかな」
「お兄さん、に……?」
「ああ。……青空に、渡しておくよ」
「っ……」
そんなこと、できっこないのに……。お兄さんの言葉があまりにも優しくて、私はそれを差し出した。
「ありがとう」
そして、空っぽになった私の手に、お兄さんは小さなメモを載せた。そこにはお葬式の場所と、時間が書かれていた。
『瀧岡青空、告別式』メモにはそう書かれていて……。私はそれを思わず握りつぶすと、お兄さんを見上げた。
「どうして、ですか?」
「え?」
「どうして、青空さんは……。だって、手術は成功したって……。足が動かなくなったけど、もう大丈夫だって……!」
「梓ちゃん……」
お兄さんは目を閉じると、玄関の壁にもたれかかった。
「梓ちゃんには、そんなふうに言ってたんだね」
「え……?」
「青空が以前も骨肉腫を患ってたってことは……」
「聞きました。今回が再発だったって」
そして以前も、そして今回も手術で腫瘍を取り除くことができたと青空さんは言っていた。でも、そう言った私にお兄さんは小さく首を振った。
「確かに腫瘍は取り除くことができた。……でも、今回は――肺にも転移があったんだ」
「転移……?」
「他の場所にも、癌が見つかったってこと」
「嘘……!」
そんなこと、青空さんは一言も言っていなかった。どうして……!
「手術したって、膝の痛みを取り除くことができるだけでもう治ることはない。放射線治療だって、ほんの少し余命を伸ばすことができるだけだって、そう主治医に告げられて……」
「余命って……」
「夏の終わりに告げられたんだ。……もって、あと三ヶ月だろうと……」
私の知らなかった話が、お兄さんの口から次から次へと告げられる。転移って何? 余命ってどういうこと……? そんな状態なのに……。
「なのに、どうして……」
「どうしてだと思う?」
「え……?」
お兄さんの問いかけに、私は答えられなかった。だって、どうしてってそんなの知らない。私は、なんにも知らない……。
でも、そんな私にお兄さんは優しく微笑んだ。
「好きな子に、好きだって伝えたかったんだって」
「っ……なに、それ……」
「笑っちゃうよね」
お兄さんはおかしそうに笑う。私も笑おうとして、でも涙が溢れてて上手く笑うことができない。だって、そんなことって……。私に、気持ちを伝えるために、治らないのに手術を受けたなんて、そんな……。
「この数ヶ月、青空は楽しそうだったよ。それこそ、病気が発覚してから今までで一番幸せそうだった。梓ちゃん、君のおかげだよ」
「っ……くっ……」
「だから、青空と過ごした日々を忘れないでやって。君は青空にとって生きる希望だったんだから」
「あ……あああああ!」」
お兄さんの言葉に、私は泣いた。声を上げて、まるで小さな子どものように泣き叫んだ。
私にとっても、あなたは希望だったんだと、真っ黒な雲に覆われた世界が、あなたに出会ってから澄み切った青空のように晴れたんだと、伝えたかった。伝えたかったのに……!
もう二度と会えない青空さんを想って、私はその場で泣き続けた。
「……本当に行くの?」
翌日、泣きはらした目をした私に、お母さんは心配そうに言う。けれど……。
「今日行かないと、もう、青空さんには会えないから……」
「……そうね」
悲しげに言うと……お母さんは、私の身体をギュッと抱き寄せた。心臓の音が聞こえる。体温のぬくもりを感じる。生きている人間の証を……。
「気をつけていってらっしゃい」
「うん……。いってきます」
制服を着て家を出ると、聞いていたお葬式会場へと向かった。そこは少人数でのお葬式を専門としているようで、仰々しさよりもアットホームな雰囲気に包まれていた。
「梓ちゃん」
「あ、お兄さん……」
「早かったね」
「えっと……。このたびは、その……」
形式として言わなければいけないことはわかっているのに、上手く口から出てこない。そんな私の頭を、お兄さんは優しく撫でた。その手つきが、青空さんの手を思い出させて、余計に何も言えなくなってしまう。もうあの手に、頭を撫でてもらうことはないのだと、手を繋いで歩くことはないのだと思うと……。
「中、入ろうか。青空が待ってるよ」
「は、い……」
溢れてくる涙を必死にこらえると、私はお兄さんに促されるようにして中に入った。会場には、たくさんの人がいて、みんな青空さんを思って泣いていた。
一番奥に祭壇があり、笑顔の青空さんの写真が飾ってあった。何度も見た青空さんの笑顔。大好きで、愛おしくて、もう、二度と見ることのできない笑顔……。そして……。
「っ……」
「梓ちゃん……」
「ごめ、なさ……」
もう、無理だった。涙が、頬を伝って次から次に床へと落ちていく。止めることなんてできない。だって、だって……。
「青空さん……!」
そこには、青空さんがいた。
眠っているように、柩の中に横たわる青空さんの姿が。
今にも身体を起こして「ビックリした?」なんて言い出しそうなのに……。
「青空さん……どうして……! どうして!!」
その手に、その頬に触れたいのに、アクリル板のようなものが触れることを拒む。
「……ごめんね。あとで、お花を入れるときに、触ってもらえるから……」
申し訳なさそうにお兄さんにそう言われると、余計に涙が溢れてくる。だってそれは、おばあちゃんのお葬式でもあった……。つまり、最後のお別れの時で……。
「っ……」
それ以上考えたくなくて、私はお兄さんに頭を下げると、会場の一番後ろの席に座った。ここからでも、青空さんの写真がよく見える。私はその写真をボーッと見つめ続けた。
どれぐらいの時間が経ったんだろう。いつの間にか、会場には人が増えていて、お坊さんがお経を上げていた。周りの人に流されるようにしてお焼香をして席へと戻る。頭がボーッとして、何も考えられない。なのに、式だけはどんどん進んでいく。
そして――。
「それでは、最後の――お別れの儀です」
その言葉にハッとして顔を上げると、柩の周りへとみんなが集まり始めていた。行かなきゃ。もう、これで、本当に……最後……。
重い足を引きずるようにして柩へと向かうと、お兄さんが何かを言っているのが聞こえた。
「先にこれを……」
「え……」
蓋が開いた柩に、お兄さんは――ブランケットを掛けた。それは、あのときお兄さんが預かると、そう言ってくれた、私の、私から青空さんへの、クリスマスプレゼント……。
「ああ、綺麗な青い空だ」
「まるで青空のようだ」
青い空がプリントされたそれを掛けられた青空さんは、青空の下で駈けているかのようで……。
「梓ちゃん、ありがとう」
「おにい、さん……」
「青空、それ梓ちゃんからのクリスマスプレゼントだぞ。大事にしろよ。……僕からは、これ。約束してたやつ」
お兄さんは、分厚い封筒を逆さまにすると、中身を全部、柩の中へとばら撒いた。そこいは――たくさんの私と青空さんの写真があった。
「これ……」
「入れてほしいって、青空に頼まれてたんだ」
「っ……」
そのために、何枚も何枚も写真を撮っていたの?
印刷することもなく、たくさんの写真を。この日のために――。
「そんなのって……そんなのって……! あっ、あ、ああぁぁ!!」
泣き崩れる私は係の人によって近くの椅子へと連れて行かれる。そして――祭壇にあったたくさんのお花が柩の中に納められると――再び、柩の蓋が閉められた。
そのあとのことはよく覚えていない。でも、霊柩車で運ばれていく柩を見送って、それからいつの間にか私は自宅へと帰ってきていた。心配したお母さんが何度も部屋を覗きに来た気がするけれど、話をする気力すらなかった。
ただただ、悲しかった。心に穴が空いたような、そんな気持ちのまま、私は真っ暗な部屋で一人泣き続けた。
あれから、一ヶ月以上が経った。いつの間にか冬休みは終わっていて、心配した莉緒や友人たちからのメッセージが何通も届いていた。いい加減学校にも行かなければと、ようやく私はあの日以来、壁に掛けたままだった制服に袖を通した。
いつも通りの日々が始まる。青空さんだけがいない、日常が。
人間というのは不思議なもので、こんなに悲しくても辛くてもお腹もすくし、眠くもなる。そのたびに、私は生きているんだということを実感させられてしまう。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。……気をつけてね」
ぽつりと呟いた私を、お母さんが心配そうに見送る。まるで私がどこかに行こうとすると、まるでもう帰ってこないんじゃないかとでも思っているかのように。
「梓ちゃん」
「おにい、さん……」
駅に行くと、そこには青空さんのお兄さんの姿があった。お休みの日なのか、お兄さんはワイシャツにズボンという姿で私に手を振っていた。
「久しぶり。……大丈夫?」
「っ……」
悲しそうに微笑むお兄さんを見ると、青空さんのことを思い出して、胸が苦しくなる。前を向かなきゃいけないってわかってる。青空さんが好きだと言ってくれた私でいたいってそう思うのに、身体が、心がずっとずっと泣き叫んでいる。どうしてもう会えないのかと、もう一度、青空さんに会いたい。会ってその手に触れたいって……。
「……梓ちゃん」
「え……?」
お兄さんは、一通の封筒を私に差し出した。
「これ、青空から、最後の贈り物」
「青空さん、から……?」
お兄さんは「これじゃあ僕、車掌じゃなくて郵便配達の人みたいだね」なんて言って笑っていたけれど、私は手の中のそれを開けるので精一杯だった。
なんて書いてあるんだろう。何を伝えたかったんだろう。早く、早く見たい。青空さんからの、最後の……。
「しゃ、しん……?」
そこには、一枚の写真があった。
あの日、私が贈ったブランケットのように、真っ青な青空(あおぞら)の写真が。
「それを梓ちゃんに渡してほしいって頼まれたんだ」
「なんで……」
「……あの日、青空に頼まれていた通り、二人が写った写真は全部、柩の中に入れた。思い出は、全部自分が持って行くんだって、青空言ってたよ。手元に残ってたら、いつまで思い出してきっと君が前に進めないからって」
「っ……」
「でも……もしも、君が泣いているようだったらこの写真を渡してほしいって。辛くなったら空を見上げて。そこに俺はいるから。……そこから、君のことを見守っているからって」
「青空、さん……」
涙が、止まらない。
最後の最後まで、私のことを心配してくれていた青空さんの優しさに、あふれ出す涙を止めることができない。
「っ……あ、ああぁっ……」
私は泣いた。泣いて、泣いて泣き続けた。
「梓ちゃん」
お兄さんが、再び私の名前を呼んだのは、ずいぶんと時間が経ってからだった。
「あ……」
「大丈夫……?」
「はい……。すみません……」
「や、いいんだけど……。ごめんね、僕そろそろ行かなきゃいけなくて」
時計を見ながら、お兄さんは申し訳なさそうに言った。
「あ、ご、ごめんなさい。お兄さんも忙しいのに……」
「ああ、いや。……今日は、青空の四十九日なんだ」
「っ……あ……」
あの日から、もうそんなに経ったんだ……。
黙り込んでしまった私の頭をお兄さんは優しく撫でると「またね」と言って去って行く。私は、その背中に声を掛けた。
「……お兄さん!」
「え?」
「青空さんに、私は大丈夫だよ! って、伝えてください!」
一瞬、驚いたような表情をしたあと、お兄さんは泣きそうな顔で笑うと「わかった」と言って歩き出す。
私も、行かなきゃ。
携帯を確認すると、莉緒から『今日もお休み?』というメッセージが届いていた。
『遅れるけど、行くよ!』
返事を送って、顔を上げる。
ホームから見える空は、青く輝いていた。
週末、私は一人で電車に乗っていた。行きたいところがあったわけじゃない。でも、なんとなく休みの日に家にいたくなかったから……。
朝、駅で会った青空さんのお兄さんは、無事納骨が済んだことを教えてくれた。それを聞いて、まだ少し胸は痛んだけど、もう泣くことはなかった。
こうして電車に揺られていると、青空さんと会った日のことを思い出す。あの日から、何度も二人で電車に乗った。二人で肩寄せ合って座った座席も、今じゃあ隣は私の鞄が置いてあるだけだ。
しばらくして、電車が駅に着くというアナウンスが聞こえて、私は窓の外を見た。そこは、青空さんと来た、あの海だった。
慌ててホームに降り立つと、風に乗って潮の匂いがする。
「じゃあ、いこ……う、か」
思わず、そう言って――周りには誰もいないことを思い出す。そうだ、もう私は……。
車椅子を押すこともなく、一人歩き出すけれど、ついエレベーターがどこにあるかを探してしまうし、通路に段差がないか確認してしまう。そんなこと、もう必要ないのに。
とぼとぼと海に向かう道を歩く。遠回りして、坂道を降りていくことなく、私は階段から砂浜へと降りた。ざくざくと音を立てながら、砂浜を歩くと、あの日青空さんと手を繋いで歩いたことを思い出して、私は……。
「っ……あっ……」
もう、限界だった。
涙が溢れて止まらない。
この数日、必死にいつも通りの生活を送ろうと頑張った。でも、私のいつも通りには、いつだって青空さんがいた。二人で通った道、二人で行った場所、二人で乗った電車。どれもどれも青空さんとの思い出が詰まっていた。
「もう、無理だよ……」
青い海が、まるで私を誘うように引いては寄せてを繰り返す。
――あの波に呑まれれば、青空さんに会えるかもしれない。
一瞬、そんな考えが頭をよぎって、私はその場に座り込んだ。
「青空、さん……」
会いたくて、会いたくて仕方がないのに、あなたはもうどこにもいない。
もう二度と、あなたに会うことはできない。
「会いたいよ! 青空さん……!」
でも、どんなに叫んでも、もう……。
「っ……」
その瞬間――砂浜に風が吹き荒れた。それは、まるで私に『ここにいるよ』と、でもいうかのように。
その風に誘われるようにして顔を上げると、そこには――清々しいほどの青空が広がっていた。
『辛くなったら空を見上げて。そこに俺はいるから。……そこから、君のことを見守っているから』
必死に涙を拭うと、私は前を向いた。
「――見ててね、青空さん。私、頑張るから」
立ち上がると、スカートについた砂を払って、顔を上げた。
そして、私はひとり歩き出す。
君とふたり手を繋いで歩いた、どこまでも続く青空の下を。
①青春恋愛
梓は受験で不正を疑われ不合格となり電車で二時間もかかる高校へと進学する。電車で出会った青空と過ごす時間は学校や家に居場所がない梓の大切なものとなる。
けれど青空が来なくなり梓は青空が入院したことを知る。病院に向かった梓に青空は病気について話すと手術を頑張るから待っていてと言う。
再会した青空は手術は成功したが足が動かなくなり車椅子に乗っていた。梓は青空に想いを伝え二人は付き合い始める。
ある日不正の疑いが晴れたという連絡があり編入を打診されるが梓は断る。自分の居場所はもうある。そうに思えるようになったのは青空のおかげだった。
12月になり青空と連絡が取れなくなる。青空の兄に連れられ青空の元へ行くが命の灯は消えかかっていた。手を握りしめた梓に微笑むと青空は息を引き取った。
青空が亡くなってしばらく経ったある日、梓は海にいた。空を見上げると青空が広がっていた。涙を拭うと梓は歩き出す。青空と歩いたどこまでも続く青空の下を。