「本当ですね。総合待合所の椅子が大勢の人たちで埋まっていますね」
祖父も祖母も医者知らずの人間だ。だが私は入院中、世の人の多くがどれだけ医者好きか知ってしまった。
「ここを憩いの場と思っているんじゃないか?」
「ですかね。あの人たちのアレ、朝食かしら? 遠足みたい。おかずの交換をしてらっしゃるわ」
祖母は私にも分かるように状況を説明するのが上手い。それは私が視力を失ったときから始まった。疎外感を覚えさせないためだと思う。
――と、歩みがピタリと止まる。
「外場ミライだが」
入院受付に着いたのか、祖父が私の名を告げる。
「少々お待ち下さい」
カチャカチャとパソコンのキーを叩く音が聞こえてきた。
「確認できました。保険証と診察券をお預かりします」
受け付けの女性と祖父のやり取りで分かったが、角膜の移植手術なのに病棟は外科病棟だし担当医は青柳先生だった。
――変なの……。
そう思ったのは私だけみたいで、祖父も祖母も知り合いが担当医だからか喜んでいるようだった。
「お手元の――病棟までの地図でもお分かりのように、床の赤いラインに沿ってエレベーターホールまで行って頂き――目印はすぐ横のカフェコーナーです。そこのエレベーターで三階にお上がり下さい」
「なるほど」と、何がなるほどなのか分からないが祖父が相槌を打つ。
「着いたら突き当たりを右折して頂き、三メートルほど行けば外科病棟の受付が見えます。そこでこちらのクリアファイルをお渡し下さい」
評判どおり親切丁寧な応対に、気難しい祖父も機嫌良く「ありがとう」と礼を述べた。
「ミライと同じように赤のラインが見えない人には。〝アテンドさん〟というボランティアさんが付いて下さるんですって」
祖母の説明を聞きながら歩みを進める。指示どおりに赤いラインに沿って進んでいるのだろう。祖父も祖母も迷いなく足を運んでいる。
「ねぇ、エレベーターに乗る前にお手洗いに行ってもいいかしら?」
「儂も行きたいと思っていたところだ」
どうやらエレベーターホール近くにトイレがあるようだ。
「ミライちゃんも行く?」
「私はいい」
「じゃあ、ここに座って」
祖母が私を腰掛けさせたのはクッションのある椅子だった。
「少し待っていてね」
そう言って二人はその場を離れた。
途端に辺りが静かになる。時折どこからか響くような声や笑いが聞こえてくるが、それ以外は小さく唸る機械音しかしない。
この音は自販機? 壁の向こうがカフェコーナーだろうか?
ソッと背後の壁を触る。そして、確かめるように手を滑らせる。と、腕を伸ばしきらない所で壁が無くなった。
機械音はその向こうから聞こえる。
ん……? この香りはコーヒー。それもブラックコーヒーの香りだ――やっぱり。
そこにカップの自動販売機もあるようだ。漂ってくる匂いは、たった今淹れたばかりのように香りが立っていた。
ん……? しばらくすると今度は嗚咽混じりの啜り泣きが聞こえてきた。
「――どうして……死んだんだ……」
またカフェコーナーからだった。
声の主は若い男性のようだ。
大切な人……恋人でも亡くしたのだろうか?
嗚咽の合間に聞こえる呟きは、そんな風なことを言っている。
それにしても……何て悲痛な声。死神に魂の半分を持っていかれたみたいな、
そんな失意をはらんだ絶望の声だった。
どんな人なのだろう? その人とはどんな関係だったのだろう?
なぜか声の主がひどく気になった。
『クールなほど素っ気ない子』と言われている私なのに……見ず知らずの赤の他人に興味を持つとは、おまけに、耳をそば立て、推測までするとは、明日は嵐になるかもしれない。そう思いつつも盗み聞きが止められなかった。
「――さん、貴女は最後まで、頑なに俺を受け入れてくれなかった……」
あれっ? 片想いだったの?
唐突に話の内容に展開が生まれた。
「どうして一人で死んだんだ……死んだ後でさえ……無視するように顔を見せてくれない」
ロミオとジュリエット? まさか悲恋の末に自殺とか? それで親が怒って看取らせなかったとか?
「今気付いた。何も知らない……貴女は何者だったんだ……」
えぇぇぇ! どういうこと? 想い人のことを何も知らないとは……いったいどんな付き合いをしていたの?
「くそっ!」
ダン、と大きな音がした。男性がテーブルを叩いたのだろう。
益々興味深く思ったが、「お待たせ」と祖母が戻ってきてしまった。
「どうしたの?」
「あっ、ううん、何でもない」
今の会話で盗み聞きしていたことが、きっと壁の向こうにいる男性にバレただろう。
「じっ爺様は?」
「もうエレベーターの前にいるわ」
「じゃあ、行こう!」
バツが悪く逃げ出すようにその場を離れた。
その男性のことは、その後のゴタゴタで忘れてしまっていたが、まさか、その人があの人だとは――夢にも思わなかった。
そして、現在。
施術で回復した目は、十七歳になった今も拒絶反応もなく健在だ。
事故から幾度か入退院を繰り返し、まともに行けていなかった学校も問題なし。
事情が事情ということもあったが、祖父のたっての願いで、祖母の母校(幼児舎から大学までエスカレーター式の私立)に通っていただけあり、学校から遣わされという講師の助力もあり、私は無事本来の学年に戻れた。
しかし、復活には何らかの奇跡――いや、不幸が付きものなのだろうか?
視力を取り戻したと喜んだのも束の間、余計なモノまで視えるようになってしまった。
それが、これ(=霊)だ。
「しつこい! 付き纏わないで、って言っているでしょう」
今日も今日とて昼間だというのに……私の隣と足元には霊がいる。
〈そんなこと言わずに助けてくれよ。母ちゃんがアレを見たら絶対にショックを受ける。卒倒する。死んじゃうかも……。そんなことになったら……俺……俺……〉
泣きそうになりながらも必死に訴えてくる青年は、全身が血に汚れ、見るも無惨な姿だった。
――全く、勘弁してよ。
学校から外場家まで徒歩約十分。このままずっと話しかけてくるつもりだろうか?
青年を無視して私は足を早める。
〈ねぇ、そんなに邪険にしちゃ可哀想だよ〉
〈ほら、犬っころも言ってるじゃないか!〉
〈ボク、犬っころじゃないよ、シオだよ〉
〈白? 見たまんまじゃないか〉
〈シロ、じゃなくてシオ〉
〈しょっぱそうな名前だな〉
〈調味料の塩じゃなくて、フランス語で子犬っていう意味!〉
掛け合い漫才のようなこの手の会話は、シオと霊の間で良く交わされていて少々食傷気味だ。
〈カッコいい名前でしょう?〉
そう話すシオは、ワンワンとは言わずバリバリの日本語を喋っている。
そもそもの始まりは、この子犬の霊と出会ったことだ。
最初は、『有り得ない。目の錯覚だ、幻聴だ』と信じなかった。
いくら人より聴覚や第六感が優れているとしても、視えないものが見え、聞こえないものが聞こえる、なんてことは非日常もいいところだからだ。
しかし、そう思いつつも、もしかしたら視力を回復したと同時に、不思議の国とやらに迷い込んでしまったのではないだろうかと、些かいかれた考えも浮かんだりした。
それほどショッキングだったということだ。
そんな悩める私の気持ちを無視して、シオは、《あのね、ボクが下敷きになったお陰で君は助かったんだよ。だからボクは命の恩犬だよ》と、恩着せがましく当日の様子を教えてくれた。
《まぁ、多少ビックリするよね》
多少どころではない!
数十メートルも飛ばされたのに命があったのは、子犬が助けたてくれたから。という嘘みたいな……嘘のような話が結末だったとは……。
本当に不思議の国の住人になってしまったと呆然とした。
《それも神様からのギフトだと思ったら? 視力回復おめでとう、って言ってると思って》
ギフト=プレゼント。いや違う、角膜を譲り受けたと同時に、何らかの力も譲り受けてしまったのだ。これは試練だ。きっと私は試されているのだ。
〝誰が〟とか〝何のために〟とかいう、ややこしことは無視して、そう思うことにして諦めの境地で現実を受け入れた。
しかし、そうなると今度はシオに対して、『わたしのせいで死なせてしまった』という罪悪感を覚えるようになった。
成仏できないのは私のせいかもしれない。そう思った途端、責任を感じ、何としてでもあの世とやらに逝ってもらわなければと思うようになった。
でも、お供え物をしたり、お祓いをしてもらったり、いろいろやってみたがどれも失敗。ダメだった。
もしかしたら、私を呪い殺さない限り成仏できないのではないか?
そう思って訊ねたら、《まだその時じゃないんだ》と妙な答えが返ってきた。
シオの言う『その時』がいつかは知らないが、それ以来、ずっと付き纏われている。
鬱陶しいがシオに関してだけ言えば、諦めた。まだいい。
それはシオが命の恩犬だからでもあるが、一番はグロテスクじゃないからだ。
私の下敷きになったと聞いたが、ペットショップにいるような、愛らしいコロコロとした白い子犬にしか視えない。だから我慢できる。
しかし、私の前に現われる霊は、たいてい死んだ直後の姿で現われる。
霊を見始めて四年。その間まともな人間に見えたのは、雪山で眠るように亡くなった女性登山家だけだった。後は……思い出したくもない。
そんなのがいきなり現われたり、付き纏ったりしてくるのだ。勘弁して下さい、と思うのも当然だろう。
現に目の前にいる青年だって……目を背けたくなる。
――うぅぅぅ、怖い!
そう思うのに、青年は実にフレンドリーに話し掛けてくる。
〈ねぇ、お願いします。このとおりです。助けて下さい。母ちゃんを助けると思って〉
薄目を開けると青年が私に向かって必死に手を合わせていた。
拝みたいのは私の方だ。でも、この青年も心に残した思いが晴れない限り、ずっと付き纏うに違いない。
それは嫌だ!
夜中にフト目覚め、目の前にゾンビのような顔なんて……考えたくもない。
フルフルと頭を振り、それに、と思う。
逝く人も気の毒だが、遺された人の気持ちを思うと居たたまれない。母親が気の毒になる。
「それで、アレって何? ショックを受けるってどういうこと?」
〈えっ! 助けてくれるの。うわぁ、サンキュー〉
大喜びの青年の周りを〈よかったね、よかったね〉と言ってシオが跳ね回る。
結局、どう抗おうがこうなってしまう。頼られたら断れない自分の性格が恨めしい。
〈実は……〉
さっそく青年の告白が始まった。耳をそばだて彼の話をジッと聞く。だが、だんだん頭が垂れていく。そして、聞き終わったと同時に盛大な溜息が出た。
「それで、貴方は私に何をして欲しいの?」
〈だから、写真を捨てて欲しいんだ……〉
青年はトランスジェンダーだった。
〈俺、別に身体まで女になろうと思ってたわけじゃないんだ。ただ、男の娘の姿が好きだったんだ。だって、自分で言うのもなんだけど、そこら辺の女の子より可愛かったんだよ〉
半分溶けて崩れかけている彼の口元がニッと上がる。
ダメだ、直視できない!
〈あっ、俺ほどじゃないけど君も綺麗だと思うよ。特にその漆黒の長い髪が〉
褒められたようだが褒められた気がしない。全然嬉しくない。
――でも、彼に何があったのだろう?
青年の言葉どおりなら、原形を留めていない顔や身体をこんなに崩壊するまで誰かが何かしたということだ。
しかし、彼に訊ねても《知らない、分からない》と言うだけだった。
おそらく解離性健忘だろう。
これは非常に大きなショックやストレスにより、記憶が欠如してしまうことだ。そうすることにより自分の精神を守る(無意識的防御機制)のだそうだ。
突発的な死因で亡くなった霊によく見られる症状だ。私の記憶喪失も、おそらくこれではないかと青柳医師は言う。
〈俺んち、母一人子一人で、父ちゃんは元々いなかったんだ。だから、周りから馬鹿にされないように逞しく育てたかったのかなぁ〉
だが、青年はそのことについて全く頓着していないようだ。それを幸いに思う。
何故なら、以前シオに『私のことを恨んでいない?』と聞いたことがある。答えは《恨んでいない》だった。そして――。
《もし恨んでたら、ボクは悪霊になってたよ。心残りには質の良いものと悪いものがあって、悪いものにはもっと悪いモノが憑くんだって》
誰に聞いたのかそんなことを言っていたのだ。
だから、青年がそれを気にしていないということは、彼の心残りは質が良いということだ。
良かった……と思ったのも束の間。
〈俺の容姿がそんなだから、口癖のように『男らしくしなさい』って言ってたんだよな。俺も母ちゃんの期待を裏切りたくなくて、そう振る舞ってたけど〉
青年がポリポリと頭の後ろを掻く。その拍子にポロポロと皮膚と共に髪の毛も剥がれ落ちた。