あたしの唄を、良一は聴いていた。ときどき視線を感じた。あたしは無視して、目を閉じて歌った。

 もしかしたら、あたしの唄にはエレキサウンドが合うのかなって思ったりもする。ひずんで危うい音色のギターや、芯から体を揺さぶるバスドラムや、心臓の鼓動と同期するようなベースを、唄のイメージに重ねてみる。

 アコースティックの唄をエレキサウンドにアレンジするには、どうすればいいんだろう? そういう勉強をしたい。あたしが本当に必要とする知識は、学校では教えてくれない。自分で手に入れなきゃいけない。

 でも、それはいつまでに? あたしは、やりたい音楽を、いつまでに勉強していつまでに身に付ければ、みじめな問題児っていう殻を破って、生きる意味のある世界へ飛び込んでいけるの?
 早いほうがいい。だらだらしていたら、あたしは、自分で自分を枯らしてしまう。

 あたしは、自分の中にあるほとんど全部に失望しているけれど、唄を歌っていたいっていう、この気持ちが本物であることだけは、ちゃんと証明できる。ただ、その証明には賞味期限が付いていて、いつまでも走り続けることはできない。

 どうせ誰もあたしの唄なんか聴いてやしないんだって、本気で思ってしまう日が来たら、あたしは今度こそ生きていられない。生きることへの不安や不満が、死にたいという絶望感に姿を変えて、確かな形を持ってしまう。

 歌いたいとか、歌うためのチカラがあるとか、そのチカラにはまだまだ伸びしろがあるとか、それだけが、あたしをこの世につなぎ止めている。切羽詰まっている。それをそのまま唄にしている。

 ああ、でも、だけど。
 書きたい唄の形は、本当に、くすぶったこの感情なんだろうか。
 ウッ、と息が詰まってしまうような、ここがいちばん、心のとんがったところの限界点なんだろうか。突破した先って、ないんだろうか。

 悩んで悩んで悩んで、今、歌うための言葉が迷子になっている。もし、響きのいい言葉だけを無理やり連れてきたとしても、それは嘘だ。うわべだけのモノで塗り固めた唄なんて、歌えない。