青空さんと病院で会ったあの日から数日が経ち、学校は夏休みに入った。と、いっても家にも、そしてこの街にさえ居場所のない私は、夏休みの方が苦痛だった。
 偏差値の高い大学を目指しているわけでもないのに、率先して希望者のみの補習や模試の予定を入れたのも、自宅にいたくなかったからで。
 蝉の鳴き声と、照りつける太陽の日差しに負けそうになりながらも、制服に着替えて学校に通っていたのはそのためだった。
 今日の補習は一教科だけだったので、補習が終わってお昼を食べ終えても、まだ太陽は高い位置にいた。今から帰るとすると、夕方よりはだいぶ早く駅に着いてしまいそうだ。
 できれば、もう少し――あと二時間ぐらい時間を潰したいのだけれど、どうしよう……。
 少し考えて、それから青空さんの言葉を思い出した。そういえば、図書館をおすすめされたのに結局、あれから一度も行っていなかった。

「せっかくだし、行ってみようかなぁ」

 図書館ならクーラーも効いているだろうし、面白い本でもあれば夕方までの時間つぶしになる。そう考えた私は、校舎の外に出て、少し離れたところにある図書館へと向かった。
 北上高校の図書館は、校舎の外――広い敷地の奥にあった。青空さんに話を聞いてすぐに行こうと考えた私が、断念した理由がそこにある。私立高校だけあって、北条高校の敷地は広い。ちょっと休み時間に行ってみようかな、と思うには距離があった。
 校舎を出てから五分ちょっと、歩いたところにそれはあった。夏休みということもあり、人気のない図書館はひんやりと涼しくて過ごすにはちょうどよかった。これなら、夏休みの宿題を持ってきてここでするのもいいかもしれない。貸し出しカウンターの隣にあった、今月のおすすめ図書から一冊の本を手に取ると、空いているテーブルへと向かった。


 読み終えた本を閉じ、伸びをすると時計が目に入った。

「うそ、もう五時!? ……っ」

 思わず声に出してしまい、慌てて口を押さえる。幸い、周りには人はいなくて、ホッと息を吐き出した。
 それにしても、いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。元あった場所に本を戻すと、私は図書館をあとにした。

 翌日も、そのまた翌日も私は補習のあと図書館に向かった。人気のないと思っていた図書館は、私以外にも利用者がいたようで、何カ所かある読書スペースで本を読んでいる人、課題をやっているのだろうか、勉強をしている人、それから涼みに来ているのか寝ている人もいた。私はというと、最初の頃は本を読んでいたけれど、いい加減宿題を進めなければと思い、図書館に通い始めたから一週間が過ぎた頃には、学校に用はないけれど宿題を持ってまっすぐ図書館へと向かうようになった。夏休みなのに毎日学校に通うので定期の更新をしてほしいと言ったら、宿題をするぐらいなら家でも自宅の近くの図書館でもできるじゃない、なんて親からは小言を言われたけれど、別に気にならなかった。
 今日も宿題の続きをしようと、誰もいない机に数Ⅰの教科書と、それから問題集を広げた。
 どれぐらい時間が経っただろう、気が付くと一つ椅子を挟んだ隣の席に、誰かが座っているのが見えた。いつの間にそこにいたのか……。全然気付かなかった。
 そして私は、その子に見覚えがあった。名前はわからないけれど、多分クラスメイトだ。でも、どうしてそこに座っているんだろう。いくつも席は空いているのに……。とはいえ、どうしてそこに座っているの? なんて、尋ねられるわけもなく、私は少し居心地の悪さを覚えながらも、再び宿題へと意識を向ける。そして、そんなことは何回かあった。
 別に席が埋まっているわけではないのに、私の、それも一つ席を空けた隣に彼女は座ると、別に何かを話すでもなく、ただそこで本を読んでいた。いったいどういうつもりなのか疑問に思うこともあったけれど、今更聞くこともできず、気付けば八月になっていた。
 お盆休みの期間はさすがに学校も開いていなかったので、一週間ぶりに図書館を訪れた。休みに入る前に借りていた本をカウンターで返すと、私はいつものように机に向かうと宿題を広げた。図書館に通っていたおかげで、今年は例年に比べて早く宿題が終わりそうだ。
 今までは……。友人たちと遊んだり、部活に精を出したりしていた夏休みを思い出して、胸の奥がどんよりと重くなるのを感じた。

「はぁ……」

 気分が沈む。黙々と宿題をする気分ではなくなってしまった私は、新しく入荷していた本を持ってくることにした。
 面白そうな本を二冊ほど取って席に戻ると、いつものようにクラスメイトがそこにいた。いつもと違うのは……彼女が宿題を広げていたこと。
 ちらっと見ると、問題集を始めたところのようで、まだあと数十ページは残っているようだった。……この時期からやり始めて間に合うのだろうか。
 一瞬、そんな思いがよぎったけれど、私には関係ない。
 席に着くと、彼女のことなんて気にしていない、そんな態度で私は本を広げた。

「うーーーん」
「…………」
「あれ? これって……。えええーー」

 気にしないようにしようとすればするほど、隣から聞こえてくる独り言が気になって仕方がない。再び気付かれないように盗み見ると……どうやら因数分解でつまっているようだった。
 そこは、その前の問題の応用で……。あ、違う。そうじゃなくて……。
 思わず口から出かかった言葉を、飲み込む。名前も知らない、話したこともないクラスメイトから急に声をかけられても気持ち悪がられるだけじゃないだろうか。たまたまいつも近くの席に座るだけで、別に何の意図もなかったのに、話かけられてホント気持ち悪かった、なんて言われるかもしれない。そんなことになるぐらいなら、何も言わない方が……。

『……俺、頑張るから』
 
 その瞬間、頭の中に、あの日の青空さんの言葉がよぎった。

『逃げないで、頑張るから』

 そうだ、青空さんは逃げないって、頑張るんだって言ってた。
 私だって、あの日決めたじゃない。もう逃げないって。頑張るんだって。
 青空さんに、胸を張って、会えるように。
 だから……。
 私は、からからに渇いた口を潤すように唾を飲み込むと、口を開いた。

「……そっちじゃなくて」
「え?」

 その声に、クラスメイトが不思議そうな顔で私を見た。
 拒絶されるかも、そう思うと、やっぱり怖い。ごめん、青空さん。
 私はクラスメイトの方を見ることなく、独り言ですよ、とでも言うかのように視線は本に向けたまま、小さな声で呟いた。

「……さっきの問題と同じ……。問いⅠ……」
「問いⅠ……? ……ああ!」

 私の言葉に、さっきの問題の応用だと気付いたのか、何かを思いついたかのような声を上げて、それからシャーペンを走らせ始めた。
 ……それ以降の問題に関しては特にわからないところもなかったのか、シャープペンシルを走らせる音が聞こえていた。
青空さんの頑張ってるのに比べたら、ちっぽけかもしれないけど。それでも、この学校に入って、こんな風に自分から誰かに何かを伝えるのは初めてだったから……。いつの間にかじっとりと湿っていた手をスカートで拭うと、小さく息を吐き出した。そして、すぐそばから聞こえてくるシャープペンの音を聞きながら、私は読みかけだった本の続きに再び視線を向けた。
 

 本を読み終わり、そろそろ帰ろうか。そう思って立ち上がろうとしたとき視線を感じた。

「……ねえ」

 声をかけてきたのは、隣の隣の席に座っていたあのクラスメイトだった。彼女は、私の方をじっと見ていた。

「福島さん」
「なに……? えっと……」
「あ、私のことわかる?」

 口ごもる私に、その子はおかしそうに笑う。申し訳ないけれど、やっぱり名前は思い出せない。首を振った私に、その子はもう一度笑った。

「やっぱりね。同じクラスだってことは?」
「それは、わかる」
「ならよかったー。私ね、栗原莉緒《くりはらりお》って言うの」
「ゴホン」

 話を続けようとした栗原さんの声を遮るようにして、どこかから咳払いをする音が聞こえた。私と栗原さんは顔を見回すと、どちらともなく図書館の外に出た。

「怒られちゃったね」
「だね」

 肩に掛かるポニーテールを揺らしながら悪びれなく笑う彼女につられるようにして私も笑った。そんな私に、彼女――栗原さんは嬉しそうに言う。

「さっきはありがとう! 問題、教えてくれたでしょ?」
「あ、えっと……うん。や、別に……」
「あそこ、前にテストで出たときもわかんなくて。だから、助かっちゃった」

 ニッコリと笑うと、左頬にえくぼができるのが見えた。屈託ない笑顔を浮かべると、栗原さんは続ける。

「ね、明日も図書館いる?」
「え……。うん、いると思うよ」

 思うよ、なんて嘘だ。ホントは明日も明後日も、夏休みの平日はほとんど図書館で過ごしてきたし、これからもそうだ。
 そんな私のもやもやなんて気付かないように、栗原さんは言う。

「やった! じゃあ、またわからないところあったら教えてよ」
「私が……?」
「うん。あ、ダメだった?」
「ダメじゃない!」

 ダメなんかじゃない。むしろ……。

「私でいいの……? だって、友達でもなんでもないのに……」

 私なんかで……。
 でも、栗原さんは、キョトンとした表情で言った。

「なら、友達になればいいじゃん」
「え……?」
「私さ、福島さんと話してみたかったんだ」

 栗原さんの言葉の意味がわからずにぽかんと口を開けたままの私に、少し照れくさそうに言った。

「……じゃなかったら、あんなふうに毎回同じ机に座らないでしょ」
「あ……」

 そう、だったんだ。まさかそんなふうに思っていてくれてたなんて思わなかった。だって、みんな私になんて興味ないんだとばかり……。

「福島さん、今『私になんて興味ないんだと思ってた』って思ってるでしょ」
「っ……」

 思っていたことを言い当てられて、言葉に詰まる。そんな私を、栗原さんは笑った。

「それね、逆だからね」
「え……?」
「みんなが福島さんに興味ないんじゃなくて、福島さんがみんなに興味なかったから、だからみんな福島さんに話しかけられなかったんだよ」
「ちが……」

 違う、そんなことない。そう言いたかったけれど、心の奥で、その通りだと認める自分自身がいた。

「興味がない、とはちょっと違うかもしれないけど……。でも、ここは私の居場所じゃないから。……そんなふうに思っているのが伝わってきてたよ」
「っ……」

 もう、何も言えなかった。
 だから私は、その場から逃げるように駆け出した。

「あっ……」

 背中に、栗原さんが何か言う声が聞こえたけれど、立ち止まることはないまま、私は駅へと向かって走った。
 胸が苦しかった。心が痛かった。
 どうしてあんなこと言われなきゃいけないの。私のことなんて、なんにも知らないくせに。何があったかなんて、知らないくせに!

「はあ……はあ……」

 全力で走って、汗なのか涙なのかもはやわからない液体が頬を伝う。何がこんなに悲しいのかわからなかった。でも……。

「うれし、かったのに……」

 話をしたかったって言ってもらえて、本当はとっても、とっても嬉しかったのに。
 自分の中の情けない部分やみっともない部分を見透かされていたようで……。

「もう、嫌だ……」

 ぽたぽたと地面に小さな染みを作るしずくを必死に拭うと、私は駅のホームへと向かった。


 その日の夜、明日、図書館に行きたくないな、なんて思っていると、朝起きたら熱が出ていた。夏風邪は馬鹿がひく、なんて誰かが言っていたな……。そんなことを思いながらベッドに寝転んでいると、夢を見た。
 あの病院の中庭で、頑張るよと言っていた青空さんの夢を。
 私も頑張るって決めたのに、結局、私は何かを頑張れているのだろうか。
 こんな情けないままの私で、本当に戻ってきた青空さんの隣にいられるのだろうか。
 私だって頑張ったと、胸を張って言えるのだろうか。
 そんなことを、熱に浮かされながらずっと考え続けていた。
 結局、熱が引くまでに丸々三日ベッドの上で過ごすはめになった。熱が下がったのが土曜日の朝だったので、図書館に向かうことができたのは月曜日のことだった。
 久しぶりの外出は緊張と、でも開放感でいっぱいだった。けれど、図書館が近づくにつれてあの日の栗原さんとの会話が気持ちを重くしていく。彼女は今日も来ているのだろうか。そしてまた、私の隣の隣の席に座るのだろうか。……ううん、あんなふうに逃げた私のそばになんてもう来てくれないかもしれない。せっかく、話をしたいと思っていたと言ってくれていたのに。
 うだうだと考えているうちに、図書館に着いてしまった。意を決して扉に手をかける。が……。

「あれ……」

 いない……。
 そこに、栗原さんの姿はなかった。
 ホッとしたような、少し残念なような複雑な気持ちを抱えながら、私はおすすめの本が置いてある棚へと向かった。新しい本は来ているだろうか。そんなことを考えていると、ガタンッと大きな音がした。

「え……?」

 見覚えのない男子が、私のすぐそばに立っていた。どうやらこの男がで乱暴に本を棚に入れて、落としてしまったようだった。男子は落ちた本をちらっと見ると、拾うことなく立ち去っていく。

「…………」

 本をこんな風に扱うなんて……。私は、落ちた本を拾うと、本棚へと直した――。

「ちょっと、あなた!」
「…………」
「あなたよ、あなた!」
「え、私……?」

 後ろから肩をつかまれて、慌てて振り返った。そこには、司書さんだろうか。真っ白なブラウスに黒のスカート、そして首から吊り下げ札をかけた女の人が立っていた。
 その女の人は、凄い形相で私をにらみつけた。

「あなたね! 図書館の本をそんなふうに扱っていいと思っているの!?」
「え……」
「何組の生徒? 担任の先生は? ああ、もう! 本が折れちゃってるじゃない!」

 どうやらさっきの男子が落とした本を、私が落としたのだと勘違いしているようで、司書の女性は私が戻した本を取り出すと、折れた端っこを突き出すように私に見せた。

「ち、違います。それ、私じゃなくて……」
「嘘おっしゃい! あなたが乱暴に落として拾うところを見てたんですよ!」
「ちが……。その前にいた男子が落としたから私……」
「人のせいにするの!?」
「だから……」

 どうしたら信じてくれるんだろう。頭ごなしに怒鳴られて、周りの視線も痛い。ひそひそと何かを話しているのが聞こえる。きっと、私のことについて言ってるんだろう。

「あ……」

 そのとき、視界の隅に、見覚えのあるポニーテールが見えた。あれは……。

「栗原さん……」

 けれど、栗原さんは私のことなんて気にとめることもなく、図書館の外へと出て行った。

「っ……」

 私が、悪い。あんな態度を取られるようなことをしてしまった私が……。
 それはわかっている。でも……! 
 ギュッと閉じた目からは涙がにじみそうになって、私は図書館の床を見つめた。
 けれど、その態度が気に入らなかったのか、目の前の女性はさらに声を荒らげた。

「そうやって泣いたら何でもすむと思ってるの!? 高校生でしょ? ちゃんと謝らないといけないきは謝るの! わかる!?」

 わからない。私はやってないのに、どうしてこの人はこんなにも私を怒るんだろう。どうしたらいいの。誰か、誰か助けて……。

「あのー」
「え?」
「何? あなた」

 私の背後から、声が聞こえたのはそのときだった。

「栗原さん……」
「誰、あなた」
「その子の友達なんですけど。……その子、なんにもしてないですよ」
「何を言ってるの! 私はさっき……!」

 反論されたことにより、さらにヒステリックに叫んだ女性に、栗原さんは言う。

「だって、そんなことする子じゃないですし。それに、ほら」
 栗原さんが指さした方へと視線を向ける。そこには、見覚えのある男子と……その男子を引っ張るようにして連れてくる女子の姿があった。

「莉緒ー。捕まえてきたよー」
「ありがとー!」

 不服そうな表情の男子は、私を見るとそっぽを向いた。

「怒るんだったらこの人にしてよ。福島さんはこいつが落とした本を拾っただけなんだから」
「……そうなの?」

 司書の女性は怪訝そうに私に尋ねる。だから私は、小さく頷いた。

「……っ。そ、それならそうとさっさと言えばいいじゃない。ほら、あなた! ちょっとこっちに来なさい!」

 ばつが悪そうな顔で私に吐き捨てると、その人は目の前の男子を連れてどこかに行こうとした――。

「待ってください」
「っ……なにか」
「連れて行く前に、福島さんに言うことがあるんじゃないですか?」
「……っ。勘違いして、ごめんなさいね!」

 これでいいでしょ! と、ばかりに早口で言うと、司書の女性は男子を連れてどこかに行ってしまった。

「なーに、あの言い方! もっとちゃんと謝ってよ!」
「栗原さん……」
「酷いよね!」

 そうやって怒ってくれる栗原さんの優しさが温かくて……我慢していた涙があふれ出した。

「っ……え、大丈夫? ちょ、ちょっと外行こっか?」

 慌てたように私の背中を押すと、私は栗原さんに連れられて図書館を出た。
 少し離れたところにあるベンチに座ると「ちょっと待ってて」と言って栗原さんはどこかに行ってしまう。私は、鞄から取り出したハンカチで、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。

「お待たせ」
「あ……」
「水でよかった?」

 栗原さんは、ペットボトルのミネラルウォーターを私に手渡すと、隣に座った。いつもより、椅子一つ分近い場所に。自動販売機で買ってきてくれたであろうそれを口に含むと、からっからに渇いた喉を、冷たい水が潤してくれた。

「ありがとう……」

 ペットボトルを握りしめたままそう言うと、栗原さんは「どういたしまして」と言って笑った。
 ありがとう、じゃなくて、謝らなければいけない。この間の態度を――。ううん、今までの態度を謝って、それで……私と、友達になってって……。

「っ……」

 頭ではわかっているのに、声にならない。どうしたら……。

「あの、さ」
「え……?」

 私が躊躇っているうちに、栗原さんがこちらを向いた。

「あの、ね……この間は、ごめん!」
「え……」

 どうして、栗原さんが謝るの……? だって、悪いのは私で……。私が、自分自身が今を受け入れられずに、みんなに、栗原さんに嫌な思いをさせていたのに……。

「なんで謝るのって顔してる」
「だ、だって……。だって、悪いのは、私だもん。私があんなことを栗原さんに言わせた。栗原さんの言うとおりだよ。私、本命の学校を落ちてここに来て……。それで、どうしてもその事実が受け入れられなくて……。こんなところ、本当は来るつもりじゃなかったのにって。あんなことがなければ、今頃はみんなと一緒の高校に行ってたのにってずっと、ずっとそう思ってた!」

 そう、ずっとずっとそう思ってた。――青空さんに、会うまでは。
 あの日、青空さんに出会って、どこで学ぶかじゃない。誰と出会うかが重要なんだって、教えてもらうまでは――。

「思ってた、ってことは、今は違うってことでしょう?」

 栗原さんは優しく微笑む。

「受験失敗組でも二つに分かれてて、まあしょうがないよね! って通う子と、福島さんみたいにここは私の居場所じゃないって思い詰めて――それで、結局中退しちゃう子とかね」
「っ……」
「最初はね、福島さんもやめちゃうのかなぁって思ってたんだけど、でも途中からなんかちょっと変わった? って、思って。つまらなそうな顔、しなくなったからかな。それで、話してみたいなって思ったんだ」

 少しでも、前を向きたいって思ってた。その気持ちを、わかってくれた人が、いたなんて……。

「って、福島さん!? 泣かないで!?」
「あ……」
「ごめんね? 私、言い過ぎちゃった? いつもみんなに言われるの。莉緒はずけずけ言いすぎるって」

 慌てたように早口で喋る栗原さんに……私は笑ってしまった。そんな私を栗原さんは不思議そうに見つめていた。
 栗原さんは、ちゃんと話をしてくれた。今度は、私の番だ。

「ちが……。そうじゃなくって……うれ、しくて……」
「え……?」
「あり、がとう。……それから、ごめんなさい」

 ペットボトルを握りしめる手に力が入る。誰かにわかってもらいたいと、本音を話すことはこんなにも緊張するのだと思い出す。それはあの日、誰にも本当のことを信じてもらえなかった、あの高校受験の日以来、初めての感覚だった。

「この間、図書館で……逃げてごめんなさい。なのに、今日助けてくれて、嬉しかった。……友達だって、司書さんの手前、そう言ったっていうのはわかってる。でも、もう誰も私のことを友達だなんて言ってくれる人はいないって思ってたから、本当に嬉しかった」
「福島さん……」
「図々しいのはわかってる。でも……私と、本当に友達になってもらえると、嬉しいです」

 ペコッと音を立ててペットボトルが凹んだ。でも、そんなことよりも……今、隣で栗原さんがどんな顔をしているか、そっちの方が気になって……怖くて……顔を上げることができない。
 嫌だ、と言われたらどうしよう。どうしてあんたみたいなのとって、また言われたら……。

「ふっ……ふふっ……」
「え……?」

 隣から笑い声が聞こえてきて、思わず顔を上げた。一体どんな顔をしているのか、そう思っていた栗原さんは、笑っていた。目尻に浮かんだ涙を拭いながら。

「栗原さん……?」
「あのね、福島さん。友達って頼まれてなるもんじゃないって知ってる?」
「っ……」

 それは、確かに、そうだ……。頼まれてなる友達になんてなんの価値があるのか。そんな義理の付き合いのような友達に……。

「ご、ごめ……」
「ねえ、福島さん。私の名前、覚えてる?」
「……栗原さん?」
「そっちじゃなくて、下の名前」

 下の名前……?

「莉緒……」
「せーかい。私さ、友達には名前で呼ばれたい人なんだ」
「え……?」

 どういう意味だろう? 言葉の意味がわからず、首を傾げてしまう私に、栗原さんは左頬にえくぼを浮かべて笑うと言った。

「だからさ、莉緒って呼んでよ。私のこと」
「い、いいの……?」
「当たり前じゃん。それにさ、司書さんへの手前友達だって言ったって、そう言ってたけど……」
「違うの……?」

 だって、それ以外にどうして……。
 でも、私の質問に栗原さんは頬を膨らませると……私の頬を引っ張った。

「ちーがーいーまーすー! この前、図書館の帰りに言ったじゃん。なら友達になればいいじゃんって。忘れちゃった?」
「あ……」
「忘れてたんだ……」

 栗原さんは私の頬から手を離すと、ガックリと肩を落とした。

「あれ……言うの勇気いったんだよ」
「そう、なの……?」
「そうなの! ……頼まれて友達になるもんじゃない、なんて格好つけたこと言ったけど……どうやったら福島さんと仲良くなれるかなって、ずっと考えてたんだから」

 そんなこと、思ってくれている人がいたなんて知らなかった。あの居心地の悪かった教室で、誰とも喋らず、誰とも関わらず、何のためにここにいるのかわからなかった私と、友達になりたいなんて思っていてくれた人がいたなんて……。

「あー、もう! 恥ずかしい! こんな恥ずかしいこと言うつもりなかったんだからね! わかってる!? ……梓!」
「え……」
「っ――。今、梓って呼んだ? とか、聞き返さないでよね!」

 隣に座る栗原さんの顔が耳まで真っ赤になっているのを見て、思わず笑ってしまう。そんな私の態度に気付いたのか、口をとがらせて栗原さんがこちらを向いた。

「なに……?」
「なんでもない。……ありがとう、莉緒」
「っ……べ、別に!」

 莉緒はペットボトルを口に含むとミネラルウォーターを一気に飲み干した。さっきよりもさらに赤くなった耳を見て小さく笑うと……私は、空を見上げた。
 青空さんに、会いたい。
 会って、友達ができたよって伝えたい。
 ほんの少しだけど、前に進めたよって。青空さんのおかげだよって。

「…………」

 ――青空さんは、八月の終わりには退院できると言っていたけれど……。
 蝉の鳴き声も、ほとんど聞こえなくなり――もうすぐ夏が終わろうとしていた。