あたしはギターヘッドのロゴを見た。普通の小学生では触れる機会もないはずのブランド。いつ、誰が、なぜ、こんな上等なギターをこの音楽室に置いていったのか、結局、わからずじまいだ。

 記録されないまま忘れ去られてしまったできごとが、ここにはたくさんある。つかまえようとしても、指の間からこぼれ落ちてしまう記憶が。誰にも見向きもされず、時の流れの中に置き去りにされた歴史が。

 あたしは知りたかった。覚えておきたかった。
 だって、ひとりぼっちは寂しいでしょう? 人も、モノも、コトも、孤独なまんまじゃ、やるせないでしょう?

「あたしね、練習したんだ。この音楽室で、ギターを、一人で、ずっと。弾けるようになるまで、何度も繰り返し練習してた。父が教頭先生じゃなかったら、こんなことできなかった。そういう特別、ほんとはイヤだったけど、ギターの件だけは感謝してる」

 なぜだろう。あたしは急に話したくなった。話し始めてしまった。まるで歌うときのように、言葉があふれてしまう。
 フードをかぶったからだろうか。唄歌いのhoodiekidだから、こんなに、言葉が止まらないんだろうか。

「島っていう場所は、小近島はもちろん、大近島だって別の島だって同じで、小さな世界なんだよ。あたしの両親は教師という職業で、変な言い方だけど、その小さな世界では、数少ない知識人階級。特別な存在なんだなって、あたしは肌身で感じた」

 小さな世界は我が家を歓迎した。でも、あたしは小さな世界に溶け込まなかった。溶け込ませてもらえなかった。いつだって温かく接してもらっていたけれど、「松本先生夫妻のお宅のお嬢さま」という、特殊な身分に縛られていた。

 あたしには、地元と呼べる場所がない。実家ってどこ? 二年か三年住んだだけの教員住宅。そんなもの、自分の家じゃない。幼なじみって何? まわりはみんな、生まれたころからずっと一緒の仲間なのに。

 父のせいだ。母のせいだ。あたしはいつでも、よそ者の借り物のいい子でいなきゃいけなかった。あたしは本当は、ずっとここにいていいんだよと許してくれる、小さな世界がほしかったのに。
 あたしは淡々と、言葉を吐き出し続けた。島の教師である両親のもとに生まれて、どんな思いをしてきたか。
「あちこち住んだ中で、小近島がいちばん好きだった。真節小は楽しかった。でも、タイムリミットも知ってた。最初から知ってたよ。あたしたちが卒業するときに真節小が閉校になるって。何で? せっかく好きになったのに、何で消えちゃうんだよ?」

 閉校の手続きや書類整理に追われていた父の姿を、よく覚えている。忙しそうだった。でも、いつかはそういう役目を引き受けることになると、父もわかっていたみたいだ。
 どの島も、子どもの数は急速に減っている。島の小学校で先生を続けていたら、閉校や統合に立ち会う可能性も低くない。

「父は初めての職務で一生懸命だった。それ以上に、真節小にとっての最後の日々になるから、そのために一つひとつ丁寧に、学校行事も日常もこなしていこうとしてた。大変そうで、でも生き生きとしてて。あたしも、父と同じようにしていたかった」

 溶け込める場所がほしい。そんなもの手に入らない。
 両親の仕事が嫌い。両親の仕事が誇らしい。
 相反するものの間で、あたしはいつも揺れていた。心を揺らすのは危険なことだと、自分でもわかっていたのに。だって、小近島という小さな世界に入り込んでしまったら、いずれ来る別れのとき、苦しくて仕方ないんだから。

 物心つくのがひどく早い子どもだったという自覚がある。四歳のころに経験した引っ越しで、あたしは思い知った。小さな世界を好きになればなるほど苦しい、と。だから、最初からサヨナラまでのカウントダウンをして、泣かないように備えなきゃ。
 和弘がカメラの向こう側から言った。
「結羽ちゃんが難しか気持ちでおること、知っとったよ。卒業式のときに言いよったやん」

「あたしが? 何か言った?」
「結羽ちゃんのおかあさん、あの日、岡浦小の卒業式やったけん、真節小に来られんかったろ。結羽ちゃん、そのこと、笑いよった。教頭先生が卒業式の司会ばするけん、おかあさんはおらんでも平気、って」

 そう思っていたのは事実だ。運動会も授業参観も、母は自分の学校の何かと重なって、あたしのほうに来られなかった。あたしにとってはそれが普通だった。真節小には父がいる。母にまで来てほしいと言うのは、わがままが過ぎる気がした。

「あんたにそんなこと言ったっけ?」
「お、記憶力抜群の結羽ちゃんが、珍しく覚えとらんそうです。聞いたよ、おれ。結羽ちゃんがもうすぐ引っ越すっち知って、一秒でも長く話しとこうっち思っちょったけんさ。卒業式の日とか、ずっと一緒におったし」

「スカートをからかわれたのだけは、すごいよく覚えてる」
「似合うっち言うた」
「からかわれてるようにしか聞こえなかったよ、バカ」

「結羽ちゃんさ、泣かんやったろ? 卒業式でも、閉校式でも、引っ越しのフェリーに乗るときも。おれ、全部、泣いたとに。何か悔しかった」
「あっそう」

 あたしは、カメラからも和弘からも顔を背けて、ギターをケースにしまった。急に、気まずさが込み上げてきた。さすがにしゃべりすぎだ。あたしはギターを背負って、顔を背けたまま、和弘のほうに右手を突き出した。

「カメラ。撮影、あたしがやるから」
「おれにやらせてよ。結羽ちゃん、後でまた弾くやろ。どっちみち、そのときはおれが撮影ば代わるつもりでおったし」
「映されるの、好きじゃないんだけど」
「良ちゃんメインで撮るけん、結羽ちゃんは気にせんで」

 ああ、もう面倒くさい。
 あたしは和弘の背中側に回った。この位置なら、和弘も映しようがない。あたしの意図を悟ったらしく、横顔で振り向いた和弘が、小さく笑った。あたしがにらむと、和弘は肩をすくめて前を向く。

 和弘の肩は、ずいぶん広い。筋肉質な腕は太くて、首筋もがっしりしている。知らない男の人がいるって、良一や和弘に対して何度も思ったことを、また思った。

「じゃあ、次、行こっか」
 良一が合図して、あたしたちは音楽室を離れた。
☆.。.:*・゜

 あたしたちが過ごした教室が、そこにあった。学年を示す札や机や椅子がなくなっても、あたしたちの教室だってわかる。だって、黒板に向かって後ろのほうの床がつやつやしている。埃をかぶっていてさえ、ほかの部分とは色つやが違う。

 良一が靴の底で床をこすった。
「休み時間のたびに、ここで座り込んだり寝転んだり、和弘とプロレスごっこしたりしてたもんな。気付いたら、床が見事に磨かれてた」

 明日実がころころと笑う。
「そのぶん、うちらの服が汚れまくっちょったっちゃろうけど、全然、気にせんやったよね」

 後ろの壁に備え付けられた、ランドセル用の棚。ベランダ側の窓の下には、ずらりと、荷物を引っ掛けるためのフックの列が遺されている。廊下側の窓のそばに長机があって、その上にいつかの誰かが作った本立てがあって、それが学級文庫だった。

 四人で占領していた教室。先生はガキ大将みたいな人だった。今は本土の大きな小学校に赴任して、責任の重い仕事を抱えて、てんてこ舞いらしい。両親がそういう話をするのを聞いた。

 一つ年下の和弘が一緒のクラス編成は、複式学級と呼ばれるものだ。担任の先生にとっては難しい体制だと思う。二学年ぶんの授業内容をきちんと把握しないといけない。子どもと一対一の場面が多いから、相性の良し悪しにごまかしが利かない。

 あたしたちは本当に平和だった。先生とも仲がよかった。先生は、みんな積極的に学ぶ子だから助かる、と言ってくれていたけれど。
 でも、実際、そうだったかもしれないな。先生を含めた五人で協力して、特殊な形の授業を進めていくことは、何だかゲームでもやっているみたいに楽しかった。自由だったなと、今にして思う。

 一人だけ学年の違う和弘は、算数が遅れ気味だった。あたしはいつもさっさと自分のプリントを片付けて、和弘を教える役に回った。あるいは、先生が和弘を教えているときは、良一や明日実からの質問に答えていた。

 算数が苦手な一方、和弘は国語や社会が得意だったから、自分の課題を素早く終わらせると、あたしたちの授業内容にまで首を突っ込んできていた。岡浦小に通った六年生のころは、国語や社会でいい成績を取れたんじゃないかな。
 明日実が、いきなり、プッと噴き出した。
「先生が逆立ちしようとして引っくり返ったこと、覚えちょる? 漢字の小テストのとき、黒板の溝と教卓に手ば突いて、体操競技んごと逆立ちしようとして、頭から落ちたこと」

 良一と和弘も笑い出した。あたしもつい、ちょっとニヤッとしてしまって、下を向いて顔を隠した。

 先生はいきなり「内村航平!」と、県内出身の体操選手の名前を叫んだ。声につられて、あたしたちは漢字のテストから顔を上げた。先生は、鞍馬の技みたいな何かをしようとして、豪快な音を立てて落下した。あたしたちはあっけに取られた。

「何となく、できる気がしたとに」
 先生はそう言って、痛みの涙をにじませながら爆笑した。あたしたちは、とりあえず先生が無事らしいとわかってから、ようやく笑った。そうしたら、笑いが止まらなくなって、もう漢字のテストどころじゃなくなった。

 本当に意味がわからなくて、それがおかしくてたまらなかったんだ。先生は子どもみたいに突拍子もないことをする人だった。子どもだったあたしたちでさえ、負けたなって思ってしまうくらい、大人のくせに、わんぱく坊主だった。

 良一が、笑いすぎの口元を手で隠しつつ、思い出話をする。
「先生って、修学旅行のときも、子どもだった。すごく、はしゃいでて。佐賀の科学館でも福岡の水族館でも。おれ、あんな大人になりたいと思ったんだよね」

 六年生のときに行った修学旅行は格別の思い出だった。あたしたち六年生の三人だけじゃなくて、五年生の和弘も、もちろん一緒だった。楽しくて楽しくて、帰ってきてからも、何度も何度も語り合った。

 明日実が目を輝かせた。
「あのとき、うち、生まれて初めて本土に渡ったっちゃもんね。和弘は小さいころに病気になって、自衛隊のヘリで本土の病院に運ばれたことがあるけど」
 島の小学校の修学旅行は二泊三日だ。島外へ出る移動時間を考慮して、本土の小学校よりも一泊多い。

 和弘がつぶやいた。
「結羽ちゃんと良ちゃんが真節小に来てくれて、よかったよ」

 明日実が、ふっと微笑みを和らげた。
「そうそう。来てくれて嬉しかった。結羽が五年の四月に転校してきて、すぐに良一も来てくれて、四人になった。ずっと和弘と二人で卒業するまで過ごさんばいけんって思っちょったけん、ほんと、ざまんごて嬉しかった」
 良一が遠い目をした。
「平和な学校があるんだなって、びっくりしたよ。教会の施設から通う転校生なんて、いじめられて当然だと思ってたのに」

 奇跡みたいだと、あたしも思った。真節小にはいじめがなかった。たった七人では、いじめなんてもの、成立しようもなかったのかもしれないけれど。
 でも、あんなに仲がいい子どもたちの集まりなんて、真節小のほかには知らなかった。みんなが兄弟姉妹みたいだった。

 実際、血のつながりがなくても、にいちゃん、ねえちゃんって呼び合うのが小近島の習慣だった。大人たちも、お年寄りもそうだった。年の近い和弘は別として、あたしも年下の子たちから、ねえちゃんって呼ばれていた。その響きが新鮮だった。

 あたしは真節小に来る前、大近島でいちばん大きい小学校に通っていた。児童数は約五百、一学年に三クラス。両親を通じて耳に入ってしまった裏情報によれば、なかなかに問題の多い学校として有名だったらしい。

 いじめを初めて目撃したのは、三年生のころだった。あたしは、なぜその子をいじめるのかという具体的な問題というより、いじめる側といじめられる側が存在するという力関係そのものがまったく理解できなかった。

 あたしは、いじめられている子にも普通に接していた。それがクラスの中でのタブーだと、ちっとも感じ取れなかった。だからといって、あたしに被害が及ぶことはなかった。
 何せ、あたしは特別だった。勉強ができたし、何でもハッキリ言うし、教員の子という特殊な身分だ。その上いじめすら超越してしまったと、まわりはあたしを持てはやした。

 いじめというものが理解できなかったというのは、きっと、あたしの本質をハッキリと示す証拠の一つだった。あたしは集団生活が苦手だ。
 女の子は普通、だんだんと集団生活を身に付けていく。そうする中で、自分に近い人とそうでない人を見分けて、グループを作り、仲間外れを作る。あの子は違う種類の子、という素朴なフィルターが、いじめの根っこにある。

 あたしは、仲間と仲間外れの見分けが付かなかった。グループを作るのが普通だと気付いてからも、フィルターを分ける意味がわからなかった。納得できないことはやりたくなかった。だから、いじめには加わらなかった。

 ただ、いじめというものが確かにあるんだと、四年生になるころには見えるようになっていた。いったん見えるようになると、人間関係の色分けができるようにもなった。それぞれの色の中で一生懸命に団結しようとする人たちを、冷めた目で見ていた。

 あたしはどこにも入るもんかって決めた。自分たちの色を濃くするためには、ほかの色の悪口を言うのがいつものパターンだ。そうやって濃くなった色はどれも、汚く濁っている。そんなものに染まりたくない。
 最初に良一を見たとき、前の学校でいじめられていたんだろうと、あたしはすぐに勘付いた。的外れではなかったらしい。小近島教会のシスターが野菜のおすそ分けを持ってあたしの家に来たとき、良一の過去について、母と話す声が聞こえてしまった。

 複雑で凶悪な家庭事情らしかった。本人には「家族がいない」と伝えるほうがよほど誠実で親切だ、というくらいに。
 でも、良一は暗い子じゃなかった。普通に笑うし、ちゃんと食べるし、勉強だって頑張っていた。運動は少し苦手だった。いい子でいようと必死で、泣きながら笑っていることもあった。涙を流しているのに、自分で気付いていなかった。

 明日実が良一を見上げた。
「良一は一生懸命、方言ば覚えたよね。最初はいろいろおかしかったけど、だんだん気にならんごとなった。普通に島の言葉ば話すごとなったよね。今は東京の言葉になっちょっけどね」
「それさ、昨日、結羽に指摘されたんだ。無理に方言でしゃべろうとしてたら、不自然だからやめろ、って」

 明日実があたしを見る。
「結羽は標準語のまま。あのころも今も。どげんしたら、そがんきれいか発音で話せると?」

「別に、普通にしてるだけ」
「教頭先生は方言で話しよったとに」
「父は島の出身だから。まあ、父が話す言葉は、小近島の言葉とは微妙にイントネーションが違うけど」
 和弘があたしにカメラを向けている。だからあたしは、そっちを向かない。
「結羽ちゃんは、何でいつも標準語ば話すと? そのこと、ずっと気になっちょった。小学生のころの結羽ちゃんは、笑ったりふざけたり、おれたちに打ち解けちょったけど、でも、完全じゃなかった。言葉が違っちょったもん。ときどき寂しくなった」

「寂しいとか、意味わかんない」
「わかってよ。それと、答えてよ。結羽ちゃんの言葉遣い、何でずっと変わらんままやったと?」
「簡単なことだよ。あたしは小近島の子どもじゃないんだから、ここには染まれなかった。染まるつもりがなかったの」

 和弘が、そっと、あたしの名前を呼んだ。「ゆう」が高い標準語と違って、「ちゃん」で上がる独特のイントネーション。

「結羽ちゃん。おれは、結羽ちゃんが初恋の人でした。もっと近付きたかった。なのに、何か、見えん壁があった。それが本当に、ざまんごて寂しかった。嫌われちょらんでも、拒絶されちょっとやなって感じちょった。ダメージ、でかかったよ」

 初恋の人。
 その言葉は、知っている。いつからか、気付いていた。
「和弘って、意外とおしゃべりだよね。あたしの動画のコメント、書き込んだ数がいちばん多くて、いちばんぶっちゃけてる」

 KzHっていうハンドルネームは、和弘だ。あたしが恋を否定した「あたしたち」の唄の意味を、国語の得意な和弘は正確に読み取っていた。
 四人で八つの瞳を交わし合ったあのころから、今だってずっと、あたしは恋なんか知らない。そうやって、手を差し伸べようとする人のすべてを否定して突き放すのは、痛々しい。

 和弘はギュッと眉をしかめた。
「結羽ちゃんに気付いてほしかったっちゃもん。結羽ちゃんとしゃべりたかった」
「動画のほうではしゃべんないって決めてるの」
「おれに気付いちょったとに?」
「そうだよ」

「クールやな。そげんところ、全然変わらん。本当にあっさりした顔して引っ越していったやろ。おれは、ずっとここにおってほしかったとに。本土の中学なんか行かんで、小近島に住んで、おれたちと一緒に船に乗って岡浦の学校に通えばよかって」

 あたしは顔を背けた。
「無茶言ってる。あたしが引っ越さなきゃいけないこと、あんただって最初から知ってたはずだよ」
「知っちょっとと、わかっちょっとって、別やろ? 結羽ちゃんが大人たちに頼み込んで、一人で小近島に残ってくれんかなっち、本気で想像したよ、おれ」

 あたしだって想像した。慈愛院の子どもの面倒を見るのを手伝って、教会にいさせてもらえないか。明日実と和弘の家の手伝いだっていい。住む場所は、もう誰も使わない教員住宅がいくつもある。あたしは小近島の子になりたい。
 そんな都合のいいこと、できるはずなかった。
「好きで本土に引っ越したわけじゃない。あっちに移ったって、楽しいことなんか一つもなかった。苦しいばっかりで、今も……!」
「戻ってこいっち。結羽ちゃんの居場所、ここにはあったやろ?」

 あたしは首を左右に振った。うなずくわけにはいかなかった。あたしは最初から、ここに居場所を求めないように、注意深く心を抑え込んでいた。引っ越さなきゃいけないし、学校そのものが消えてしまうし、だったら、大事になんかできるもんかって。

 でも、大事だった。だから、バラバラになりそうだった。一生懸命、形を保とうとした。平気なふりをして、見えない壁を作った。居場所はここなんだ、壁の内側の一人ぶんの空間なんだって、必死で自分を説き伏せた。

 明日実が、ポツンとつぶやいた。
「ほんと、思い通りにいかんことばっかりやね。あのころのまま、みんな、いつまでも一緒におられればよかったとに」

 良一がうつむいた。
「おれも、高校まで慈愛院で過ごすつもりでいた。小近島を出るかどうかは、もっと大人に近付いてから決めようと思ってた。今の家族も仕事も学校も好きだけど、大好きだけど、東京に移るって決まったとき、最初はすごく寂しかったよ」

 仕方ないっていう言葉を、島での時間を共有したあたしたちは、教えられる必要もなく、ひりひりするほど理解している。
 状況は変えられなかった。仕方なかった。大好きな学校がなくなってしまうことも、あたしの両親が先生であることも、良一に新しい家族ができたことも、明日実と和弘が島で生きていくことも、どうやったって変えられない、仕方のない現実だった。

 教室の窓を開けてみようとした。古めかしい窓のスチールのフレームはガチガチにさびて、動かなかった。さび止めのライトグリーンの塗料も、触れるだけでボロボロと崩れて落ちた。
 汚れきったガラス窓越しに、校庭を見下ろした。人が集まり始めている。

 良一が腕時計に目を落とした。
「そろそろ外に出ようか」

 明日実がポケットからスマホを出した。
「最後にここで写真ば撮ろうよ」

 抜け殻になった小学校の教室で、高校生になったあたしたちは、卒業式の日に撮ったのと同じ並び方でフレームに収まった。あたしと和弘が仏頂面で、良一と明日実が笑顔なのも、卒業式の写真と同じだった。

 廊下に出て、屋上へ続く階段を見上げたら、大きなクモの巣があった。あのへんにゲジゲジが出たことがあったな、と思い出した。明日実が大騒ぎしたっけ。島育ちでたくましいように見えて、明日実は、脚の多い虫が苦手なんだ。

 ゲジゲジを追い払ったのは、良一だった。臆病そうな印象のくせに、虫にも蛇にも蛙にも動じなかった。きょとんとして、そして、誰にも聞こえないような声で言った。人間に比べたら、どんな生き物も怖くないよ、と。
 あのころは、良一の言葉の意味がよくわからなかった。でも、ぐっさりと深く、胸の奥に刺さった。

 その傷は今、ハッキリと、あたし自身の感情や経験と共鳴している。人間というものと出会えば出会うほどに。ギターを掻きむしって唄を歌えば歌うほどに。自分のボロボロの心を見つめれば見つめるほどに。共鳴する振動が、痛い。

涙、夏色に染まれ

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