電車の中で一人佇む君を見つけたその瞬間、心の中を覆っていた雲の隙間から、一筋の光が差し込んだような、そんな気持ちになったことを、きっと君は知らない。
未来に対して、なんの希望を持つこともできなかったあのときの僕にとって、君はたった一つの光だった。
四月。先日の雨で散った桜の花を避けながら、誰もいない駅のホームに立っていた。どうやら、始発であるこの駅から、この時間に電車に乗るのは私だけだということは数日通う中でわかった。
けれど、むしろそのほうがいい。誰にも会いたくない。会えばきっと、私の制服を見て気付くはずだ。
――公立高校に落ちたのか――
と。
他の地域がどうなのかは知らないけれど、私の住む地域ではほとんどの人が公立高校を受験する。そして、先生たちが出願する人数を調整するのか、毎年落ちる人は各中学校で一人か二人だった。
だから、落ちる可能性がある人は市内にある唯一の私立高校に併願を出すのだ。……落ちる可能性のある人は。
私は落ちる予定なんてなかった。先生だって余裕で合格するだろうと言っていたし、私だってそう思っていた。
なのに、落ちた。落ちたのだ。
熱があった? ううん、平熱だった。
お腹でも下していた? ううん、してない。
頭でも痛かった? ううん、痛くなかった。
じゃあ、いったいどうして?
答えは簡単だ。
カンニング――。
もちろん、私はカンニングなんてしていない。なのに、なぜカンニングで失格になったのかと言うと、どうやら消しゴムを落としたときに隣の席の子と入れ替わってしまっていたようだった。その子がずっと真っ青な顔をして俯いていたから間違いないと思う。
でも、それがわかったところであとの祭りだった。どれだけ私が否定しても、誤解だと訴えても、手元にカンニングペーパーの挟まった消しゴムがあるのだ。これ以上の証拠はない。
と、いうことで私はそのまま試験会場を追い出され、別室でたくさんの先生から叱られ、そしてもちろん……高校受験に失敗した。
その時点で私立に出願すれば間に合ったのだけれど、ショックから数日間部屋に引きこもり、気付いたときにはもう市内の私立高校の出願期間は終了していた。
そんなこんなで、その時点で応募できた県内の、それも私の住む市からは電車で2時間かかる場所にある私立高校になんとか出願し、合格通知を貰い、数日前からこうやって通っているのである。
「はぁ……」
小さくため息を吐くと、電車の中から降りてくる駅員さんにペコリと頭を下げる。そして私は誰もいない車内へと足を踏み入れた。
進行方向右側、窓際の後ろから三番目のボックス席。そこが数日前から私の指定席。誰も乗ってこないのをいいことにカバンを隣の席に置いて憂鬱な気持ちのまま窓の外を見た。
今の学校に進学したことを知っている人は、家族を除けばこの街に一人もいない。
「梓がそんなことするわけないってわかっているから」
そう言ってくれていた友人たちが、陰で何を言っていたか知っている。もう誰も信じられない。誰も信じたくない。だから、スマホから全員の連絡先を消した。今の私のアドレス帳には家族の名前しか残っていない。
前だったら寂しいとか、恥ずかしいとかそんなことを思っただろうけれど、今はもうどうでもいい……。
そんなことを考えていると、いつの間にか発車時刻となっていたようで、音を立てて扉が閉まると電車が動き出した。
ここから二時間。憂鬱な通学時間が始まる。
私はカバンから取り出した小説を膝に置くと、窓の向こうに流れていく景色をボーッと見つめ続けていた。一駅すぎただけで、いつも見ていた景色が見覚えのないものへと変わっていく。
――数分後、電車は音を立てて止まった。止まったといってもこの時間だ。乗ってくる人も……。
「あれ……?」
何気なく向けた視線の先に、人影が見えた。この数日、ここから乗ってくる人なんていなかったのに……。
その男の子は私と同じぐらいの年頃に見えるけれど、私服姿のところを見るともしかしたら大学生なのかもしれない。
私とは反対側の、一つ前の席。そこにその人は座った。少し茶色がかった髪の毛が、背もたれの向こうにチラチラと見える。
別に一人が好きなわけじゃないけれど、なんとなく……一人きりだった空間を邪魔された気がして、見え隠れする頭にイラついた。別に気にしなければいいのに、一度気になり始めると、気になって仕方がないのはどうしてだろう……。
「次は――」
「あっ……!」
いつの間に、時間が過ぎ去っていたのだろう。気が付けば、降りる駅のアナウンスが流れていた。
結局、全く読み進めることのなかった小説を慌ててカバンに入れると、私は忘れ物がないか確認して席を立った。
「っ……」
後ろのドアから出ればいい。そう思うのに、足が自然と前に向かう。一歩、一歩と足を踏み出すごとに、全身が心臓になったかのようにドクンドクンと響いている。
どうして、こんな……。
「っ……はあ……」
背後で電車のドアが閉まると、ようやく私は呼吸を止めていたことに気付いて、思いっきり息を吐き出した。
何をやっているんだろう……。自分自身の行動がおかしくて自嘲気味に小さく笑うと、電車を振り返った。
「っ……う、そ……」
そこには、窓の向こうからこちらを見つめる彼の姿があった。
「っ……」
一瞬、目が合った。そんな気がした。
けれど、すぐに電車は動き出し、彼の姿は見えなくなった。
いったい、なんだったんだろう……。
「……っと、いけない。学校、行かなくちゃ!」
私は慌てて歩き出した。おさまらない胸の動悸を抱えたまま。
翌日も、私は同じようにあの時間のあの電車に乗り込んだ。膝の上にはいつものように読みかけの小説を置いたものの、なんとなく開く気になれない。
車内にアナウンスが流れて、もうすぐ次の駅に着くことを知らせた。
少しだけ、心臓がドクンとなったのを気付かないふりして、誰に見られているわけでもないのに私はこっそりと窓の外を見た。
「あれ……?」
――けれど、そこに彼の姿はなかった。
「なぁんだ……っ」
思わずついて出た言葉に、慌てて私は口を押さえる。これじゃあ、まるで彼がいるのを楽しみにしていたみたいじゃない……。
そういうわけじゃない、そういうわけじゃないけれどなんとなく……ホームが目に入って、なんとなくそこに誰もいなかったから……だから……。
まるで言い訳を並べる子どものように、自分自身の呟いた言葉を否定するかのような言葉が次から次へとあふれ出す。私は気にしてなんていないですよ、とでも言うかのようにホームに背を向けて、置いたままになっていた小説を開いた。
週末を退屈に過ごした私は、月曜日再び一人電車に乗っていた。
結局、あの次の日も、そのまた次の日も彼は電車に乗ってこなかった。もしかしたらあの日、たまたま用があって乗っただけなのかもしれない……。だとしたら、もう二度と会うこともないだろうし……。
「はぁ……」
ガッカリしている自分がいることを、もう否定はしなかった。私は、一度、それも見かけただけの彼が気になっている。一目惚れだとか恋に落ちただとか言うつもりはない。でも、どうしてか彼のことが気になって、もう一度会いたいとそう思ってしまう。
きっともう彼は来ない。そう思ったかと思えば、もしかしたら今日こそは乗ってくるかもしれないと思う自分もいて……。そんなふうに考える自分自身を笑ってしまいそうになる。
でも、それでも……だんだんと次の駅が近付くにつれ、動悸が激しくなるのを感じていた。
電車がブレーキをかけ始める音がしたかと思うと、もうすぐ次の駅に着くというアナウンスが流れた。
あと少しで――この間、彼が乗り込んできた駅に着く。
ゆっくりとスピードが落とされて、ホームが見えてきた。私は、期待しても無駄だと思いつつも、それでももしかしたらを諦められずに窓の外を見た。
「……いない」
けれど、ホームに人影はなく……。結局、誰も乗り込むことなく、発車メロディーが鳴り響きドアが閉まった。
何回こんなふうに期待してはガッカリするんだろう。
来るか来ないかわからない人を待つなんて……しかも、相手は一度会っただけの知らない人だとか笑えてくる。もう、忘れよう。二度と会うことはないのだから――。
「……え?」
そのとき、車両と車両を繋ぐドアが開いた。
そこには――あの日以来、待ち続けたあの人の姿があった。
「あっ……」
「え?」
「っ……」
思わず声を出してしまった私に、彼は一瞬不思議そうな顔をする。私は慌てて窓の向こうに視線を向けた。……彼が首をかしげながら、この間と同じ席に座るのを、まるで鏡のように反射して見える窓越しに見つめていた。
その日から、何日かに一回、同じ時間帯の同じ車両に、彼は乗り込んでくるようになった。なんとなく、彼が乗ってくるとそちらを見てしまう。そのたびに心臓は高鳴り、そわそわしてしまう。いったい私はどうなってしまったのだろう……。話をしたこともない人のことが、こんなにも気になるなんて……。
今日も、一駅となりから乗ってきた彼は私の一つ斜め前の席にーー。
「え……?」
思わず出てしまった声を慌てて押さえると、慌てて窓の方を向いた。いつもは、一つ斜め前の席に座る彼が……今日は、通路を挟んだとなりの席に座ったのだ……。
たまたまかもしれない。でも、それだけでこんなにもドキドキ してしまうなんて……。
私は本を読むふりをしながら、すぐそこにいる彼の姿を盗み見る。茶色い髪の毛はもしかしたら地毛なのだろうか。さらさらで、触ったらすっと指をすり抜けていきそうだ。それから、すっと通った鼻筋に、少し垂れ気味の目。きっと笑うと可愛いんだろうな……なんて、想像して恥ずかしくなる。話したこともない、会ったことがあるというよりは見かけたことがあるだけに近い彼のことをこんなふうに想像するなんて……。
でも……。もしも、いつか話しかけることができたら、この退屈な通学時間が楽しいものになるかもしれない……。そんなことを考えながら、ときおり彼の姿を盗み見ながら、内容が頭に入ってくることのない小説のページをめくり続けた。
――それに気付いたのは放課後のことだった。居場所のない教室から早く出ようと鞄をつかんだとき、ストラップと一緒につけてあったお守りがないことに気付いた。
辺りを見回してみたけれど、落ちていない。もしかしてと、職員室に無造作に置かれた落とし物ボックスも見てみたけれど、入っていない。
そもそも、いつからなかったのか……。朝、家を出るときは確かについていた。……じゃあ、学校では? 学校に着いたときにはあった? ……記憶に、ない。
私は、学校から駅までの道のりを、いつもよりもゆっくりと歩いた。けど、やっぱりない。
駅の窓口でも尋ねてみたけれど、落とし物に届いてはいないという。じゃあ、いったいどこにいってしまったというのだろう。あれは、あのお守りはおばあちゃんにもらった大事なものだったのに……。
しょんぼりとした気持ちのまま電車に揺られ、地元の駅まで帰ってきた私は、またお守りを探し歩きながら自宅へと帰った。もちろん、どこにもお守りは落ちていなかった。
翌日、見つからなかったお守りのことを思うと学校になんて行っている場合じゃないのに、それでも家にいたってお母さんからグダグダと言われるだけだしと重い足を引きずりながら駅へと向かう。
もう一度、学校に行く道のりを探してみようかな……。もしかしたら、駅にも届いているかもしれないし……。うん、そうだ。そうしよう。
ちょっとだけ、気持ちが前向きになったところでちょうど駅に着いた。とりあえず、窓口で……と、思ったけれど誰もいない。それなら、とホームに上がった私は、ちょうど私が乗る電車のそばに立っていた車掌さんらしい男の人を見つけた。
「あの……」
「はい? どうかしました?」
「わ、私……昨日、落とし物しちゃって。その……」
私の言葉に、車掌さんは少し考えるようにしたあと、パッと明るい顔になった。
「もしかして、お守り?」
「そうです! 届いてるんですか?」
食いつくように言った私に、車掌さんは困ったような表情を浮かべると「ごめんね」と言った。
「昨日、拾ったっていう話は聞いたんだけど……」
「誰がですか?」
「それは……」
歯切れ悪く言う車掌さんの背後のスピーカーから発車を知らせるメロディーが聞こえた。
「あっ……。えっと、もう電車が出るから、とりあえず乗ってもらえるかな?」
「はい……」
仕方がない……。私がしぶしぶ電車に乗り込むと、車掌さんはホッとしたような表情を浮かべて、それから出発の準備を始めた。
私はというと、そのまま立ち尽くしていても仕方がないから、とりあえずいつものようにボックス席に座る。鞄を隣の席に置くと、お守りのついていないそれはどこか心細く見えた。
どのタイミングでもう一度話しかけようか、そう思っているうちに電車は次の駅へと着いた。いつもなら、窓の外を見ているのだけれど、今日だけはそうはいかない。駅でなら車掌さんも外に出てくるはず。そのタイミングで……。
開いたドアの向こうに車掌さんの姿が見えるのを今か今かと、座席から身を乗り出すようにして後ろを見ていた私は、すぐそばにある人影に気付かなかった。
「え……?」
その人は、今日もいつもの席より一つ後ろ、通路を挟んで私の隣の席に座った。二日続けて会えると思っていなかったので頭が追いつかない。どうして……。ううん、違う。今は車掌さんにお守りのことを聞かなくちゃ……。
開いたドアの向こうに車掌さんの姿が見えた私は、立ち上がろうとした。けれどそんな私よりも早く、その人は鞄から取り出した何かを差し出した。
「これ」
「っ……!」
差し出されたそれは、私が昨日からずっと探していたお守りだった。
「どうして……!」
「昨日、君が降りたあと通路に落ちているのを見つけたんだ」
「ありがとうございます! これ、昨日からずっと探してたんです!」
手渡されたお守りをギュッと抱きしめた。
よかった、本当によかった……。もう見つからないかと思った……。
お守りを、今度こそ取れないように鞄に結びつけると、私は視線を感じて顔を上げた。
「……っ」
私のすぐ隣で、その人は、微笑んでいた。その表情があまりにも優しくて、私は何も言えなくなってしまう。こんなふうに微笑む人を、私は知らない。同級生の男の子たちはがさつで笑うときだって口を開けて唾を飛ばしながら笑ってて……。なのに、この人はどうして……。
「あの……」
「あっ」
黙り込んだ私を不審に思ったのか、その人が小首をかしげるようにして私を見つめる。私は慌ててもう一度お礼を言った。
「ホントにありがとうございました」
「気にしないで。……それじゃあ」
その人は、ニッコリと笑うと用は終わったとばかりに窓の外へと視線を移そうとした。だから、私はーー。
「あの!」
「え?」
「た、たまに! この電車で会いますよね」
「そう、だね」
会話を続けたくて、必死で話しかけた私にその人は一瞬困ったような表情を浮かべたあと優しく笑った。迷惑だったのだろうか……。
その人の態度に、さっき必死に振り絞った勇気が萎んでいくのを感じる。声なんてかけなければよかった。見ているだけでよかったのに……。
「俺も、この時間の電車に乗っている人って珍しいから気になってたんだ」
「え……?」
彼は困ったような照れくさそうな顔で笑っていた。
「どうしたの?」
「あ、えっと、その……話しかけたの、迷惑だったかなって思ったから……」
「迷惑なんかじゃないよ。それに迷惑だったら……それ、直接返さないでしょ」
「どういう……」
言葉の意味がわからず尋ねた私に、しまったとでもいうかのような表情を浮かべた彼は、私から目をそらした。
「あの……」
「なんでもない。……ところで、その制服って北条高校?」
「っ……」
彼のその指摘に、心臓がキュッとなるのを感じた。わざわざそんな遠い高校に行くなんて、この子公立に落ちたんだな、なんて思ってるんだろうか……。恥ずかしい、やっぱり話しかけるんじゃなかった……。
けれど、俯いたまま手をギュッと握りしめていた私の頭上に、彼の言葉は優しく降り注いだ。
「そこ、いい学校だよね」
「え……?」
彼の言葉が信じられず思わず顔を上げた。
「それ、本気で言ってます?」
自分では普通のトーンで言ったつもりだった。でも、耳に聞こえてくる自分の声は、冷たくて暗くて……まるで自分の声じゃないみたいだった。
「本気だけど? なんで?」
「だって北条って言えば公立に落ちた、落ちこぼれの行く高校って有名で……!」
みんな私を見るたびに、あああの子はダメな子だってレッテルを貼られているみたいだった。この制服だって、まるで囚人服のようで、この子は落ちこぼれですよって書かれた服を着せられているみたい……。
「落ちこぼれかぁ」
でも、私の言葉に、目の前の彼は小さく笑った。
「俺の姉ちゃんさ、そこの出身なんだ」
「え……?」
「けど、いっつも楽しそうでさ。先生も友達もみんないい人ばっかりですごく充実した三年間を過ごせたって言ってた」
「お姉さんが……」
この制服を着ている私を見て蔑みや憐れんだ視線を向ける人はいても、そんなふうに言ってくれる人なんて一人もいなかった……。
「高校なんてさ、長い人生のうちのたった三年間なんだよ。だからそこで何を学ぶかなんてたいして重要じゃないと俺は思うよ」
「じゃあ、何が重要なんですか……?」
思わず、尋ねてしまってた。だって、高校は勉強をするところだし、少しでもいい学校に入って、いい大学に入って……。それがみんなのいういい人生なんじゃないの……? だから私たちは、中学のときも、それから高校に入ってからも必死に勉強をするんじゃないの……?
そんな私の疑問に、彼はニッコリと笑うと答えた。
「そこで、誰と出会うかが重要なんだ」
「誰と、出会うか……」
「そう。勉強なんてしようと思えば学校の外ででもどこででもできる。だからこそ、もっと大事なものを見つけるために学校に行くんだと、俺はそう思うんだ」
そんな考え方があるなんて、今ままで知らなかった。
――何を学ぶかじゃない、誰と出会うか――。
彼のその言葉は、たくさんのものから目をそらし耳を塞いできた私の胸の奥にストンと入ってきた。
「凄い……」
「え?」
「そんなふうに言ってくれた人……今まで一人もいなかった……」
お父さんもおかあさんも、みんな私に対して失望とそれから哀れみの混じった視線を向けてきていた。大学では挽回できるといいね、なんて入学する前から言われているようで、ここにいる私に何の価値もないかのようで……それで……。
「目に見えるものを見ることは簡単だけれど、見えないものを見ることの方がずっと価値がある」
「目に、見えないもの……?」
「そう。偏差値の高い高校に行くことは、そりゃあ凄いと思うし、そのためにした努力は誇っていい。けど、それ以外の学校に価値がないかと言えば決してそんなことはないんだ。もちろん高校に行かないっていう選択肢をすることにだって価値はある。ううん、その行動に価値を作るのは自分自身なんだ」
彼の言葉は分かるようで分からなくて、でもすっごく大事なことを伝えてくれているんだと言うことは、真剣な表情でわかった。
私とそう年の変わらないであろう目の前の彼の口から紡がれる言葉は、私なんかじゃあ到底思いつかなかったようなことばかりで……。
「そんなふうに、思ったことなかったです……」
「それはきっと……君が幸せだからだよ」
嫌みを、言われたんだと思った。だからムッとした表情を浮かべた私を見つめる彼の目が、優しくそれからどうしてかまぶしそうに見えて……私は首をかしげた。
「どうしてそんな顔をするんですか……?」
「……どうしてかな」
悲しそうに微笑む彼を見ていると、心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。どうしてそんな顔をするのか聞きたい。でも、今日初めて話をしただけの私が踏み込んでいい場所じゃないこともわかるから……。
なんと言えばいいかわからずにいた私をよそに、彼は窓の外へと視線を向けると口を開いた。
「……おっと、そんなこと言ってたらもうすぐ駅に着くよ」
「え、あ……」
スピーカーからは高校の最寄り駅の名前がアナウンスされ始めた。いつもならあんなに長く感じる道のりが今日は……。
「あ、あの!」
「え?」
「名前! 聞いてもいいですか?」
電車はスピードを落とすとゆっくりとホームへ入る。もう立ち上がらなければいけない。でも……!
「……青空」
「せいあ、さん……?」
「そう。青空って書いてせいあって読むんだ。……君は?」
「私は……」
発車のベルが、車内に鳴り響く。どうしたら……。
「早く行って! それで……次会ったら、そのとき名前教えて」
「っ……」
「約束だよ」
そう言って微笑む青空さんに頷くと、私はホームへと飛び出した。すぐ後ろでドアが閉まると、電車は動き出す。
窓の向こうから私に手を振る青空さんの姿を、電車が見えなくなるまでずっと追いかけ続けていた。
青空さんに見送られるように電車を降りた私は、いつものように階段を下りると駅の外へと出た。ここまで来ると、同じ制服を着た生徒の姿もちらほら見かけるようになる。とはいえ、学校に行くにはまだ早い時間なのでそう多くはないのだけれど。
「あれ……?」
私は、目の前に広がる光景が昨日までとは違って見えた気がして思わず目をこすった。 どうしてだろう。昨日まではあんなにくすんで見えていた光景が、ほんの少し、ほんの少しだけ輝いて見える気がするのは……。墨を落とした水の中のようだった世界が、色づいて見える気がするのは……。
「どうして……」
どうして、なんて自分自身に問いかけてみたけれど、本当は分かっていた。――青空さんの言葉のせいだって。あんな一言で、自分の中の意識がこんな風に変わるなんて、私はそんな単純な人間だったのだろうかと思う。でも、そんな自分のちっちゃさがどうでもよくなるぐらい、景色は違って見えていた。
まだ、一歩踏み出すのは怖い。でも、この変化を青空さんに伝えたい。お礼を言って、それから……。
明日、青空さんと会えるのを思った以上に楽しみにしている自分に気付いて、恥ずかしくなった私は慌てて学校へと向かうために、色づいた世界へと足を踏み出した。
翌日が土曜日で、学校がないことに気付いたのはその日の夕方だった。高校受験がきっかけで家族と気まずくなってしまった私は、結局土日はほとんど自分の部屋から出ないまま月曜日を迎えた。
青空さんに会える。そう思うだけで朝からそわそわしていたし、なんなら普段は言わない「いってきます」という言葉をリビングに向かって言いながら自宅を飛び出した。
学校へ向かうために駅へと向かうときだって、昨日まではコソコソと誰かに見られないように隠れるようにして歩いていた。それが、今日はなんとなく空を見上げる余裕さえある。春にしては熱い日差しも、頬をなでる風も全部が心地よく思えた。
今日は青空さんは電車に乗っているだろうか。
青空さん。
名前を聞いただけで、急にあの人の存在がリアルになった気がする。ただよく同じ電車で見かけるだけだった人が、一人の人間になったような。
もしかしたら人間の意識付けなんてそんなもんなのかもしれない。いいと思えばいいし、悪いと思えば悪い。他人だと思えば他人だし好きだと思えば……。
「え……?」
自分自身の思考が理解できず、思わず声を出していた。好き……? 私が、青空さんを?
そんなわけない。だって、昨日初めて話をして、その前だって何回か電車の中で見かけただけなのに、好きとかそんな……。
でも……。
青空さんへの気持ちが何かとかそんなのわからないけれど、でも昨日の青空さんの言葉で、私の中で何かが変わったのは事実だ。あの言葉がなければ、私は今日もどんよりとした気持ちのまま重い足を引きずるようにして駅へと向かっていただろう。
本当は、まだ少しこの制服を着るのは気持ちが重いし、同級生たちが通っていない時間の道を一人で歩くのは寂しい。でも、それでも……。
「今日も青空さん、乗ってるかな……」
乗っていたら、名乗って、それから――青空さんのお姉さんの話を聞かせてもらおう。どんな学校生活を送っていたのか。あの学校で面白い先生は誰なのか。どんなイベントがあるのか。
そうしたら……少しだけ、あの学校のことが、好きになれる気がするから。
ドキドキしながら電車に乗った私は、青空さんが乗ってくる駅に着くまでの間、なんとなく髪の毛を直したり、制服のしわを伸ばしたりと、落ち着かない時間を過ごしていた。会えないかな、会えるかなと待っているのは昨日までと同じなのに、どうしてこんなにも動悸がうるさいのだろう……。
「……あれ?」
でも、そんなそわそわと落ち着かない心を打ち砕いたのは――誰もいないホームだった。いつもと同じ時間なのに誰もいないと言うことは……今日は、青空さんは来ないということで……。
「なあんだ……」
ドキドキしていた自分がなんだか馬鹿らしくって、ちょっとだけ笑ってしまった。だって、昨日の言い方じゃあ、今日会えると思っていも仕方ないじゃない。こんなふうに、男の子と待ち合わせみたいなことするのなんて初めてだから、それでドキドキしちゃって……。
でも、これじゃあ、ドキドキし損だ……。
ブツブツと文句を呟いても青空さんが乗ってくる気配はない。そして、発車のベルとともにドアが閉まると、電車は出発した。――青空さんが乗ってくることはないまま。
「はぁ……」
一人きりの道のりにようやく慣れたと思っていたのに、昨日があまりにも楽しくて嬉しくて、そのせいで今日がずいぶんと気怠く感じてしまう。
そうはいっても、ここから自宅へと引き返すこともできない。……できれば、さっきまでの少し前向きな気持ちが萎みきってしまう前に駅に着きますように。そう祈ることしかできなかった。
翌日もそして祝日を挟んだそのまた次の日も青空さんがあの電車に乗ってくることはなかった。そうなると、会話をしたことさえも夢だったのではないか。私が都合よく妄想しただけなのではないかと思ってしまう。だからそのたびに、鞄に、今度こそ取れないように固く結んだお守りを握りしめた。確かにあの日、青空さんがこれを届けてくれたんだと思い出せるように。
そして私は今日も一人電車に乗る。いつの間にか桜は散り、五月を迎えていた。
今日こそは会えるのではないかというそわそわする気持ちと、ううん、きっと今日も会えないというしょんぼりした気持ちを抱えて。
いつものように発車のベルを聞きながら、電車の外と……それから、誰も座っていない通路を挟んだ隣の席を見つめる。けれど、すぐにそんな自分が恥ずかしくなって私はもう一度、電車の窓の向こうを眺めた。
ドキドキそわそわしていると、いつもよりも時間が経つのが早く感じるのはなぜだろうか。あっという間に車内に次の駅に着くというアナウンスが響き始めた。それと同時に、電車のブレーキ音が聞こえ、スピードが落とされていく。
もうすぐ、ホームが見えてくる。今日こそは、今日こそは……。
「いたっ……!」
思わず声を上げてしまった私は、慌てて両手で口を押さえた。いた。いたのだ。ホームに立って電車を待つ、青空さんの姿があったのだ。
でも、誰かを探しているのだろうか。青空さんはキョロキョロと辺りを見渡している。もしかしたら誰かと待ち合わせをしているのかもしれない……。
「っ……」
ズキッと胸が痛むのを感じた。
さっき青空さんを見つめた瞬間の、あの瞬間の私が酷く滑稽で恥ずかしく思えてしまう。待っていたのは私だけで、青空さんは別に私を待っているわけじゃないのに……。逃げたい、逃げ出してしまいたい。――けれど、電車は音を立てて止まると、アナウンスとともに扉が開いた。
開いた扉の向こうから、青空さんが乗り込んでくるのが見える。どうしたら……。
「あっ」
けれど、予想に反して青空さんは私を見つめると手を振った。
「え……」
「また会ったね。……えっと」
「え……?」
何か言いたそうに私を見つめる青空さんに首をかしげる。すると、青空さんは困ったように笑いながら私の――通路を挟んだ隣の席に座った。
「名前、教えてくれるって言ってよね?」
「あ……」
「その反応は……もしかして、忘れてた? 酷いなぁ」
「ちが……」
慌てて両手をブンブンと振った。忘れてただなんて、そんなわけない。だって……。
「ずっと待ってたのに、来なかったじゃないですか……。だから、青空さんの方こそ忘れちゃったんだって思ってました……」
「……待っててくれたんだ」
「あっ……」
「そっか……」
もう一度、違うと否定しようと思ったのに――すぐそこで嬉しそうに笑う青空さんの顔を見たら何も言えなくなってしまった。
「ごめんね、いつ乗るって言わなかったから、あの日からずっと俺のこと待っててくれたんだね」
小さく頷いた私に、青空さんはもう一度「ごめんね」と言うと、優しく微笑んだ。もやもやしたり悲しかったりしてたはずなのに、その微笑みだけで全部吹き飛んでしまうのはどうしてだろう。
「ん?」
「あ、いえ……。えっと……」
私は顔を上げると、青空さんの方へと向き直った。
「梓《あずさ》です。福島梓っていいます」
「梓」
「っ……!」
その瞬間、息が止まるのを感じた。名前を呼ばれただけ、ただそれだけなのに、呼吸ができないほど苦しくて、でも体中の血液が沸騰してしまうんじゃないかと思うぐらいに熱い。
「いい名前だね。よろしく、梓」
「よろしくお願いします」
青空さんが優しく笑うから、私もつられるようにして笑った。
四月、一人きりだった長い長い道のり。それが五月には、二人で笑い合って過ごす大切な時間になった。
あの日から、私の毎日は変わった。青空さんは毎週木曜日と金曜日に電車に乗ってくる。だから、木曜と金曜の朝はいつもよりも念入りに髪をセットして、ちょっとでも可愛く見えるようにと鏡の前でにらめっこする時間が増えた。
少し高い位置でポニーテールを結ぶと、私はポケットから取り出した色つきリップを塗って、鏡に向かって笑いかけた。決して美人というわけじゃないけれど……でも、暗い顔じゃなくてニッコリと笑った表情を浮かべることで、少しでも明るく見えるように。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
家族とは、まだ少しギクシャクしている。むしろ、私自身が北条高校を受け入れたことで母親との間の亀裂に拍車がかかった気がする。
とはいえ、学校が楽しいかといえばそうではないんだけれど……。
「おはようございます」
「おはよう。もうすぐ電車が出るよ」
「はーい」
いつもと同じ車掌さんに挨拶すると、私は電車に乗り込んだ。いつもの席に座ると、鞄から鏡を取り出した。
前髪、変じゃないかな。リップ、はみ出してないかな……。
前みたいに、読む気もない小説を取り出すことはなくなった。だって、そんなカムフラージュしなくても……。
発車のベルが鳴ると同時にガタンという音を立てて、電車が動き出す。早く青空さんのいる駅に着かないかな。そんなことを考えていると、一駅なんてあっという間で、気が付くと、電車はスピードを緩め始め、私はホームにいるであろう青空さんの姿を探した。
「……いた!」
青空さんも電車の中の私を見つけると、ニッコリ笑って手を振ってくれる。私も振り返して、それから青空さんが笑っていることに気付いた。どうしたんだろう……。
「おはよう」
「おはようございます。……さっき、なんで笑ってたんです?」
電車に乗り込んできた青空さんは、いつものように通路を挟んで一つ隣の席に座る。そんな青空さんに、私は疑問をぶつけた。
「……ああ、あれ?」
けれど、青空さんはもう一度思い出したかのように笑い出すだけで教えてくれない。いったいなんだっていうのか……。それとも、私には教えられないようなこと……?
たしかに、まだ青空さんと知り合ってそんなに経ってないし、話せないようなことがあっても仕方ないのかもしれないけど、でも……。
鼻の頭がツンとなるのを感じて、私は青空さんとは反対の窓の方を向いた。
「教えてくれないなら、もういいです」
「ごめん、ごめん」
自分でも、めんどくさい性格をしていると思う。でも……。
「梓ー?」
「…………」
「ごめんね?」
「…………」
どうしよう。別に、そんなに怒っているわけじゃない。でも、こんなふうに謝られてしまうと、振り返りづらい……。
でも、このままじゃあ、絶対にめんどくさい子だって思われちゃう……。
「っ……」
「あー、すみません」
「え……?」
突然、そんな声がすぐ後ろから聞こえてきた。私たちの他にはお客さんは乗っていないはずなのに、いったい……。そんな疑問は、振り返るとすぐに解決した。そこには、車掌さんが立っていた。
どうして電車が走っているのに車掌さんが……?
「ちょっと通りますね」
車掌さんは、私と青空さんの間を申し訳なさそうに通る。そして……。
「このあと、もう一回ここ通るんで……もしよければ、どちらかの席に一緒に座ってもらえると、僕も二人の間を邪魔しながら通らなくていいんですけどね」
そう言って、車掌さんは笑うと、隣の車両へと移動した。
私たちはというと……、少し気まずそうに青空さんは笑った。
「そっち、行ってもいい?」
「……はい」
私が少しだけ右によると、隣に青空さんが座る。肩が当たりそうで当たらない、手が触れそうで触れないこの距離は、恥ずかしくて、照れくさくって、それから……少しだけドキドキする。
「あの、さ……」
「…………」
「さっきの、だけど……」
青空さんも、緊張しているのだろうか。声が、いつもよりうわずっている気がする。でも、私は自分の心臓の音がうるさくてそれどころじゃない。
「別に、梓を笑ったとか、そういうのじゃなくて……。その、ホームから電車を見てたら梓が見えて。でもって、すっごく嬉しそうに手を振ってるから……」
「振ってるから……?」
「……可愛いなって思って」
「っ……!」
青空さんのストレートな言葉に、全身の血が沸騰してしまったんじゃないかと思うぐらい、顔が、それから身体中が熱くなる。可愛いって、そんな……。
「ユリみたいで」
「……ユリ?」
聞き覚えのない名前に、私は顔を上げた。
「ユリって……?」
「うちの犬」
「……もう!」
思わず頬を膨らませた私に、青空さんは悪びれることなく笑う。でも、私はおもしろくない。だって、犬って……。
「俺が小さい頃から飼ってた犬でさ、めちゃくちゃ可愛くて、俺のこと大好きでさ」
青空さんの声のトーンが変わったことに気付いた。飼ってたって……もしかして……。
「俺も大好きだったんだけど……」
「もしかして……」
「去年、ね……」
困ったような、悲しそうな、そんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、私は「ごめん」と呟いた。青空さんの顔を見られなくて、俯く私の頭に何かが優しく触れた。
「謝らないでよ。……さっきホームから梓を見たときに、ああ、そういえばユリもあんなふうに俺の顔を見ると全身で嬉しいのを表してくれたなって思い出して、なんか嬉しくなってさ」
「青空さん……」
「だから……って、なんか恥ずかしいな」
青空さんは照れくさそうに鼻をこする。その姿がとても可愛くて、胸の奥がキュッとなる。……今は、ユリちゃんと同じ扱いでもいいや。だって、こんな表情を見せてもらえるんだから。
「……ワンって言った方がいいです?」
「ごめん、やめて」
「ワン」
「こら!」
わざとふざける私に、青空さんは怒ったフリをする。そして私たちは、顔を見合わせて笑った。
青空さんと一緒の時間は心地いい。楽しくて、ドキドキして、胸がキュッてなって。ずっとずっと一緒にいたいって思う。
でも……。
「もうすぐ駅に着くね」
「……ホントだ」
あっという間に、降りる駅に着いてしまう。あんなに長く感じた通学時間が、今じゃあもっと長くてもいいのにって思ってしまう。
「…………」
「そんな顔、するなよ」
「どんな顔……?」
「電車から降りたくないって顔」
私の頭をポンポンとすると、青空さんは優しく言った。
「まだ、学校楽しくない?」
「……そんなことは、ないですけど」
学校に行きたくないんじゃなくて、青空さんと一緒にいたいだけ、とはさすがに言えない。
「――友達、できないし」
「そっかぁ……」
だから私は青空さんが納得しそうな言葉を呟いた。……嘘ではない。学校が楽しいか楽しくないかと聞かれたら、全く楽しくない……と、いうわけでもないけれども。
ただ、入学してから一ヶ月以上が経ち、周りの子たちはグループを作って行動している。私はというと、馴染む気もなく誰とも話さずにいたものだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれどクラスで孤立していた。
そうなる原因を作ったのは自分なのだから、その状況に対し文句を言うつもりはないけれど、やっぱりみんながわいわい言っている中で一人ぽつんといるのは辛いものがある。
「休み時間とかはどうしてるの?」
「……一人でいるか、ジュース買いに行ったり……。あとは空き教室で本を読んでたり」
「誰かに話しかけてみるとか……」
そんな、先生みたいなこと言わないで……!
クラスで一人孤立している私に、担任は何度もクラスメイトの輪に自分から入ることも大事だと言った。そんなのわかってる。できたらしている。でも……!
「なんて、言うのは簡単だけど、実際にするのは難しいよね」
「え……?」
隣にいる青空さんを見ると、優しく笑っていた。
「何、その反応」
「……もっとちゃんとクラスの輪に入るように、とか言うのかと思ってたから」
「それが難しいから、梓は今困ってるんでしょ? なのに、そんなこと言わないよ」
「っ……」
青空さんの言葉に、心臓がわしづかみにされたように苦しくなった。どうしてこの人は、私が言ってほしい言葉をこんな当たり前のように言ってくれるんだろう。
「青空さん……」
「あと、どうしても教室にいるのがしんどかったら図書館に行ってみるといいよ」
「図書館?」
「そう。北条の図書館は県立の図書館ぐらい本があるって姉ちゃんが言ってた。本が好きだったら喜ぶんじゃないかなって……」
「どうして……?」
思わず問いかけた私に、青空さんは不思議そうな表情を浮かべた。
「どうして、私が本好きだって知ってるんです?」
「それ……は……」
そんな話していないし、青空さんと話をするようになってからは電車で本を開いたこともない。なのにどうして……。
「それは?」
「……あ、ほら。電車着いたよ」
「え、あ……」
話しているうちに、電車はホームへと到着していたようで、何人かの人が違う車両から降りていくのが見えた。
「梓も行かなきゃ」
「そ、そうですけど……。でも、まだ話が……」
「あ、発車のベルが鳴ったよ」
「~~っ。今度! 今度会ったとき、続き聞かせてくださいね!」
後ろ向きに話しながら降りていく私に、青空さんはニコニコと笑いながら手を振る。
そんな彼に手を振ると、来週また会ったときは、絶対に理由を聞くんだと心に決めた。
また来週、そんな未来が当たり前に来ると思って。
でも、その日から、青空さんは来なくなった。次の週の木曜日も、金曜日も、そのまた次の週も、どれだけ待っても青空さんは来なかった。
青空さんが電車に乗らなくなって、一ヶ月が経った。違う車両に乗っているのかとホームを端から端まで見たけれどいなかった。もしかしたら一本遅いのに乗っているのかもしれない。そう思って、遅刻ギリギリになるけれど、一本遅らせたときもあった。それでも、青空さんの姿はなかった。
青空さんの乗ってきた駅で降りて探してみようか……。そう考えて、気付いた。私は青空さんのことをなんにも知らないことに。名字も、どこに住んでいるかも知らない。唯一知っていることといえば、最寄り駅と、名前、それから北条高校に通っていたお姉さんがいるってこと。たったそれだけ。
「年齢すら、知らなかったなんて……」
漠然と、年上だろうとは思っていた。私服だったし、高校に通っているにしては週に二日しか電車に乗らないなんておかしかったから。だから、私の降りる駅より向こうにある大学に通っているのかな、と。でも、思ってただけじゃなくて、聞けばよかった。こんなふうに突然会えなくなるなら……。
最初こそ急に会えなくなって寂しかった。でも、一ヶ月も来ない日が続くと、もしかして何かあったんじゃないか、と不安になる。だって、次に会ったときに教えてくれるって……。
「言ってない……」
そうだ、あのとき、青空さんは笑って手を振るだけでなんにも言ってなかった。私が勝手に次に、って言ってただけで……。
もしかして、こうなることがわかってた……? もう乗ってこないから、だから約束しなかったの……?
再び一人きりになってしまった電車の中は、妙に静かで、寂しくて。ポトリポトリと、頬を伝い落ちる涙が膝を濡らす。
青空さんと一緒に電車に乗っていたのなんて、たった一ヶ月程度のはずなのに、こんなにも私の中で大きくなっていたなんて……。
「あの……」
「っ……! 青空さ……っ」
誰かが私を呼ぶ声が聞こえて、慌てて顔を上げた私の前には青空さん――ではなく、車掌さんが立っていた。目深にかぶった帽子を、さらに深く引き下げると、車掌さんは私に何かを手渡した。
「……これ、よければ使って」
「あ……」
それは、清潔そうにアイロンのかかったハンカチだった。
「もうすぐ降りる駅でしょ。そんな顔で電車から出たら、何事かと思われるよ」
「っ……すみません」
差し出されたハンカチを受け取ると、車掌さんはホッとした顔で乗務員室へと戻っていく。借りたハンカチを目に押し当てると、どうしてだろう。余計に涙があふれてくる。
一瞬、そんなわけないのに、青空さんが来たのかと思った。彼が乗ってくる駅なんてもうとっくに過ぎたのに。いるわけないのに、なのに……。
「っ……くっ……あっ……」
必死に涙を拭うけれど、ハンカチがぐっしょりと濡れても、止まる気配はなかった。
翌日、借りたハンカチを返そうと、私はいつもより少し早く家を出た。今日もあの車掌さんはいるのだろうか。そういえば、私と青空さんがまだ通路を隔てて座っていたときに、あの車掌がどちらかに寄るようにって言ってくれたんだっけ。あの人のおかげで、自然と隣の席に座ることができるようになった。
「っ……」
そんなことを考えていると、また涙が出そうになる。いけない、これじゃあ返すはずのハンカチをまた貸してもらうはめになっちゃう。私はツンとする鼻をこすると、熱くなった目尻に滲む涙を拭った。
「おはようございます」
「っ……お、はよう」
ちょうど電車から降りてきた車掌さんに声をかけると、驚いたような表情を浮かべて、車掌さんは帽子を深く被り直した。
「ご、ごめんなさい。驚かせようとしたわけじゃなくて……」
「ああ、いや。大丈夫だよ。どうしたのかな? まだ発車には時間があるけれど、もう中に入るかい? 今、中の確認とかが終わったから入れるよ」
「あ、はい。えっと、そうじゃなくて……これ、ありがとうございました」
小さな袋に入れたハンカチを渡すと、車掌さんは困ったような、複雑そうな表情を浮かべてそれを受け取った。
「ありがとう。……返さなくてもよかったのに」
「そんなわけには……。おかげで、泣き顔でホームに立たなくてすみました。ありがとうございました」
ペコリと下げた私の頭を、車掌さんは優しく撫でた。
「っ……」
その何気ない動作に、青空さんを思い出してしまう。私がしょんぼりしていると、青空さんはよく頭を撫でてくれた。そのたびに私の心臓は壊れそうなほどドキドキしていた。でも、もう……。
「っ……失礼します」
このままじゃあ、動けなくなってしまう。私は、車掌さんの手を振り払うようにして顔を上げると、誰もいない電車へと乗り込んだ。
がらんとした車内を見回したあと、私はいつもの席へと向かった。この間までは、二人がけの席の右側に座って、左に青空さんが乗り込んでくるのを待っていたのに……。重い足を引きずりながら、席へと向かう。誰もいないいつもの席に。けれど、そこにはいつもと違うものがあった。
「……え?」
私の座る隣の席、つまりこの間まで青空さんが座っていたあの席に、真っ白な封筒が置いてあった。これは……。
封筒には『梓へ』と書かれている。裏返すと――青空さんの名前があった。
「っ……!」
誰が、とかどうして、とかそんなこと考える余裕なんてなかった。私は、慌てて席に座ると、封を開けた。
そこには、性格が表れるような丁寧な字で、私へのメッセージが書かれていた。
『
梓へ
突然、俺が来なくなって心配したと思います。悲しい思いをさせたなら、ごめんね。
梓にずっと言わなきゃいけないって思ってて、それでもやっぱり言えなくて、結局、もう無理ってなってから手紙を書くなんてかっこ悪いことしてるなって思う。
梓に、どうして俺があの電車に乗っているか、その理由を話したことなかったよね。
聞かれなかったから、なんていうとズルいかな。でも、本当は聞かれたくなかったから聞かれなくてホッとしていた部分もあったんだ。
ここまで書くと、なんとなく想像がつくかもしれないけれど、俺があの電車に乗っていたのは、病院に通うためでした。俺の住んでいる街よりも少し遠くにある病院に行くために、週に二回電車に乗っていたんだ。びっくりした? それとも、どうして言ってくれなかったのって怒ってるかな。
でも、これから書くことはもっと梓を怒らせるかもしれない。
もう病院に通うことはなくなった。と、書くとまるで病気が完治したみたいに聞こえるね。でも、そうじゃないんだ。入院することになった。だから、通う必要がなくなったんだ。だから……もう、会えない。
もしいつか、なんて言葉を使うのは好きじゃないけれど、もしも、いつかまた会えるときが来たら、そのときは笑顔の君に会えますように。
青空
』
読み終える頃には、便箋は涙で濡れて、青空さんの書いた文字が滲んでしまっていた。いつの間に発射したのだろうか。電車はもう青空さんが乗ってくることのない、あの駅に着いていた。
病気……通院……入院……。
突然知らされたことに、理解が追いつかない。入院しなければいけないぐらい、重病なのだろうか。ずっと通院していたって……どうして……。
「そうだ、お見舞い……」
入院中なら、お見舞いに行かなくちゃ。そう思った瞬間、思い知らされる。……どこの病院かも、わからないのに、どうやって行くというのか、と……。
結局、私には何もできない。手紙に書いてあったように、いつか会える可能性にすがるしかないのだ。
「っ……せいあ、さん……」
どれだけ名前を呼んでも、彼の返事が聞こえることはなかった。
あの手紙をもらった日から一週間が経った。青空さんが乗ってこない電車に一人乗り、私はなんとか休まず学校に通っていた。
教えてもらった図書館にはまだ行けていない。行けば、あの日の青空さんを思い出して泣いてしまいそうだったから。
学校は可もなく不可もなく。楽しくもないけれど、不快なわけでもない。ときおり感じる、クラスメイトからの視線が居心地の悪さに拍車をかけるけれど、なんとかやっていた。
今日も授業が終わり、教室を出て行くクラスメイトたちの姿を見送ってから、私も席を立った。鞄の中からイヤホンを取り出すと、スマホにつなげて音楽をかける。思考も、外からの音も全てシャットアウトしたかった。そうじゃないと、すぐ青空さんのことを考えてしまうから。
けれど、選曲が悪かったのか、イヤホンからは『もらった手紙に書いてあったあなたの文字が震えてる』なんて、歌詞が聞こえてきた。青空さんの手紙はどうだっただろうか。震えてたのかな……。あの日から、鞄の奥底に入れて一度も出していないあの便箋を思い出してしまう。考えたくないのに、考えてしまう。だって、考えたって仕方ないじゃない。会えないんだもん。あの電車に、青空さんが乗ってくることは、ないんだもん……。
「え……?」
そこまで考えたとき、一つの疑問が頭をよぎった。
あの手紙を、あの席に置いたのは、誰……?
むしろ、なぜ今まで気にならなかったのか……。青空さんが置いた、のだとすると、始発駅であるあの駅まで一度来て、車内において、私が乗ってくるよりも早くにあの電車から降りる必要がある。でも、あの日私は車掌さんに借りたハンカチを返すために、普段電車に乗るよりも少し早く駅に着いた。車掌さんもあのとき、『今、中の確認が終わった』と、言っていた。と、いうことは――。
私は、駅へと走った。もしかしたら、もしかして、たぶん、きっと……!
ホームに入ってきている電車は私の住む街へと向かうものだった。キョロキョロと、辺りを見回すと……。
「いたっ!」
そこには、いつもの車掌さんの姿があった。車掌さんは私に気付くと、ペコリと頭を下げる。私もつられて下げそうになって、今はそんなことをしている場合じゃないことを思い出す。
「あの!」
電車が発車するまでのほんのわずかな時間しか話をすることはできない。
「あなたですよね?」
「え……?」
私の言葉に、車掌さんは一瞬戸惑ったような表情を見せた。違ったのだろうか……。ひるみそうになったけれど、もうこの人しか手がかりは、ないのだ。
「青空さんの手紙! 席に置いたの、あなたですよね!」
もう一度、今度ははっきりと言うと……その人は、困ったような顔をして――それから、「ごめんね」と言った。
「なに……」
「もう、電車が出るから。その話は、あとでいいかな」
「あ……」
発車のベルが、ホームに鳴り響く。私は渋々電車に乗ると、車掌さんはもう一度「ごめんね」と言って、乗務員室へと入っていく。
あの「ごめんね」は、どういう意味なのだろうか。でも、間違いなくあの人が何かを知っている。
普段から長く感じる二時間が、この日はもっと長く感じた。本当は間の駅で話しかけようとしたけれど、すぐに発車する駅で話しかけるのは迷惑になってしまうと思って、必死に我慢した。――そして、ようやく、終点である私の降りる駅へと着いた。
「あの!」
「……ご乗車ありがとうございました」
「そうじゃなくて!」
ホームに降り立つ車掌さんを捕まえると、形式通りの礼をされて思わず声を荒らげた。
「さっきの話の続き! 教えてください!」
「…………」
「あの手紙を置いたの、車掌さんですよね?」
去って行こうとする腕を掴むと、車掌さんは帽子を目深に被り直して、それから首を傾げた。
「なんのことかな」
「車掌さんしかいないんです。あの手紙を、車内に置けるのは」
「…………」
お願い、どうかそうだと言って……。もう、車掌さんしか手掛かりがないの……。握りしめた手に自然と力がこめられる。そんな私の手に、車掌さんはそっと手のひらを重ねた。
「……確かに、あの手紙は僕が置いたものです」
「っ……! やっぱり! あなたは青空さんの知り合いですか? 彼は今どこに……」
その瞬間、ホームに風が吹き抜けた。勢いよく吹いた風は、無造作に置かれていた缶すら転がしていく。そして……目の前の車掌さんの帽子すらも――。
「っ……せい、あ……さん?」
目の前には、会いたくて会いたくてたまらなかった人がいた。でも、どうして……。
「僕は青空じゃないよ」
「え……?」
青空さんと同じ顔で、目の前の人は困ったように笑った。青空さんじゃ、ない……? なら、いったい誰だというの……。
「僕は、青空の兄です」
「おにい、さん……?」
そう言われると、確かに青空さんより少し大人びていて……。よく見れば、別人だと言うことがわかる。
「そう、だよね……。青空さんがここにいるわけ、ないもんね……」
入院すると言っていた彼がこんなところで車掌さんをしているわけがない。ちょっと考えればわかることなのに……。
「青空じゃなくて、ごめんね」
「……いえ」
私は崩れそうな身体をなんとか起こす。青空さんじゃなかった。でも、お兄さんなら……!
「お兄さんなら、知ってますよね」
「…………」
「青空さんが今どこにいるか、教えてください!」
本当は、迷っていた。青空さんが手紙に書いてなかったのに、探し出してもいいのかって。会いたくないんじゃないか、来てほしくないんじゃないか。
でも、青空さんを見つける手掛かりに繋がるんじゃないか、そう思ったらもうダメだった。会いたい、会ってもう一度話をしたい。また笑った顔が見たい。それに、まだ何にも伝えてない。青空さんに、好きだって、伝えてない!
「参ったなぁ」
車掌さんは困ったように頭をかく。そして、申し訳なさそうに言った。
「青空にね、伝えるなって言われてるんだ」
「っ……」
やっぱり、青空さんは、私に会いたくないんだ……。
「でも」
涙があふれそうになった私の頭上で、車掌さんが優しく言った。
「女の子をこんなふうに泣かせるなんて、ルール違反だよね」
「え……?」
「それに青空も……」
「車掌さん?」
小さな声で何かを呟いた車掌さんの言葉が聞き取れず思わず聞き返した私に、車掌さんは優しく微笑むと、路線図を指さした。
「いつも君が乗っている電車で終点まで行くと、大学病院があるの知ってるかな。――そこに、青空はいるよ」
「大学、病院……」
そんな偶然ってあるだろうか。だって、そこは、そこは……年明けになくなったおばあちゃんがずっと入院していた病院だ。そして、最後を迎えた場所でもあった。そこに、まさか青空さんも入院しているだなんて……。
それに……。
「大学病院に入院するほど、悪いんですか……?」
普通の病院よりも高度な治療をするところ、そんなイメージが大学病院にはあった。と、いうことは青空さんも、まさか……。
「ああ、いや。そういうことじゃないんだ。最初にかかったところが小さな病院だったから、転院するときに大学病院になっただけで。……だから、そんな顔しないで」
車掌さんが明るい声で言うから、私はほんの少しだけホッとした。
次の電車の時間が来るというので、お礼を言って駅を出る。さっきまで雨が降っていたのだろうか。外は雨の匂いがした。
青空さんに、会いに行こう。迷惑かもしれない。追い返されるかもしれない。でも、それでも、一目会いたい。あんな手紙一枚でさよならなんて嫌だ。
私は、顔を上げた。視線の先にはいつの間にか出た虹が大きく架かっていた。
車掌さんから教えてもらった翌々日、土曜日で学校が休みだった私は、電車に乗っていた。病院のホームページで調べると面会は午後からだと書かれていたので、お昼前に家を出た。休みの日に出かける私を両親は少し不思議そうな訝しげな、そんな表情で見送っていた。
いつもよりも遅い時間の電車には、たくさんの人が乗っていた。いつもの席に座ろうとした私は、先客がいることに気付いて通路を挟んで一つ隣の席に座った。そこは、話しかけることができなかった頃に、青空さんが座っていた席だった。
ここから彼は何を見ていたんだろう。窓のところに肘を置いてボーッと外を見つめる。いつも私が座っている席から見るのとは違う景色が見えて、同じ線路を走っているはずなのに不思議な感じがした。
見慣れない景色を見続けていると、電車はいつの間にか私がいつも降りている駅を通り過ぎた。――そして、大学病院前というアナウンスとともに、電車が止まった。
駅を出て、少し歩いた先にそれはあった。車で来ていたときはいつも駐車場に止めていたからわからなかったけれど、正面から見ると古く大きなその病院は威圧感たっぷりだった。ここに、青空さんが……。
「……でも、どうしよう」
受付に言えば、病室を教えてもらえるのだろうか。と、思ったところで私は肝心なことを聞くのを忘れたことに気付いた。病院の名前と場所は聞いたけれど、結局青空さんの名字を知らないままなのだった。青空さんのお兄さんである車掌さんの胸元に名札が着いていた気がするけれど、じっくりと見たことがないからぼやっとしか思い出せない。
それでも、せっかくここまで来たのだ。受付の人に聞くだけ聞いてみよう。もしかしたら、名前を言えば調べてもらえるかもしれないし。
私はギュッと手のひらを握りしめると、自動ドアを通り抜け、病院の中へと足を踏み入れた。
土曜日の午後ということもあって、病院の中は閑散としていた。人気のないロビーを歩いて行くと、受付を見つけた。
「すみません」
「どうしました?」
「あの、お見舞いに来たんですけど……」
どう言えばいいだろうか、と一瞬悩んで口ごもった私に、受付のお姉さんは優しく微笑みかけた。
「はい。ご家族の方ですか?」
「あ……いえ」
「じゃあ、お友達?」
「友達……でもなくて……」
「……?」
受付のお姉さんの表情が訝しげなものになるのがわかった。なんと言えばいいんだろう。私と青空さんの関係を。友達、というには知らなすぎて。でも、知り合いと言うほど遠い関係でもない。そんな私たちの関係を、何というのだろうか。
「あの……青空さんがここに入院しているって聞いて……」
「青空さん、ですか。名字も教えていただけますか?」
「名字……は、知りません」
ああ、もうダメだと思った。怪訝そうな表情を浮かべていたお姉さんは、いかにも不審者を見るような表情で私を見つめていた。これ以上は……。
「すみませんが、名字がわからなければその方をお捜しすることはできませんし……そもそも、どなたかもわからない方を患者さんの病室にお通しすることはできません」
「っ……」
その言葉に、私はその場を駆け出した。逃げるようにして自動ドアを走り抜けると、病院の外へと出た。せっかくここまで来たのに、何をやってるんだろう。自分が情けなくて、悲しくて、みっともなくて涙がこぼれそうになる。友達だって、言えばよかった。あんなところで嘘吐いたところで、何があるわけでもないのに。せっかく、会いに来たのに……。
ぽたり、と足下に涙が落ちて、私は慌てて上を向く。こんなところで泣いたら誰かに見られちゃう……。必死に目元をこすると、辺りを見回した。
「ここ、どこだろ……」
逃げるようにして走って、それから周りを見ることもなく歩き続けた私は、いつの間にか見覚えのない場所にいた。そこは、たくさんの花が咲いていて、ベンチもあって……。
「あ、そうだ。ここ、中庭だ」
見え方が違うから気付かなかったけれど、ここは病院の中からも繋がっている中庭だった。おばあちゃんのお見舞いに来たときに、一度だけ入ったことがある。外からも行けることはしらなかったけれど。
懐かしさと、人気のないそこが心地よくて、私はもう一度辺りを見回した。小道の向こうにドアが見えて、あそこから病院の中に入れるんだと気付く。けれど、病院の中に入ったところで、青空さんの名字も、それから病室もわからない私が、青空さんに会うすべはない。
「はぁ……」
重いため息を吐いて、もう帰ろうと視線を右に向けた。
「っ……!」
そこには、小さなベンチと、それから、そのベンチに座る人の姿があった。一目見て入院患者だとわかるパジャマ姿で、彼はそこにいた。
「青空、さん……」
それは、紛れもなく、青空さんの姿だった。会いたくてたまらなかった、青空さんがそこにいた。こんな偶然あり得るのだろうか。だって、もう会えないって、そう思って……。
「青空さん!」
「え……?」
名前を呼ぶと、驚いたように、青空さんが振り返った。
私は走った。左右にたくさんの花が咲く小道を、必死に、全力で走った。
「青空さん!」
「梓……?」
「嘘、みたい。本当に、青空さんに会えた」
駆け寄った私は、青空さんに会えた喜びで気付いていなかった。
「梓……」
青空さんの口調が、困ったような、迷惑そうなそれだったことに。
「どうして、ここに?」
「車掌さんに聞いて」
「……そう」
歯切れ悪く言葉を切った青空さんを見て、初めて気付いた。喜んでいる私とは対照的に、青空さんの表情が暗いことに。
「…………」
「…………」
居心地の悪い空気が、沈黙が、私たちの間に流れた。
「まいったな……。梓には、会いたくなかったのに」
その言葉に、心臓が痛いぐらい苦しくなった。やっぱり会いに来ちゃいけなかったんだ。会いたくないって、こんな苦しそうに言わせてしまうなんて……。
そう思った私は、俯いて、地面を見つめる。でも、私の頭上に聞こえてきた言葉は、想像とは違うものだった。
「でも、ダメだ。……目の前に梓がいるって思ったら、嬉しくて嬉しくて仕方がない」
「青空さん……?」
顔を上げると、青空さんが悲しそうに微笑んでいた。
「本当は、梓にこんな姿を見られたくなかった。だから、退院するまでは会わないでいようってそう思ってたのに……」
青空さんは、私の身体をギュッと抱きしめた。初めて触れた青空さんの身体は、温かくて、優しくて、それからお日様の匂いがした。
「本当はずっと会いたかった」
「青空さん……」
「今も梓のことを考えてた。元気かなって。笑ってるかなって。無理してないかなって。……そしたら、梓がいたんだ。梓に会いたいって、そう思ってたら目の前に梓が……」
抱きしめられた手に力がこめられたのがわかった。だから私も、そっと背中に腕を回すと、青空さんの身体をギュッと抱きしめた。
「っ……ごめん!」
けれど、次の瞬間、押しのけるようにして私の身体は青空さんから引き剥がされた。どうしたのかと青空さんの方を見ると――。
「青空さん……?」
「待って……今、俺のほう、見ないで……」
「青空さん!?」
青空さんは口元を押さえて後ろを向いた。まさか、身体に何か……。
「大、丈夫……だから、見ないで」
「え……」
慌てて青空さんの顔をのぞき込むと、そこには……顔を真っ赤にした青空さんがいた。
「青空さん、顔……」
「だから、見ないでって言ったのに……」
「っ……」
つられるようにして、私も自分の顔が熱くなる。そんな私を見て、へへっと恥ずかしそうに青空さんは笑う。そして私たちはまだ少し熱の残る顔を見合わせて、もう一度笑った。
青空さんに促されるようにして、私はさっきまで青空さんが座っていたベンチに座った。何から話そうか、悩んでいると先に青空さんが口を開いた。
「よく、ここがわかったね」
「あ……。車掌さん――青空さんのお兄さんから聞きました」
「……あの、おしゃべり。言わないでって言ったのに」
青空さんが呆れたように言う。でも、その口調が優しくて、きっと仲のいい兄弟なんだろうな、なんて思ってしまった。
「なんてね……。あんな手紙をもらったら、そりゃ気になるよね」
「はい……」
「ごめんね」
苦笑いを青空さんは浮かべる。けれど私は笑ってなんていられなかった。だって、だって……。
「あんな手紙一つ置いていなくなって……。私、突然青空さんが来なくなってビックリして……それで……」
「うん、本当にごめん」
謝ってもらいたいわけじゃないのに、困らせたいわけじゃないのに、口を開けば次から次に青空さんを責めるような言葉ばかり出てくる。
けれど、そんな私を青空さんは、何度も「ごめんね」と言いながら、優しく見つめてくれる。
「どうしたら、許してくれる……?」
「それは……」
怒ってるわけでも責めたいわけでもない。なのに、青空さんにこんなこと言わせて……どうしたら……。
「あ……」
「え?」
私は、ふと思いついて青空さんの方を向いた。
「じゃあ……一つだけ、言うことを聞いてください」
「言うこと? いいよ、俺にできることならね」
「青空さんの、名字が知りたいです」
「へ?」
そんなことを言われるなんて思ってもみなかったのか、青空さんはどこか間の抜けたような声を出した。けれど、私は真剣だ。
「だって、今日も受付で患者さんのお名前は? って聞かれたのに答えられなかったんですよ! それに、青空さんが来なくなったとき、青空さんのことを探そうと思ったのに、私が知ってるのなんて、青空さんの名前と降りる駅だけで……」
「ふっ……」
「あ、笑った! もう! 私は真剣なのに!」
「ごめん、ごめん。あまりにも梓が可愛くて……」
青空さんは、目尻に涙を浮かべるほど笑うと、小さく咳払いをして、それから口を開いた。
「そっか、俺、梓に何にも自分のこと言ってなかったんだね」
「そうですよ! 私、青空さんのこと、何にも知らない……」
「うん」
「だから、教えてほしいんです」
青空さん自身のこと、それから――青空さんが抱えている病気のこと。
そう告げた私に、青空さんはもう一度「うん」と言って優しく微笑んだ。
「何から聞きたい?」
「まずは名前! それから、年齢!」
青空さんがいなくなって、青空さんを探そうとしたときに、名前も年齢すらも知らないことに気付いて、ショックだった。そんなことすら知らなかったのかと、私たちの関係の薄さを思い知らされた。だから、些細なことでもいい。青空さんのことが知りたい。
「瀧岡青空。一八歳」
「一八歳ってことは、高校生? それとも大学生?」
「三月に卒業したところだよ。――通信制の高校を」
「え……?」
通信制の高校……?
どういうことだろう、そう思った私の疑問に青空さんは答える。
「一五歳の二月に骨肉腫が判明して……。治療のために入院したから、受かった高校は合格を辞退したんだ。それで、病院にいても可能な通信制を申し込んだんだ」
「そんな……」
「だから、前に梓に言った、いい学校に行くばっかりが価値があることなんかじゃない。自分自身で価値を見いだすんだ、っていうのは、俺自身に言い聞かせてきたことなんだ」
なんと言っていいかわからなくて、黙ったまま話を聞く私に、青空さんは苦笑いを浮かべた。
「偉そうに言ったくせに、格好悪いね」
「格好悪くなんかない!」
「梓?」
気が付けば、私は立ち上がって、青空さんを見下ろすようにして叫んでいた。だって、だって、そんなの……。
「そんなの、何にも格好悪くなんかない! だって、だって! 全部、青空さんが生きるために選んだことでしょう!? その選択をしたから、今、青空さんはここにいるんでしょう!?」
「梓……」
「あの言葉に、私は救われた。少なくとも、今いる場所で頑張ってみようって思えた。だから、格好悪いだなんて言わないで!」
なんで、こんなにも悔しいのかわからなかった。でも、私の気持ちを救ってくれた人が、自分自身をあざ笑うかのような態度を取っているのが、悔しくて、そして悲しかった。
「……ありがとう」
「別にお礼を言われるようなことなんて……」
「本当に、ありが……とう」
「青空さん……?」
青空さんの声が、震えていた。だから私は、それ以上何も言えなくなって、首を振って、それから青空さんの隣に座り直した。
――どれぐらいの時間が経っただろう。青空さんは、目をこすると、小さな声で言った。
「足の手術をするんだ」
「え……?」
言われた言葉の意味が理解できなかった。病気で入院しているんじゃないの……? なのに、足の手術って、どういうこと……?
不思議そうな表情を浮かべた私に、青空さんは苦笑いを浮かべた。
「骨肉腫って知ってる?」
「……聞いたことは、あります」
それはドラマなんかで聞いたことがある病名だった。でも、詳しくは知らない。興味を持って調べたことなんてなかったから……。
でも、青空さんは「そうだよね」と笑った。
「俺も、自分が病気になるまでなんとなく聞いたことがあるなって程度だった。……足の骨に、腫瘍ができるんだって」
「腫瘍……?」
「簡単に言うと、骨の中に癌ができている。俺の場合は、ここ」
青空さんは左膝に触れた。その手が、かすかに震えていることに気付く。
「昔は切断してたらしいんだけど、今は手術で取り除くことができるらしい。初発のときにも手術して、今回も」
「大丈夫、なんですか……?」
その問いかけが正しいのか、わからないけれどそれ以外になんと言っていいのかわからなかった。そんな私に、青空さんは優しく微笑んだ。
「うん。だから、そんな顔しないで」
辛いのは青空さんなのに……なのに、そんな青空さんが微笑むから……私は、必死で笑顔を浮かべた。
「よかった……」
そんな私にホッとしたよう息を吐き出すと、青空さんは話を続けた。
「でね、その手術を――来月、することになったんだ」
「そう、なんだ……」
「……梓」
青空さんの、声のトーンが変わった。真剣な表情で私を見つめると、ギュッと手を握りしめた。
「俺、梓に言いたいことがあって。でも、今のこんな俺じゃあ何にも言えなくて……。だから、絶対に手術を成功させて、もう一度あの電車に乗って梓に会いに行くから。……それまで、待っててくれないかな」
「っ……」
「退院予定が八月末なんだ。だから、九月になったら、あの電車で会おう」
「青空、さん……」
私は、頷くことしかできなかった。
「……俺、頑張るから。逃げないで、頑張るから」
「はい……」
「だから……」
だから、梓も頑張って。
きっと青空さんは、そう続けたいんだと思った。言葉には出さなかったけれど、青空さんの瞳がそう語っていた。
いつまでも話をしていたかったけれど、検査があるんだと看護師さんが青空さんを呼びに来た。
「じゃあ……」
「…………」
「必ず行くから、いつもの電車で待ってて」
頷いた私に、青空さんは優しく微笑みかけると、看護師さんに連れられるようにして病院内へと戻っていった。
その背中を見送って、帰ろうか――と、歩き出そうとしたそのとき、なんとなく、本当になんとなく青空さんの去って行った方を振り返った。
「っ……」
その瞬間、病院内へと繋がるドアを開けようとしていた青空さんが、こちらを振り返った。
「え……」
青空さんも、少し驚いたような表情をして、それから私に手を振ると病院内へと姿を消した。たまたまかもしれない、偶然こちらを向いただけなのかも……。でも、同じタイミングで振り返ってくれたことが嬉しくて、胸が温かくなるのを感じた。
青空さんが戻ってくるまであと二ヶ月。
そのときに、胸を張って会えるように、必死に病気と闘っている青空さんに負けないように、私も、私のできることを――。
「頑張ろう」
小さく口に出して呟くと、私は歩き出した。自分自身の足で、一歩ずつ、未来を踏みしめるように。
青空さんと病院で会ったあの日から数日が経ち、学校は夏休みに入った。と、いっても家にも、そしてこの街にさえ居場所のない私は、夏休みの方が苦痛だった。
偏差値の高い大学を目指しているわけでもないのに、率先して希望者のみの補習や模試の予定を入れたのも、自宅にいたくなかったからで。
蝉の鳴き声と、照りつける太陽の日差しに負けそうになりながらも、制服に着替えて学校に通っていたのはそのためだった。
今日の補習は一教科だけだったので、補習が終わってお昼を食べ終えても、まだ太陽は高い位置にいた。今から帰るとすると、夕方よりはだいぶ早く駅に着いてしまいそうだ。
できれば、もう少し――あと二時間ぐらい時間を潰したいのだけれど、どうしよう……。
少し考えて、それから青空さんの言葉を思い出した。そういえば、図書館をおすすめされたのに結局、あれから一度も行っていなかった。
「せっかくだし、行ってみようかなぁ」
図書館ならクーラーも効いているだろうし、面白い本でもあれば夕方までの時間つぶしになる。そう考えた私は、校舎の外に出て、少し離れたところにある図書館へと向かった。
北上高校の図書館は、校舎の外――広い敷地の奥にあった。青空さんに話を聞いてすぐに行こうと考えた私が、断念した理由がそこにある。私立高校だけあって、北条高校の敷地は広い。ちょっと休み時間に行ってみようかな、と思うには距離があった。
校舎を出てから五分ちょっと、歩いたところにそれはあった。夏休みということもあり、人気のない図書館はひんやりと涼しくて過ごすにはちょうどよかった。これなら、夏休みの宿題を持ってきてここでするのもいいかもしれない。貸し出しカウンターの隣にあった、今月のおすすめ図書から一冊の本を手に取ると、空いているテーブルへと向かった。
読み終えた本を閉じ、伸びをすると時計が目に入った。
「うそ、もう五時!? ……っ」
思わず声に出してしまい、慌てて口を押さえる。幸い、周りには人はいなくて、ホッと息を吐き出した。
それにしても、いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。元あった場所に本を戻すと、私は図書館をあとにした。
翌日も、そのまた翌日も私は補習のあと図書館に向かった。人気のないと思っていた図書館は、私以外にも利用者がいたようで、何カ所かある読書スペースで本を読んでいる人、課題をやっているのだろうか、勉強をしている人、それから涼みに来ているのか寝ている人もいた。私はというと、最初の頃は本を読んでいたけれど、いい加減宿題を進めなければと思い、図書館に通い始めたから一週間が過ぎた頃には、学校に用はないけれど宿題を持ってまっすぐ図書館へと向かうようになった。夏休みなのに毎日学校に通うので定期の更新をしてほしいと言ったら、宿題をするぐらいなら家でも自宅の近くの図書館でもできるじゃない、なんて親からは小言を言われたけれど、別に気にならなかった。
今日も宿題の続きをしようと、誰もいない机に数Ⅰの教科書と、それから問題集を広げた。
どれぐらい時間が経っただろう、気が付くと一つ椅子を挟んだ隣の席に、誰かが座っているのが見えた。いつの間にそこにいたのか……。全然気付かなかった。
そして私は、その子に見覚えがあった。名前はわからないけれど、多分クラスメイトだ。でも、どうしてそこに座っているんだろう。いくつも席は空いているのに……。とはいえ、どうしてそこに座っているの? なんて、尋ねられるわけもなく、私は少し居心地の悪さを覚えながらも、再び宿題へと意識を向ける。そして、そんなことは何回かあった。
別に席が埋まっているわけではないのに、私の、それも一つ席を空けた隣に彼女は座ると、別に何かを話すでもなく、ただそこで本を読んでいた。いったいどういうつもりなのか疑問に思うこともあったけれど、今更聞くこともできず、気付けば八月になっていた。
お盆休みの期間はさすがに学校も開いていなかったので、一週間ぶりに図書館を訪れた。休みに入る前に借りていた本をカウンターで返すと、私はいつものように机に向かうと宿題を広げた。図書館に通っていたおかげで、今年は例年に比べて早く宿題が終わりそうだ。
今までは……。友人たちと遊んだり、部活に精を出したりしていた夏休みを思い出して、胸の奥がどんよりと重くなるのを感じた。
「はぁ……」
気分が沈む。黙々と宿題をする気分ではなくなってしまった私は、新しく入荷していた本を持ってくることにした。
面白そうな本を二冊ほど取って席に戻ると、いつものようにクラスメイトがそこにいた。いつもと違うのは……彼女が宿題を広げていたこと。
ちらっと見ると、問題集を始めたところのようで、まだあと数十ページは残っているようだった。……この時期からやり始めて間に合うのだろうか。
一瞬、そんな思いがよぎったけれど、私には関係ない。
席に着くと、彼女のことなんて気にしていない、そんな態度で私は本を広げた。
「うーーーん」
「…………」
「あれ? これって……。えええーー」
気にしないようにしようとすればするほど、隣から聞こえてくる独り言が気になって仕方がない。再び気付かれないように盗み見ると……どうやら因数分解でつまっているようだった。
そこは、その前の問題の応用で……。あ、違う。そうじゃなくて……。
思わず口から出かかった言葉を、飲み込む。名前も知らない、話したこともないクラスメイトから急に声をかけられても気持ち悪がられるだけじゃないだろうか。たまたまいつも近くの席に座るだけで、別に何の意図もなかったのに、話かけられてホント気持ち悪かった、なんて言われるかもしれない。そんなことになるぐらいなら、何も言わない方が……。
『……俺、頑張るから』
その瞬間、頭の中に、あの日の青空さんの言葉がよぎった。
『逃げないで、頑張るから』
そうだ、青空さんは逃げないって、頑張るんだって言ってた。
私だって、あの日決めたじゃない。もう逃げないって。頑張るんだって。
青空さんに、胸を張って、会えるように。
だから……。
私は、からからに渇いた口を潤すように唾を飲み込むと、口を開いた。
「……そっちじゃなくて」
「え?」
その声に、クラスメイトが不思議そうな顔で私を見た。
拒絶されるかも、そう思うと、やっぱり怖い。ごめん、青空さん。
私はクラスメイトの方を見ることなく、独り言ですよ、とでも言うかのように視線は本に向けたまま、小さな声で呟いた。
「……さっきの問題と同じ……。問いⅠ……」
「問いⅠ……? ……ああ!」
私の言葉に、さっきの問題の応用だと気付いたのか、何かを思いついたかのような声を上げて、それからシャーペンを走らせ始めた。
……それ以降の問題に関しては特にわからないところもなかったのか、シャープペンシルを走らせる音が聞こえていた。
青空さんの頑張ってるのに比べたら、ちっぽけかもしれないけど。それでも、この学校に入って、こんな風に自分から誰かに何かを伝えるのは初めてだったから……。いつの間にかじっとりと湿っていた手をスカートで拭うと、小さく息を吐き出した。そして、すぐそばから聞こえてくるシャープペンの音を聞きながら、私は読みかけだった本の続きに再び視線を向けた。
本を読み終わり、そろそろ帰ろうか。そう思って立ち上がろうとしたとき視線を感じた。
「……ねえ」
声をかけてきたのは、隣の隣の席に座っていたあのクラスメイトだった。彼女は、私の方をじっと見ていた。
「福島さん」
「なに……? えっと……」
「あ、私のことわかる?」
口ごもる私に、その子はおかしそうに笑う。申し訳ないけれど、やっぱり名前は思い出せない。首を振った私に、その子はもう一度笑った。
「やっぱりね。同じクラスだってことは?」
「それは、わかる」
「ならよかったー。私ね、栗原莉緒《くりはらりお》って言うの」
「ゴホン」
話を続けようとした栗原さんの声を遮るようにして、どこかから咳払いをする音が聞こえた。私と栗原さんは顔を見回すと、どちらともなく図書館の外に出た。
「怒られちゃったね」
「だね」
肩に掛かるポニーテールを揺らしながら悪びれなく笑う彼女につられるようにして私も笑った。そんな私に、彼女――栗原さんは嬉しそうに言う。
「さっきはありがとう! 問題、教えてくれたでしょ?」
「あ、えっと……うん。や、別に……」
「あそこ、前にテストで出たときもわかんなくて。だから、助かっちゃった」
ニッコリと笑うと、左頬にえくぼができるのが見えた。屈託ない笑顔を浮かべると、栗原さんは続ける。
「ね、明日も図書館いる?」
「え……。うん、いると思うよ」
思うよ、なんて嘘だ。ホントは明日も明後日も、夏休みの平日はほとんど図書館で過ごしてきたし、これからもそうだ。
そんな私のもやもやなんて気付かないように、栗原さんは言う。
「やった! じゃあ、またわからないところあったら教えてよ」
「私が……?」
「うん。あ、ダメだった?」
「ダメじゃない!」
ダメなんかじゃない。むしろ……。
「私でいいの……? だって、友達でもなんでもないのに……」
私なんかで……。
でも、栗原さんは、キョトンとした表情で言った。
「なら、友達になればいいじゃん」
「え……?」
「私さ、福島さんと話してみたかったんだ」
栗原さんの言葉の意味がわからずにぽかんと口を開けたままの私に、少し照れくさそうに言った。
「……じゃなかったら、あんなふうに毎回同じ机に座らないでしょ」
「あ……」
そう、だったんだ。まさかそんなふうに思っていてくれてたなんて思わなかった。だって、みんな私になんて興味ないんだとばかり……。
「福島さん、今『私になんて興味ないんだと思ってた』って思ってるでしょ」
「っ……」
思っていたことを言い当てられて、言葉に詰まる。そんな私を、栗原さんは笑った。
「それね、逆だからね」
「え……?」
「みんなが福島さんに興味ないんじゃなくて、福島さんがみんなに興味なかったから、だからみんな福島さんに話しかけられなかったんだよ」
「ちが……」
違う、そんなことない。そう言いたかったけれど、心の奥で、その通りだと認める自分自身がいた。
「興味がない、とはちょっと違うかもしれないけど……。でも、ここは私の居場所じゃないから。……そんなふうに思っているのが伝わってきてたよ」
「っ……」
もう、何も言えなかった。
だから私は、その場から逃げるように駆け出した。
「あっ……」
背中に、栗原さんが何か言う声が聞こえたけれど、立ち止まることはないまま、私は駅へと向かって走った。
胸が苦しかった。心が痛かった。
どうしてあんなこと言われなきゃいけないの。私のことなんて、なんにも知らないくせに。何があったかなんて、知らないくせに!
「はあ……はあ……」
全力で走って、汗なのか涙なのかもはやわからない液体が頬を伝う。何がこんなに悲しいのかわからなかった。でも……。
「うれし、かったのに……」
話をしたかったって言ってもらえて、本当はとっても、とっても嬉しかったのに。
自分の中の情けない部分やみっともない部分を見透かされていたようで……。
「もう、嫌だ……」
ぽたぽたと地面に小さな染みを作るしずくを必死に拭うと、私は駅のホームへと向かった。
その日の夜、明日、図書館に行きたくないな、なんて思っていると、朝起きたら熱が出ていた。夏風邪は馬鹿がひく、なんて誰かが言っていたな……。そんなことを思いながらベッドに寝転んでいると、夢を見た。
あの病院の中庭で、頑張るよと言っていた青空さんの夢を。
私も頑張るって決めたのに、結局、私は何かを頑張れているのだろうか。
こんな情けないままの私で、本当に戻ってきた青空さんの隣にいられるのだろうか。
私だって頑張ったと、胸を張って言えるのだろうか。
そんなことを、熱に浮かされながらずっと考え続けていた。
結局、熱が引くまでに丸々三日ベッドの上で過ごすはめになった。熱が下がったのが土曜日の朝だったので、図書館に向かうことができたのは月曜日のことだった。
久しぶりの外出は緊張と、でも開放感でいっぱいだった。けれど、図書館が近づくにつれてあの日の栗原さんとの会話が気持ちを重くしていく。彼女は今日も来ているのだろうか。そしてまた、私の隣の隣の席に座るのだろうか。……ううん、あんなふうに逃げた私のそばになんてもう来てくれないかもしれない。せっかく、話をしたいと思っていたと言ってくれていたのに。
うだうだと考えているうちに、図書館に着いてしまった。意を決して扉に手をかける。が……。
「あれ……」
いない……。
そこに、栗原さんの姿はなかった。
ホッとしたような、少し残念なような複雑な気持ちを抱えながら、私はおすすめの本が置いてある棚へと向かった。新しい本は来ているだろうか。そんなことを考えていると、ガタンッと大きな音がした。
「え……?」
見覚えのない男子が、私のすぐそばに立っていた。どうやらこの男がで乱暴に本を棚に入れて、落としてしまったようだった。男子は落ちた本をちらっと見ると、拾うことなく立ち去っていく。
「…………」
本をこんな風に扱うなんて……。私は、落ちた本を拾うと、本棚へと直した――。
「ちょっと、あなた!」
「…………」
「あなたよ、あなた!」
「え、私……?」
後ろから肩をつかまれて、慌てて振り返った。そこには、司書さんだろうか。真っ白なブラウスに黒のスカート、そして首から吊り下げ札をかけた女の人が立っていた。
その女の人は、凄い形相で私をにらみつけた。
「あなたね! 図書館の本をそんなふうに扱っていいと思っているの!?」
「え……」
「何組の生徒? 担任の先生は? ああ、もう! 本が折れちゃってるじゃない!」
どうやらさっきの男子が落とした本を、私が落としたのだと勘違いしているようで、司書の女性は私が戻した本を取り出すと、折れた端っこを突き出すように私に見せた。
「ち、違います。それ、私じゃなくて……」
「嘘おっしゃい! あなたが乱暴に落として拾うところを見てたんですよ!」
「ちが……。その前にいた男子が落としたから私……」
「人のせいにするの!?」
「だから……」
どうしたら信じてくれるんだろう。頭ごなしに怒鳴られて、周りの視線も痛い。ひそひそと何かを話しているのが聞こえる。きっと、私のことについて言ってるんだろう。
「あ……」
そのとき、視界の隅に、見覚えのあるポニーテールが見えた。あれは……。
「栗原さん……」
けれど、栗原さんは私のことなんて気にとめることもなく、図書館の外へと出て行った。
「っ……」
私が、悪い。あんな態度を取られるようなことをしてしまった私が……。
それはわかっている。でも……!
ギュッと閉じた目からは涙がにじみそうになって、私は図書館の床を見つめた。
けれど、その態度が気に入らなかったのか、目の前の女性はさらに声を荒らげた。
「そうやって泣いたら何でもすむと思ってるの!? 高校生でしょ? ちゃんと謝らないといけないきは謝るの! わかる!?」
わからない。私はやってないのに、どうしてこの人はこんなにも私を怒るんだろう。どうしたらいいの。誰か、誰か助けて……。
「あのー」
「え?」
「何? あなた」
私の背後から、声が聞こえたのはそのときだった。
「栗原さん……」
「誰、あなた」
「その子の友達なんですけど。……その子、なんにもしてないですよ」
「何を言ってるの! 私はさっき……!」
反論されたことにより、さらにヒステリックに叫んだ女性に、栗原さんは言う。
「だって、そんなことする子じゃないですし。それに、ほら」
栗原さんが指さした方へと視線を向ける。そこには、見覚えのある男子と……その男子を引っ張るようにして連れてくる女子の姿があった。
「莉緒ー。捕まえてきたよー」
「ありがとー!」
不服そうな表情の男子は、私を見るとそっぽを向いた。
「怒るんだったらこの人にしてよ。福島さんはこいつが落とした本を拾っただけなんだから」
「……そうなの?」
司書の女性は怪訝そうに私に尋ねる。だから私は、小さく頷いた。
「……っ。そ、それならそうとさっさと言えばいいじゃない。ほら、あなた! ちょっとこっちに来なさい!」
ばつが悪そうな顔で私に吐き捨てると、その人は目の前の男子を連れてどこかに行こうとした――。
「待ってください」
「っ……なにか」
「連れて行く前に、福島さんに言うことがあるんじゃないですか?」
「……っ。勘違いして、ごめんなさいね!」
これでいいでしょ! と、ばかりに早口で言うと、司書の女性は男子を連れてどこかに行ってしまった。
「なーに、あの言い方! もっとちゃんと謝ってよ!」
「栗原さん……」
「酷いよね!」
そうやって怒ってくれる栗原さんの優しさが温かくて……我慢していた涙があふれ出した。
「っ……え、大丈夫? ちょ、ちょっと外行こっか?」
慌てたように私の背中を押すと、私は栗原さんに連れられて図書館を出た。
少し離れたところにあるベンチに座ると「ちょっと待ってて」と言って栗原さんはどこかに行ってしまう。私は、鞄から取り出したハンカチで、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。
「お待たせ」
「あ……」
「水でよかった?」
栗原さんは、ペットボトルのミネラルウォーターを私に手渡すと、隣に座った。いつもより、椅子一つ分近い場所に。自動販売機で買ってきてくれたであろうそれを口に含むと、からっからに渇いた喉を、冷たい水が潤してくれた。
「ありがとう……」
ペットボトルを握りしめたままそう言うと、栗原さんは「どういたしまして」と言って笑った。
ありがとう、じゃなくて、謝らなければいけない。この間の態度を――。ううん、今までの態度を謝って、それで……私と、友達になってって……。
「っ……」
頭ではわかっているのに、声にならない。どうしたら……。
「あの、さ」
「え……?」
私が躊躇っているうちに、栗原さんがこちらを向いた。
「あの、ね……この間は、ごめん!」
「え……」
どうして、栗原さんが謝るの……? だって、悪いのは私で……。私が、自分自身が今を受け入れられずに、みんなに、栗原さんに嫌な思いをさせていたのに……。
「なんで謝るのって顔してる」
「だ、だって……。だって、悪いのは、私だもん。私があんなことを栗原さんに言わせた。栗原さんの言うとおりだよ。私、本命の学校を落ちてここに来て……。それで、どうしてもその事実が受け入れられなくて……。こんなところ、本当は来るつもりじゃなかったのにって。あんなことがなければ、今頃はみんなと一緒の高校に行ってたのにってずっと、ずっとそう思ってた!」
そう、ずっとずっとそう思ってた。――青空さんに、会うまでは。
あの日、青空さんに出会って、どこで学ぶかじゃない。誰と出会うかが重要なんだって、教えてもらうまでは――。
「思ってた、ってことは、今は違うってことでしょう?」
栗原さんは優しく微笑む。
「受験失敗組でも二つに分かれてて、まあしょうがないよね! って通う子と、福島さんみたいにここは私の居場所じゃないって思い詰めて――それで、結局中退しちゃう子とかね」
「っ……」
「最初はね、福島さんもやめちゃうのかなぁって思ってたんだけど、でも途中からなんかちょっと変わった? って、思って。つまらなそうな顔、しなくなったからかな。それで、話してみたいなって思ったんだ」
少しでも、前を向きたいって思ってた。その気持ちを、わかってくれた人が、いたなんて……。
「って、福島さん!? 泣かないで!?」
「あ……」
「ごめんね? 私、言い過ぎちゃった? いつもみんなに言われるの。莉緒はずけずけ言いすぎるって」
慌てたように早口で喋る栗原さんに……私は笑ってしまった。そんな私を栗原さんは不思議そうに見つめていた。
栗原さんは、ちゃんと話をしてくれた。今度は、私の番だ。
「ちが……。そうじゃなくって……うれ、しくて……」
「え……?」
「あり、がとう。……それから、ごめんなさい」
ペットボトルを握りしめる手に力が入る。誰かにわかってもらいたいと、本音を話すことはこんなにも緊張するのだと思い出す。それはあの日、誰にも本当のことを信じてもらえなかった、あの高校受験の日以来、初めての感覚だった。
「この間、図書館で……逃げてごめんなさい。なのに、今日助けてくれて、嬉しかった。……友達だって、司書さんの手前、そう言ったっていうのはわかってる。でも、もう誰も私のことを友達だなんて言ってくれる人はいないって思ってたから、本当に嬉しかった」
「福島さん……」
「図々しいのはわかってる。でも……私と、本当に友達になってもらえると、嬉しいです」
ペコッと音を立ててペットボトルが凹んだ。でも、そんなことよりも……今、隣で栗原さんがどんな顔をしているか、そっちの方が気になって……怖くて……顔を上げることができない。
嫌だ、と言われたらどうしよう。どうしてあんたみたいなのとって、また言われたら……。
「ふっ……ふふっ……」
「え……?」
隣から笑い声が聞こえてきて、思わず顔を上げた。一体どんな顔をしているのか、そう思っていた栗原さんは、笑っていた。目尻に浮かんだ涙を拭いながら。
「栗原さん……?」
「あのね、福島さん。友達って頼まれてなるもんじゃないって知ってる?」
「っ……」
それは、確かに、そうだ……。頼まれてなる友達になんてなんの価値があるのか。そんな義理の付き合いのような友達に……。
「ご、ごめ……」
「ねえ、福島さん。私の名前、覚えてる?」
「……栗原さん?」
「そっちじゃなくて、下の名前」
下の名前……?
「莉緒……」
「せーかい。私さ、友達には名前で呼ばれたい人なんだ」
「え……?」
どういう意味だろう? 言葉の意味がわからず、首を傾げてしまう私に、栗原さんは左頬にえくぼを浮かべて笑うと言った。
「だからさ、莉緒って呼んでよ。私のこと」
「い、いいの……?」
「当たり前じゃん。それにさ、司書さんへの手前友達だって言ったって、そう言ってたけど……」
「違うの……?」
だって、それ以外にどうして……。
でも、私の質問に栗原さんは頬を膨らませると……私の頬を引っ張った。
「ちーがーいーまーすー! この前、図書館の帰りに言ったじゃん。なら友達になればいいじゃんって。忘れちゃった?」
「あ……」
「忘れてたんだ……」
栗原さんは私の頬から手を離すと、ガックリと肩を落とした。
「あれ……言うの勇気いったんだよ」
「そう、なの……?」
「そうなの! ……頼まれて友達になるもんじゃない、なんて格好つけたこと言ったけど……どうやったら福島さんと仲良くなれるかなって、ずっと考えてたんだから」
そんなこと、思ってくれている人がいたなんて知らなかった。あの居心地の悪かった教室で、誰とも喋らず、誰とも関わらず、何のためにここにいるのかわからなかった私と、友達になりたいなんて思っていてくれた人がいたなんて……。
「あー、もう! 恥ずかしい! こんな恥ずかしいこと言うつもりなかったんだからね! わかってる!? ……梓!」
「え……」
「っ――。今、梓って呼んだ? とか、聞き返さないでよね!」
隣に座る栗原さんの顔が耳まで真っ赤になっているのを見て、思わず笑ってしまう。そんな私の態度に気付いたのか、口をとがらせて栗原さんがこちらを向いた。
「なに……?」
「なんでもない。……ありがとう、莉緒」
「っ……べ、別に!」
莉緒はペットボトルを口に含むとミネラルウォーターを一気に飲み干した。さっきよりもさらに赤くなった耳を見て小さく笑うと……私は、空を見上げた。
青空さんに、会いたい。
会って、友達ができたよって伝えたい。
ほんの少しだけど、前に進めたよって。青空さんのおかげだよって。
「…………」
――青空さんは、八月の終わりには退院できると言っていたけれど……。
蝉の鳴き声も、ほとんど聞こえなくなり――もうすぐ夏が終わろうとしていた。
数日後、なんとか夏休みの宿題を終えた莉緒とともに私は教室にいた。夏休み明けだというのに始業式があるわけでもなく、数日後からはじまるテスト範囲の確認と宿題の提出で終わった。
「はぁ……」
「どうしたの? 元気ないね」
「莉緒……」
思わずため息を吐いた私に、莉緒が不思議そうに尋ねてくる。
「何かあった?」
「何か……」
どちらかというと、何もなかったからため息を吐いている。八月末には退院できると言っていたはずの青空さんは、今日の電車には乗っていなかった。
そもそも、退院したらもう病院には通う必要はないから乗ってこないのではないか、と気付いた頃には、電車は青空さんが乗る駅を過ぎていた。
青空さんのお兄さんである車掌さんに聞こうかな、と思ったけれど、今日は違う人が乗っていた。夏休み中は乗る時間が違うからお兄さんに会わないのかな、と思っていたけれど、今日も会えないなんて……。
「何でもない、ことはないけど……」
青空さんのことは、まだ莉緒には話せていない。ううん、青空さんのことだけじゃない。高校受験の件も、だ。私なんかのことを友達だと、そう言ってくれた莉緒だから、いつかは話さなければ、と思っているんだけど……。
「梓?」
「……もうちょっと落ち着いたら、話、聞いてくれる?」
恐る恐る尋ねた私に、莉緒はいつものように左頬にえくぼを浮かべると笑った。
「梓が話したくなったらでいいよ。……友達だから、じゃなくて、梓が本当に話したいって思ったときでさ」
「莉緒……」
私が考えていることなんてお見通しとばかりに莉緒は言う。そんな莉緒だからこそ、いつかちゃんと話したいと思えるんだと思う。
「ありがとう」
「どういたしまして?」
顔を見合わせてくすくすと笑う私たちを、クラスメイトが不思議そうな顔で見つめていた。
「莉緒、福島さんと仲良くなったの?」
「そうだよー。梓のおかげで私、宿題もテスト勉強もバッチリだからね!」
「え、嘘。いいなー! 福島さん、私にも教えてー」
「う、うん。いいよ」
「やったー!」
莉緒の友達だろうか、クラスメイトが何人も私の机の周りに集まってくる。……こんな日が来るなんて、北条に入学した頃は思いもしなかった。ただただ辛くて悲しくて嫌で仕方がなかったのに、こんなふうに誰かと笑える日が来るなんて……。
「莉緒、ありがとう」
周りにいたクラスメイトが去ったあとで、私は莉緒と一緒に教室を出た。突然、お礼を言った私に、莉緒は怪訝そうな表情を向けた。
「……何が?」
「莉緒のおかげで、クラスメイトとも馴染めそうだから……」
入学してから五ヶ月。ようやく、この学校の一員になれた気がする。それは、きっと今隣にいてくれる莉緒のおかげだから……。でも、私の言葉に莉緒は首を振った。
「別に私のおかげとかじゃないよ。多分だけど、みんな梓と仲良くなりたかったんだよ。ただ、梓が近寄るなって雰囲気を出してたから今まで近づけなかっただけで」
「え……?」
私、と……?
「梓、気付いてないと思うけど、雰囲気が柔らかくなったよ。教室にいても、もう居場所がないなんて感じないでしょ? だから、周りの子たちも、梓に話しかけてもいいんだって思ったんじゃないかな」
そうなの、だろうか。私が――私の気持ちが変わったから、だから……? 今まで誰も私に話しかけてこなかったのは、私が嫌われてたからじゃなくて、私が、みんなを拒絶していたから……?
「……でも、きっとそんなふうに周りに思ってもらえるのも莉緒のおかげだよ」
「ちが……」
「違わないよ! ……莉緒がいてくれるから、あの教室で一人じゃないって思えたんだよ。だから、ありがとう」
「な……」
プイッとそっぽを向いてしまった莉緒の耳が赤くなっているのを見て、私は笑った。そんな私を見て莉緒も笑った。
私たちは校門を出たところで別れた。莉緒は隣町に住んでいるらしく、学校のそばのバス停からバスに乗るんだと、夏休み中、図書館からの帰り道に聞いた。
私は駅までの道のりを一人で歩き、タイミングよく来た電車に乗った。一人で乗る電車は退屈で、でもほんの少しそれに慣れてきたことに寂しさを覚える。青空さんはいつ戻ってくるのだろうか。
青空さん、私、学校で笑ってるよ。友達と笑い合ってるよ。
早く会って伝えたい。
青空さん……。
「梓」
「え……?」
最初、青空さんのことを考えすぎて、幻聴が聞こえたんだと思った。でも、降り立った最寄り駅のホームにいたのは、間違いなく青空さんだった。
「梓!」
「青空さん……!」
駆け寄った私は――青空さんの姿に、言葉を失った。だって……青空さんは……。
「青空、さん……」
「ただいま」
「青空さん……」
おかえり、と言いたいのに開いた口からうまく言葉が出てこない。青空さんは、車椅子を器用に操作すると、私の方へと近づいた。
「歩けなくなっちゃった」
「どうして……」
「……思ったより悪化しててね。切断は免れたんだけど、自力で歩くのが厳しくて……」
青空さんは苦笑いを浮かべながら左足に触れるとそう言った。
「悪化って……。大丈夫なの……?」
「うん。大丈夫になるように、こうなったんだ」
「そ、う……なんです、か……」
なんて言っていいかわからなかった。だって、大丈夫なわけないじゃない。歩けないなんて、大変なことになったのに……。
「梓」
「……ぅ」
「そんな顔、するなって」
青空さんは手を伸ばすと、私の頬を両手で挟んで、それから笑った。
「俺なら大丈夫だから。今って、バリアフリーも進んでて、意外と不便じゃないんだよ。ここだって、エレベーターがあるし」
「青空さん……」
「だからさ、――そんな可哀想な人を見るような目で、見ないで」
「あ……」
そう、だ……。青空さんがこうやって笑っているのに、私が暗い顔をしていてどうするの。辛いのは、悲しいのは私じゃない。青空さん自身なんだから。
「ごめ……」
「謝るのもなし」
「……はい」
「よろしい」
そう言って青空さんは笑う。だから、私も……青空さんに負けないように、満面の笑みを浮かべた。
ちょっと話そうか、青空さんはそう言って器用に車椅子を反転させると、進み始めた。ホームの端のベンチには誰もいなくて、私はベンチに、青空さんはその隣に車椅子を止めて並んで座った。
青空さんが隣にいる、それだけで心臓がドキドキと音を立てる。……でも。
「これ、気になる?」
「あ……」
私の視線に気付いたのか、青空さんが困ったように笑う。気にならない、と言ったら嘘になる……。だから、私は小さく頷いた。
「だよね」
「ごめんなさい……」
「いや……。ここで『気にならない』って言われる方が、気を使われてるんだろうなって思うから。むしろ、本当のことを言ってくれた方がいいよ」
青空さんは悲しそうに微笑む。今、こんな顔をさせたのは、私だ……。
――何を怖じ気づいていたんだろう。足がなくなったって、青空さんは青空さんだ。
私が前を向くきっかけをくれた、大事な人だ――。
「青空さん!」
「ん?」
「私ね、同じクラスに友達ができたんです」
突然の私の言葉に、青空さんは一瞬驚いたような表情をしたあと、嬉しそうに笑った。
「本当に!? うわー、よかった。頑張ったね」
私の頭を優しく撫でると、青空さんは本当に嬉しそうにそう言ってくれる。だから……。
「はい! ……青空さんのおかげです」
「俺の?」
青空さんは不思議そうに首を傾げた。そんな仕草が妙に可愛くて笑ってしまう。私は、隣に座る青空さんの手をそっと握りしめた。
「青空さんが、俺も頑張るって言ったから。だから、私も頑張ろうって思えた。手術を頑張る青空さんに負けないように、今度会うときに胸を張って会えるような自分になりたいってそう思って」
そこまで話して、一呼吸置いた。息を吸い込むと、心臓がいつもよりもうるさいのがわかる。緊張している。でも、この緊張は、嫌なものじゃない。
「青空さん、私に話したいことがあるって言ってくれてたでしょう。その前に、私も青空さんに言いたいことがあるんです。……先に話してもいいですか?」
「……うん」
もう、バレてるかもしれない。でも、それでもきちんと自分の口で伝えたかった。
「青空さんが好きです。青空さんがいてくれたから、私は一歩踏み出すことができた。あの日、電車の中で青空さんが言ってくれた言葉が、私の世界を変えた。真っ暗でもう何の希望も未来もないと思っていた私に、見方を変えてくれた。こんなにも世界がきらめいていたんだって教えてくれた」
「梓……」
私の手を、青空さんは握り返してくれない。ダメだったのだろうか……。もしかしたら、青空さんの話というのも同じものではないか、そんな都合のいいことを思ったこともあったけれど……。
「青空さん……」
やっぱり、一方的に、私が青空さんを想っていただけだったんだ。
「ごめんなさい……」
私は、握りしめていた青空さんの手をそっと離した。
「……梓!」
「え……?」
けれど、その手を、青空さんは握りしめた。私の手を、強く、強く握りしめた。
「ごめん、梓。俺……っ」
握りしめられた手は、熱くて、そして小さく震えていた。
「自信がなかった。今日会ったら、梓に気持ちを伝えようって、君と会って俺がどれだけ救われたか。梓のことが、どれほど好きか……そう想っていたのに……」
「せい、あ……さん……」
青空さんの瞳からは、涙があふれていた。その涙が、頬を伝い、重なった私たちの手の甲へと落ちる。
その涙はとても温かくて、綺麗だった。
「こんな足になって、梓の隣を歩くこともできない。梓に助けてもらうことしかできないのなら、いっそ気持ちを伝えずにこのまま友達でいた方がいいんじゃないかってそう思って……」
「そんなこと……っ」
「うん……。梓、これから俺と一緒にいると大変なこともたくさんあると思う。行けない場所だってたくさんある。周りの目だって気になるかもしれない。でも、それでも……こんな俺と、一緒にいてくれますか……?」
青空さんの言葉に、次から次へと涙があふれてきて言葉にならない。こんなに嬉しいのに、涙が止まらない……。
「っ……あ……せ、いあ……さ……」
「好きだよ、梓。俺は、梓のことが大好きだ」
青空さんは両手を広げると、優しく微笑んだ。
「おいで」
その言葉に、私は広げられた青空さんの腕の中に飛び込んだ。
青空さんの腕の中は、優しくて、温かくて……まるでお日様に抱きしめられているみたいだった。
――どれぐらいそうしていただろう。私たちはそっと身体を離すと、顔を見合わせて笑った。照れくさくて、恥ずかしくて笑うことしかできなかった。
それから、青空さんはこれからのことについて話し始めた。
「手術が終わったから、これからは以前ほど病院には行かなくてよくなったんだ」
「そうなんですね……」
よかったような、寂しいような……。
「っ……!」
病院に行かなくてよくなったことはいいことなのに、一緒に電車に乗れなくなることが寂しいだなんて、自分勝手もいいところだ……。
私はみっともない気持ちを抑えつけたくて、手のひらをギュッと握りしめた。
でも、そんな私の隣で、青空さんは笑った。
「ちょっと残念だけどね」
「え?」
「せっかく二時間も梓のことを独り占めできる時間だったのにさ」
「せ、青空さんっ!」
青空さんの言葉に、頬が熱くなるのを感じた。慌てて顔を両手で隠すけれど、そんな私を青空さんはわざと除き込んでくる。
「え、梓は違った? そっか、そう思ってたのは俺だけだったんだね」
「ち、ちが……。そんなこと……」
ない、と言おうとした私を――青空さんが笑いながら見ていることに気付いた。これは、もしかしなくても……。
「青空さん……。もしかして私のこと、からかってます??」
「ん? なんのことかな?」
おかしそうに笑う青空さんに、もう! と、想ったけれど、でも……青空さんが笑っていることに安心したので、からかわれたことはどうでもいいような、そんな気持ちになった。でも、何も言わない私に、青空さんは不安そうな表情を見せた。
「梓? 怒った? ごめん、からかうつもりはなかったんだけど、梓の反応が可愛くてつい……」
「…………」
「梓? 梓ちゃん? あーずーさー……?」
「ふふ……」
思わず笑ってしまった私に、青空さんも笑う。
「嵌められたー!」
「先に意地悪したのは青空さんですー」
「……それも、そうか」
顔を見合わせて笑う、そんな他愛もない時間が幸せなんだと、初めて知った。こんな時間が続いてほしい。たとえどんな困難があったとしても、青空さんとなら乗り越えられる気がする。ううん、そうであってほしい。
「あーおかしい。……で、なんだっけ。あ、そうだ。病院には行かなくなったから朝は会えなくなるんだけど、その分……土日にデートしませんか?」
「デート……?」
「そう。デート。……嫌?」
「嫌じゃない!」
青空さんの言葉を遮るようにして言う私に、青空さんはもう一度笑った。今日だけで、何度も青空さんの笑顔を見た気がする。これからたくさんの時間を一緒に過ごすことができれば、もっといろんな青空さんの顔を見ることができる。それが嬉しくて、幸せで、胸の中が温かくなる。
「じゃあ、土日は一緒にいろんなところに行こう。平日は会えない分、いっぱい会おう」
「平日……。そうですよね、朝会えないとなるとそうなりますよね……」
通学に二時間かかる私は、授業が終わってから帰ってくると六時……遅いときは七時過ぎにになる。それから会うとなると、私の両親はいい顔をしないだろう。たとえ、私に対して無関心を貫いていたとしても。
「ごめんなさい、私のせいで……。学校がもっと近かったら……」
「梓だけのせいじゃなくて」
でも、私の言葉に、青空さんは困ったような表情を浮かべた。
「梓に会いたいから終わる時間に学校まで迎えに行く、なんてことができたらいいんだけどね……。この足で外出するとなると、やっぱり家族に心配も負担もかけるから」
「あ……」
「今日も、本当のこと言うとこの駅まで兄に送ってもらったんだ。たまたま仕事が休みだったから。慣れたら大丈夫かもしれないけど、今はまだ、ね」
「ごめんなさい……」
少し考えればわかることだ。八月に手術して、今はまだ九月になったところだ。青空さん本人も大変だろうし、ご家族だって心配に決まっている……。
なのに、そんなことも考えずに私は、私のことばかり考えて……。
「謝らせたい訳じゃないんだ。……それに、俺だって休日以外も梓に会いたい。だから、会えるように頑張るから、もう少しだけ待ってくれる?」
「無理、しないでくださいね?」
「心配しないで」
そう言って青空さんは私の頭を優しく撫でた。
そのあと、お互いの連絡先の交換をしたり、会えなかった間の話をしたりしていたけれど、そのうち青空さんのスマホに連絡が入った。どうやらお兄さんからだったようで、そろそろ帰らなければいけないと画面を見ながら残念そうに青空さんは言った。
「もう少しいたかったけど……ごめんね」
「そんな……。会えただけで、嬉しかったです」
連れてきてくれたお兄さんのおかげで会うことができたのだ。感謝することはあっても、文句なんてあるわけがない。それは青空さんも同じだったようで「まあね」と言って笑った。
「でも、今日会えてよかった」
お兄さんはホームの外で待っているらしく、私は車椅子を器用に操る青空さんの隣を歩いていく。
「そうですね。今日会えなかったら次のお兄さんの休みまで会えなかったかもしれないですもんね」
「それも、あるんだけど……」
青空さんはなぜか視線をそらすと、口ごもる。どうしたというのだろう?
「青空さん?」
もう一度、尋ねた私に青空さんは渋々口を開いた。
「……今日、俺誕生日なんだ」
「えっ!?」
「だから何? って感じだよね。恥ずかしいな、俺」
驚く私に、青空さんは照れくさそうに笑う。
「でも……。やっぱり今日、梓に会いたいなって思って。それで、本当に会えたから嬉しくて」
「そ、そんなの……知ってたらプレゼントとか……」
「プレゼントなら、もうもらったよ」
「え?」
嬉しいもの……? でも、青空さんになんにもあげてないのに……。思い当たるものもなく首を傾げた私に、青空さんはおいでおいでと手招きをする。その手に誘われるようにして近づくと――青空さんは私の手を引っ張った。
「きゃっ」
突然のことにバランスを崩した私は、気が付くと青空さんの腕の中にいた。
「ご、ごめんなさ……」
「こうやって、梓が俺のそばにいてくれることが、一番のプレゼントだよ」
「え……」
「もう一度、梓に会いたいって、ずっとそればっかり想ってた。だから、こんなに幸せな気持ちにしてくれた梓がそばにいてくれること以外に、欲しいものなんてない」
「青空さん……」
私は何も言えなかった。言えば、涙があふれてしまいそうだったから。
「でも……」
「え?」
私の耳元で、青空さんがまるでいたずらを思いついた子どものような声で言った。さっきまでとは違う声のトーンに思わず顔を上げた私は、ニッコリと笑う青空さんと目が合った。
「梓が何も用意してないってしょんぼりするぐらいなら」
「ぐらいなら?」
「好きだって、もう一回言って?」
「っ……!?」
真っ赤になった私に、追い打ちをかけるように青空さんは続ける。
「もう一回聞きたい」
「なっ……」
「ダメ?」
「ダメ!」
身体を押すようにして立ち上がると、私は青空さんに背中を向けた。頬だけでなく、耳まで熱くなっているのを感じる。ちらっと後ろを見ると、青空さんはニコニコと嬉しそうに笑っていた。
「梓、可愛い」
「可愛くないです!」
「可愛いよ」
青空さんの言葉が恥ずかしくて、顔を見ることもできない。そんな私の隣に並ぶと、青空さんはそっと手を握りしめた。
「梓」
「…………」
「ごめんね? からかい過ぎちゃった」
「…………」
「梓ー?」
青空さんは少し心配そうに私の顔をのぞき込む。だから、私は……。
「っ……!」
「えっ……ええっ!?」
「さっきの仕返し!」
一瞬、唇の触れた頬に手を当てると、青空さんは私に負けないぐらい真っ赤な顔で、口をパクパクとしながら、声にならない声を出す。私だって恥ずかしくて仕方なかったけど、何でもないふりをしながら青空さんの手に手のひらを重ねた。
「…………」
でも、やっぱり顔を見ることができなくて、お互いにそっぽを向いたままその場から動けずにいた。
どうしよう……。
困っている私たちを救うように、青空さんのスマホが鳴った。
「……兄が着いたって」
「そうなんですね……」
「うん……。行こうか」
私たちは歩き出す。普段は階段で下りるところを、駅の奥にあるエレベーターを使って下に降りた。駅の外は相変わらず日差しが熱い。けれど、どことなく風は秋の匂いがしていた。
「青空」
「兄ちゃん」
目の前に止まった車が窓を開けると、そこには――私服姿の車掌さんがいた。制服姿しか見たことがなかったので少し不思議な気分……。
そんなことを考えていると、エンジンを止めたお兄さんが車から降りてきた。
「お待たせ……って、何その顔」
「別に……!」
「ちゃんと会えてよかったな」
幼い子どもにするように、頭を撫でるお兄さんの手を、青空さんは鬱陶しそうに払う。そんな青空さんの態度に少しビックリした。こんな顔もするんだなぁ……。
「やめろよ」
「えー。なに? 梓ちゃんの前だから格好つけてんの?」
「ちが……!」
「ほら、梓ちゃんに笑われてるぞ」
こらえようと思ったのに、気が付くと笑ってしまっていた私を見てお兄さんは言った。
「っ……。ごめん、格好悪いところ見せた」
少し赤くなった頬を隠すように腕で顔を覆う青空さんは、なんだかとても可愛くて私はもう一度笑ってしまう。そんな私の態度に、青空さんは恨みがましい視線をお兄さんに向けた。
「もういいって」
「ごめん、ごめん。なんか青空のそんな態度、珍しいから」
お兄さんは笑うと、後部座席のドアを開けた。開いたドアの横に車いすをつけると、青空さんは起用に車の中へと移動していく。ときおり、お兄さんに手伝ってもらいながらも、少しでも自分でできることは自分でしよう、と思っているであろう青空さんの気持ちが伝わってくる気がした。
車に乗り込んだのを確認すると、お兄さんは運転席へと移動した。エンジンをかける音が聞こえると、青空さんは車のドアを閉めて窓を開けた。
近くにいるはずなのに、ドア一枚しか隔ててないはずなのに、こんなに寂しく感じるのはどうしてだろう。昨日まで、ずっと会ってなかったのに、会えた途端、こんなにも別れが辛い。
俯いてしまった私の頭を、青空さんの手が優しく撫でた。
「それじゃあ、また」
「はい……」
頷くと同時に車が動き出す。あっという間に見えなくなった車の姿を、動けないままずっと見つめ続けていた。
いい加減、帰らなきゃ。ようやくそう思えたのは、真っ赤な夕日があたりを照らし始めた頃だった。ふわふわとした気持ちと、ショックな気持ち、それからほんの少しの寂しさがごちゃまぜになって、どうしたらいいのかわからない。
青空さんと付き合えることになって嬉しいはずなのに……。
「あれ……?」
トボトボと歩き始めた私は、スマホに一通のメッセージが届いていることに気付いた。送り主は……。
「青空さん?」
アプリを開くと、そこには聖愛さんからのメッセージがあった。
『いろいろビックリさせたと思う。でも、梓のことが好きで、一緒にいたいっていう気持ちに嘘はないから。これから二人でたくさんの思い出を作っていこう。大好きです』
送信時間は、今から十五分も前。車が出発してすぐに送ってくれたんだろう。青空さんを見送った私が、きっとしょんぼりしてるだろうと思って……。
「青空さん……」
だから私も、一言だけメッセージを送った。
『私も、青空さんが大好きです』
と――。
送ったメッセージに既読を示すマークがついたのを確認して、私は前を向いて歩き出した。これから先、たくさんの楽しいを青空さんと作っていくんだ。
沈み始めた夕日を、見つめながら。
付き合い始めたあの日から、私は週末になるのを心待ちにしていた。メッセージアプリではやり取りをしているけれど、やっぱり実際に会いたい。電話で話はしているけれど、直接声を聞きたい。そう思うのは仕方のないことだと思う。
「早く明日にならないかな」
『そうだね、梓に会いたいよ』
「私も青空さんに会いたいです。……っ」
思わず言ってしまった言葉に恥ずかしくなる。つい昨日も青空さんに「あの日はあんなにだいたんだったのに」なんて笑われるたけど、あれはきっと青空さんに久しぶりに会えて、そして付き合えることになってどこかハイになっていたんだと思う。じゃないと、あんな……あんなこと……。
『梓? どうかした?』
「あっ、う、ううん。なんでもないです!」
突然、無言になってしまった私を、青空さんが心配そうに尋ねた。誤魔化そうと慌てて返事をするけれど……電話の向こうから青空さんの笑い声が聞こえた。
「……青空さん?」
『梓のことだから、またあの日のこと、思い出してたのかな? と、思って』
「っ……!」
言い当てられたことが恥ずかしくて、私は思わず電話を枕に押し付ける。けれど、そんな私の行動さえお見通しとでも言うように、枕の下から漏れ聞こえる青空さんの笑い声。
『ごめんってば』
「声が笑ってます」
『ごめん、ごめん。梓の反応が可愛くてつい、ね』
「もう……」
こんな会話を、あの日から毎日のように繰り広げている――なんていうと、バカップルだとか頭がお花畑だとか言われそうだけれど、私はいたって真剣で……。でも、恥ずかしくて仕方がないのに、その照れくささすら心地いい気がするのは、どうしてだろう。
『あ、ごめん。そろそろ切るね』
時計を見ると、十時を過ぎていた。そろそろ電話をやめないとまた……。
「ごめんなさい。うちの親がうるさくて」
『いや、あれは俺が悪いよ。あんな時間まで喋ってたら怒られても仕方ないし』
青空さんと付き合うようになった翌日、初めて電話をしたとき、あまりの嬉しさか私たちは電話を切ることを忘れてしゃべり続けた。そろそろ切らなければいけない、それはお互いわかっていたのに、切りたくなくて気付かないふりをしていた。……お母さんが部屋のドアを開けるまでは。
「何時だと思ってるの!」そう言われて時計を見ると、日付がちょうど変わった頃だった。突然の乱入者に慌てた私たちは、挨拶もそこそこに電話を切ったのだった……。
「でも……」
『そういえば、お母さんとその後どう?』
「……前よりは、マシだと想います」
私が高校に落ちたことに劣等感を抱いていたように、母親も悩んでいたんだと今ならわかる。それは私が落ちたこともだし、カンニングという冤罪についてもそうだ。でも……。
口を開こうとしたそのとき、部屋にノックの音が響いた。
「ご、ごめんなさい。母親かも」
『うん、それじゃあまた明日』
いつもなら名残惜しいはずのその言葉もそこそこに電話を切ると、私はドアに向かって返事をした。
「はい」
ドアの開く音と同時に、母親が顔を出した。
「……電話中だったの?」
「まあ……」
「そう」
何の用だろう。遅くまで電話して、って言われるほど遅い時間でもないし……。
いぶかしげに見つめていると、母親は私の勉強机の椅子を引っ張り出して座った。
「……お母さん?」
「梓、最近楽しそうね」
「……え?」
こんな時間まで浮かれたように電話をしていることに対しての嫌味か何か? と、一瞬思った。でも……。
「うん、楽しいよ」
素直に、そう答えることができた。
青空さんと出会って、世界の見え方が変わった。自分の思考がどれだけちっぽけだったかに気付けた。受験に落ちたからなんだ。誤解されたからってなんだ。そんなことにずっと囚われたままでいるよりも、今を全力で楽しんで生きていく方が何倍もいい。
そう私に気付かせてくれたのは、青空さんだった。だから……。
「そうなのね」
私の返事に、母親は微笑むだけだった。
もしかしたら、この人はこの人なりに私のことを心配していたのかもしれない。みんなが行くはずの学校に行けず、友人たちからは信じてもらえず、この街で生きづらさを感じたまま過ごさなければいけない私のことを。
そんなことを考えていると、母親が少しためらいながら、それでも口を開いた。
「――さっきの電話、彼氏?」
「え?」
「この間、電話してたのも同じ子?」
「……うん」
なんとなく、親に彼氏の、好きな人の話をするのは恥ずかしくて、つい返事に戸惑ってしまう。でも、そんな私の態度なんて気にならないようで、母親は話を続けた。
「そう。……どんな人?」
「どんなって……」
どんな人……。優しくて、温かくて、私のことを想ってくれてて、それで……。
「前を向いている人」
「前を?」
「うん。苦しい時でも、辛い時でも前を向いて頑張ってる人。……私が前を向くきっかけをくれた人」
青空さんがいなかったら、莉緒とも、他のクラスメイトとも未だに話ができてなかったかもしれない。クラスの中で一人、誰ともかかわらないままだったかもしれない。でも、青空さんが教えてくれたから。前を向いて一歩踏み出すことの大切さを。
「そう、素敵な人なのね。……お母さんも、いつか会ってみたいわ」
「……いつか、ね」
私の返事に、母親は少し意外そうな顔をして、それからもう一度微笑んだ。
用はそれだけとばかりに、部屋を出て行こうとする母親の背中に、私は声をかけた。
「お母さん!」
「……なに?」
「私ね、友達もできたし、学校楽しいよ。だから、もう大丈夫だよ」
「――そう。なら、よかった」
母親の声が涙声になっているのに気付いたけれど、私はもう何も言わなかった。
早く青空さんに会いたい。
会って、あなたのおかげで母親と――お母さんと仲直りすることができたよって、伝えたい。
「早く、明日にならないかな」
天気予報は晴れ。明日は――青空さんとの初デートだ。
翌日、九月にしては良すぎる天気に、片付けそびれていた夏物のワンピースを着ると、カーディガンを羽織って家を出た。今日の待ち合わせは青空さんの最寄り駅だった。
普段は降りない駅で降りると、私は改札へと向かった。
休日の駅はたくさんの人がいた。青空さんはどこだろう、きょろきょろと辺りを見回すと、青空さんは改札から少し離れたところにいた。
「っ……」
駅は人であふれているのに、車いすに乗る青空さんの周りにはぽっかりと誰もいない空間ができていた。配慮して開けてくれている人もいるだろう。でも、どこか邪魔そうに、露骨に迷惑そうにそこを避けて歩く人もたくさんいたから……。
「青空さん!」
「梓?」
わざと明るい声で名前を呼ぶと、青空さんがパッと顔を上げてこちらを見た。私が駆け寄ると、周りの人がジロジロとこちらを見るのが分かった。でも、気にするもんか。
「待たせちゃいました?」
「今来たところだよ」
お決まりの台詞を言い合うと、私たちは顔を見合わせて笑った。
「行こうか」
青空さんは車椅子のタイヤに手を添える。……私は、そんな青空さんの背後に回った。
「梓?」
「これ、私が押してもいいですか?」
それは、この一週間ずっと考えていたことだった。この間は隣を歩いたけれど、青空さんと一緒にこれから先も出かけるのであれば、きっと私が押すことで手伝えることもあるはずだ。
「でも……」
「私が押すのじゃ不安かもしれないけど……少しでも、青空さんの助けになりたくて」
「…………」
私の言葉に、青空さんが振り返った。その表情は曇っている。
「言ったよね? 可哀想だって想われたくないって」
「思ってないです」
「嘘だ。思ってないならどうして……」
「青空さんのことが好きだから」
青空さんが息を呑むのがわかった。でも、きちんと伝えたい。私の想いを。覚悟を。
「これから先も青空さんと一緒にいたいから。青空さん一人じゃ乗り越えられないことがあったとしても、二人なら乗り越えられるかもしれない。私が青空さんに助けられたように、今度は私が青空さんの助けになりたい」
「……梓」
「ダメ、ですか……?」
俯いてしまった青空さんに不安になる。思い上がりだっただろうか。私なんかが、青空さんの助けになりたいなんて……。
「……ない」
「え?」
「ダメじゃない」
青空さんは振り返ると、泣きそうな顔で笑っていた。
「ありがとう」
そんな青空さんに首を振ることしかできなくて、私は車椅子のグリップを握りしめる手に力をこめた。
「……それじゃあ、お願いしようかな」
「はい」
私は足を踏みしめると、車椅子を押して歩き出した。一歩、また一歩と私が歩くと、車椅子も進んでいく。
きっとこれが本当の意味での、私たちの始まりなんだ。
本当は不安もまだまだある。段差はどうしたらいいのか、とか階段しかないようなところはどうするのかとか。でも、それでも私たちは進まなければいけない。二人で、乗り越えていかなければいけない。
私は顔を上げると、私たちの進む先を見つめた。
私は、手元のプリントと渡されたチケットを見つめたまま、かれこれ数十分悩んでいた。
「梓、どうしたの?」
「莉緒……」
授業が終わったというのに動かないでいる私に莉緒は不思議そうだ。周りを見回すと、教室にはもう私たちの姿しかなかった。そりゃそうだ。ホームルームが終わってからすでに三十分は経っている。普段なら私だってもう教室にいない時間だ。
それなのに、どうしてここにいるかというと……。
「文化祭のチケット?」
手の中のそれを見た莉緒は余計に不思議だとでも言うかのように首を傾げた。
「それがどうかしたの? あ、もしかして彼氏誘うとか? 来たら紹介してね! 梓の彼氏見てみたい」
「……それが、迷ってて」
「どうして? 他校に彼氏がいる子は結構誘ってるよ? 一般公開は土曜日だし」
「うん、そうなんだけど……」
言いよどんでしまうのは、莉緒のことを信用していないからじゃない。ただ、どんな反応をされるかが不安なだけで……。
不安……?
私は、自分自身の思考が信じられなくて、ショックを受けた。今の言葉は、莉緒にも、そして青空さんにも失礼だ。
決めたじゃない。二人で一緒に進んでいくんだって。二人で乗り越えていくんだって。
「あの、ね。莉緒には言ってなかったけど」
「うん?」
「私の彼氏……青空さん、病気で足が動かなくて、それで……車椅子に乗ってるの」
「…………」
無言になる莉緒に、私は俯いてしまう。なんて弱い覚悟なんだろう。でも、莉緒だから。莉緒にだから受け入れてほしいし、受け入れてもらえるって信じている。
信じているけど……。
私は、そっと顔を上げると、莉緒を見つめた。莉緒は――首を傾げた。
「で?」
「え……?」
「それでどうしたの? あ、バリアフリーの問題? そうだよね、外は大丈夫でも校舎の中は階段で移動だもんね。どうしよっか、一度担任に相談してみる?」
「…………」
「梓?」
思った以上の反応に、今度は私が言葉を失う番だった。
「どうしたの? あ、周りの視線が気になるとかそういう話だった?」
「あ、ううん……。バリアフリーの話であってるんだけど……。ビックリ、しないの?」
「何に?」
ビックリする意味がわからないとでも言うかのような返答に……私はおかしくなって、思わず笑ってしまう。不安になんてなる必要なかった。信じて、よかった。
「なんでもない」
「えー? 何笑ってるの?」
「なんでもないって。そっか、担任に相談したらいいんだね」
来てもらいたいけどどうしたらいいんだろう、そればっかり思っていたけれど。そうか、相談してみればいいんだ。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
「今から行く?」
「着いてきてくれるの?」
「用もないし。それに誰かが一緒に行ってくれる方が心強いでしょ?」
「莉緒……」
友人の優しさに、胸が苦しくなる。こんなふうに言ってくれる友達が、私にもいた。けれど、彼女たちはみんなあの一件で離れてしまった。そのことを、今もなお莉緒に打ち明けられずにいた。
もしも、莉緒にあのことが知られたときに、どんな反応をされるのかが、怖い。莉緒のことを信じているなんて言ったくせに、もしもまた、莉緒もあの子たちと同じように離れて言ってしまったらと思うと――私は怖くて仕方がないのだ。なのに、そんな私に莉緒は優しくしてくれる。こんな、秘密を持っている私に……。
「梓?」
「……ううん。ありがとうね、莉緒」
「これぐらい、なんともないよー」
隣でニコニコと笑ってくれる莉緒を見ると、罪悪感でいっぱいになるのに……私はそんな莉緒になんでもない顔をして笑いかけた。
「それじゃあ行こっか」
莉緒と一緒に教室を出ると、私は職員室へと向かった。
「せんせー」
「どうした?」
「あのね、梓が聞きたいことがあるんだって」
担任を見つけた莉緒は、まるで友達にでも話しかけるように先生に言う。こういう風に喋れるのは莉緒の凄いところだと思う。馴れ馴れしいというよりは親しみをこめて、そして言われた相手にも嫌な気持ちにさせない。私には真似できない。
「おう、福島。どうした?」
「あ、えっと……校内のバリアフリーについて、聞きたいんですけど……」
「バリアフリー?」
私の質問に、先生の頭にはてなマークが浮かんでいるのがわかる。説明の仕方を間違えた……。どうすれば……。パニックになりそうな私に、莉緒は助け船を出してくれた。
「文化祭でね、梓が招待したい人が車椅子に乗ってるんだって。でも、うちの教室って三階でしょ? だから、どうしたらいいかなって」
「ああ、そういうことか。事前に言ってくれれば、職員室内にあるエレベーターを使ってもらうことができるぞ」
「……職員室の」
「エレベーター?」
今度は私と莉緒がはてなマークを浮かべる番だった。職員室に、エレベーターがあるなんて聞いたことない……。
「普段は使用禁止なんだが、事情があって階段を上れないときや車椅子の生徒には使用を許可してるんだ。ちなみに、職員室横のトイレに多目的トイレが設置されてることは知ってるな?」
「……知ってた?」
「知らなかった」
「お前らなぁ……」
顔を見合わせる私たちに、先生はため息を吐いた。
「どっちも入学のパンフレットに書いてあるぞ」
「あー……読んだような、読まなかったような」
「……私も」
本当はパンフレットなんて読んだことも見たこともなかったけれど、莉緒に合わせてそう言った。そんな私たちに、先生は本日二度目の大きなため息を吐いた。
「あれ、俺が作ったやつなんだから、そんなこと言わないでくれよ」
「先生が作ったの?」
「そう。頼まれて。……って、まあそんなのはどうでもいいんだ。福島、車椅子の人でも安心して来てもらえるようになってるから、呼びたい人がいるなら来てもらえよ」
「ありがとうございます」
これで、何の心配もなく青空さんを文化祭に呼ぶことができる。ホッと息を吐き出すと、莉緒が嬉しそうに私の手を握った。
「よかったね、梓」
「ありがとう、莉緒」
「私、着いてきただけだし」
なんてことないよ、と言うかのように笑う莉緒に上手く笑い返すことができない。
「梓?」
思わず俯いてしまった私に、莉緒は不思議そうに首を傾げる。そんな私たちに、先生は机の中から何かを出すと、差し出した。
「何これ」
「紙?」
「購買のジュース引換券だ。この間、買おうと思ったらちょうど冷えてなくてな。お詫びにともらったんだが、お前らにやるよ」
「え、なんで?」
莉緒は怪訝そうな表情をしていたけれど、私は……もしかしたら先生は全部知っているのかもしれないと、そう思った。知ってて、それで話をしろと言ってるのかな、と……。
「ありがとう、ございます」
「なんか、よくわかんないけどありがとうございますー。そしたら、これ引き換えに行こう」
「うん」
私は先生にペコリと頭を下げると、莉緒と一緒に職員室を出た。まだ開いていた購買でジュースを引き換えると、私たちは中庭へと向かった。肌を撫でる風が心地よくて、気持ちが落ち着いていく。今なら、話せるかもしれないと、そう思った。
「梓? 飲まないの?」
ベンチに座ったあともジュースを開けることなく黙り込んでいる私を、莉緒は心配そうに見つめる。私は……ジュースをベンチに置くと、莉緒の方を向いた。
「……私、ね。莉緒に話せてないことがあって」
「うん……」
「もしかしたら、その話を聞いて、莉緒が私のことを嫌になるかもしれない。でも……莉緒に聞いてほしいの。知ってほしいの。……できれば、私のことを信じてほしい。でも、もし無理でも……」
「信じるよ」
「え……?」
莉緒は、真剣な口調で言った。
「梓が嘘を吐くわけないって、私知ってるから。だから、梓が言うなら信じる」
「莉緒……」
まだ、何も話してないのに、なのに信じると言ってくれた。私が言うことだから、無条件で信じると。そう言ってくれた。もう、それだけで嬉しくて、涙があふれてくる。
「あり、がとう……」
「聞かせてくれる……?」
「うん……。あのね……」
私は、あの日の事を話し始めた。今もなお、私の心の奥で燻り続けているあの出来事を。
「っ……なに、それ! 酷い!」
「莉緒……」
話し終えた私の隣で、莉緒は怒っていた。試験官の先生に、過去の友人に。
「どうして誰も梓の話を信じないの!? 庇わないの!? 一人ぐらい、先生に抗議してくれたっていいのに!」
「それは……」
あの状況で私を庇えば、その子まで退出させらされていただろう。そんなこと……。
「でも! 友達がそんな風に濡れ衣を着せられてたら、怒るのが本当の友達でしょ!? 私が梓の友達でその場にいたら、絶対に怒ってた!」
「……ありがとう」
莉緒の言葉が上辺だけのものじゃなくて、きっと莉緒なら本当に怒ってくれたんだろうなって思えるから……。
「そう言ってもらえるだけで嬉しい」
「それで……そのあと、どうなったの?」
「……どうって?」
「だから、本当にカンニングしたやつは……」
私は首を振ることしかできなかった。あのときの子が誰なのか、今も私にはわからないしわかったところでどうすることもできない。もしも受かっていれば私の代わりに今もあの学校に通っているだろうし、落ちていたら……私が受けることができなかった市内の二次募集に応募してどこかで高校生活を送っていることだろう。
「そんなの!」
「……うん、酷いよね。悔しいって思う。……思ってた」
「思ってた、ってことは……今はもう、そうは思ってないってこと?」
「……うん」
本当は、まだちょっと辛いときはある。でも、こうやって怒ってくれる友達に出会えたから。
「……でも、もしも。もしもだよ? 濡れ衣を着せられたことが明らかになって、それで……」
「そんなこと、ありえないよ」
私は、莉緒の言葉を遮った。そんな私の言葉に、莉緒は小さく「ごめん」と言うと黙ってしまった。
本当は、何度も何度も考えた。もしも、本当のことがわかって、今からでもあの高校に通えて、それで友達からも「信じてあげられなくてごめんね」って言ってもらえたらって、何度も、何度も考えた。今更だっていい。今からだっていい。あの日をやり直せたらって。
でも、そんなこと……。
「まあ、でも……そのおかげで……って言ったら変だけど、北条に来ることになったから莉緒にも出会えたし、ね」
「梓……」
それも、私の本心だった。あんなことが会ったから、北条に来ることになって、莉緒に会えた。もしもあのまま高校に受かってたら、きっと莉緒に会うことはなかったから……。
「青空さんにも、でしょ?」
「っ……」
「あ! 赤くなった」
「もう!」
からかうように言う莉緒と顔を見合わせると、私たちは笑った。
たくさんの「ああだったら」「こうだったら」はあるけれど、今、私はここで笑っている。それでいい。それが、一番いい。
「文化祭、楽しみだね」
「そうだね」
鞄の中に入ったチケットを、今度会ったら青空さんに手渡そう。今、私はこんなにも素敵な友達に囲まれた高校生活を送っているんだと、見てもらいたいから。
その日は、快晴だった。十月の終わりの土曜日、待ちに待った文化祭の日がやってきた。今日は、一般公開のため学校内に保護者や中学生、それから他校生の姿もあった。
もうすぐ着くと、と青空さんからメッセージが届いたのは十一時を少し過ぎた頃だった。
「莉緒。私、抜けてもいいかな?」
「大丈夫だよー。ってか、もうすぐ交代の時間だから、そのまま回ってきていいよ」
「ありがとう!」
一緒に受付をしていた莉緒にそう言うと、私は校門へと急いだ。
青空さんはどこにいるんだろう。たくさん人がいるけれど見つけられるかな……。少し不安に思ったけれど、そんな不安はすぐに解消された。それは人混みの中で青空さんの周りだけが妙に空間ができている……とか、そんなマイナスな理由ではなく、私が青空さんを見つけるよりも早く、青空さんが私の名前を呼んでくれたからだった。
「梓!」
「青空さん! お待たせしました!」
「大丈夫、今ちょうど受付してもらったところだから」
青空さんは、胸につけた『ゲスト』と書かれたシールを見せてくれる。どうやら招待チケットと引き換えにこのシールをもらえるようだ。
「梓は俺と回って大丈夫なの?」
「うん、ちょうど店番終わりだったから」
「梓のところは何やってるんだっけ?」
「コスプレ写真館です」
いろんな服を着てデジカメで写真を撮る。そしてその場で印刷してプレゼントする。たったそれだけではあるけれど、意外に好評で朝から行列ができていた。
「そっか。……それは、俺は厳しいね」
「あ……。ごめんなさい」
着替えとなると、補助が必要となるようで……。車椅子の青空さんにコスプレ衣装を着てもらうことは難しいだろう。本当は二人で写真を撮りたかったけれど、仕方ない。
「で、でも他にもいろんなお店あるし! いっぱい回りましょう!」
「そうだね」
少し寂しそうに青空さんが微笑むから、私は目一杯楽しんでもらおうと、行くところにチェックをつけたパンフレットを取り出した。
「どこから行きしょうか? 甘味処も気になるし、フランクフルトも売ってるって言ってたよ! それから、かき氷に……」
「梓、それ食べるところばっかり」
「あ……」
青空さんに笑われて、私は失敗に気付く。たしかに、私がメモしているところは全部私が食べたいものばかりだ……。
「ごめんなさい……」
「いいよ、今言ってくれたやつ全部行こう」
「いいんですか?」
「うん。梓の嬉しそうな顔見てたら、なんかお腹すいてきちゃったし」
「もう!」
笑う青空さんの後ろにつくと、私は車椅子に手をかけた。ガタン、とならないようにそっと押し始めると、青空さんが小さな声で「ありがとう」と言ったのが聞こえた。
それから二人で、たくさんのお店を回った。途中、体育館でやっていた軽音楽部のライブを見たりもした。
周りの目が全く気にならない、と言えば嘘になるし、誰かがどこかでヒソヒソと何かを言っている声にモヤモヤすることもあるけれど、それでもこうやって青空さんと一緒に学校の中を歩けるのが楽しかった。でも……。
「え、あれって一組の福島さん?」
「車椅子? もしかして彼氏?」
「うわー、大変そう……」
「っ……」
すれ違いざまに言われると、悲しくなる。どうしてそんなこと言われなきゃいけないのか。大変かどうかなんてどうしてわかるの? そう言い返したくなってしまう。
「なっ……」
「梓」
「んぐ」
買ったフランクフルトを、言い返そうと開けた私の口に放り込むと、青空さんは笑った。
「美味しい?」
「……うん」
「よかった」
ゴクンと飲み込むと、さっきまでのイライラも一緒に飲み込んでしまったようで、少し気持ちが落ち着く。青空さんは凄い。本当は私なんかよりも、青空さんの方がずっとずっと傷ついているはずなのに……。
「ねえ、梓」
「え?」
そんな私に、青空さんはどこか遠くを見ながら声をかけた。
「あれって何?」
青空さんの視線の方向を追うと、そこには図書館があった。夏休みに、私がずっと通っていた図書館が。
「あれ、図書館です。ほら、前に青空さんが教えてくれた」
「あれが……。ね、行ってもいい?」
青空さんの言葉に、私はパンフレットを確認する。図書館は……。
「開いてるみたいなので大丈夫です。でも、特になんのお店もやってないみたいですけど……」
「中を見てみたいだけだから」
「じゃあ、行きましょうか」
私は青空さんの車椅子を押すと、少し離れた場所にある図書館へと向かった。夏休み中はあんなにも通った場所だったけれど、最近は忙しかったり、莉緒や他の友達と過ごす時間が増えたりと、行くのは久しぶりだった。
重いドアを開けると、空気が変わる。念のため司書さんに車椅子での入館の確認を取って、私たちは誰もいない図書館の中へと進んだ。
「ここが、姉ちゃんの言ってた……」
「青空さんが言ってたとおり、面白い本がたくさんありましたよ」
「そっか……」
青空さんは辺りをキョロキョロと見回すと、私に尋ねた。
「梓はいつもどこに座ってたの?」
「私はあそこです」
窓際の日の当たる席を指さすと、青空さんは車椅子を操作してそちらへと向かう。慌てて後を追うと、机の前で立ち止まっていた。
「青空さん?」
「……これ、どけてくれる?」
青空さんは三つ並んでいる椅子のうち、二つを指さすとそう言った。どうしたというのだろうか。私は青空さんの意図がわからなかったけれど、言われたとおり机から椅子をどけた。
「ありがとう。そしたら、梓はそこに座って」
「ここ、ですか?」
言われたとおり一つ残った椅子に座る。いったい……。
「っ……」
青空さんは椅子があったところに車椅子をつけると、私の方を向いた。それはまるで隣り合って座っているように見えて、思わず言葉を失う。
「いいなぁ」
机の上に頭を乗せると、青空さんは呟いた。
「俺もこうやって、梓とここで勉強したり、本を読んだりしたかった」
「青空さん……」
「同い年だったら……こんなふうに、一緒に過ごせたのかな」
同い年の、青空さんと一緒に……。そんな高校生活が送れたら、どんなに幸せだろう。毎日、学校で会って「おはよう」って言って。一緒に授業を受けて、帰り道にどこか寄り道なんかしたりして。
「楽しそうですね」
「ね。……ね、梓。俺のこと、青空って呼んでよ」
「え……」
「同い年だったら、きっとそう呼んでたでしょ?」
それは、そうかもしれないけれど……。でも……。
「ね、お願い」
「っ……」
「梓」
「……せい、あ」
「なぁに」
青空さんはふにゃっとした笑顔でこちらを見ると、嬉しそうに笑っていた。初めて見るそんな顔に、心臓が破裂しそうなほどうるさくて、顔が熱くて……。私は思わず自分自身の腕で顔を隠した。
「梓? どうしたの?」
「……恥ずかしい」
「可愛いなぁ。……ね、もう一回呼んで」
「……ダメ」
「どうして?」
「どうしても」
私の返事に青空さんはクスクス笑うから……からかわれていたんだと気付いて、私は顔を上げた。
「梓?」
「そろそろ行きましょうか。青空さん!」
わざと「さん」を強調する私に青空さんはまた笑ったけれど、私は気にせずに椅子から立ち上がり、青空さんの車椅子に手をかけた。
図書館を出たところで私のスマホに連絡が入った。
「あ、まずい」
メッセージを確認して、慌ててポケットに手を入れるとそこには小さな鍵があった。
「それ、何?」
「えっと……教室にある金庫の鍵、です」
「金庫?」
「今日の売り上げとかを入れるために用意してたんですけど、鍵を私が持ったままにしちゃったみたいで、鍵が開けられないって連絡が……」
交代の時に渡さなきゃと思っていたのにすっかり忘れていた。
「これ、教室まで持って行かなきゃいけなくて……申し訳ないんですけど……」
「うん、じゃあ行こうか」
「え……?」
どこかで待っていてもらえないか、そう言おうと思っていたのに――。青空さんは当たり前のようにそう言うと、不思議そうに首を傾げた。
「梓? 行かないの?」
「一緒に行ってくれるんですか?」
「行っちゃダメだった?」
「い、いえ。それじゃあ行きましょう!」
車椅子を押す手に力を込めると、私は教室へと向かった。途中で寄った職員室で事情を話してエレベーターを使わせてもらうと、三階まで一瞬で着いた。
「普段、階段めっちゃしんどいのに……」
「今日はラッキーだね」
ですね! と、言ってしまっていいのかわからず、苦笑いを浮かべてしまう。
エレベーターを降りると、一瞬、周りの人がこちらを見たのがわかった。でも、みんな自分たちの出し物に忙しいのか、そこまで私たちのことを気にすることはなく、私はホッと息を吐いた。
「あ、福島!」
教室の近くまで歩いて行くと、私のことを待っていたのか、クラスメイトの男子が廊下で慌てたように声をかけてきた。
「ちょっとすみません」
青空さんに断りを入れて、私はその子の元へと向かった。
「ごめんね、鍵すっかり忘れてて」
「いや、こっちこそごめんな。……デートだったんだろ?」
「あ、うん……。まあ、ね」
私の後ろに見える青空さんの姿を見て、茶化すように言う男子に照れくさくて適当な返事をすると、私はポケットから出した鍵を渡した。
「ありがと。んじゃ、ホントごめんな」
男子は慌てて教室へと入っていく。私は、そんな男子の背中を見送ると、青空さんの元へと戻った。
「お待たせしました」
「…………」
「青空さん?」
「……ね、梓」
「なんですか?」
「……違う」
私の返事に、青空さんは不服そうだった。いったいどうしたのか……。
「ね、梓。梓のクラスはコスプレ写真館、だったよね」
「はい。それが、どうか……」
「入ろうか」
「え、ええ!?」
私の返事なんか待たず、青空さんは教室へと向かっていく。ちょうど、お客さんが途切れたタイミングだったのか、列に並ぶこともなく、教室へと入っていく青空さんのあとを私は慌てて追いかけた。
「せ、青空さん?」
「すみません。写真、撮りたいんですけど」
「あ、はーい。……って、福島? それに……」
青空さんの姿を見て、クラスメイトは顔を見合わせている。教室の中の空気が固まったのがわかって、居心地が悪い。でも、青空さんはそんなの気にならないように受付をしていたクラスメイトに話をする。
「彼女と写真を撮りたいんだけど……北条高校の制服ってある?」
「あ……。ちょっと待ってくださいね」
その言葉に、何かを思いついたのか、クラスメイトは相談を始め――そして、青空さんを手招きした。完全に置いてけぼりにされた私が所在なくいると、こっちこっちと別のクラスメイトが手招きした。
「さっきの、福島さんの彼氏?」
「うん」
「かっこよかったね! 写真、今準備してるからさ、ちょっと待ってて」
そうこうしている間にも、私の前には片付けていたはずの机と椅子が準備されて、そこに座るように指示をされる。隣に並べられた机には椅子の準備はなく……なんとなく、今から何が起きるか、わかった気がした。
「お待たせしましたー!」
その声に顔を上げると、そこには北条高校の制服――のシャツを着てブレザーを羽織った青空さんの姿があった。照れくさそうに私を見ると、青空さんは笑って隣の机へとやってきた。
「どう、かな?」
「すっごく、似合ってます」
「ホント?」
「はい! まるで、クラスメイトみたい!」
私の言葉に、青空さんはニッコリと笑った。
「……じゃあ、似合ってます、じゃなくて」
「え?」
隣の机に、起用に車椅子をはめ込むと、青空さんは私の方を向いた。
「似合ってるね、でしょ」
「っ……」
「同じクラスの男子に、敬語なんて使う?」
「それは……」
たしかに、そうなんだけど……。
「ほら、言ってみて?」
「っ……」
「梓」
ダメ押しのように耳元で言われると、もう逆らうことなんてできない。
「似合って……るね」
「やった」
嬉しそうに笑う青空さんの隣で、私は真っ赤になった顔を隠すのに精一杯だった。なのに……。
「はーい。じゃあ、写真撮るんでこっち向いてくださいー って、福島? 何、顔隠してんの?」
「ほら、梓。言われてるよ」
「わかってます……」
「違うでしょ?」
「っ……わかって、るよっ」
やけくそのように言うと……私の手に、何かが触れた。
「え……?」
いつの間にか、私の手を青空さんがギュッと握りしめていた。いつもは、後ろから青空さんを押しているから、こんなふうに手をつなぐことなんてなくて……。
「っ……」
「撮りまーす。ハイチーズ!」
必死に笑顔を作るけれど、意識は全部手元にいっていて……。きっと真っ赤な顔で映ってるんだろうな、なんて思うと写真を見るのが恥ずかしくて仕方なかった。
借りていた制服を返す頃には写真の印刷も終わっていたようで、青空さんと一緒にそれを受け取るとお礼を言って教室を出た。
「綺麗に撮れてるよ」
「ホントに……?」
「うん。ほら」
再びエレベーターを借りて中庭へと出た私たちは、近くのベンチに座った。青空さんから手渡された写真には、幸せそうに微笑む青空さんと、恥ずかしそうに笑う私たち――が机の下で手をつないでいる姿が映っていた。
「ホントだ……」
「あーあ。ホントにクラスメイトだったらよかったのになー」
残念そうに呟く青空さんに、私は……。
「クラスメイトじゃないけど……。彼女だし……ね、青空君」
「……梓、今なんて?」
「な、なんでもない!」
「え、よく聞こえなかったからもう一回言ってよ」
「もう言わないー!」
「えーー!」
じゃれ合いながら笑い合う。そして、なんとなく会話が途切れたとき、青空さんと目が合った。
「ね、梓」
「……何?」
「キス、してもいい?」
「そ、そんなの……」
突然の問いかけに、どうしていいかわからなくなる。でも、青空さんの瞳は私を捉えて放さない。
「同級生なら……このシチュエーションで、キス、しないわけないと思うんだけど、どう思う?」
「それは……そうかも、だけど……」
「じゃあ、いい……?」
小さく頷いた私の唇に、そっと優しく青空さんの唇が触れる。恥ずかしくて、心臓が苦しい。
青空さんの顔を見ることができず、俯いたままの私に、青空さんは小さく笑った。
「可愛い」
「もう……!」
「ね、もう一回、名前呼んで」
「せい……んっ」
名前を最後まで呼ぶことなく、私の唇は青空さんに塞がれた。二度目のキスは甘酸っぱくて、泣きそうなぐらい幸せだった。