「あたしから見れば、良一こそ、違う世界の住人だよ。仕事やってて、自分の稼ぎがあって、将来の道筋もちゃんとしてて。うらやましい」

 良一がスッと立ち上がった。動きにつられて見上げたら、良一はあたしの真横に座り直した。空気越しに体温が感じられるくらい、近い。
 そっぽを向こうとしたら、邪魔された。良一の手があたしの頬を包んで、あたしの目を良一のほうへ向かせた。

「結羽も、おれのいる世界に来る? 自分のやりたいことを表現するってだけじゃないんだよ。実力主義の、競争ばっかりの世界だ。本音をぶつけ合って、ものを創る。それは欲望のぶつけ合いでもあって、ときどき、すごく汚い世界にもなる」

 眼鏡越しの大きな目は、静かに燃えるように、夜の光を映してきらめいている。
 試されているように感じた。視線をそらしたら、負けだ。あたしは、にらみつけるみたいに、両目に力を込めた。

「行く。競争ばっかりでも、絶対、負けない。歌いたい唄は尽きないの。もう歌うことに疲れたなんて思う日が来るとすれば、それは、生きることをやめるとき。あたしは、死なないって決めた以上は、あがき続けてやる。歌いたいから」

 いい子のあたしには戻れない。新しい自分にたどり着きたい。
 両親にたくさん迷惑をかけたぶんを、必ず挽回したい。両親が胸を張ってくれるような唄を、大きな場所で歌いたい。

 良一はまぶしそうに目を細めた。笑ったのとは少し違った。
「やっと、結羽と目を合わせられた」
「無理やり自分のほう向かせといて、そういうこと言う?」
「強引なのは承知の上だよ。無理やりやらなきゃ結羽には通用しないんだって、この二日間で、よくわかったから」

 良一が、空いた手で眼鏡を外してたたんで、つるをTシャツの襟に引っ掛けた。ゆっくりと、まばたきをする。伏せられた視線。呼吸の音。
 うつむき加減の長いまつげを上げて、良一は、まっすぐにあたしを見た。

「結羽、今も、ドキドキしてない?」
「別に」
「心っていうか感性っていうか、ものを感じるための場所、わざと閉ざしてるよね? それ、開けてよ」
「やだ」
「どうして? おれが相手じゃダメ?」

「開けるのは、歌うためだけ。歌うときと、唄を作るとき。それ以外は閉じてないと、あたしは傷付きすぎるの。何でもない刺激で傷付く自分に、情けなくなる。いちいちそんなふうじゃ、やってられない。だから開けない」

 良一の唇がかすかに動いて、息を吸って吐くのが聞こえた。
 次の瞬間、何も見えなくなった。近すぎて焦点が合わない。

 唇に、柔らかいものが触れている。
 甘いような香ばしいような、不思議な匂いがする。良一の肌の匂いだ、と気付いた。

 焦点が合った。あたしは良一の長いまつげを見つめている。良一は目を閉じている。鼻の頭がこすれ合っている。唇に触れる柔らかいものは、良一の唇だ。