十一月になり、緑だった葉っぱたちが赤や黄色に色付き始め、少し肌寒さを感じ始めた。
文化祭のあの日以降も、青空さんのことは青空さんとしか呼べなかったし、相変わらず敬語も混じる私に青空さんは「仕方ないなぁ」なんて笑ってた。でも、それでも前よりはぐっと距離が縮まったような気がしていたし、二人一緒の時間をもっと過ごしたいと思っていた。
それでも、やっぱり会えない時間はちょっぴり辛くて……。特に、朝、電車に一人で揺られていると、青空さんと一緒だったときのことを思い出しては寂しくなってしまう。そんな私を気遣うように、電車が発車するまでの時間、青空さんのお兄さんが青空さんのことを面白おかしく教えてくれた。小さい頃、どんな子どもだったとか、サッカーより野球派だとか、片付けるのが苦手だとか。
いろいろ聞いた話を電車の中からメッセージで送ると、青空さんは嫌そうな反応をするけれど、でもそんな時間すら愛おしかった。
そういえば、この間、青空さんのお兄さんが不思議なことを言っていた。
「四月のはじめの頃に、梓ちゃんの話を青空から聞いたよ」
って――。五月の間違いだと思うんだけど……今度、青空さんに聞いてみようかな。そんなことを思いながら、私は一人学校へ向かう電車に揺られていた。
そんな平日とは対照的に、休日になると、平日会えない寂しさを埋めるかのように、私たちはたくさんの場所に行った。
『もうすぐ着くよ』
『楽しみだね』
そんなメッセージのやりとりさえ、嬉しかった。
秋の花火大会に、ピクニック。季節外れの海。砂浜を車椅子で進むには難しく、タイヤの隙間に大量に挟まった砂をホースで洗いながら笑い合った。そんな何気ない瞬間を、青空さんはよく写真に撮っていた。彼のデジカメにはたくさん写真があって「印刷したら見せてね」と私が言うたびに「また今度ね」と青空さんは笑っていた。
そんな穏やかな日々に、青空さんが病気であることなんて忘れてしまいそうになる。こんな日々が、ずっと続くんじゃないかって。
けれど、そうじゃないことは私たちが一番よく知っていて、その日も、青空さんから来た一本の連絡に、気持ちが重くなった。
『明日、病院に行くことになったから、会うの明後日でもいいかな』
金曜日の夕方に突然来た連絡。土曜日に映画に行こうって約束をしていたのだけれど……。
『大丈夫だよ』
病院って何かあったの? そう尋ねたかったけれど……。何度も文字を打ち直しては消して……。結局、その五文字を送るので精一杯だった。
私は、ため息を吐いてスマホをベッドに放り投げる。何かあったのなら、きっと言ってくれるはず。そう思ってはいるけれど……。
「はぁ……」
もう一度、ため息を吐いたそのときだった。バタバタと走るような音がして、私の部屋のドアが開いたのは。
「梓!」
「ちょっと、お母さん。勝手に開けないでって……」
「今、高校から電話がかかってるの!」
「高校から? 私、何かしたっけ……」
提出物もきちんとしてるし、試験結果だって悪くない。別に学校から電話が来るようなことなんて……。
「今、通ってる方じゃなくて……!」
「え……?」
「だから!」
母親の言葉は、私の頭を真っ白にさせるには十分すぎるほどだった。
「――それで、なんの電話だったの?」
「……私の、カンニングの疑惑が晴れたって」
日曜日。前日に病院に行った青空さんを外出させるのは……と思い、青空さんの家に遊びに来ていた。ベッドにもたれるようにして並んで座った私たちは、手をつないだまま金曜日にの電話について話をしていた。
「え……?」
「……なんか、カンニングした子、ちゃんと受かってて学校に通ってたらしいんだけど、やっぱり無理して背伸びして入った学校だったから上手く馴染めなかったんだって」
その結果、学校を休みがちになり、冬休みまであと一ヶ月、というこの時期に退学することになったらしい。その際、ずっと言えなかった……と泣きながら本当のことを話したそうだ。
「……そっか」
「うん……」
なんと言っていいかわからないのだろう。青空さんも黙り込んでしまう。私だって一昨日、電話がかかってきて頭がパニックになった。母親はテンション高く喋り続けているし、父親は……苦笑いを浮かべたままどこか他人事のようだった。
「それで?」
「え?」
「梓は、どうするの?」
どうする、か……。
「あのね、申し訳なかったって先生たちが電話の向こうで言ってたの。今度正式に謝りに行くからって。学費も、十二月分までの差額は補償するし、一月からでも四月からでも私の都合のいい時期に転入してきてくれたらいいって」
「うん」
「すっごく丁寧に話してくれて、お母さんも喜んでて……でも」
私は青空さんと手を繋いでいない方の手のひらをギュッと握りしめた。今から私が言うことは、青空さんを幻滅させるかもしれない。あんなに心配してくれていたのに。でも……。
「断っちゃった」
「やっぱり」
「……ビックリしないの?」
「梓なら、そうするんじゃないかなって思ったから」
繋いだ手に力が込められたのがわかる。青空さんの手のひらから伝わってくるぬくもりが優しくて、心まで温められるようだった。
「うん。……私の居場所は、もう私自身で作ったから。ずっとカンニングをしたんだって思われてるのが嫌だったけど……でも、もうあそこに未練はないかな」
「そっか。でも、お母さんは? 大丈夫だった?」
「うーん、ちょっとショック受けてたけど……。でも、大丈夫だと思う。ちゃんと私の気持ち伝えたから。きっとわかってくれると思う」
一昨日、電話がかかってきてからたくさん話をした。今までのこと、そしてこれからのこと。あんなにも話をしたのなんて、いったいいつぶりだろう。
もしかしたら、もっと早くこうやって話をしていたら、何かが違ったのかもしれない。
「こんなふうに思えるようになったのは、青空さんのおかげだよ」
「俺?」
「そう。きっとね、青空さんと出会ってなかったら今でもあの学校にこだわったままだったと思うし、今回の話もきっと飛びついてたと思う。でも……青空さんが前を向くことの大事さを教えてくれたから。どんなときでも、自分自身が選んだ未来を精一杯生きていくことの大切さを教えてくれたから。だから……」
「梓……!」
気が付くと私の身体は青空さんに抱きしめられていた。青空さんの腕は小さく小刻みに震えていた。
「……青空さん?」
泣いているの? とは聞けなかった。だって、聞いたらきっと青空さんは涙の理由を説明しなきゃいけないから。だから私は言葉の代わりに、青空さんの背中にそっと腕を回すと、ギュッと抱きしめ返した。青空さんのぬくもりが私の体温と合わさって心地いい。
「ごめん」
青空さんが顔を上げたのは、それからしばらくしてだった。目元が赤くなっていたから、やっぱり泣いていたんだと思う。
「大丈夫?」
「うん……。なんか、梓の話を聞いたら、泣けちゃって……。みっともないね」
青空さんが恥ずかしそうに笑うから……私はそれ以上何も聞けなかった。
その代わり、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「そういえば……青空さんって、私が話しかける前から私のこと知ってたって、本当?」
「ゲホッ! ……だ、誰がそんなこと……」
「お兄さん」
「っ……言うなって言ったのに!」
目尻に涙を浮かべてむせる青空さんの背中をさすると、青空さんは困ったような顔で私を見つめる。
「ち、違うんだよ。別にずっと見てたわけじゃなくて、その……いつも同じ電車に乗ってる子がいるなって……。その、いつも小説読んでるけど、何読んでるんだろう、とか……あの制服って姉ちゃんと同じところだよな、とか……そんなことを……」
「青空さん?」
「別に、ストーカーとかじゃないし、その……気になる子を目で追っちゃうと言うか……なんと言うか……」
「青空さん!」
「え?」
私の声なんて届いていないかのように話し続ける青空さんを、私は慌てて止めた。だって……。
「そこまでは、知らなかった」
「え?」
「ただ、四月の頭に、青空さんが私の話をお兄さんにしてたって、聞いただけで……」
「……嘘」
「ホント」
「っ……!!」
青空さんは、頭を抱えてしまう。そんな態度が可愛くて、私は思わず笑った。
「……青空さん、私のこと、知ってたんだ」
「……ん」
「ずっと、見ててくれたの?」
「…………」
「青空さん?」
私の言葉に、青空さんは観念したように頷いて、顔を上げた。その目は真剣で、ジッと私を見つめていた。
「――あの頃の俺は、再発がわかって、でも仕事をしている家族にも迷惑を掛けたくなくて、無理して強がって「一人で病院に通うよ」なんて言って、本当は怖くて仕方がないのに、あの電車に揺られてたんだ」
青空さんはぽつりぽつりと話し始める。それは、私がまだ青空さんを知らなかった頃の話だった。
「もちろん検査結果なんかは両親にも聞いてもらわなきゃいけなかったし、全く迷惑をお掛けない、なんてことは無理だったんだけど、それでも俺一人が我慢すればいい。またあのときみたいにみんなに迷惑掛けたくないってそればっかり思ってた。それでも、もう検査なんか嫌だ。治療なんか嫌だって、電車に乗ったけど、病院に行きたくない。今すぐ逃げ出したいって思うときもあった。――そんなときだよ。梓を電車で見かけたのは」
「え……?」
「俯いて、希望もなにもないって顔で電車に乗っている梓に俺はなぜか自分を重ねた。でも、一つだけ違ったのは……梓は逃げなかった。どんなに暗い顔をしていても、電車が着いたら顔を上げて、高校に向かう梓の姿に、俺は勇気をもらったんだ」
違う、私はそんなたいした人間じゃない。逃げなかったんじゃない、逃げる結城がなかっただけ。逃げられるなら、逃げたかった。でも、それすら怖くて、ただひたすら流されるままに高校に通っていた。そこに自分の意思なんて、存在しないかのように。
「梓はそんなことないって言うかもしれない。大げさだって笑うかもしれない、でも、どんなにしんどくても毎日学校に通う梓は俺にとって、太陽みたいに輝いて見えたんだ」
「青空さん……」
そんなふうに思ってもらう資格が、私にあるのだろうか。こんな私が、青空さんの太陽だなんて……。でも、一つだけ確かなことがある。
「私にとっても、青空さんは太陽のような存在だった。あなたがいたから、私は前を向けた。あなたがいたから頑張れた。乗り越えられた」
「梓……」
「私たち、似たもの同士なのかもしれないね」
「そうだね」
お互いが、お互いを支えにして――お互いを追いかけて前を向いたつもりでいたのに、実は二人一緒に、前を向いて歩いていたなんて。
「ね、青空さん」
「ん?」
「私ね、青空さんと一緒にいられて幸せだよ」
「俺もだよ」
「ずっと、ずっと一緒にいようね」
私の言葉に、青空さんは微笑むとギュッと手を握りしめた。
この手のぬくもりが、いつまでも私のそばに在りますように――。
心の底から、そう願った。
そのあとしばらく他愛のない話をして、私は青空さんの家をあとにしようとして――ふと、思い出したことを尋ねた。
「もしかして、なんだけど」
「どうかした?」
「前に、私が本を好きだってどうして知ってたの? って聞いたことあったでしょ? あれってもしかして……」
そこまで言った私は目の前で、赤くなった顔を隠すように口元に拳を当てた青空さんの姿に笑ってしまった。
「なんでもない」
「笑ってるだろ」
「笑ってないよー」
ケラケラと笑いながら、私は青空さんに手を振って、青空さんの家を出た。ここから、自宅までは電車で一駅だ。
数分後、最寄り駅に着いた私は、辺りを見回した。一昨日までとなんにも変わっていない。でも、もう誰の視線も怖くない。
高校への編入を断った私に、先生たちが何かできることはないかと聞いてくれた。そのときに、頼んだのだ。私の名前も、本当の犯人の名前を出さなくてもいいから、誤解されている今の状況をどうにかしてほしい、と。先生たちは快く受け入れてくれ、今日の朝には学校のHPに『お詫びとお知らせ』という形で謝罪文が載っていた。読む人が読めば私のことだってわかるだろう。小さな街だから、悪い噂もいい噂も回るのにそう時間はかからない。時間はかかったとしても、きっと……。
かつての友人たちのことを思い出すと、まだほんの少しだけ胸が痛む。もしもいつか、また連絡が来る日が来たらそのときは……。
私はいつかの未来を思い描きながら、自宅への道のりを歩き始めた。
青空さんから連絡が来たのは、翌日のことだった。次の日曜日の予定を変更して、海に行きたいとメッセージには書かれていた。
海と言えば、少し前に二人で行って上手く車椅子を動かすことができず悪戦苦闘した……。リベンジをしたい、とかそういうことなのだろうか?
よくわからないまま返事を送り、そしてあっという間に日曜日はやってきた。前日の土曜日はまた病院に行っていたらしいけれど、大丈夫なのだろうか……。
「大丈夫、ただの検査だから」
尋ねても青空さんは笑うだけだから、私はそれ以上聞けなくて……。
「そっか、ならよかった。海、楽しみですね」
電車の窓から見えてきた海を指さしてそう言うことしかできなかった。
十一月ももう終わりという時期に海に行く人などほとんどいないのか、駅で降りるのは私と青空さんの二人だけだった。二人で電車に乗るのにもだいぶ慣れ、私が後ろから車椅子のタイヤをあげるだけでスロープを出してもらうことなく乗り降りができるようになっていた。
駅を出ると海風に乗って潮の匂いが漂っていた。私は、車椅子を押す手に力を込めて、進み始めた。前回来たときは、まずどうやって車椅子で砂浜に降りられるのか、それがわからずに辺りを彷徨った。
「こっちだったよね」
「そうだね」
今日は迷うことなく、車が降りることのできる坂道を車椅子で下っていく。途中、何度か石にタイヤを取られそうになったけれど、なんとか砂浜まで降りることができた。
「危なかった……」
「ありがとね」
「これぐらいなんてことないよ」
ニッコリ笑うと、私は車椅子を動かしていく。坂道はまだいいのだ。それよりも問題は……。
「砂浜、上手く進めるといいんだけど……」
「それなんだけど……。ね、少し手を貸してくれる?」
「え……?」
私は差し出された青空さんの手を握りしめる。いったいなにを……。
「よっ……と!」
「せ、青空さん!?」
青空さんは、私の手を支えにして、立ち上がった。左足を地面につけず、片足だけでバランスを取っている。
「だ、大丈夫なの!?」
「大丈夫。……梓、向こうまで歩いて行ってくれる?」
「え、あ……じゃあ、車椅子に……」
「ううん、俺はこのままで。……梓、一人で行ってほしいんだ」
いったい、何をする気なんだろう……。不安なまま私は青空さんの手を離すと、十歩ほど離れたところまで歩いて行く。その間、青空さんは車椅子を支えにして立っていた。
「ここでいい?」
「うん。……待ってて」
そう言ったかと思うと、青空さんは、車椅子から手を離して――左足を地面につけた。
「え……?」
「っ……」
ゆっくり、一歩ずつ、青空さんは前に進む。歩けなくなった、と言っていた足を引きずるようにしながら、ゆっくりと、でも確実に。
足が痛むのか、ときおり顔をゆがめながら、それでも足を止めることはなかった。
「あず……」
「青空さん……」
「っ……!」
あと一歩、というところで青空さんはバランスを崩した。
「危ない!」
私は慌てて青空さんへと手を差し出す。その手に掴まるようにして、なんとか青空さんは体勢を保った。
「セーフ!」
「セーフって……青空さん……!」
「ビックリした?」
「ビックリした!!」
思わず大きな声を出してしまった私に、青空さんはいたずらが成功した子どものような表情を浮かべると嬉しそうに笑った。
「やった! 梓のこと驚かせたくて練習してたんだ。でも、最後の最後でこけちゃった」
「そんなこと……」
「前に向かってきちんと歩いて行く梓を見ていたら、俺も負けてられないなって思ったんだ。痛くたって歩ける足がある。歩けるうちに、梓と一緒に並んで歩きたいって。でも、ダメだなぁ……。こんな距離さえも、一人じゃ歩けないなんて……」
青空さんの言葉に、何かが引っかかった気がした。でも、それが何か考えるよりも、今は……。
「青空さん!」
「え?」
私は、支えていた青空さんの身体を起こすようにして離れると、手を握りしめた。
「転びそうになったら、私がいつでも支えるから」
「梓……」
「だから、一緒に歩こう。二人で。一人で歩けなくたって二人なら歩けるよ! ゆっくり、私たちの速度で、二人で歩いて行こう?」
「――ありがとう」
そう言いながらも、私の手を握りしめる青空さんの力は弱々しくて、自分自身を情けなく思っているのが伝わってきた。だから……。
「いった……!」
「へへっ」
私は、思いっきり青空さんの手を握りしめた。
私が後ろ向きのときは、青空さんが前を向かせてくれた。今度は、私の番だ。
「何を……」
「青空さん。私、青空さんが大好きだよ」
「梓……」
「どんな青空さんでも、大好きだよ」
「……うん。ありがとう。……俺も、梓のことが、好きだよ」
青空さんの顔が、近づいてくるのがわかった。見上げるようにして青空さんを見つめるのはなんだか久しぶりで、少し恥ずかしくて、思わず顔を背けそうになる。
「逃げないで」
でも、そんな私の頬に手を添えると、青空さんは私の唇にキスを落とした。
誰もいない浜辺でしたキスは、ほんの少しだけ潮の香りがした。
「――ね、写真撮ろうか」
それからしばらくして、青空さんは鞄からカメラを取り出すと私に向けた。
「青空さんのことも撮ってあげるよ」
「俺はいいよ」
「……じゃあ、二人で撮ろう?」
私は青空さんの手からカメラを取ると、タイマーをセットして手を伸ばした。
『3……2……1……パシャッ』
カメラから聞こえる無機質な音に合わせて、私たちは笑顔を向ける。上手に取れたか見せて貰うと、ニッコリと笑う青空さんと、目をつぶった私が映っていた。
「もう一回! もう一回撮ろう?」
「ダーメ」
「なんでー!」
私が取れない位置にカメラを掲げる青空さんに飛びつくようにした――その瞬間、バランスを崩して、私たちは砂浜に転がった。
砂だらけになったお互いの姿を見て、私たちはどちらともなく吹き出した。
こんな些細で、くだらないことすら、青空さんと一緒なら楽しくて、幸せで、胸があたたかくなる。
どうか、これから先も、こんな時間をずっとずっと過ごすことができますように――。
私は、空に浮かぶ太陽に小さく祈った。
文化祭のあの日以降も、青空さんのことは青空さんとしか呼べなかったし、相変わらず敬語も混じる私に青空さんは「仕方ないなぁ」なんて笑ってた。でも、それでも前よりはぐっと距離が縮まったような気がしていたし、二人一緒の時間をもっと過ごしたいと思っていた。
それでも、やっぱり会えない時間はちょっぴり辛くて……。特に、朝、電車に一人で揺られていると、青空さんと一緒だったときのことを思い出しては寂しくなってしまう。そんな私を気遣うように、電車が発車するまでの時間、青空さんのお兄さんが青空さんのことを面白おかしく教えてくれた。小さい頃、どんな子どもだったとか、サッカーより野球派だとか、片付けるのが苦手だとか。
いろいろ聞いた話を電車の中からメッセージで送ると、青空さんは嫌そうな反応をするけれど、でもそんな時間すら愛おしかった。
そういえば、この間、青空さんのお兄さんが不思議なことを言っていた。
「四月のはじめの頃に、梓ちゃんの話を青空から聞いたよ」
って――。五月の間違いだと思うんだけど……今度、青空さんに聞いてみようかな。そんなことを思いながら、私は一人学校へ向かう電車に揺られていた。
そんな平日とは対照的に、休日になると、平日会えない寂しさを埋めるかのように、私たちはたくさんの場所に行った。
『もうすぐ着くよ』
『楽しみだね』
そんなメッセージのやりとりさえ、嬉しかった。
秋の花火大会に、ピクニック。季節外れの海。砂浜を車椅子で進むには難しく、タイヤの隙間に大量に挟まった砂をホースで洗いながら笑い合った。そんな何気ない瞬間を、青空さんはよく写真に撮っていた。彼のデジカメにはたくさん写真があって「印刷したら見せてね」と私が言うたびに「また今度ね」と青空さんは笑っていた。
そんな穏やかな日々に、青空さんが病気であることなんて忘れてしまいそうになる。こんな日々が、ずっと続くんじゃないかって。
けれど、そうじゃないことは私たちが一番よく知っていて、その日も、青空さんから来た一本の連絡に、気持ちが重くなった。
『明日、病院に行くことになったから、会うの明後日でもいいかな』
金曜日の夕方に突然来た連絡。土曜日に映画に行こうって約束をしていたのだけれど……。
『大丈夫だよ』
病院って何かあったの? そう尋ねたかったけれど……。何度も文字を打ち直しては消して……。結局、その五文字を送るので精一杯だった。
私は、ため息を吐いてスマホをベッドに放り投げる。何かあったのなら、きっと言ってくれるはず。そう思ってはいるけれど……。
「はぁ……」
もう一度、ため息を吐いたそのときだった。バタバタと走るような音がして、私の部屋のドアが開いたのは。
「梓!」
「ちょっと、お母さん。勝手に開けないでって……」
「今、高校から電話がかかってるの!」
「高校から? 私、何かしたっけ……」
提出物もきちんとしてるし、試験結果だって悪くない。別に学校から電話が来るようなことなんて……。
「今、通ってる方じゃなくて……!」
「え……?」
「だから!」
母親の言葉は、私の頭を真っ白にさせるには十分すぎるほどだった。
「――それで、なんの電話だったの?」
「……私の、カンニングの疑惑が晴れたって」
日曜日。前日に病院に行った青空さんを外出させるのは……と思い、青空さんの家に遊びに来ていた。ベッドにもたれるようにして並んで座った私たちは、手をつないだまま金曜日にの電話について話をしていた。
「え……?」
「……なんか、カンニングした子、ちゃんと受かってて学校に通ってたらしいんだけど、やっぱり無理して背伸びして入った学校だったから上手く馴染めなかったんだって」
その結果、学校を休みがちになり、冬休みまであと一ヶ月、というこの時期に退学することになったらしい。その際、ずっと言えなかった……と泣きながら本当のことを話したそうだ。
「……そっか」
「うん……」
なんと言っていいかわからないのだろう。青空さんも黙り込んでしまう。私だって一昨日、電話がかかってきて頭がパニックになった。母親はテンション高く喋り続けているし、父親は……苦笑いを浮かべたままどこか他人事のようだった。
「それで?」
「え?」
「梓は、どうするの?」
どうする、か……。
「あのね、申し訳なかったって先生たちが電話の向こうで言ってたの。今度正式に謝りに行くからって。学費も、十二月分までの差額は補償するし、一月からでも四月からでも私の都合のいい時期に転入してきてくれたらいいって」
「うん」
「すっごく丁寧に話してくれて、お母さんも喜んでて……でも」
私は青空さんと手を繋いでいない方の手のひらをギュッと握りしめた。今から私が言うことは、青空さんを幻滅させるかもしれない。あんなに心配してくれていたのに。でも……。
「断っちゃった」
「やっぱり」
「……ビックリしないの?」
「梓なら、そうするんじゃないかなって思ったから」
繋いだ手に力が込められたのがわかる。青空さんの手のひらから伝わってくるぬくもりが優しくて、心まで温められるようだった。
「うん。……私の居場所は、もう私自身で作ったから。ずっとカンニングをしたんだって思われてるのが嫌だったけど……でも、もうあそこに未練はないかな」
「そっか。でも、お母さんは? 大丈夫だった?」
「うーん、ちょっとショック受けてたけど……。でも、大丈夫だと思う。ちゃんと私の気持ち伝えたから。きっとわかってくれると思う」
一昨日、電話がかかってきてからたくさん話をした。今までのこと、そしてこれからのこと。あんなにも話をしたのなんて、いったいいつぶりだろう。
もしかしたら、もっと早くこうやって話をしていたら、何かが違ったのかもしれない。
「こんなふうに思えるようになったのは、青空さんのおかげだよ」
「俺?」
「そう。きっとね、青空さんと出会ってなかったら今でもあの学校にこだわったままだったと思うし、今回の話もきっと飛びついてたと思う。でも……青空さんが前を向くことの大事さを教えてくれたから。どんなときでも、自分自身が選んだ未来を精一杯生きていくことの大切さを教えてくれたから。だから……」
「梓……!」
気が付くと私の身体は青空さんに抱きしめられていた。青空さんの腕は小さく小刻みに震えていた。
「……青空さん?」
泣いているの? とは聞けなかった。だって、聞いたらきっと青空さんは涙の理由を説明しなきゃいけないから。だから私は言葉の代わりに、青空さんの背中にそっと腕を回すと、ギュッと抱きしめ返した。青空さんのぬくもりが私の体温と合わさって心地いい。
「ごめん」
青空さんが顔を上げたのは、それからしばらくしてだった。目元が赤くなっていたから、やっぱり泣いていたんだと思う。
「大丈夫?」
「うん……。なんか、梓の話を聞いたら、泣けちゃって……。みっともないね」
青空さんが恥ずかしそうに笑うから……私はそれ以上何も聞けなかった。
その代わり、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「そういえば……青空さんって、私が話しかける前から私のこと知ってたって、本当?」
「ゲホッ! ……だ、誰がそんなこと……」
「お兄さん」
「っ……言うなって言ったのに!」
目尻に涙を浮かべてむせる青空さんの背中をさすると、青空さんは困ったような顔で私を見つめる。
「ち、違うんだよ。別にずっと見てたわけじゃなくて、その……いつも同じ電車に乗ってる子がいるなって……。その、いつも小説読んでるけど、何読んでるんだろう、とか……あの制服って姉ちゃんと同じところだよな、とか……そんなことを……」
「青空さん?」
「別に、ストーカーとかじゃないし、その……気になる子を目で追っちゃうと言うか……なんと言うか……」
「青空さん!」
「え?」
私の声なんて届いていないかのように話し続ける青空さんを、私は慌てて止めた。だって……。
「そこまでは、知らなかった」
「え?」
「ただ、四月の頭に、青空さんが私の話をお兄さんにしてたって、聞いただけで……」
「……嘘」
「ホント」
「っ……!!」
青空さんは、頭を抱えてしまう。そんな態度が可愛くて、私は思わず笑った。
「……青空さん、私のこと、知ってたんだ」
「……ん」
「ずっと、見ててくれたの?」
「…………」
「青空さん?」
私の言葉に、青空さんは観念したように頷いて、顔を上げた。その目は真剣で、ジッと私を見つめていた。
「――あの頃の俺は、再発がわかって、でも仕事をしている家族にも迷惑を掛けたくなくて、無理して強がって「一人で病院に通うよ」なんて言って、本当は怖くて仕方がないのに、あの電車に揺られてたんだ」
青空さんはぽつりぽつりと話し始める。それは、私がまだ青空さんを知らなかった頃の話だった。
「もちろん検査結果なんかは両親にも聞いてもらわなきゃいけなかったし、全く迷惑をお掛けない、なんてことは無理だったんだけど、それでも俺一人が我慢すればいい。またあのときみたいにみんなに迷惑掛けたくないってそればっかり思ってた。それでも、もう検査なんか嫌だ。治療なんか嫌だって、電車に乗ったけど、病院に行きたくない。今すぐ逃げ出したいって思うときもあった。――そんなときだよ。梓を電車で見かけたのは」
「え……?」
「俯いて、希望もなにもないって顔で電車に乗っている梓に俺はなぜか自分を重ねた。でも、一つだけ違ったのは……梓は逃げなかった。どんなに暗い顔をしていても、電車が着いたら顔を上げて、高校に向かう梓の姿に、俺は勇気をもらったんだ」
違う、私はそんなたいした人間じゃない。逃げなかったんじゃない、逃げる結城がなかっただけ。逃げられるなら、逃げたかった。でも、それすら怖くて、ただひたすら流されるままに高校に通っていた。そこに自分の意思なんて、存在しないかのように。
「梓はそんなことないって言うかもしれない。大げさだって笑うかもしれない、でも、どんなにしんどくても毎日学校に通う梓は俺にとって、太陽みたいに輝いて見えたんだ」
「青空さん……」
そんなふうに思ってもらう資格が、私にあるのだろうか。こんな私が、青空さんの太陽だなんて……。でも、一つだけ確かなことがある。
「私にとっても、青空さんは太陽のような存在だった。あなたがいたから、私は前を向けた。あなたがいたから頑張れた。乗り越えられた」
「梓……」
「私たち、似たもの同士なのかもしれないね」
「そうだね」
お互いが、お互いを支えにして――お互いを追いかけて前を向いたつもりでいたのに、実は二人一緒に、前を向いて歩いていたなんて。
「ね、青空さん」
「ん?」
「私ね、青空さんと一緒にいられて幸せだよ」
「俺もだよ」
「ずっと、ずっと一緒にいようね」
私の言葉に、青空さんは微笑むとギュッと手を握りしめた。
この手のぬくもりが、いつまでも私のそばに在りますように――。
心の底から、そう願った。
そのあとしばらく他愛のない話をして、私は青空さんの家をあとにしようとして――ふと、思い出したことを尋ねた。
「もしかして、なんだけど」
「どうかした?」
「前に、私が本を好きだってどうして知ってたの? って聞いたことあったでしょ? あれってもしかして……」
そこまで言った私は目の前で、赤くなった顔を隠すように口元に拳を当てた青空さんの姿に笑ってしまった。
「なんでもない」
「笑ってるだろ」
「笑ってないよー」
ケラケラと笑いながら、私は青空さんに手を振って、青空さんの家を出た。ここから、自宅までは電車で一駅だ。
数分後、最寄り駅に着いた私は、辺りを見回した。一昨日までとなんにも変わっていない。でも、もう誰の視線も怖くない。
高校への編入を断った私に、先生たちが何かできることはないかと聞いてくれた。そのときに、頼んだのだ。私の名前も、本当の犯人の名前を出さなくてもいいから、誤解されている今の状況をどうにかしてほしい、と。先生たちは快く受け入れてくれ、今日の朝には学校のHPに『お詫びとお知らせ』という形で謝罪文が載っていた。読む人が読めば私のことだってわかるだろう。小さな街だから、悪い噂もいい噂も回るのにそう時間はかからない。時間はかかったとしても、きっと……。
かつての友人たちのことを思い出すと、まだほんの少しだけ胸が痛む。もしもいつか、また連絡が来る日が来たらそのときは……。
私はいつかの未来を思い描きながら、自宅への道のりを歩き始めた。
青空さんから連絡が来たのは、翌日のことだった。次の日曜日の予定を変更して、海に行きたいとメッセージには書かれていた。
海と言えば、少し前に二人で行って上手く車椅子を動かすことができず悪戦苦闘した……。リベンジをしたい、とかそういうことなのだろうか?
よくわからないまま返事を送り、そしてあっという間に日曜日はやってきた。前日の土曜日はまた病院に行っていたらしいけれど、大丈夫なのだろうか……。
「大丈夫、ただの検査だから」
尋ねても青空さんは笑うだけだから、私はそれ以上聞けなくて……。
「そっか、ならよかった。海、楽しみですね」
電車の窓から見えてきた海を指さしてそう言うことしかできなかった。
十一月ももう終わりという時期に海に行く人などほとんどいないのか、駅で降りるのは私と青空さんの二人だけだった。二人で電車に乗るのにもだいぶ慣れ、私が後ろから車椅子のタイヤをあげるだけでスロープを出してもらうことなく乗り降りができるようになっていた。
駅を出ると海風に乗って潮の匂いが漂っていた。私は、車椅子を押す手に力を込めて、進み始めた。前回来たときは、まずどうやって車椅子で砂浜に降りられるのか、それがわからずに辺りを彷徨った。
「こっちだったよね」
「そうだね」
今日は迷うことなく、車が降りることのできる坂道を車椅子で下っていく。途中、何度か石にタイヤを取られそうになったけれど、なんとか砂浜まで降りることができた。
「危なかった……」
「ありがとね」
「これぐらいなんてことないよ」
ニッコリ笑うと、私は車椅子を動かしていく。坂道はまだいいのだ。それよりも問題は……。
「砂浜、上手く進めるといいんだけど……」
「それなんだけど……。ね、少し手を貸してくれる?」
「え……?」
私は差し出された青空さんの手を握りしめる。いったいなにを……。
「よっ……と!」
「せ、青空さん!?」
青空さんは、私の手を支えにして、立ち上がった。左足を地面につけず、片足だけでバランスを取っている。
「だ、大丈夫なの!?」
「大丈夫。……梓、向こうまで歩いて行ってくれる?」
「え、あ……じゃあ、車椅子に……」
「ううん、俺はこのままで。……梓、一人で行ってほしいんだ」
いったい、何をする気なんだろう……。不安なまま私は青空さんの手を離すと、十歩ほど離れたところまで歩いて行く。その間、青空さんは車椅子を支えにして立っていた。
「ここでいい?」
「うん。……待ってて」
そう言ったかと思うと、青空さんは、車椅子から手を離して――左足を地面につけた。
「え……?」
「っ……」
ゆっくり、一歩ずつ、青空さんは前に進む。歩けなくなった、と言っていた足を引きずるようにしながら、ゆっくりと、でも確実に。
足が痛むのか、ときおり顔をゆがめながら、それでも足を止めることはなかった。
「あず……」
「青空さん……」
「っ……!」
あと一歩、というところで青空さんはバランスを崩した。
「危ない!」
私は慌てて青空さんへと手を差し出す。その手に掴まるようにして、なんとか青空さんは体勢を保った。
「セーフ!」
「セーフって……青空さん……!」
「ビックリした?」
「ビックリした!!」
思わず大きな声を出してしまった私に、青空さんはいたずらが成功した子どものような表情を浮かべると嬉しそうに笑った。
「やった! 梓のこと驚かせたくて練習してたんだ。でも、最後の最後でこけちゃった」
「そんなこと……」
「前に向かってきちんと歩いて行く梓を見ていたら、俺も負けてられないなって思ったんだ。痛くたって歩ける足がある。歩けるうちに、梓と一緒に並んで歩きたいって。でも、ダメだなぁ……。こんな距離さえも、一人じゃ歩けないなんて……」
青空さんの言葉に、何かが引っかかった気がした。でも、それが何か考えるよりも、今は……。
「青空さん!」
「え?」
私は、支えていた青空さんの身体を起こすようにして離れると、手を握りしめた。
「転びそうになったら、私がいつでも支えるから」
「梓……」
「だから、一緒に歩こう。二人で。一人で歩けなくたって二人なら歩けるよ! ゆっくり、私たちの速度で、二人で歩いて行こう?」
「――ありがとう」
そう言いながらも、私の手を握りしめる青空さんの力は弱々しくて、自分自身を情けなく思っているのが伝わってきた。だから……。
「いった……!」
「へへっ」
私は、思いっきり青空さんの手を握りしめた。
私が後ろ向きのときは、青空さんが前を向かせてくれた。今度は、私の番だ。
「何を……」
「青空さん。私、青空さんが大好きだよ」
「梓……」
「どんな青空さんでも、大好きだよ」
「……うん。ありがとう。……俺も、梓のことが、好きだよ」
青空さんの顔が、近づいてくるのがわかった。見上げるようにして青空さんを見つめるのはなんだか久しぶりで、少し恥ずかしくて、思わず顔を背けそうになる。
「逃げないで」
でも、そんな私の頬に手を添えると、青空さんは私の唇にキスを落とした。
誰もいない浜辺でしたキスは、ほんの少しだけ潮の香りがした。
「――ね、写真撮ろうか」
それからしばらくして、青空さんは鞄からカメラを取り出すと私に向けた。
「青空さんのことも撮ってあげるよ」
「俺はいいよ」
「……じゃあ、二人で撮ろう?」
私は青空さんの手からカメラを取ると、タイマーをセットして手を伸ばした。
『3……2……1……パシャッ』
カメラから聞こえる無機質な音に合わせて、私たちは笑顔を向ける。上手に取れたか見せて貰うと、ニッコリと笑う青空さんと、目をつぶった私が映っていた。
「もう一回! もう一回撮ろう?」
「ダーメ」
「なんでー!」
私が取れない位置にカメラを掲げる青空さんに飛びつくようにした――その瞬間、バランスを崩して、私たちは砂浜に転がった。
砂だらけになったお互いの姿を見て、私たちはどちらともなく吹き出した。
こんな些細で、くだらないことすら、青空さんと一緒なら楽しくて、幸せで、胸があたたかくなる。
どうか、これから先も、こんな時間をずっとずっと過ごすことができますように――。
私は、空に浮かぶ太陽に小さく祈った。